コミケを風疹から守り隊

2012年2月15日水曜日

P02-04-2 ニセ科学の潜在的被害者は誰か~「欠如モデル批判」と「ニセ科学批判」の意外な関係~

初回公開日:2012年02月15日
最終更新日:2012年03月25日



(この記事は、以前の記事(P02-04)にも増して、ある程度の知識がある方を対象にしています。初めてお読みの方には御迷惑をお掛けしますが、御容赦ください)


1.「欠如モデル」の(平川さんによる)定義に対する疑問


「欠如モデル」に関しては、以前の記事(P02-04)の中でも少し触れましたが、今回はもう少し掘り下げて考えて見ます。実を言うと、私も「欠如モデル」という用語は初耳でしたので、まずは以前の記事中にも記した通り、平川さんの言葉に基づいて、欠如モデルの定義を理解しようと試みました。
平川さんによれば、欠如モデルとは「 科学技術をめぐる不安や反対などトラブルの原因が、知識不足以外に(も)あるのに、知識不足の問題としてのみ扱うこと 」であり(ソースはこちら)、また「不安・反対の人々を「無知で不合理な存在」として表象し、「ご理解下さい」と一方的に技術の受容を迫るなど、テクノクラティックな態度のこと」だそうです(ソースはこちら)。


しかしながら、当初から私はこの定義に違和感を持っていました。即ち、上記の記事でも少し触れた様に、
「科学技術をめぐるトラブルの原因が知識不足のみだと考えている人など本当に居るのか?」
一方的に技術の受容を迫っている人など居るのか?」
という疑問が消せなかったからです。
この疑問が言葉尻を捉えたイチャモンではない証拠に、平川さんは同時に「本当に知識不足が原因である問題に対して必要な知識を提供することは当然のこと。批判対象ではないし、敢えて欠如モデルと呼びもしない」とわざわざ述べておられます。つまり、私が太字で強調した部分、即ち「のみ」や「一方的」という修飾語こそが、欠如モデルのキモだという事になります。


でも、本当に、欠如モデルとはそういう意味なのでしょうか。更に平川さんによれば「そのくらいのことは10本も論文読めばわかること。科学技術社会論や科学コミュニケーションに関わる人は、それくらいは勉強しておかねば。これは、物理を学ぼうとする者に「まず解析学はちゃんと勉強して」というのと同じ職教育上の要求であって「欠如モデル的」でないのはいうまでもない」(ソースはこちらだそうです。従って、科学技術社会論(STS)的には、上に述べた平川さんの定義は、ごくごく当たり前の常識であり、それを知らないのは解析学を知らずに物理を学ぼうとする位に無謀だという事になります。これって、極めて強い言い方ですよね。医学に例えれば「人体の構造や機能を知らずして臨床医学を学ぼうとする」ほど無謀だというところでしょうか。



ところが。