tag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post6095173417223063091..comments2022-10-13T08:46:01.955+09:00Comments on PseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味: 道草クー太郎氏の武田邦彦氏に対する評価についてPseuDoctorhttp://www.blogger.com/profile/18144346980647969078noreply@blogger.comBlogger7125tag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-45276557996039869472016-05-22T11:43:14.886+09:002016-05-22T11:43:14.886+09:00>技術開発者さん
「愚痴」と仰っているので、まぁ私の方も繰り言の様になってしまうのですけれど「社会...>技術開発者さん<br /><br />「愚痴」と仰っているので、まぁ私の方も繰り言の様になってしまうのですけれど「社会構造をあまり意識しなくても済む様になる」事自体には良い面もあると思うのです。それだけ豊かになったおかげなのかもしれないからです。でもそれが知識不足・無気力・無関心・諦念などからくるものだとすれば、それは困った事態です。<br />おそらく、どちらの面もあるのだろうとは思います。PseuDoctorhttps://www.blogger.com/profile/18144346980647969078noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-85598851425991495062016-05-06T09:13:29.741+09:002016-05-06T09:13:29.741+09:00こんにちは、PseuDoctorさん。
>その様に「各人の社会への貢献度」が見え難くなっている事も...こんにちは、PseuDoctorさん。<br /><br />>その様に「各人の社会への貢献度」が見え難くなっている事も影響しているのではないかと思います。<br /><br /> と同時に多くの人が「社会について考える」時間も動機も失ってしまっているような気がします。<br /> 愚痴みたいになってしまうのだけど、私は労働組合と関係の深い人間なので、今年もメーデーに参加したんですね。でもって、そこで歴史的なスローガンを聞かされた訳です。それは「8時間を労働に、8時間を休息に、8時間を自分の好きな事に」なんてものです。これは、ロバート・オーエンが200年ほど前に唱えたスローガンなんです(彼は経営者でもあったから、自分の工場を8時間労働制にしたのだけどね)。メーデーの起源は今から130年前の米国のゼネストと言われている(その前からヨーロッパでは皆で祝う5月祭の風習はあったけどね)のだけど、そのゼネストで掲げられた要求も8時間労働制だった。<br /> オーエンから200年、米国のゼネストから130年も経って、まだこのスローガンを掲げなくてはならないこの国って、何?、みたいな気もするんですね(涙)。<br /><br /> 「社会人の3つの義務」みたいなことも頭をよぎります。「仕事をする義務」「家庭を作り維持する義務」「社会を適正に維持する義務」は本来社会人にとって等価であるみたいな概念ですけどね。そういう意識が既に崩れているのかも知れないと思います。<br /><br />つらつらと、愚痴めいたコメントになってしまいました。<br />技術開発者noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-17357936196165740262016-05-01T13:22:30.969+09:002016-05-01T13:22:30.969+09:00お返事が遅くなりました。
>機能不全
この点については「社会構造の複雑化により因果関係が解り難くな...お返事が遅くなりました。<br /><br />>機能不全<br />この点については「社会構造の複雑化により因果関係が解り難くなってきた」という要素を思い付きます。「狩猟の仕留め役」ならは、その危険性が共同体の成員にも理解し易いでしょうが、現代社会で我々が肉を手にする為には遥かに多くの人々(職種)が関与していて、しかもそのどれが欠けても我々の口には入らない訳です。しかしそうした人々の営為は、通常殆ど想像されないか、されても部分的なものだったりします。<br />その様に「各人の社会への貢献度」が見え難くなっている事も影響しているのではないかと思います。PseuDoctorhttps://www.blogger.com/profile/18144346980647969078noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-91673784686867194142016-04-11T08:42:18.537+09:002016-04-11T08:42:18.537+09:00こんにちは、PseuDoctorさん。
>「そうは言っても、やっぱりそればっかりじゃあんまりにも情...こんにちは、PseuDoctorさん。<br /><br />>「そうは言っても、やっぱりそればっかりじゃあんまりにも情けないから、ちょっとは考えようよ」という風になっていけば、お書きの事とも繋がっていく様な気はします。<br /><br />私の「人間の基本仕様の取扱マニアルとしての文化」論というのは、まさにこの部分を考えています。人間の文化というのは合理的人間のために作り上げられたものではなく、人間の持つ基本的に不合理な仕様をも利用しながら作り上げられられたものだと考えている訳です。<br /><br />例に出すたとえ話が「巻狩りの勇者」なんですが、原始人が集団で分業した巻狩りを始めた時、最も危険な役割である「仕留め役」を確保するために「村の勇者」として褒めた。原始共産制なので獲物の分配に差をつけることはなかったが、「村の勇者」となることで、子供たちの憧れとなり、村娘に、たぶん、もてた(笑)。人間がもつ「群れの中の順位を重く見る」意識は身体の危険すら超えるという不合理性を利用して、危険な役割の担い手を確保した。なんてのが私の考察なんです。<br /><br />社会に「困ったものだ、なんとかしなくては」という雰囲気を醸成することが少なくなっていることと、ミスや間違いを皆で非難する傾向が強まっていることの間には、おそらく、かなり強い関係性があるだろうと思います。「公憤」という文化そのものが「群れの順位制」みたいな人間のもつ仕様の利用の一つだったのかも知れないと思います。そのマニアルが機能不全となったところで、人間の持つ基本仕様は変わりませんから、その代替として、誰かのミスを大きく叩くという行動が増えるのかも知れないと思います。<br />技術開発者noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-58596884103500221632016-04-10T13:43:21.815+09:002016-04-10T13:43:21.815+09:00そういえば、道草氏から反応がありましたね。
https://twitter.com/KutaroM...そういえば、道草氏から反応がありましたね。<br /><br />https://twitter.com/KutaroMichikusa/status/707681779101007872<br />>私のために通常業務を切り縮めてまで書いて頂いた長文だそうですが、申し訳ないけど「批判する理由はその気になれば幾らでも作り出せる」「批判のための批判は労力に反比例して当方には届かない」と感じるに留まりました。あしからず。<<br /><br />これ、一見すると「歯牙にも掛けない」態度の様にも見えますが、私から見れば何とも「頓珍漢」です。何故なら、このたった1つの呟きの中にさえ(またもや)幾つものおかしな点があるからです。<br />細かい点からいきましょう。<br />まず私は「通常業務を切り縮めて」などいません。Twetterフォロワーの方ならすぐにお解りの事と思いますが、私が「短めのお届け」と書いたのは勿論「週間PseuDoctor」の事です。これを「通常業務」と呼ぶのは、シャレならアリかもしれませんが、道草氏がそういう意味で用いたとは考え難いですね。それとも、もしかして私が「週プシ」を仕事としてやってるとかお考えですか?<br />次に「批判する理由はその気になれば幾らでも作り出せる」ですが、この一言だけでもツッコミどころ満載です。「幾らでも作り出せる」のなら、それはもはや批判ではありません。難癖です。道草氏は私の意見を「難癖」だとお考えなのですか。<br />そもそも、本当にちゃんと私の記事を読んだのでしょうか?私が最初に記事を公開したのは日本時間で3月9日の午後11時42分です。一方上記の道草氏のTweetは3月10日の午前6時37分のものです。記事を読み内容を理解し自分の対応を決めてTweetするのに、7時間未満というのは不十分な時間とも限りませんが、このタイミングは、ちょっと拙速ではないですか?<br />それと、文意を正確に読み取るならば「幾らでも作り出せる」のは「批判」そのものではなく「批判する理由」という風にお書きですね。私は批判内容は結構沢山書きましたが「批判する理由」については、それほど書いていない筈です(突き詰めれば、私が道草氏を批判した理由はたった一つです(後述))。一体、道草氏は私の文章の何を読んでいるのでしょうか。全然内容を読み取れていないじゃないですか。だから拙速だと言いたくなるのですよ。<br /><br />なので「当方には届かない」とか仰っていますが、それも当たり前ですね。ちゃんと読んでいないのであれば、内容を理解出来ないのも当然です。いや、もしかしたらキチンと読んで理解されたのかもしれません。そのうえで、筋道立てた反論をしたくても出来なかったからこそ、こういった語り口で「逃げて」いるという可能性もあります。<br />えぇ、勿論失礼を承知で言っていますよ。<br />何故なら、道草氏は私の記事の事を「批判のための批判」だと仰るからです。既に述べた通り、この記事の内容を読めていない(あるいは読んだ上で内容に触れるのを忌避している)にも関わらず、書いた私の動機や内心を勝手に決め付けている訳ですから。<br />そういうのは、極めて失礼な態度だと判断します。先に書いた通り、道草氏は「理と情」をうまく分離できていないのです。あるいはもっと積極的に「理と情を意図的に混ぜている」のかもしれません。何故なら(印象論ではありますが)「内容に反論出来ない時に、相手の人格や属性や動機を攻撃対象とする」様な事例をしばしば見聞するからです。<br />であるならば、私も(最初は人格について言及するつもりは無かったけれども)多少の忖度ぐらいは許されるでしょう。<br />私から見れば道草氏は「自らが『論を以て人に対峙するには不適格な人物である』事を図らずも明示してしまった人」です。そういう人には、それにふさわしい扱いをしてあげます。<br /><br />大体私は「何の為の批判か」を書いてますよ。そんなに解り難かったですか?なら、もう一度はっきり書いておきましょう。<br />私が道草氏を批判した最大の目的は「武田氏への無理な擁護を止めて欲しい」からです。その為に、道草氏の言い分の「どこがおかしいか」を列挙した訳です。<br /><br />で、武田邦彦氏について多少はお調べになったのでしょうか?私の事を馬鹿にするだけならまだマシですが、もうテキトーな言い分を撒き散らすのは控えて頂きたいのです。もし今後も武田氏について何か言及しようと思うのなら、少しはお調べになってからにした方が、赤っ恥もかかずに済みますし。<br />「もはや新しい事も学ぼうとせず、自らの既存の知識と経験の範囲内だけで思考を完結させようとする様になってしまった人」の事を、何と呼ぶのがふさわしいか知っていますか?<br />…まぁ、この辺で止めておきます。<br />(「真に闘うべき相手は他に居る!」…なんてね;p)<br />とだけ書いて終わりにするのも何ですから、その「真に闘うべき相手」については、本文に追記しておきます。PseuDoctorhttps://www.blogger.com/profile/18144346980647969078noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-2985649747931769372016-04-10T13:39:43.952+09:002016-04-10T13:39:43.952+09:00>技術開発者さん
確かそのお話は某所で拝見した記憶があります(が、現在では見られなくなっているので...>技術開発者さん<br /><br />確かそのお話は某所で拝見した記憶があります(が、現在では見られなくなっているので確信はありません)。<br />でまぁ、技術開発者さんは以前から「普通の人のリテラシーの向上」とか底上げみたいな感じの事(御本人の言葉だと「雰囲気の醸成」ですね)を仰っていると理解しており、それ自体には同意も共感もしています。ただ一方では「ミスや間違いは一切許さず集団で吊し上げる」という傾向(最近で言えばカップヌードルのCM中止など)も感じており、このギャップをどうしたものかなぁ、とも考えたりします。<br />一つの要素としては「長いものには巻かれろ、弱いもの苛めをしろ」という風潮が強まっているのかもしれません。だとしたら、誰にでもそういう傾向はある(誰だって、長いものに巻かれて弱いもの苛めをしていた方が楽ですから)点を認めたうえで「そうは言っても、やっぱりそればっかりじゃあんまりにも情けないから、ちょっとは考えようよ」という風になっていけば、お書きの事とも繋がっていく様な気はします。PseuDoctorhttps://www.blogger.com/profile/18144346980647969078noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-504490751843137885.post-83332788759739000392016-03-30T16:44:49.807+09:002016-03-30T16:44:49.807+09:00こんにちは、PseuDoctorさん。
最近、自分の仕事場の労組で労働法の勉強会の講師なんてたまに...こんにちは、PseuDoctorさん。<br /><br />最近、自分の仕事場の労組で労働法の勉強会の講師なんてたまにしていましてね(無資格なんですけどね:笑)。話の最後にこんな話をしているんですね、どこかで書いたかもしれませんけどね。<br /><br />以前、「特急列車レイプ事件」というのがあった。一緒に仕事をしていたご婦人が「年頃の娘を持つ身としては、犯人も許せないけど『見て見ぬふり』をした周りの乗客も許せない」と息巻いた。「では、息子さんに『そんな時は止めに入れ』と言いますか?」と言ってしまった。ご婦人は「とても言えない」と悩まれてしまった。<br /><br />私も「自分も息子にそんなことは言えない」と一緒に悩んで出した答えは、「止めに入るなんてできないけど、眉をしかめて周りを見回すくらいはして欲しい」だった。<br /><br />たぶん、人間社会における「雰囲気の持つ力」というのは結構大きいのだろう。その事件の時の車内に「何とかしないといけない」という雰囲気が醸成されれば誰か止めに入っただろう。そしてその人は孤立はしなかったのではないだろうか。<br /><br />なんて話です。なんていうかな、現代の我々が「見て見ぬふりをする」と「ならず者を止めに入る」の二択ではないその中間にある「良くないことだよね、止めなきゃならないよね」という雰囲気を醸成する力を失い始めているような気がしてならないわけです。<br /><br />無関係かも知れないけど、「芸風だと理解することで腹も立たない」という言い方に、雰囲気の醸成能力ということを失っていることとの共通性のようなものを感じたので、書いてみました。<br /><br />技術開発者noreply@blogger.com