初回公開日:2011年05月25日
最終更新日:2017年08月17日
1.ニセ科学とは
ニセ科学の定義に関しては、ニセ科学批判Wikiの中にも書きましたので、そちらを見て頂いても良いですし、そのWikiを参考に書かれたはてなキーワードを参照頂くのも良いと思います。でもまあ、折角ですから、ここではもう少し噛み砕いた説明を試みてみましょう。
ニセ科学の定義に関しては、ニセ科学批判Wikiの中にも書きましたので、そちらを見て頂いても良いですし、そのWikiを参考に書かれたはてなキーワードを参照頂くのも良いと思います。でもまあ、折角ですから、ここではもう少し噛み砕いた説明を試みてみましょう。
ニセ科学とは「科学ではないのに科学を装っているもの」です。つまり「科学ではないもの」の中で、特に「科学を装っているもの」をニセ科学と呼ぶのです。
これはタイトルにも書いた様に「一応の」定義です。ですから、ニセ科学と呼ばれているものを違う名前で呼んでも構いません。別に「ニセ科学」という言い方にこだわる必要はなく、疑似科学でも似非科学でもウソ科学でも、好きな様に呼べば良いのです(そう言えば「コミックサイエンス」なんてのもありましたねぇ(遠い目))。
但し、ここで述べています通り「ニセ科学」という用語に関しては、既にある程度、意味内容の検討が為されています。ですから、敢えて別の用語をお使いになるのであれば「自分がその用語を選択した動機や、その用語に込めようとした意味」などについても、多少は意識して頂きければ、と思っています。
もし、自分が使っている用語の意味内容について全く無頓着になってしまうならば、その場合には、もはやまともな議論は望めなくなってしまうでしょう。
そう、例えば「メルトダウン」という言葉の様に。
更に、この定義を使うにあたっては、幾つかの注意点がありますので、以下の2.と3.で述べます。
2.ニセ科学の定義は実態に合わせて決められた
但し、ここで述べています通り「ニセ科学」という用語に関しては、既にある程度、意味内容の検討が為されています。ですから、敢えて別の用語をお使いになるのであれば「自分がその用語を選択した動機や、その用語に込めようとした意味」などについても、多少は意識して頂きければ、と思っています。
もし、自分が使っている用語の意味内容について全く無頓着になってしまうならば、その場合には、もはやまともな議論は望めなくなってしまうでしょう。
そう、例えば「メルトダウン」という言葉の様に。
更に、この定義を使うにあたっては、幾つかの注意点がありますので、以下の2.と3.で述べます。
2.ニセ科学の定義は実態に合わせて決められた
まず、この定義は「先に定義を決めておいて、その定義に当て嵌まるものをニセ科学と呼んで批判している」のではありません。そうではなくて「これはどう考えてもニセ科学だろう」という個別の事例を幾つも集めてきて見比べてみたら、共通点が見い出せた。その共通点を端的に示したのが、上記の定義だという訳です。
その意味では、これは定義と言うよりはむしろ「ニセ科学という言葉を説明したものである」と考えた方が解り易いかもしれません。
3.ニセ科学を定義する事の難しさ
3.ニセ科学を定義する事の難しさ
次に、定義自体の曖昧性があります。これは更に3つに分けられます。
1つ目は「科学である/ない」という判定は必ずしも容易ではない点です。この難しさに関しては、既にS01-01の記事で触れています。そしてその中で「科学と非科学の境界が明確でなくても、明らかに非科学であるものを決める事は出来る」という意味の事を書きました。この点に関しては、後ほど具体例を挙げます。
2つ目は「装う」という言葉の難しさです。どういう条件を満たせば「装っている」とみなせるのでしょうか。ここで私は、条件を厳しめに設定したいと思います。何故なら、私がニセ科学を批判する主要な目的の中に「ニセ科学の蔓延による社会への悪影響を少しでも減らしたい」というものがあるからです。
具体的には「科学を装う意志があるとみなせる」あるいは「科学だと誤認してしまう人が無視出来ない数で存在する」の、いずれか片方を満たした時点で「科学を装っている」と判断します。
3つ目は、1つ目と2つ目の複合型です。「科学である/ない」は、真っ白から真っ黒まで連続したグラデーションを形成しています。その場合に「科学ではないのに科学を装っている」というのは、典型的には「真っ黒なものを真っ白と言い張る」事ですが、必ずしもそれだけではないのです。
「真っ黒なものをグレーと言い張る事」や「グレーなものを真っ白と言い張る事」もニセ科学に含まれると考えます。実際には真っ白と真っ黒の間は連続的に無段階に変化しているので「明らかに濃いグレーを明らかに薄いグレーと言い張る」など、無数のバリエーションがあり得ます。
という訳で、冒頭に述べたニセ科学の定義は「実態と主張(もしくは見掛け)との間が、明らかに掛け離れているもの」と言い替える事も可能だと考えます(もしかしたらこちらの定義の方がより正確かもしれませんが、逆に表現としては解り難くなっているきらいもありますね)。
そして、いずれの定義を使った場合でも、ニセ科学かどうかの判定に際しては、個々の具体的な例に応じて判断する必要があります。
3つ目は、1つ目と2つ目の複合型です。「科学である/ない」は、真っ白から真っ黒まで連続したグラデーションを形成しています。その場合に「科学ではないのに科学を装っている」というのは、典型的には「真っ黒なものを真っ白と言い張る」事ですが、必ずしもそれだけではないのです。
「真っ黒なものをグレーと言い張る事」や「グレーなものを真っ白と言い張る事」もニセ科学に含まれると考えます。実際には真っ白と真っ黒の間は連続的に無段階に変化しているので「明らかに濃いグレーを明らかに薄いグレーと言い張る」など、無数のバリエーションがあり得ます。
という訳で、冒頭に述べたニセ科学の定義は「実態と主張(もしくは見掛け)との間が、明らかに掛け離れているもの」と言い替える事も可能だと考えます(もしかしたらこちらの定義の方がより正確かもしれませんが、逆に表現としては解り難くなっているきらいもありますね)。
そして、いずれの定義を使った場合でも、ニセ科学かどうかの判定に際しては、個々の具体的な例に応じて判断する必要があります。
4.「実態と主張との解離」の具体例
前述した「実態と主張との解離」について、幾つか例を挙げます。
まず「真っ黒なものをグレーと言い張る例」です。
典型的なのは「血液型性格判断」です。血液型と性格との関係は「たとえ考えうる限り最大限大きく見積もったとしても、個人の性格判断に使えるほど強いものではない」という事が、大規模な調査により繰り返し確かめられています。従って、実用的な意味での「血液型で性格が解る」という主張は、完全に否定されていると言えます。しかしそれでも信奉者の中には「全く関係が無いとは言い切れない、良く調べれば少しは関係が見い出せるかもしれない。だから血液型性格判断も否定されるべきではない」などと言う人も居ます。勿論これは詭弁なのですが「無いとは言い切れない、だからあるという意見にも一理ある」という主張は時々目にします。
こうした主張を許してしまえば、単なる思い付きレベルの与太話でも「言ったもん勝ち」になってしまいます。たとえ荒唐無稽な主張であっても、自信たっぷりにこう言い放てば良いのです。
「私の主張を認めない現代科学の方がむしろ遅れているのであり、私のレベルに追い付けていないのだ。いずれ科学が更に発達すれば、必ずや私の主張が正しかった事が証明されるであろう。しかし今は未だその時ではない。頭の固い科学者どもは自らの既得権益を守るのに精一杯であり、革新的なアイディアに目を向ける余裕など無いのだ」
なんてね。
こういう言い方は殆どテンプレ化しているので、覚えておかれると良いでしょう。
次に「グレーなものを真っ白と言い張る例」です。
例えば、健康食品などで、培養細胞や動物実験でのデータしかないのに「効果が実証された」だの「学会も認めた」だのと宣伝する場合です。薬事法の規定により、通常の健康食品は効能・効果を謳う事が出来ません。但しこれは薬事法の規定がなくても当たり前の事であり「効果が無い、もしくは効果が不明なものを、効果がある様に言ってはならない」という当然の決まりです。
しかし売る方も商売ですから、何とかして効果があるかの様に思ってもらいたい訳です。かくして、イメージ先行、体験談のみ、専門家のオススメ、等の宣伝が氾濫するのです。
5.詐欺との類似
こうした「実態と主張との解離」は、科学の分野でなくても、詐欺の場合によくみられます。典型的な詐欺のひとつに「価値の無いガラクタを骨董品と称して高値で売り付ける」行為がありますが、これは「真っ黒なものを真っ白と言い張る」例であると言えましょう。
もう少し巧妙になると、全くのガラクタを「もしかしたら価値があるかもしれない」と相手に思わせて売り付ける、という手もあります。これは「真っ黒なものをグレーと言い張る」例です。
一方で、投資詐欺によくあるのが「確実に儲かる」などと言って未公開株などを売り付ける手法です。確かに、儲かる可能性がある場合もあります。しかし「実際に儲かる可能性があったのだから、詐欺ではない」という言い分は通用しません。つまりこれが「グレーなものを真っ白と言い張る」に相当します。
この様な詐欺との類似を強調したい場合には、ニセ科学の代わりに「詐欺科学」という呼称を用いるのも良いかもしれませんが、少し名称が刺激的過ぎるかもしれません。
6.「反証可能性を持つものは科学である」と言えるのか?
さて、上で書いた通り「科学である/ない」の話も、もう少ししましょう。
前述した「実態と主張との解離」について、幾つか例を挙げます。
まず「真っ黒なものをグレーと言い張る例」です。
典型的なのは「血液型性格判断」です。血液型と性格との関係は「たとえ考えうる限り最大限大きく見積もったとしても、個人の性格判断に使えるほど強いものではない」という事が、大規模な調査により繰り返し確かめられています。従って、実用的な意味での「血液型で性格が解る」という主張は、完全に否定されていると言えます。しかしそれでも信奉者の中には「全く関係が無いとは言い切れない、良く調べれば少しは関係が見い出せるかもしれない。だから血液型性格判断も否定されるべきではない」などと言う人も居ます。勿論これは詭弁なのですが「無いとは言い切れない、だからあるという意見にも一理ある」という主張は時々目にします。
こうした主張を許してしまえば、単なる思い付きレベルの与太話でも「言ったもん勝ち」になってしまいます。たとえ荒唐無稽な主張であっても、自信たっぷりにこう言い放てば良いのです。
「私の主張を認めない現代科学の方がむしろ遅れているのであり、私のレベルに追い付けていないのだ。いずれ科学が更に発達すれば、必ずや私の主張が正しかった事が証明されるであろう。しかし今は未だその時ではない。頭の固い科学者どもは自らの既得権益を守るのに精一杯であり、革新的なアイディアに目を向ける余裕など無いのだ」
なんてね。
こういう言い方は殆どテンプレ化しているので、覚えておかれると良いでしょう。
次に「グレーなものを真っ白と言い張る例」です。
例えば、健康食品などで、培養細胞や動物実験でのデータしかないのに「効果が実証された」だの「学会も認めた」だのと宣伝する場合です。薬事法の規定により、通常の健康食品は効能・効果を謳う事が出来ません。但しこれは薬事法の規定がなくても当たり前の事であり「効果が無い、もしくは効果が不明なものを、効果がある様に言ってはならない」という当然の決まりです。
しかし売る方も商売ですから、何とかして効果があるかの様に思ってもらいたい訳です。かくして、イメージ先行、体験談のみ、専門家のオススメ、等の宣伝が氾濫するのです。
5.詐欺との類似
こうした「実態と主張との解離」は、科学の分野でなくても、詐欺の場合によくみられます。典型的な詐欺のひとつに「価値の無いガラクタを骨董品と称して高値で売り付ける」行為がありますが、これは「真っ黒なものを真っ白と言い張る」例であると言えましょう。
もう少し巧妙になると、全くのガラクタを「もしかしたら価値があるかもしれない」と相手に思わせて売り付ける、という手もあります。これは「真っ黒なものをグレーと言い張る」例です。
一方で、投資詐欺によくあるのが「確実に儲かる」などと言って未公開株などを売り付ける手法です。確かに、儲かる可能性がある場合もあります。しかし「実際に儲かる可能性があったのだから、詐欺ではない」という言い分は通用しません。つまりこれが「グレーなものを真っ白と言い張る」に相当します。
この様な詐欺との類似を強調したい場合には、ニセ科学の代わりに「詐欺科学」という呼称を用いるのも良いかもしれませんが、少し名称が刺激的過ぎるかもしれません。
6.「反証可能性を持つものは科学である」と言えるのか?
さて、上で書いた通り「科学である/ない」の話も、もう少ししましょう。
科学と非科学を見分ける指標として最も有名なのは、おそらくカール・ポパーの提唱した「反証可能性」でしょう。一言で言えば「反証可能なもののみが科学である」というものです。
しかしこの概念は、時に誤解される事があります。反証可能性は、科学の必要条件ですが十分条件ではありません。言い換えれば「科学は必ず反証可能性を持つが、反証可能性を持つものが全て科学であるとは限らない」という事です。
ちょっと解り難いかも、ですね。
ベン図で考えると「反証可能なもの」と「科学」とは二重丸◎を形作ります。外側の丸が「反証可能なもの」であり、内側の丸が「科学」です。つまり、以下の事が言えます。
「科学は全て反証可能性を持つ」=「反証可能性のないものは、科学ではない」
「反証可能性があるからといって、必ずしも科学とは限らない」=「科学でないからといって、必ずしも反証不可能とは限らない」
ちょっと(かなり?)ややこしいですが、二重丸を頭の中に思い浮かべてイメージしてみてください。
この点が理解できていないと「反証可能性があるものは科学だ」などというトンチンカンな事を言い出してしまうのです(ええ、これは早川由紀夫さんの事です。もし未だに早川さんを御存じない方は、知らないままの方が幸せだと思います。でも、どうしてもお知りになりたいという方は、こちらのTogetterとこちらのTogetterの2つくらいを御覧頂ければ、如何にして私が早川さんとの対話を試み、そして見放したかが、お解り頂けるかもしれません。但し、イライラしてしまう可能性大ですので、積極的に読む事はお勧めしておりません)。
7.定義は厳密でなくても良い
タイトルにある(一応の)という語句について説明します。
最初の方でも述べました様に、この定義は「ニセ科学とされたものに共通な特徴を述べたもの」です。ですから、定義そのものについて、あまり厳密な話をするつもりはありませんし、よく考えてみると、この定義そのものが大雑把な表現であるとも言えます。
「え~、そんないい加減でいいの~?」と思われるかもしれません。でも、いいんです。定義を厳密にしすぎると、逆に議論が窮屈になります。
もう少し詳しく言うと「定義(つまり言葉の指し示す意味内容)は文脈によって変化し得る」という事です。これは、我々が使う言葉の多くで見られる現象です。つまり、語の意味内容を厳密に規定しようとすれば、必ず、その背後にある文脈(使用されている状況)を考慮する必要があります。
従って、そうした文脈を離れて一般的に定義しようとすれば、どうしても幅を持った大雑把なものに成らざるを得ないのです。
例えば「大人」という単語の定義はどうでしょうか。ざっと考えても、幾つもありそうです。
「20歳以上」「18歳以上」「結婚している人(民法上)」「社会人」「物の道理の解った人」etc...
これらの定義を文脈によって使い分けている訳です。ですから定義には幅があり、文脈を考慮しない限り、厳密に決める事は不可能です。
でも一方では、上手く言語化出来ないけれども、多くの人が「大人」という単語に対して持つ共通のイメージがあるのではないでしょうか。
まあ、何となくそんな感じだと思ってください。
ついでに書きますと、定義について厳密な議論を行なおうとすると、しばしば不毛になりがちです。純粋な学問のテーマやディベートの題材として行なうのなら良いのですし、本当はそういう議論も大いにしたいところではあります。しかし、ニセ科学に対する批判行為という観点から見ると、少なくとも現状では、あまり役に立ちそうにないのです。
8.余談
我が国で「ニセ科学」という言葉が広く知られる様になったのは、マイクル・シャーマーの著書「なぜ人はニセ科学を信じるのか」からでしょう。この邦題に「ニセ科学」という言葉を選んだのは、早川書房編集者の、阿部毅さんだそうです。で、これを見た菊池誠さんが「ニセ科学」という言葉を愛用する様になった、という流れです。
それまでに良く使われていた「疑似科学」という言葉は、SFの中では褒め言葉に使われる事もあります。ケイバーリットにせよ、バーゲンホルム機関にしても、ミノフスキー粒子にしても、よく出来た疑似科学の設定はフィクションにリアリティを与えます。その一方で、世の中には「批判すべき疑似科学」もあります。
この2つを区別する呼び方が欲しいな、と思っていた菊池さんのハートに「ニセ科学」という用語がすんなり収まった、という事なのでしょう(一部想像を交えております)。
ところで「ニセ科学」という用語そのものは、もっと昔からあったらしいです。この点について、TAKESANさん達が調べてくださった結果が、こちらのTogetterにまとめられています(TAKESANさんいつも色々と有難うございます)。
それによりますと、確認できた中で最も古いものは「哲学・論理用語辞典」(1959年2月初版1991年増補版)という事でした。初版の時点で「ニセ科学」の項目が含まれていたかどうかは不明ですが、グーグルブックス検索によれば1975年の時点で含まれていた様ですので、初版からだと看做して差し支えないでしょう。
思ってたよりも昔からあった言葉だという事にちょっとびっくりしました。
もっとも、その辞典に載っている「ニセ科学」の意味は、ここで述べた内容とは異なっており、どちらかというと「未科学」というニュアンスが強いものになっています。
何だか、歴史を感じました。とても興味深いです。
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7.定義は厳密でなくても良い
タイトルにある(一応の)という語句について説明します。
最初の方でも述べました様に、この定義は「ニセ科学とされたものに共通な特徴を述べたもの」です。ですから、定義そのものについて、あまり厳密な話をするつもりはありませんし、よく考えてみると、この定義そのものが大雑把な表現であるとも言えます。
「え~、そんないい加減でいいの~?」と思われるかもしれません。でも、いいんです。定義を厳密にしすぎると、逆に議論が窮屈になります。
もう少し詳しく言うと「定義(つまり言葉の指し示す意味内容)は文脈によって変化し得る」という事です。これは、我々が使う言葉の多くで見られる現象です。つまり、語の意味内容を厳密に規定しようとすれば、必ず、その背後にある文脈(使用されている状況)を考慮する必要があります。
従って、そうした文脈を離れて一般的に定義しようとすれば、どうしても幅を持った大雑把なものに成らざるを得ないのです。
例えば「大人」という単語の定義はどうでしょうか。ざっと考えても、幾つもありそうです。
「20歳以上」「18歳以上」「結婚している人(民法上)」「社会人」「物の道理の解った人」etc...
これらの定義を文脈によって使い分けている訳です。ですから定義には幅があり、文脈を考慮しない限り、厳密に決める事は不可能です。
でも一方では、上手く言語化出来ないけれども、多くの人が「大人」という単語に対して持つ共通のイメージがあるのではないでしょうか。
まあ、何となくそんな感じだと思ってください。
ついでに書きますと、定義について厳密な議論を行なおうとすると、しばしば不毛になりがちです。純粋な学問のテーマやディベートの題材として行なうのなら良いのですし、本当はそういう議論も大いにしたいところではあります。しかし、ニセ科学に対する批判行為という観点から見ると、少なくとも現状では、あまり役に立ちそうにないのです。
8.余談
我が国で「ニセ科学」という言葉が広く知られる様になったのは、マイクル・シャーマーの著書「なぜ人はニセ科学を信じるのか」からでしょう。この邦題に「ニセ科学」という言葉を選んだのは、早川書房編集者の、阿部毅さんだそうです。で、これを見た菊池誠さんが「ニセ科学」という言葉を愛用する様になった、という流れです。
それまでに良く使われていた「疑似科学」という言葉は、SFの中では褒め言葉に使われる事もあります。ケイバーリットにせよ、バーゲンホルム機関にしても、ミノフスキー粒子にしても、よく出来た疑似科学の設定はフィクションにリアリティを与えます。その一方で、世の中には「批判すべき疑似科学」もあります。
この2つを区別する呼び方が欲しいな、と思っていた菊池さんのハートに「ニセ科学」という用語がすんなり収まった、という事なのでしょう(一部想像を交えております)。
ところで「ニセ科学」という用語そのものは、もっと昔からあったらしいです。この点について、TAKESANさん達が調べてくださった結果が、こちらのTogetterにまとめられています(TAKESANさんいつも色々と有難うございます)。
それによりますと、確認できた中で最も古いものは「哲学・論理用語辞典」(1959年2月初版1991年増補版)という事でした。初版の時点で「ニセ科学」の項目が含まれていたかどうかは不明ですが、グーグルブックス検索によれば1975年の時点で含まれていた様ですので、初版からだと看做して差し支えないでしょう。
思ってたよりも昔からあった言葉だという事にちょっとびっくりしました。
もっとも、その辞典に載っている「ニセ科学」の意味は、ここで述べた内容とは異なっており、どちらかというと「未科学」というニュアンスが強いものになっています。
何だか、歴史を感じました。とても興味深いです。
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だいぶ前に私のところでも定義を試みました。
返信削除http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/nisekagaku-teigi
と、判定用ガイドライン
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/guideline-tentative
です。
>apjさん
返信削除いらっしゃいませ、コメント有り難うございます。
すっかりお返事が遅くなってしまいました。
apjさんの定義とガイドラインの議論は以前から存じ上げているのですが、ちょっと議論の量が豊富なので、なかなか消化しきれておりません。いずれゆっくり拝見したいという気持ちだけはあるのですが・・・