コミケを風疹から守り隊

2010年12月31日金曜日

ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その2)

前回の記事ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その1)でmobileWifiを検討していると書いた。その結果どうなったかと言うと、10月よりmobileWifiを導入して通勤時や出張時に使用していた。具体的には、NTTの「光ポータブル(SIMフリー版)に日本通信のb-mobileSIMを差して使っていた。自宅にBフレッツがあるので光ポータブルは月額315円でレンタル出来る。従って、これとb-mobileの組み合わせは、mobileWifi環境としては最安の部類に入るのではないかと思う。
但し、これはあくまでも暫定措置。何故なら、今後短いスパンで大きく状況が変化すると予想されるからである。即ち、10月の時点で、近い将来にテザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売されるかもしれないと予想していたので、とりあえずの措置として上記の構成にした。Wifi機器をレンタルにしたのも、SIMを2年縛りとかと無縁な日本通信にしたのも、暫定だからという面が大きい。

b-mobileと言えば最大のネックはやはり通信速度の遅さ(上り・下りともベストエフォートで300kbps)なのだが、通勤時に最も使っているのはtwitterなので、さほど苦にならない。またWebブラウジングをする際でも、プロクシを設定すると実効速度が2倍以上になるので、まぁ許容範囲内である。例えばkikulogなんかだと1000コメント以上あるエントリなんかはそれなりに待たされるが、それでもページの大部分がテキストなので、何とかなる。私の結論としては「それなりに使える」である。
ついでに昔話をすれば、インターネットの黎明期にはアナログモデム+従量制でやっていたのだから、それに比べれば多少の待ち時間はどうって事は無い(そう言えば音響カプラも買ったけど、結局一回も使わなかった)。ちなみにその時に使っていたモデムは9600bps、つまり9.6kbpsでしかない。ISDN回線の64kbpsが羨ましくて仕方なかったのだが、その後アナログモデムの性能も向上して、理論限界と言われる56.6kbpsのものが出てきた。しかし待ち切れ無かった私は、その少し前に28.8kbpsのモデムを買ってしまったので、暫くの間それを使っていた。
その頃と比較すれば、今の状況は格段にマシである。なので、個人的には、無闇に高速化を競うよりも、安定して繋がる方を優先させて欲しいと思う。

さて、そうしているうちに、やはり「テザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売される」事になった。例えばイー・モバイルのPocket WiFi S(S31HW)とか、Camangi社のFM600とかである。これで非常に選択肢が広がったと言える。


ポイントは「テザリング」と「SIMフリー」である。テザリングとは要するにスマートフォンをモバイルWifiルータにする機能であり、本来はiPhone4にもAndroid2.2にも搭載されている筈のものである。これがあれば、わざわざWifiルータを持ち歩く必要は無くなる。今も昔も、モバイラーの最大の悩みは「如何にして持ち歩くアイテムを減らすか」ではないだろうか。その意味で、Wifiルータを減らせるのは大きい。しかしながら、現在のところ、国内のキャリアから発売されているスマートフォンでテザリング機能が使える物は殆ど無い。個人的な推測だが、これには大きく2つの理由があると考える。
1つ目は、トラフィックの増大である。テザリングが使えれば当然の様に通信料が増え、今よりも混雑すると予想される。
2つ目の、より本質的と思われる問題は、料金プランと通信料、そしてマーケティング戦略である。例えばドコモでは、パソコンに繋いでデータ通信をする場合は、パケ・ホーダイの上限金額が2倍に跳ね上がる。この状況を維持するならば、スマフォのテザリング機能にも同様の課金をすべきな訳だが、スマフォを売り込みたい側としては、そんな事はしたくないし、スマフォが売れてもデータ通信カードやWifiルータが売れなくなるのは困る。
そして、この問題はSIMフリーとも関連してくる。おそらくどのキャリアも本音を言えばSIMフリーなど進めたくは無いのだろう。ドコモがSIMフリーを推進する態度を示したのも結局はiPhoneやiPadを使いたいからだったと意地悪に解釈すれば、Android携帯が好調な現状に於いては、無理にSIMフリーを推し進める理由は少ないと言える。とは言え、一旦は口にしたものを全く無視する訳にもいかないので、他機種との競合が少ないWifiルータだけSIMフリーにしてみせた、というところではないだろうか。イー・モバイルがPocket WiFi SをスマフォではなくあくまでPocket WiFiの後継機と位置付けているのも、おそらく同様の理由によるものであろう(但し上述の如く実質的にはSIMフリーかつテザリング搭載のスマフォなので、この機種自体は支持したい)。


そんな訳で、国内キャリアのスマフォにはなかなか食指が動かなかったのだが、結論から言うと、Camangi社のFM600を購入し、そこにb-mobileのSIMを差して使っている。まださほど使い込んでいないのだが、これがなかなか快適なので、(その3)では使用感をレポートしようかと思う。
とは言え、御覧の様に遅筆なので、おそらく今更感満載のレポートになる可能性が極めて高いと予想されるが、そこはひとつ、広い心でお許し頂きたい。


それでは皆様、良いお年を。


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2010年12月12日日曜日

「表現規制」について(「表現の自由」はなぜ大切か?)

初回公開日:2010年12月12日
最終更新日:2016年07月21日

1.はじめに

多くの方が御存知の様に、2010年3月の時点で継続審議となっていた「東京都青少年健全育成条例」(いわゆる非実在青少年規制条例)の改正案が12月都議会に提出されています。
私はこの条例には明確に反対です。その最も大きな理由は、これが「表現規制」、即ち「表現の自由を犯すこと」に繋がるからです。「この条例は表現規制そのものではない」というタテマエ論を述べる方もいらっしゃる様ですが、条例の内容は規制側の恣意的な運用が大幅に可能になっているものであり、実質的な表現規制に結び付く危険性はかなり大きいと言うべきです(ぶっちゃけて言えば、そもそも体制側が「表現規制をやります」なんて馬鹿正直に言う筈が無いと思っております)。

では、なぜ「表現の自由」は大切なのでしょうか。
それは勿論「憲法で保障されている基本的人権だから」ですね。
でも、もう少し踏み込んで考えてみましょう。
なぜ「表現の自由」は「基本的人権」なのでしょう。
そしてなぜ「基本的人権」は憲法で保障されているのでしょう。

これを書いている時点では、まだ条例の改正案がどうなるのか解りませんが、どうやら民主党が賛成に回る様で、可決される公算が大きそうです。「表現の自由」に配慮して付帯決議がなされるという見通しの様ですが、はっきり言えば、そんなもの「配慮してない訳ではないですよ」というガス抜きの為の言い訳に過ぎません。
そもそも、わざわざ付帯決議を行う時点で、欠陥条例である事を認めたも同然ではないですか。
「表現の自由に配慮する」なんてのは、言うまでも無く当たり前なので、今更そんな事を改めて決議するなんて、何をかいわんや、です。
そして、たとえ付帯決議があったとしても、そんなものは、現実の運用で幾らでも骨抜きにできます。
非常に姑息なやり方ですが、常套手段でもあります。

しかし、たとえ可決されたとしても、それで終わりではない。
そして、たとえ否決されたとしても、それで終わりでもない。
「表現の自由」に関しては、ずっと継続して考え続けなくてはいけない問題だと思いますので、書いてみた次第です。

2010年12月4日土曜日

S01-04: 科学の特徴

初回公開日:2010年12月4日
最終更新日:2010年12月4日

前回までの記事(S01-01からS01-03までの記事)で「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」「その為には得た知識を共有するのが便利である」という話をしてきました。以上をまとめると、極めて大雑把なPseuDoctor流オレ様定義ではありますが「科学とは知的好奇心に応える為に知識を共有して増大させ、その結果として人類の発展に貢献していくシステムである」と定義しても、まぁ大抵の場合は良さそうです(もっと上手い言い方があったら、誰か教えて欲しいです)。
そこで今回は、そのシステムを最適化させる為に何が必要かを考えてみましょう。それがそのまま「科学の特徴」になると思います・・・なればいいなぁ。

まず「知識の共有」ですが、これって、一方通行であってはいけないのですね。何と言うか、上記の定義を見て、巨大デジタル図書館の様なデータベースシステムを想像された方もいらっしゃるとは思いますが、図書館と科学とでは、決定的に違う部分があります。
それは「情報の発信者と受け手を区別しない」という点です。図書館では書架に並んでいる本と読み手とは明確に区別されています。勿論、図書館の本を調べて新しい本を書き、それが図書館に並ぶという事もありますけれども、それは例外ですよね。
しかし科学の世界では情報の発信者と受け手は同一の土俵にあります。誰もが情報の受け手であり発信者になりうるのです(トンデモさんには受け入れ難い事実かもしれませんが)。その意味では、図書館よりもむしろネット世界におけるWikiなどの様な「集合知」に近いイメージかもしれません。

しかし「集合知」だとすると今度は、情報の正確さを誰が保証するのかという問題が生じます。「ネット情報は玉石混交」だというのは今更言うまでもない事実ですが、それは、正確さの保証が存在しない故だとも言えます。
では、科学の世界では何が正確さを保証するのでしょうか。誰か偉い先生が正しいかどうかを決めるのでしょうか。それとも学会が決めるのでしょうか。
違いますね。
別に、神の如き絶対的な審判が存在して、その人(たち)が正しさを決める、というわけではない。そんなのは科学ではない。(但し表面的には「偉い人が決めている」様に見える場合があるかもしれません。しかしそれは別に恣意的に決めているのではなく、偉い人は、以下に述べる要素によって決められた事を「知っている」というだけの事です。)
さて、では何が正確さを保証するのでしょうか。

それは「証拠(根拠)」と「他人の眼」です。
どれほど魅力的な内容であっても、根拠を提示できなければ、単なる「面白い話」で終わってしまいます。あるいは「こうすれば証拠は見つかる筈」というところまで話を持っていけば、もしかしたら、誰か奇特な人が証拠を見つけてくれるかもしれません。
勿論、誰も協力してくれないかもしれません。その場合は「面白い話を言った人」で終わってしまいます。それが嫌なら証拠を見つけるしかありません。自分自身で、あるいは他人の助力を仰いで。
「先に言ったモン勝ち」は許されないのです。

さて、何でもいいからとにかく証拠(根拠)を提示できさえすればそれでオッケーかと言うと、そんな事はありませんね。その証拠が、正しさの根拠として充分な強さを持っているかどうかが問題になります。その場合に「他人の眼」が重要になってきます。つまり、自分が幾ら「これが証拠だ」と力んでみても、他人がそれに同意してくれなければ、証拠として認められないという事です。
但し、これは証拠の採用を多数決に頼るという意味ではありません。多数派が常に正しいとは言えないのは、歴史が示しています。では、この場合の「他人の眼」とは何を意味するのでしょうか。

それは「誰でもいつでも見る事が出来る」という意味です。主張者以外には証拠を見られない、なんてのは論外ですが、限られた人しか証拠を見る事が出来ない場合でも、その信憑性には疑問符が付きますね。また、ほんの一瞬だけ情報を公開して「ほら見せたよ、もういいだろう」なんてやっても、二度と見られないのでは、やっぱり信用できません。
そして、この様に証拠の情報が共有化されるならば、その証拠を用いた検証が誰にでも可能になります。勿論、お金・時間・技術などの問題はありますが、重要かつ説得力のある情報であればあるほど、検証したがる人も増えるでしょう。こうして多くの人が繰り返し検証していくほどに、情報の正確性は増していくのです。勿論その過程で、情報が修正されたり捨てられたりする事も起こるでしょう。むしろ、そういう事が起こるからこそ、正確性が増していくのだとも言えますね。

これを一言で表現するなら「正確さの保証には客観性と再現性が必要」となります。

以上をざっくりまとめると「科学とは一種の集合知であり、その正確さは客観性と再現性を持った証拠の存在により(漸増的に)保証される」となります。

しかしそれでも「俺は科学が正しいなんて信じない。科学者なんて嘘ばっかり言ってる。みんな騙されてるんだ」と言い張る人もいるでしょう。バッサリ切り捨てる様な言い方をさせてもらえば「事実よりも信念を優先させている時点で、科学の正当性について語る資格は無い」と思うのですが、それだけで済ませてしまっては本人も納得出来ないでしょうね。
そこで、次の記事(S01-05)では「ある知識を得た時に、個々人がその知識を『正しい』と判断するとは、どういう事か」を考えてみたいと思います。

ああ、こうやって少しずつ予定がズレていく・・・(笑)

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