コミケを風疹から守り隊

2012年10月14日日曜日

S02-04: 「学術論文」って何だろう?


初回公開日:2012年10月14日
最終更新日:2014年05月06日
(更新の内容に関しては、コメント欄も御参照ください)


0.はじめに

今回の文章は最初、kikulogのこちらの記事のコメントとして書いたものです(コメント番号で言うと#950, #951, #976, #991, #1007です)。そもそもこれは「松下電工(現パナソニック電工)が公開していた技報は、学術論文とは似て非なるものである」事を示す為に、まずは学術論文とは何かを説き起こそうとして書き始めたものです。しかしkikulogの記事は御覧の通りコメント欄が膨大になっていますので、なかなか読むのが大変になっているうえ、私の文章も尻切れトンボになっています。
その後、私の文章に過分な評価を頂いたTAKESANさんの御厚意により、こちらのブログ記事のコメント欄をお借りして、改めて書き始めました。しかしそれも(主に私の怠惰により)中断したままになっています。
そうこうしているうちに、私自身がブログを持つ様になりました。
この文章の事はブログ開設当初から念頭にあり、全体の構成を決めた時にも入れる場所は決まっていました。しかし、やはりなかなか書けないでいる間に、時が過ぎてしまいました。
そこで、取り敢えずですが、今回はTAKESANさんの所に書かせて頂いた文章をベースにして少し手を入れたものを載せます。例によって修正の余地を残したままの記事という事になってしまいますが、どうか御承知おきください。

なお、当該の技報に関しては、古い事もあり現在パナソニック電工のHPには載っておりません。


1.「論文」の定義と意義

一般用語としての「論文」には「物事を筋道立てて書いた文章」というほどの意味があります。例えば、科学に馴染みの薄い方々が「論文」と聞いて思いつくのは、大学入試の「小論文」だったりします。そうした場合の「論文」の評価ポイントは、言わば「自らの主張や考えをどれだけもっともらしく書けるか」になるでしょう。
しかし、科学分野での「論文」とは、もっと厳密なものです。即ち「物事を筋道立てて書いてある」のは当然の前提です。そのうえで、大袈裟に言えば「科学の発展そのものに貢献すると認められる業績」の事を論文と呼ぶのです。
具体的にどの様な内容を論文と呼ぶのかは次項以降に譲るとして、ここでは最も基本的な考え方のみを述べます。

そもそも科学とは「客観的な証拠と論理的な推論に基づいて、これまで解らなかった事を解る様にしていく仕組み」です。それは無数の先人達の努力の賜物である訳ですが、そうした努力の積み重ねの上に、それこそたとえ紙一枚分かもしれないけれど、自分の業績を上乗せし、もって科学全体の発展に寄与する、それこそが科学分野に於ける「論文」の意義なのです。
という訳で、前段にも書いた通り「論文」とは科学の発展そのものと言っても過言ではありません。
何故、科学者や研究者がこれほどまでに論文を重視するのか、その答えがここにあります。

従って、上記より科学分野での「論文」に最低限求められるものは「客観的な証拠」と「論理的な推論」そして、それらの結論として導き出される「当該学問分野に付け加えられる新たな知」であります。これらのうちどれが欠けても論文とはいえません。
逆に(書いても構わないけれど)別に無くても構わないもの、それは「著者の信念や主張」です。信念や主張を持って科学に取り組む事自体は、結構な心掛けです。しかし、それが客観性・論理性・結論に影響を与えてしまうのではダメダメです。よく言われる「熱いハートとクールな頭脳」とは、そういう意味でもあります(決して、単なる「喧嘩に勝つ為の心掛け」ではありません)。
増してや、客観的証拠の存在に関して合理的な疑いを掛けられているにも関わらず、本人や擁護者が「信じている」としか言えない様な状態は、科学の議論としては論外です。


2.査読とインパクトファクター(IF)について

前項で挙げた論文の定義と意義を満足させる為には、具体的にはどうしたら良いのでしょうか。その為に考え出されたシステムが「査読」なのです。即ち、科学者や研究者が「論文」と言う時には、それはもう「査読付きの学術雑誌に載った論文」の事以外にありえません。これは言い換えれば「専門家による客観的な評価を通った論文」という意味でもあります。これを一般用語の「論文」と区別する為に「査読付きの論文」と書いたりする訳ですが、これでもまだちょっと煩雑ですので、私の文章では「査読付きの論文」の事を「学術論文」と呼ぶ事にします。

さて、その「査読」についてもう少し説明しましょう。学術雑誌の編集部では何人かの専門家(多くは他に本業を持っています)と契約しており、雑誌への掲載を望む論文が投稿されると、それを専門家に見せ、掲載に値するかどうかを判定してもらいます(どのような基準で判定するかは次項で述べます)。ここで「契約」には有償のものも無償のものも含まれます(詳しくはコメント欄の最初を御覧ください)。査読者と編集部との契約は有償の場合もありますが、無償のボランティアで行っている場合も多くあります。そして、査読者は公平性と中立性を持って判断します。決して、雑誌社の利益の為や、学会の偉い人の為に行っている訳ではありません。
査読を行った結果、非常に出来の良い論文の場合はそのまま修正無しで掲載が決まります(アクセプトと言います)が、多くの場合は「ここを直せば載せてあげますよ~」という修正意見を付けて投稿者に返します(リバイスと言います)。出来の良くない論文や「当雑誌に載せる内容としてふさわしくない」と判断された論文の場合には「載せません」という結論を付けて返される事もあります(リジェクトと言います)。

この様に、主に査読者の判断によって論文の掲載可否が決まる訳ですが、たとえ査読者レベルの専門家といえども、自分の論文を載せて欲しい時には、他の査読者の判定を受けなければなりません。
そうやって、専門家同士がお互いの研究内容を相互にチェックし合う事によって内容の信頼性を高めていく仕組みの事を「ピア・レヴュー」と言います。より狭義には、査読そのものの事を「ピア・レヴュー」と呼んだりもします。

但し査読者は、基本的に「投稿者が嘘をついたりデータを改竄したりしているかもしれない」という可能性までは考慮しません。そこまで考えていたら、とても査読などやり切れないからです。査読者はあくまで「投稿者は誠実である」と信じたうえで、学術的な妥当性に関して査読を行うに過ぎないのです。
では、誠実さに欠ける投稿者が嘘をついて論文を出しさえすれば、好きなだけ名誉や報酬を欲しいままに出来てしまうのでしょうか。そうではありません。少々迂遠ではありますが、ここで他の研究者の存在が物を言います。
学術論文として公表された内容は世の知るところとなります。目覚ましい業績であればある程、他の研究者はそれを発展させて自らの業績も増やそうとします。その為に再現実験を行ったり、元の学術論文が正しいという前提の下で発展的な研究を進めたりします。
従って、元の学術論文に嘘や間違いが含まれていれば、それは遅かれ早かれ学問体系として矛盾を生じます。この様にして「科学では誤りが訂正されていく」のです(但し、法律的・社会的な罪と罰に関しては、また別の話です)。

こうした「査読」の厳しさは雑誌によって異なります。有名どころの雑誌ほど掲載される為のハードルが高く、それが雑誌のステータスにもなっています。つまり、いやらしい言い方をすれば「論文の価値はどの雑誌に載ったかで決まる」とも言えます。
しかしながら学術論文の真の価値は「どれだけ学問や社会の発展に貢献したか」で決まるものでしょう。これは「後に続く研究者にとってどれだけこの論文が参考になったか」と言い換える事も出来ます。つまり「どれだけ後発の論文に引用されているか」を調べれば論文の価値を間接的ながら評価できる事になります。これを応用して雑誌ごとに引用の頻度を数値化したものが「インパクト・ファクター(IF)」です。これは「その雑誌に載った論文が平均してどのくらい引用されたか」を示したものですから、同じ研究分野で比較する限り、この数値が高い雑誌ほど影響力が強いと言えます(喩えるならばトラックバックの数でブログをランキングするようなものでしょうか)。IFは「ある程度恣意的に上げる事が出来る」という指摘もありますが、雑誌の評価をするうえで有力な指標である事には間違いありません。

ここでIFの上げ方について触れます(kikulog投稿時には「興味のある方は方法を考えてみてください」とだけ書きましたが、折角ですのでもう少し詳しく述べます)。例に挙げた「トラックバックの数でブログのランキングが決まる」ような場合に、恣意的にランキングを上げたければ、何人かの仲間を募ってどんどん相互にトラックバックをし合えばランキングは上がります。これと同様に何人かの研究者が協力して、新しい論文を書く度にお互いの論文を引用し合えば、その分だけIFを上げる事が可能になります。これは大規模に行うほど有利になりますので、多くの研究者を抱える研究室ほど有利という事になります。
但し、論文の引用が恣意的に行われているかどうかの判定はなかなか困難です。同じ分野の研究者であればお互いに引用し合う事はむしろ自然であると言えるからです。逆にこの事から、研究者の少ない分野で頑張ってもなかなかIFが上がらないという弊害がある事も推察できます。ですから、異なる研究分野では単純にIFを比較出来ないのです。

以上をまとめると、IFは論文を評価するのに有用な指標ではありますが、過信は禁物です。いわゆる「IF至上主義」に陥らない様な注意が必要です。

技報に関しては、以上の点を踏まえれば「技報は形式的に見ただけでも学術論文とは言えない」点がご理解頂けると思います。「技報」は松下電工自身が出している文書であり、専門家による客観的な査読が掲載条件である学術雑誌とは異なります。もし「技報」が学術雑誌であろうとするならば、最低でも以下の2点を満たしている必要があります。
1)投稿規定が整備され公開されていること(勿論査読付きで)。
2)原則として投稿者に制限を設けないこと。
これらを満たした上で地道に良い論文を載せ続けていけば、学術雑誌として認められるようになるでしょう。

この項のまとめ:
査読の無い論文は、ただの論文だ」(森山周一郎の声でお読みください)


3.「学術論文」に求められる内容

さきに述べた通り、学術論文に求められるものは「客観的証拠」「論理的推論」「新しい知」の3つです。これを実際に論文を書き、出版する立場から見てみると、以下の4点にまとめ直せます。どこにどの要素が含まれているのかを、考えてみるのも良いでしょう。
なお4)に挙げた「話題性」は、kikulogにおいて田部勝也さんから頂いたご意見に基づき書き加えたものです。
1)新規性
2)論理性
3)再現性
4)話題性
最初の3つを一つでも満たさないものは、少なくとも私は学術論文として認めません(おそらく査読も通らないでしょう)。また4)を十分に満たしていないものは編集部からかなり冷たく扱われるでしょう。更に、これらの他に、ややマイナーな条件として「過去の知見に立脚しているか」というものも考えられますが、これは他の論文を適宜引用する事で実現できると思います。

では1つずつ解説していきます。まず「新規性」は比較的解り易いでしょう。これまでになかった新しい知見、あるいはこれまでの知見の延長上でも構わないので、そこに何かしら新しい事を付け加えられる、それが必ず求められます。何も新しい事が含まれていなければ、わざわざ学術論文にして世に問う必要はありません。但し「これまでに知られている事をまとめて解り易く解説する」という内容の記事も学術雑誌に載る事がありますが、それは「総説」といって「学術論文」とは別のカテゴリになります。

2つめは「論理性」です。勿論、全体として論理が破綻していないのは絶対条件ですが、説明が言葉足らずな為に読んだ人が「どうしてそんな結論になるんだ」と思うようでもダメです。充分な量のデータとそこから導かれる結論を論理的に述べなくてはなりません。また論文の書式(表現形式や使用単位、文章の長さ等を含みます)が雑誌側の求めている形式に合致している必要があります。

3つめに「再現性」です。これが実は非常に重要です。と言いますのは「論文を読んだ他の研究者が同様の条件で観察・調査・実験(再現実験)を行えるかどうか」にかかってくるからです。学術論文は、それを読んだ人が研究内容(観察・調査・実験)の再現を行えるように、条件を過不足無く書かなければなりません。何故なら、それにより第三者による研究内容の検証が可能になるからです。また、それを公表する事で(再現による検証が実際に行われるかどうかは別にしても)「不審な点があれば、どなたでも検証して頂いて構いませんよ」という風に、自らの研究結果に責任を持つという態度が示せる訳です。

最後は「話題性」です。ここまでの3点は純粋に学術的な見地からの必要性ですが、この「話題性」はどちらかと言うと社会的な要請と言えるでしょう。
学術雑誌の編集部は、掲載論文が社会に受け入れられるかどうかに注意を払います。ここで「社会」とは狭義では同分野の研究者であり、広義には世間全体を指します。つまり「同分野の研究者が検証したり発展させたりしたいと思う内容なのか」とか「世間が興味を持つか」という観点が掲載の可否判断に影響を与えます。俗な見方をすれば「研究者に受け入れられれば雑誌のステータスが上がる」し、「世間が興味を持てば売れ行きが上がる」とも言えます。
但し、ここで注意すべきなのは「編集部は論文の『正しさ』を保証しない」という点です。論文に全くの嘘を書くのは論外ですが、それ以外にも実験のミスや研究者の思い違いなど様々なエラーの可能性があります。しかし編集部は、論文を読んだだけでは判明しない間違いには責任を負いません。ですから、学術雑誌への学術論文の掲載は、決して正しさのお墨付きを与えるようなものではありません。むしろ「正式に学問の土俵に乗った(スタートラインに立った)」という風に捉えるのが妥当でしょう。

ここで、「技報」が最初の3点を満たしているかどうかを見てみましょう。
「新しい機器(ドライヤー)を開発し従来よりも高性能であった」というだけであれば、技術的に見て「新規性」を満たしているとしても良いでしょう。ところが「論理性」についてはかなり問題があります。勿論「nanoeイオン」という「定義のはっきりしないもの」を題材にしているのが最大の問題なのですが、その点を別にしてもなお、論理性には疑問が残ります。具体的には後でまた述べますが「新しいドライヤーの技術」と「毛髪への効能」を一つの論文で一辺に述べようとしている点が問題です。その意味では、ちがやまるさん(引き合いに出して申し訳ありません)がkikulogの「ナノイーイオンの効果」エントリの#777に書かれた
>新しい水分補給法を製品に取り入れた、という報告に、なぜ効能試験の話題をちょこっとはさむかなあ、というところが謎です。
という感想は、簡にして要を得たものなので、実に趣があります。
最後に「再現性」ですが、ドライヤー自体が市販されているので、再現実験は可能でしょう。しかしながら実験結果の提示に問題がありますので「同様の結果が得られたかどうか」の検証は困難であり、再現性にも問題ありと言わざるを得ません。この点に関しても、後で再度述べたいと思います。


4.「学術論文」の形式

雑誌により細かな差異はありますが、学術論文は概ね以下の形式で書かれます。また、これらの他に冒頭に概要(アブストラクトと言い、全体の簡潔なまとめの事です)が付く事もよくあります。読む側からすればアブストラクトが付いている方が有難いです。
1)序論(はじめに)
2)対象と方法
3)結果
4)考察

順番に見ていきましょう。まず「序論」では「論文を書くに至った動機」と「これまでに知られていること」を書きます。勿論、動機と言っても「有名になりたかった」とか「お金が欲しかった」というような意味の動機ではありません(そういう動機で論文を書いても勿論構わないのですけれど、論文の中にそれを書くべきではありませんね)。ここで求められるのは「学問的な動機」です。つまり「これまでの様々な研究でここまでは解っているけれど、ここをもうちょっと調べたら新しい事が見つかるかもしれないので、調べてみました」というような内容を書きます。

次の「対象と方法」では文字通り研究の対象と方法を記載します。前回も書きましたが、ここを読んだだけで、お金や手間、技術や設備等の条件さえ整えば、同様の研究を再現して検証出来るように書かなければいけません。対象が自然現象や災害、大規模な社会現象である様な場合には、研究者の手で再現するのは困難ですが、そうした場合でも観測条件や調査方法等を明確に示しておけば、将来同様の事例が発生した時に類似のデータが得られるかどうか、という形で検証が可能になります。

「結果」には研究や実験の結果得られたデータを記載します。データは客観的で具体的な事実でなくてはなりません。データから導かれる結論は「結果」ではなく「考察」のところに書きます。ここで、官能試験のように「人がどう感じたか」という実験の場合は、結果に客観性を持たせるのが難しいので、その為の重要なテクニックとして二重猛犬砲、もとい、二重盲検法があるわけです(ちなみに、完全に余談ですが「二重猛犬砲」とはkikulogの「ナノイーイオンの効果」エントリにおいてcomさんが記した「ATOKの誤変換」ですが、大変に単語のインパクトが強く、初めて目にした時は「ケルベロス」と「タイガーロイド」を合体させたようなものを想像してしまいましたので、今でも良く覚えています)。
さて、二重盲検法の内容については長くなるので簡単に述べますが、要するに「気のせい」や「思い込み」を排除する為の方法です。水伝を例にすれば、どちらの瓶に「ありがとう」「ばかやろう」が書かれているのか、水さん本人(?)以外に誰も知らない状態で、結晶の形だけ見てどちらの瓶に「ありがとう」と書かれているのか、偶然を越える確率で見分ける事ができるか、というようなやり方です。「誰も知らない」という点が最も重要で、より正確に言えば「実験を実施する人」と「実験の対象になっている人」のどちらも知っていてはならないのです。
もう一つ例を挙げるならば、新薬の臨床試験では新薬を与えた群と偽薬(外見はそっくりだが何の薬効も無いもの)を与えた群との間に統計的な有意差が出るかどうかを調べるのですが、その際にも「薬を投与した前後の変化を観察記録する人」と「薬を投与される人」の両方とも、どちらが本物か偽物かを知っていてはならないのです。このように「両方が」知らずに実験するという意味で「『二重』盲検法」と呼ぶ訳です。
それから「サンプルサイズ」も重要です。数が少ないと偶然により極端な結果が出やすいので、ある程度多くの数を集める必要があります。データ数が多いほど偶然である可能性は低くなりますが、具体的にどのくらいの確率であるかを調べる為に統計的手法を用います。ここで「統計的手法は確率を示すだけで、結果を保証するものではない」点に注意すべきです。「確率が少ない」と「確率がゼロである」はイコールではありませんが、どれほど珍しい事柄であっても偶然に生じる確率は厳密にはゼロになりませんので、便宜上この2つを近似であるとしているのです。

つまり「科学的手法」とは決して「真理かどうかを認定する」ようなものではなく、常に「一定の確からしさを持って『本当らしい』という推測をする」ものであり、そうした手法を丹念に積み重ねていく事によって少しずつ「確からしさの程度(確率)」を上げていくというものです。ですから現在「科学的真理」とされているものは、カッコイイ言い方をすれば「これまでの人類の膨大な知の営みの中で繰り返し検証され、限り無く100%の近くまで確からしさが高められたもの」と言えます。ただ数学的な意味で100%になる事は決してありえないので、この辺にニセ科学が付け入るスキがあると言えばあるでしょう。

最後に「考察」には「結果」から論理的に導ける内容を書きます。つまり「結果」は事実であり「考察」は事実に基づく推論という位置付けになります。今回の研究で解らなかった部分、あるいは最初から対象にしなかった部分は正直にそのように述べるべきですし、判明しなかった部分に関して推測による仮説を述べても構いません。更に「それらの推論や仮説を検証していく為に今後どの様に研究を進めていくべきか」まで述べてあれば、更に望ましいです。

以上をまとめますと、学術論文とは、まず目的を明らかにし、次に研究方法を正確に示し、その結果は事実のみを推測が混ざらないように記し、最後に自らの見解を述べるというものです。このやり方は論文に限らず、何らかの調査研究的な行為を行おうとする際には原則とすべきものでしょう。
その際に重要なのは4つの論点の分離です。これをきちんと行う事により「目的と手段の混同」とか「事実と推測の混同」などといった、ありがちな誤りを回避しやすくなります。逆に言えば、学術論文のような体裁をとった文章であっても、この辺をわざと曖昧にしておけば、読む人をミスリードするという悪用も可能になる訳です。


5.おまけ(学術論文と学会発表との違い)

余談ですが「学術論文と学会発表との違い」についても少し述べておきます。より詳しくは、改めて別記事で述べる予定ですが、タイムリーな話題ですので。
一般的に、学会発表には査読は無いか、有っても簡便なものです。ですから、その信頼性は学術論文に比べれば大きく低下します。言うなれば学会発表は「学術論文にするほど固まっていないネタ」を出すものです。そして、それによって他の研究者の意見を聞いて研究を進めて論文化を目指したり、あるいは逆に他の研究者を牽制するという効果を見込んで発表する場合もあります。
従って、通常は学会発表は正式な業績とは認められません。業績として認められるのは学術論文だけです。
話題に乗って、もう少し申し上げます。学会発表には大きく分けてポスター発表と口頭発表がありますが、別にポスター発表の方が口頭発表よりも劣るという事はありません。読売新聞は「森口尚史氏がiPS細胞の臨床応用を捏造したとされる事件」において大誤報をやらかしました。誤報を認めて検証するとした姿勢は評価できますが、検証したはずの記事において
「ポスター発表<<<<<<口頭発表<論文」
と取れるかの如き記述があるのは、全くいただけません。こんなレベルの記事しか書けないから、嘘吐きに騙されてしまうのではないでしょうか。私の感覚からすれば
「ポスター発表≦口頭発表<<<(越えられない壁)<<<論文」
くらいの感じです(Twitterでこの様な指摘を頂きましたので、こっそり追記しておきます。上記の記載は自然科学分野での話です)。
ついでにツッコんでおきますと(これも激しく既出だとは思います。たとえばこちらのまとめなど)、タイトルにもなっている「簡易論文」とは何でしょうか。いや、何となく意味は解る様な気もしますが、しかし「簡易論文」とは正式な用語ではないですよね?おそらく読売新聞の造語でしょう。それを、何の説明も無くタイトルにまでしてしまうとは・・・
結局、今回の記事は、図らずも(本人達の意図とは全く別の角度において)「何故騙されたか」の理由を示した記事になっていると言えるのではないでしょうか。

さて、ニセ科学を商売のネタにしようとする人達は時々「学会も認めた効果!」などという煽り文句を出したりしますが、良く聞くと実は「学会で発表したというだけ」だったりします。それを「学会も認めた」と言ってしまうのは、ごく控え目に申し上げても「誇大広告」です。


6.謝辞

今回の御礼は勿論、kikulogを運営なさっている菊池誠さんと、Interdisciplinary を運営されているTAKESANさんに申し上げます。なお、私が本記事の元になった文章を書かせて頂いたのは、以前のInterdisciplinary です。

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9 件のコメント:

  1. TAKESANさんからトラックバックを頂きましたので、TAKESANさんの記事の方にコメント致します。

    また、例によって、はてブコメを頂いています。
    http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fpseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com%2F2012%2F10%2Fs02-04.html
    常にお返事するのは難しいので(当然ながら)ブコメを頂く毎にお返事するともお返事出来るとも申し上げられませんが、とりあえず今回は幾つかのブコメにお返事申し上げたいと思います。

    >id: locust0138 さん
    >似たような内容で書いたことがある。もっと攻撃的だが。http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20120426/1335451869/トンデモさんに論文を提示しろとか書けとか言って嫌われた経験が大いにある。無理なことは最初から承知だが。<

    拝見しました。確かに、いささか攻撃的ですね(笑)一方、私の今回の記事に関して言えば、ニセ科学の提唱者や信奉者に向けたものというよりは、そういう人達の主張を聞かされた場合に「どうやれば眉に唾を付けられるか」の一端を示したくて書いたものだと御理解ください。

    >id: eurisko1 さん
    >良記事です。 一点のみ確認。査読者は編集部と契約していないのが普通では? 無償での献身としてやっているものでは(Editorial Boardの事なら失礼)。<

    「契約」という言葉の意味に掛かる御意見と理解しました。次のarakik10さんへのお返事が答えになっているかと思いますので、お手数ですがそちらを御覧ください。なお、予め申し上げておきますが、私はeurisko1さんが失礼であるとは全く考えておりません。

    >ik: arakik10 さん
    > 査読に関し「ピア・レヴュー」という用語が出ていない。査読者は編集部と通常「契約」は交わさない(「契約」が無定義語なので真意は不明)。ちゃんと調べて書かれたものになっていないように思われる。<

    まず「ピア・レヴュー」という用語について。確かに私の文章には出ておりません。しかしだからと言って「ちゃんと調べて書かれたものになっていない」とまで言われるのは残念です。ひとつ言い訳をさせて頂けば、この文章の対象読者は「論文を書いた事も読んだ事も無い人」であり、また「私の能力の及ぶ範囲内で書いていますので、おかしな点があればツッコミや訂正も歓迎」です。その事は、これを最初に書いたkikulogのコメント
    http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1161050666#CID1187701605
    では述べましたが、確かに今回の記事には載っておりませんね。
    その点を踏まえたうえで再度言わせて頂ければ「ピア・レヴュー」という用語も説明した方が良いけれども、必須ではない」と考えています。もしかしたら「アクセプト、リバイス、リジェクト」そして「インパクト・ファクター」といった用語は記載してあるのに「ピアレヴュー」が無いのはアンバランスだとお考えなのかもしれません。しかし、私が前者の用語群を使用したのは、適切な訳語をあてるのが難しいからです。例えば「アクセプト」は「受理」だと単なる受け取りとの区別が難しいですし「受諾」だとまたニュアンスが異なります。「リバイス」を「書き直し」とすると舌足らずな感じがしますし、「リジェクト」を「掲載拒否」とすると、何だか意地悪をされている様な気分になります。増してや「インパクト・ファクター」に対する適切な訳語を私は存じません。
    勿論これらは、それこそ私が「ちゃんと調べていない」から知らないだけかもしれません。もし適切な訳語を御存知であれば、御教示願いたく存じます。
    とは申しましても、確かに「ピア・レヴュー」という用語に関しても触れた方が親切ですね。その部分は本文に追記する様に致します。

    次に「契約」という単語についてです。arakik10さんは「無定義語なので真意は不明」と書かれています。しかしながら、契約という単語は日常会話でも出てくる言葉、即ち一般的な単語です。専門用語ならいざ知らず、一般的な単語を無定義で使っている場合には「一般的な意味に従っている」と解釈するのが自然なのではないでしょうか。もし、そうでないとすれば、私はもう、怖くて文字によるコミュニケーションなど出来なくなってしまいます。

    そこで、辞書的な意味を調べてみます。Web上で検索が可能な「大辞林」の結果を見てみましょう。
    http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%B7%C0%CC%F3&dtype=0&fr=YJ_MY_MOD&ei=euc-jp
    >[1]〔専門〕 法 私法上、相対する二人以上の合意によって成立する法律行為。債権の発生を目的とするもののほか、身分上の合意や物権的な合意も含まれる。典型契約・非典型契約・混合契約、有償契約・無償契約、諾成契約・要物契約等に区分される。また、より広く合同行為も含めた、複数の意思表示によって成立する法律行為を意味することもある。
    >[2]約束をかわすこと。また、その約束。
    >日来(ひごろ)の―をたがへず、まゐりたるこそ神妙なれ〔出典: 平家 2〕
    >[3]ユダヤ教・キリスト教における神の特別な意志。また、それによって結ばれた神と人との関係。イスラエル民族に対しモーセを介して立てられた契約(旧約)においては、神はイスラエルの民を自分の民として選び、律法の厳守を命じた。イエスを通じて立てられた契約(新約)においては、神への信仰によって罪のゆるしが約束され、イエスの十字架上の死がそのしるしとされる。

    ここで[3]の意味ではないのは明らかです。そこで残り2つの意味を順番に見ていきましょう。最初に出てくるのが法律用語としての意味ですが、その意味での「契約」に関してはWikipediaに比較的詳しく書いてありますので、詳しく知りたい方はそちらを読んで頂くのも良いと思います。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84
    但し、そこまで読まなくても構いません。ここで大切なのは「有償契約・無償契約」という区分が存在する事です。つまり、狭義の契約(民法上の典型契約)に限った場合でも、契約には有償の場合と無償の場合とがあるという事です。そしてまた、契約には「諾成契約・要物契約」という区分もあり、諾成契約とは当事者間の合意のみで成立する契約の事です。この場合(も)契約書は必須ではありません。一般的に、口頭でも契約は成立します。但し、それでは第三者に契約の存在を証明する事が困難なので、通常は契約書を作成する訳です。
    そうしてみると、査読者と編集部との間で交わされるのが「無償契約」かつ「諾成契約」であると考えれば全く矛盾しません。

    以上が[1]即ち法律用語として「契約」の意味を解釈した場合です。続いて[2]の意味を見てみましょう。大辞林では「約束をかわすこと。また、その約束」とあります。この意味であれば尚更、本文中の使い方には何ら問題が無い事になります。

    以上2点「ピアレヴュー」「契約」について説明致しました。arakik10さんは、この2点だけを以て「ちゃんと調べて書かれたものになっていない」と評価されたのでしょうか。だとすれば、ある程度はお返事になったかとは思います。
    また「ピアレヴュー」に関しては、例えばWikipediaの「査読」の項にも「ピア・レビュー」という読みで載っています(但し、ピアレヴューを単なる「査読の和訳」としてしまうのは狭義に捉え過ぎだとは思いますが)。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BB%E8%AA%AD
    という事は、もしかするとarakik10さんの評価とは「Wikipediaに載っている程度の事すら調べていない」という意味なのでしょうか。
    仮にそうだとして、そうであるという前提の下で、敢えて申し上げるならば「arakik10さんのブコメは『契約』の意味をちゃんと調べて書かれたものになっていない様に思われます」。

    さて、そうは申しましても、eurisko1さんも「契約」を専ら「有償契約である」とお考えでいらした様に見受けられます。これはおそらく、我々が日常で出会う明示的な「契約」の多くが有償契約であるからでしょう(本当は必ずしもそうではないのですが)。ですから帰納的な推測に基づき「契約≒有償契約」とお考えになったのかもしれません。増してや今回は「編集部との契約」ですから「有償契約」とお考えになるのも無理からぬ事ではあるとも思えてきます。
    そこで、契約という単語はそのまま残しますが、その後に説明を付け加える事に致します。即ち「契約には有償のものと無償のものがある事、査読者は無償で行う場合も多い事」の2点を記す様にします。

    返信削除
  2. こんばんは。
    ブコメに御返事いただき有り難うございました。
    私が「契約」について疑問に感じたのは、査読をした際に私の経験上出版社と「契約」を交わすことはないと思ったからです。
    私が査読依頼を受けるときは、面識もないか、あっても挨拶する程度などの関係のEditorial Boardから突然メールなどで依頼され(この依頼文面にも契約などとは書かれておらず、通常あなたの意見を聞きたいなどと書かれており、査読しても良いかどうかをyes/noを選択する形式)るのみだからです。そこには契約・約束の言葉は何らありません。雑誌の出版社と契約のうえ査読していることはありませんし、Boardとも査読に関し、なんら契約していないです。自分の所属していない学会誌からも依頼されますので、学会会員の身分に縛られて依頼されてわけでもありません。
    ですので、査読に際しては自分は契約していないと考えています。査読をyesと答えたら契約なんでしょうか。

    査読はボランティアで、期日までに査読結果を出さないと、もう結構ですといわれると聞いています(私は小心者なので幸いそのようなメールはもらった経験はありませんが)。契約ではありませんので、しつこく違反を責められることもなく淡々と事務作業が進められすようです。
    私の経験が偏っているのかも知れませんが、私も分野は違いこそすれ医師で、PseuDoctor先生と近い世界にいるのではないかと思っていたのですが、専門領域により違うのでしょうか。

    査読は無償の献身であったほうがよろしいかと思います。
    まあ、お礼もメールでthank youと書いてあるか、せいぜいクリスマスカードが来る程度なんですが。

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  3. しつこくすみません。
    契約という言葉がどうしても自分の中ですわりが悪くて。
    私は査読は、学問への義務と言っていただいた方が落ち着きます。
    勿論、依頼依頼ににyesボタンを押す事により契約が発生するのだと言われるとそうなのかも知れませんが。

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    1. >eurisko1さん
      いらっしゃいませ、コメント有り難うございます。

      仰る事は、感覚としては理解できます。本文にも「無償のボランティアである場合も多い」旨を追記しておきました。
      ただ、私がかつて契約という言葉の意味を調べた際には、調べれば調べるほど、この言葉の指し示す内容が広範に渡っている事を実感する様になったのも、事実です。
      例えば「自動販売機でジュースを買う事」も、立派な「売買契約」の一種ですし、査読に関して言えば「査読をしてくれますか?」に対して「いいですよ」と意思表示をする事で、契約が成立します。たとえ報酬も罰則もなかったとしても、やはりそれも契約の一種である事に違いはありません。

      これは推測ですが、おそらくeurisko1さんは、何と言いますか、契約という言葉の持つ「束縛する/される感」みたいな部分に違和感を感じておられるのではないかと思います。
      あるいは、学問の発展の為にボランティアで行っている行為に関して、ある意味では生臭い(又は逆にドライな)言葉とも受け取られかねない「契約」という言葉を用いる事に、抵抗をお感じなのかもしれません。
      もし、その様にお感じなのだとすれば、それはeurisko1さんが学術に対して純粋な気持ちで向かい合っている事の証左だと考えます。

      ですので「契約」に関しては単語に対する感覚の違いと申し上げるしかないのですが、もし上に書いた推測が多少なりとも当たっているとすれば、eurisko1さんの学問に対する姿勢は、尊敬に値すると思います。

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  4. 早速お返事有り難うございます。
    私はそんな大した姿勢で査読しているわけではありません。むしろ若造に盆暮れ、クリスマスにここぞと査読の山を送ってくる雑誌にはいいかげんにして欲しいと怒ったりもしています。 
    それはさておき、私の違和感について、整理していただいたので少しコメントさせていただきます。
    契約という表現で私が落ち着かないと感じたのは、査読者の中立性について疑義を呈する状況がでるのではないかと思ったからです。
    雑誌社、編集者、board memberなどに左右されて査読していると思われたら困ります。(この中ではboardが、いわゆるえらい人なので特にそう思って欲しくないです。)
    こちらのエントリーは科学論文が投稿後どの様に処理されるかについてのものですので一般の皆様に、少しでも誤解があるといけないと強く思った次第です。科学者の良心を信じろといっても、無条件では信じてもらえないご時世の様なので、、
    以上長々失礼いたしました。ありがとうございました。

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    1. なるほど「査読者の中立性」ですね。確かにその視点は、あまり無かった様に思います。あくまで査読者は学問の為にやっているのであって、雑誌やお偉いさんの為では無いという事ですね。
      解りました。その点が解る様に追記致しましょう。

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  5. 本記事は2012年10月21日以来の更新となります。
    2012年10月21日に何箇所か書き改めた部分に関しては、変更箇所が複数に渡るので個別には示しませんでした。このコメント欄と、トラックバックを頂いているTAKESANさんのブログを御覧頂ければ、ある程度は解るかと思います。

    さて今回の更新に関しては(間接的ではありますが)STAP細胞騒動を受けてのものです。科学に馴染みの薄い方々の、あの騒動に対する反応を見ていて「論文」に対する説明(特に一般用語としての「論文」と科学分野に於ける「論文」との違いについて)が必要だと思いました。その点を中心にして大幅に追記してありますので、お読み頂ければ幸いです。

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  6. >二重猛犬砲

    らめえええぇぇぇぇぇっっ!

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    1. >comさん
      いらっしゃいませ。
      コメントの公開が遅くなって申し訳ありません。

      さて、二重猛犬砲は私の大のお気に入りです(^^)
      他所では(なるべく)使わない様にしますから、ここに載せておくのだけはどうぞ御容赦くださいm(_ _)m

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