最終更新日:2011年8月30日
(このエントリは、ニセ科学批判について、ある程度の知識のある方を対象にしています。初めての方には少し解り難いかもしれません)
(ニセ科学批判とは字義通り「ニセ科学を批判する行為」の事です。それ以上の意味は込めていません)
1.これまでに(震災前までに)ニセ科学批判が主な対象としてきた人達
これまでのニセ科学批判が主に対象にしてきた(射程に入れてきた)人達は誰なのでしょうか。
最大のターゲットの1つは、言うまでも無く「自らがニセ科学の発信源となっている人」です。これは明確な批判対象です。しかしながら、自ら積極的にニセ科学を広めている人(例えば由井寅子さんとか江本勝さんとか)は、少々批判されたくらいでは容易に止めたりはしないと考えられます。また、こうしたニセ科学的な事を言い出す人は雨後の筍の様に出てくるので、いくらやっても「モグラ叩き状
態」になってしまいます(勿論、だからといって批判を止める訳にもいかないのですが)。
そこで、第2の対象として「ニセ科学に興味の無い人・なんとなく聞いた事はあるけれども詳しくは知らない人」をターゲットにしてきました。ターゲットと言うと聞こえが悪いですが、この場合は、批判よりもむしろ啓蒙が目的となります。つまり「ニセ科学について知って貰う」事により、ニセ科学にハマり難くするのを目指しています。言わば予防ですね。
なお、知識の欠如が問題とする見解に対して、これを所謂「欠如モデル」と看做して批判する事がある様です。しかし平川秀幸さんによれば批判対象となるのは原因が知識欠如「のみ」だと考える場合だそうです(ちょっと長い議論になりますが、興味のある方はこちらのTogetterも御参照ください)。
だとすると、私の知る限りでは「知識の欠如のみが問題である(=知識さえ与えれば問題は解決する)」などという見解を持っている人に会った事がありませんので、さしあたり平川さんの言っている事は気にしない事にします。
2.これまでに(震災前までに)ニセ科学批判があまり対象としてこなかった人達
一方で、あまりターゲットにしてこなかった人達もいます。最も典型的なのは「ディープなビリーバー」です。菊池誠さんなどが良く仰るのは「ビリーバーは説得できない」という言葉です。これは文字通りに「できない」というより、むしろ「説得には個別に対応する必要があるし多大なコストがかかるうえに、たとえそうやっても出来るとは限らない」という意味に解釈すべきでしょう。ニセ科学批判は基本的にボランティアで行われていますしリソースも限られていますから、ビリーバーの説得に費やすコストを捻出するのはなかなか困難です。
つまり、ビリーバーを見捨てているのでも相手にしていない訳でもないのです。実質的にそれが出来ないでいるのはマンパワーと方法論の問題だと理解しています。
ですから、ビリーバーとの対話を拒否するという事はありません。実際、例えばkikulogのコメント欄はビリーバーにも広く開かれており、ニセ科学側の人だからといって(それだけの理由で)対話や書き込みを拒否される様な事は生じておりません(但し、言葉遣いや態度が悪いのはダメです。それは議論以前の問題だというのがkikulogの運営方針であり、私もそれに同意しています)。
ただ、やはり現状では、ビリーバーとの対話は本人の説得(折伏・転向・脱洗脳、何と呼んでも良いですが)を目指すというよりも、その遣り取りを第三者に見せるという側面が大きい様に思います。
3.「ニセ科学のライトユーザー」に対する対応の難しさ
ここで「ディープなビリーバーとニセ科学に興味の無い人とは完全に分断されているのではない」点に注意が必要です。その中間に「何となく興味のある人」とか「ライトなニセ科学ユーザー」等が居て、集団として見た場合には切れ目の不明瞭なグラデーションを形成していると考えられます(いつもの「グラデーション主義」ですね)。
こうした「ニセ科学のライトユーザー」に対して、どの様に対応すべきか。これがなかなか難しい問題なのです。ニセ科学の提唱者に対して行う様な苛烈な批判を展開すれば、逆にディープビリーバーへの道を後押しする事になりかねません。「共感を示しつつやんわりと間違いを指摘し、本人が自ら気付く様に仕向けていく」という風に、口で言うのは容易ですが、現実に行うのは途轍もなく困難です。
この問題については、例えば過去にPoohさんのブログで論じられた事があります(この記事とかこの記事とか)。とくにnewKamerさんはビリーバーから懐疑論者に転向された方ですので、その経験は重要だと思います。こうした議論を見ると、昔から論じられてきた問題であるというのが解ります。
で、お気付きの方もいらっしゃると思いますが「震災後、こうしたライトユーザーがかなり増加した」様に見えます。そしてその事が、ニセ科学批判の実践を、より難しくしていると感じます。
4.震災後に増えた「ニセ科学のライトユーザー」の特徴
ここで述べている「震災後に増加したライトユーザー」の典型例とは、例えば「子供の放射能汚染が心配でEM菌などを使っているお母さん」です。別に揶揄する意図はありません。本当に典型例だと思っているのです。
こうした方には、以下の様な特徴があります。
1)とにかく不安である。
2)何もしないでいるのに耐えられない。
3)政府や「御用学者」は信用できない。
4)理詰めでは説得されない。
5)自分の努力を否定されたくない。
6)自分の立場を尊重して欲しい。
色々書きましたが、まとめると「不安」と「不信」という事になるでしょう。放射線の影響は不安だけれども、それを解消してくれる筈の政府や専門家を信用できなくなっている。そうした気持ちがライトユーザーへの道を後押ししているのではないでしょうか。
(なお、ここで書いた内容を踏まえてP01-05の記事を、8月24日付けで加筆修正しています。そちらもあわせて御覧ください)
5.「震災後のライトユーザー」に、どの様に対応すべきか
上にも書いた通り、これは難しい問題です。前項で述べた典型例だけで考えてみても、簡単に結論は述べられません。コミュニケーション手法には、唯一絶対の正解は無いからです。
もし唯一絶対の正解があるのならば、その手法を広めれば良いですね。それどころか、その手法自体を応用すれば完璧なコミュニケーションが可能な筈ですから、敢えて広めなくてもあっという間に広まっていく筈なのです。でも現実にはそうなっていない。それが正解の無い事を示しています。
しかしそんな事を言ってばかりもいられないので、ここでは手掛かりだけでも示してみたいと思います。
ちょっと固い表現になりますが、ここまでに書いた内容を踏まえると、相手が求めているのは、概ね「不安の元になっているものを解明する事」「具体的な対策(行動指針)を示してもらう事」「自分の気持ちに寄り添ってもらう事」だろうと思われます。
勿論、相手の求めるものが解ったからといって、直ちに相手に与えられるとは限りません。いや、それどころか、極めて難しい・殆ど不可能と言っても良いでしょう。既に3.でも述べた様に「相手の気持ちに寄り添いつつ、やんわりと間違いを指摘して本人に気付いてもらう」なんてのは、プロでも難しい超高度なテクニックです。容易に出来るなどとは思わない方が無難です。それが難しいからこそ、多くの批判者は「事実を淡々と述べる」という方法をとっているのです。
とは言え、それで終わらせてしまったのでは身も蓋もありません。何かヒントになるものはないか、と思っていた時に、あるTweetを拝見しました。この呟きがきっかけになって「理想的なコミュニケーションのあり方モデル」みたいなものが心に浮かびました。この場を借りて御礼申し上げます。
「この程度の事は既にコミュニケーションの専門家がやってるだろうな~」などと思いつつも、折角頑張って考えたモデルですから、ここに載せます。
言葉だけで説明するのは難しいので、次の図を御覧ください。
図を見て頂ければ概ね解るかと思いますが、ちょっと言葉の使い方を中心に補足説明します。
まず最初の段階として、コミュニケーションが必要であるという認識を得ます。次の段階として理解(論理面と感情面それぞれの)があります。論理面での理解が成されれば賛成かそうでないかが明確になり、感情面での理解が成されれば共感出来るか出来ないかが明確になります。とりあえずはここを目指すべきです。この時、賛成と共感をまとめて「同意」と呼び、不賛成と不共感をまとめて「不同意」と呼んでいます。つまり「論理に同意する事=賛成」「感情に同意する事=共感」と呼ぶ事にしました。「同意もしくは不同意」は理解を前提としている点に御注意ください。図の中にはありませんが、理解を前提としない同意の事を「迎合」と呼びます。勿論、迎合は好ましくありません。
更に、論理的な賛成と感情的な共感の両方が達成された状態を「納得」とします。理想的にはこの状態を目指すのが良いと考えます。
ここで私は「賛成と反対」あるいは「共感と反感」とは書きませんでした。これは「賛成できない事は、即ち反対する事である」の様な二分法的思考に陥って欲しくないからです。「全面的に賛成できない事」は必ずしも「反対する事」ではありません。部分的な賛成や態度の留保など、様々な態度があり得ます。つまり「反対は不賛成の一部であって、決して全部ではない」という事です。反感と不共感に関しても同様です。
勿論、このモデルは不完全なものです。モデル化の宿命とはいえ、単純化し過ぎているかもしれません。またコミュニケーションを働きかける側と受ける側とを必ずしも区別していないという問題点もあるでしょう。
それでも、本項の最初に述べた様に、何かの手掛かりにでもなれば良いな、とは思っています。
また、丁度本日(8月30日)付けでアップされたlets skepticさんのエントリもタイムリーな内容ですので御覧ください(lets skepticさんもnewKamerさんと同様に、かつてはビリーバーだった方です)。
6.ニセ科学批判が(さしあたり)対象にしない人達
ニセ科学批判は勿論、全ての人を対象にしている訳ではありません。あまり相手にしない方が良さげな人達も、残念ながらいらっしゃいます。とりあえず今思い付くのは、以下の2種類の方々です。
1)議論の為の議論を仕掛けてくる人
この中にも様々な人が含まれています。科学に対する恨み(劣等感やルサンチマン)をぶつけてくる人、科学を権威と看做したうえで反権威主義に凝り固まっている人、自分の能力を誇示する為にディベートを仕掛けてくる人、などです。
純粋に学術的なテーマであれば議論するのも結構でしょう。しかしそうではない場合、往々にしてこうした遣り取りは不毛になります。ですからあまり深入りしない方が良いでしょう。
2)正義を振りかざす人
これは、ある意味で非常に厄介です。以前よりコミュニケーションの困難さを示す言葉として「地獄への道は善意で舗装されている」と言われてきました。しかし、特に震災後の状況を見ますと、あるいは「地獄への道は正義(と善意)で舗装されている」と言いたくなってしまう場合もあります。
こんな事を言うと「いや、ニセ科学批判者の方こそ正義を振りかざしてるじゃないか」という意見を持つ人もいらっしゃるでしょう。まぁ、ニセ科学を批判する理由は人それぞれ、という事はまとめWikiの方にも書きました。その中には確かに「社会正義の実現」みたいにとれる動機も含まれていますが、それでも「振りかざして」はいないつもりです。そういう風に見られてしまうのは心外だし残念ではありますが、ある程度は避けられない事なのかもしれません。
やっぱり、コミュニケーションは難しいですね。
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Pseudoctor様
返信削除かねがねきくち先生のブログでも拝見し、勉強させていただいております。胸のすくようなまとめ、ありがとうございます。
元ライトビリーバーですので、昨年夏のホメオ問題くらいから菊池先生のブログを熱心に拝見するようになり、また、震災後はいろいろなニセ科学が人々の不安をあおりつつ入り込んでいく様子に、怒りを禁じえず、一方で、ブログ上で闘わされるニセ科学批判者の方々の物いいにも、正しいことだと思いつつも微妙な違和感~不快感というようなものを感じ、ずっと胸になにかがつかえているような感覚でした。このまとめを拝読し、そのつかえがとれた感じです。
ニセ科学批判、手弁当で活動してくださっている先生方には、頭のさがる思いです。ありがとうございます。一言御礼申し上げたくコメントさせていただきました。平凡な私のようなものがお役に立てることは少ないと思いますが、今後とも先生方の活動をかげながら応援させていただきます。
米のとぎ汁発酵液を放射線対策として実践している方を説得しようとして、失敗した経験があります。直接の知り合いではなく、あくまでネット上ですが。
返信削除その相手は、ご説明にありました「ライトユーザーの特徴」に見事に当てはまりました。また、次のような特徴もありました。
○説明責任を批判者に押し付ける
本来自分に説明義務があるのに、「米のとぎ汁に効果がないことを証明しろ」「米のとぎ汁が危険だと証明しろ」など。
○全て自分に都合のいいように判断する
「米のとぎ汁を吸いこんでいると咳が出て放射性物質が排出されているのがわかる」「米のとぎ汁をいくら吸い込んでも体調を崩していない」など。
○目的を見失っている
「家族を守る」ためのはずの行動が、明らかに「家族を守りたいという自分の気持ちを守る」ためになっている。結果として逆に家族を危険にさらしているが、批判されると「親の気持ち」を盾に反発する。
○劣等感がある
「上から目線のお説教が気に入らない」と反発する。
私は正論大好きで感情より理屈が先に出る人間なので、ご説明にもあるようにただ事実を並べただけで説得を試みた結果、失敗しました。コミュニケーションは難しい……
ちなみに、私が米のとぎ汁を疑似科学として批判する理由は、巻き添えを受けるのが子供だからです。子供に関わる仕事の経験があり、子供がいかに無力で親に逆らえないかをよく知っているからです。
子供を守りたいのは私も同じなのですが、やはりコミュニケーションは難しい……
長文失礼致しました。
私もブログに科学の世界における学術論文の意義などについて駄文を書いておりますので、批判も含めてコメントを頂戴できれば幸いです。
釈迦に説法かもしれませんが、あえて。
返信削除「客観的事実」≠「感覚器官に取り入れられた情報」≠「認知」だと考えられていますし、認識の時点で以前の思考や感情は反映されると思います。二重盲検法がある理由からも明らかかと。
http://mlab.arrow.jp/pdf/k0102.pdf
ですので、認識からの→は⇔で結ぶか、事実をさらに左に置くかしたほうが正確ではないでしょうか。
分量が多いですが、 渡邊芳之先生の「血液型と性格」に関する議論も参考になるところが多いと考えます。
http://www.obihiro.ac.jp/~psychology/abofan/abofan1.html#1
The road to hell is paved with good intentions.は僕もそう思います。人間誰しも自分は正しいというバイアスがかかって生きていますし、そうでないと生きていけないのでしょう。
皆様
返信削除コメントを頂きましたのに、なかなかお返事が出来なくて申し訳ありません。また改めて個別にお返事致します。今しばらく御容赦下さい。
>Mamamalindaさん
返信削除いらっしゃいませ。大変お返事が遅くなって申し訳ありません。身に余るお褒めの言葉、有り難うございます。これからも牛のヨダレの如く、蝸牛の歩みの如く細く長く続けて参りますので、時々御覧になってください。
ところで、Mamamalindaさんというハンドルは、何だか歌っぽくて良いですね。センスを感じます。
>locust0138 さん
返信削除いらっしゃいませ。コメント有り難うございます。お返事が遅くなって申し訳ありません。
ブログを拝見しました。農業に興味がおありなのですね。「食べるものを作る」というのは、人の営みとして極めて重要です。それだけに、いい加減な根拠や間違った知識に振り回されるのは怖いです。
参考までに、農業に関係した方が書いていらっしゃるブログを2つほど紹介致します。既に御存知でしたら御容赦ください。
農家こうめのワイン http://ameblo.jp/vin/
アグリサイエンティストが行く http://gan-jiro.cocolog-nifty.com/blog/
>naka-takeさん
返信削除いらっしゃいませ。コメント有り難うございます。
まず「認識」に関してですが、これは私の図がシンプル過ぎたかもしれません。あの図における「認識」とは「客観的実の認識」という意味ではなく「コミュニケーションの存在もしくは必要性の認識」という意味です。言い換えれば「コミュニケーションをしようと思った時からコミュニケーションが始まる」という事を表現したかったのです。ですから「事実をどの様に認知するか」という文脈における「認識」とは異なる意味だと思って頂ければ幸いです。
それから、渡邊先生の議論は私も存じております。この遣り取りよりも後に、naka-takeさんも御存知のkikulog上で、ABOFANさんと複数の人との遣り取りが長期・大量になされ、ある意味では渡邊先生との往復書簡にも負けない程のアーカイブになっていると思います。私も少々参加しておりますが、何分こちらも量が多いものですから、お時間があって気力が充実している時に御覧になる事をお勧め致します。
血液型と性格 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1158225244
血液型と性格2 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1191758412
血液型と性格3 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1202024086
血液型性格判断問題についての確認 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1256972977