コミケを風疹から守り隊

2016年3月9日水曜日

道草クー太郎氏の武田邦彦氏に対する評価について

初回公開日:2016年03月09日
最終更新日:2016年04月10日


1.はじめに

最初に2点、お断りしておきます。
まず、私は以下の記事で、道草クー太郎氏の呟きに対して様々な角度から批判を加えています。しかしそれは、あくまで道草氏の「意見に対する批判」であって、人格に対しては何も言うつもりはありません。言い換えれば(少なくとも現時点に於いては)私は道草氏に対して恨みとか怒りとかは持っていないという事でもあります。
次に、私は時々今回の様に名指しでの批判を行います。しかしそれは(たまに誤解なさる方がいらっしゃるのですが)決して好きでやっている訳でもなければ楽しんでやっている訳でもありません。「そうした方が良いと思う」からやっているのです。

以上の点を御理解頂ける方のみ、続きをお読み頂ければと思います。

2.主な経緯

今回の発端は、以下に示す道草氏の3つのTweetです。



特に3つめの呟きに対して異論があった様であり、私自身も
と呟きました。それに対して道草氏は

と書かれました。
以上の道草氏の意見に関しては何点か同意できない部分があると考えていますので、以下にそれを列挙します。また上記のTweetは形式的には私に対する質問と言うか疑問を呈しているとも読めますので、それに対するお返事という意味合いもあります。

3.「ことば」を大事にするのかしないのか?

繰り返しますが、上記のTweetで道草氏は私の意見に対して疑問を呈している様に見えます。しかし(注意深い人ならお気付きの様に)彼が批判している内容は、私の言い分そのものではありません。即ち

誤:~という意味にとれる
正:~という意味にもとれる

たった1文字の違いですが、その意味する所は、厳密には異なります。より詳細に私の言い分を述べるならば「道草氏はそういう解釈をしているかもしれないが、彼が使っている芸風という言葉にはそれ以外の意味が込められている可能性もある。従って、そうした複数の意味が含まれていると考えれば、まだ理解は可能である」となります。しかし(故意か偶然かは知りませんが)「も」の1文字を書き落としてしまうと、上記の内容を読み取る事が極めて困難になってしまいます。
ネットで色々な人とやり取りしていると、自分を有利にする為に相手の言い分を故意に捻じ曲げる人も時々いらっしゃいます。実際「自分の意見は自分の意図した通りに読み取られる事を強硬に主張する一方で、相手の言い分は恣意的に読み替える」人を、これまでに何人も見た事があります。

しかし道草氏は、例えばこちらのTweet(長くなるので以下ではTweetの埋め込みはせず、リンクのみにしておきます)を見たりする限りでは「ことば」というものを非常に大切にしている様にも見受けられます。
であれば尚更「私の言った内容を改変し、それに対して反論する」という様なやり方は(故意であるならば論外、偶然だとしても不注意だと思うので)止めて頂きたかった所です。

4.道草氏の論理展開は妥当か?

さて、取り敢えず前項の点には目をつぶって、道草氏の意見そのものに矛盾が無いかどうかを見ていきましょう。彼の言い分をまとめると

a)武田氏は機械的な論理の進め方
b)武田氏はそういう芸風である
c)そういう芸風だと思えば怒りも湧かない
d)「怒り」を軸にすると人それぞれになってしまう。「正誤」を軸にすれば共有できる事も多い

といった所でしょう。ではこれらを順番に見ていきます。

a)に関して。
確かに、今回の件に限って言えば、武田氏は機械的に論理を進めている様にも見えます(震災以前からの武田氏のやり口を御存知の方々から見れば到底承服しかねる解釈だとは思いますが、その点に関しては、6.で改めて述べます)。
ただそうだとしても、武田氏の言い分におかしな点はあります。「事故後の限られた期間で得られたデータを元に、数値が今後もずっと同様に変化し続ける」という仮定は妥当なものなのでしょうか。道草氏はこうした武田氏の論の進め方を「価値中立的」と評している様ですが、仮に「結論を先に用意して、それに合う様なデータの並びを見つけて来て組み立てる」という方法を用いても、全く同じ語り口にするのは可能です。ですので「機械的な論理の進め方」だから「価値中立的」という評価には同意しません。

b)に関して。
一般論として、ある人のやり方に対して「芸風」という表現を用いるのはどういう場合でしょうか。例えば「アレがT氏の芸風だから」という様な言い方をする人は、普段からT氏の言動についてある程度の知識と理解を得ている人だと考えられます。
しかし(これも後で述べますが)道草氏は武田氏の事を余り良く御存知でない様子。「私の見た範囲での特徴を芸風と述べた」と仰いますが、そういう演繹の仕方で「芸風」という語を使うのは(絶対ダメとは思いませんが)ちょっと不適切だと思います。

c)に関して。
こちらのTweetを見ても道草氏の中では「理解できる=腹も立たない」である事が解ります。しかし私はこうした考え方にこそ、異を唱えたいのです。
不謹慎を承知の上で例を挙げましょう。
峠道にドライブに行った家族が夜遅くなってもなかなか帰ってきません。心配している貴方に向かって、ある人が「車ごと谷底に落ちて燃えちゃったとしたら、もう今頃は死んでるよね」と言いました。
この人の言い分は別に間違っていません。前提が正しいとすれば結論も(高い確率で)正しいでしょう。極めて論理的ですから、彼がその様に考える事は「理解出来ます」。
では「理解できる」から「腹も立たない」のでしょうか?
どうですか?私の言っている事は屁理屈ですか?
要するに私が言いたいのは、相手の言い分を理解できるか(論理的に妥当だと認めるかどうか)と、怒らないでいられるかどうか(相手の言い分に対して冷静でいられるかどうか)は別々の問題だという事です。確かに「どちらかと言えば」理解できた方が怒らずにいられる傾向はあるでしょう。でもそれはあくまで「傾向」です。道草氏の言う様に「理解できる」から「怒りも湧かない」という言い分には全く同意できません。
別にそれほど難しい事を言っているつもりはありません。「理解と納得は別」の如き言い回しを聞いた事のある方もおられるでしょう。要するにそういう事です。
まぁ確かに、同じ一人の脳内で生じている以上「理と情を完全に分離せよ」というのは困難でしょう。しかし、困難だからこそ、その難しさを自覚して、出来る限り分けて考えられる様に努力すべきではないでしょうか。
失礼な言い方だとは思いますが、私から見ればむしろ道草氏の方が「理と情」を上手く分離できていない様に見えます。「『理解できる』ならば『怒りも湧かない』」という様な考え方はその典型だと思うからです。

d)に関して。
ここでは2つの軸を対比させている訳ですが、一方が「正⇔誤」と明らかに相反する存在を持ってきた「軸」と呼ぶのにふさわしいものであるのに対して、もう一方は「怒り」という「どこが軸なのか」が不明瞭なものです。軸と言うのなら「怒り」の反対に来るものは何なのか。「怒らない」なのか「無感動」なのか「喜び」なのかそれとも「悲しみ」なのか、あるいは感情ですらないのか、全く解りません。その意味で「『怒り』を軸にする」の意味が今一つ不明瞭です。
一方で「『正誤』を軸にすれば共有できることは多い」と仰っていますが、これは明らかに今回の件を踏まえてのお言葉ですよね。結局の所、武田氏の言い分は「大間違い」だった訳ですが、今回の件に関して「正誤を軸にして共有できること」とは、一体何なのでしょうか?まさか「武田氏の言い分も(前提が間違っていたものの)推論としては妥当だった」というレベルの話ではないですよね?

という訳で、私としては道草氏の主張そのものに対しても、少なくない数の異論を持っています。

5.PseuDoctorのしている事は「感情要求」なのか?

道草氏は私の「『腹も立たない』というのはおかしい」という部分を「感情要求」だと受け取った様です。つまり「怒る事を要求している」というのですね。その事はこちらのTweetこちらのTweetからも伺えます。なるほど確かに、私の台詞はそういう意味にも取れます。その点は認めましょう。しかし、私の意図した所は違いますので、以下でそれを説明します。
既に上記4.のc)で述べた通り、私は道草氏の「理解できる=腹も立たない」という考え方に異を唱えています。そういう考え方は理路としておかしい、そう言いたい訳です。もう少し違う言い方をするのなら「道草氏個人が腹を立てないのは別に構わない。しかしその理由を説明するのに妙な屁理屈をこねないで欲しい」という事です。
どうしてここまで言うのかといいますと、もし道草氏の「『理解できる』ならば『腹も立たない』」が普遍的に成り立つとすれば、その対偶である「腹を立てている人は理解していないからだ」も成り立ってしまうからです。これは「怒りの原因は無理解である」と決め付ける事にもなりかねません。だから反論しているのです。
念の為付け加えておきますと、確かに「怒りの原因が無理解である」場合はあります。しかし全ての場合ではありません。何度も同じ様な事を書いて恐縮ですが「理屈が理解できたからって、必ずしも怒りが雲散霧消する訳ではない」のです。

まとめますと、私が「おかしい」と述べたのはあくまで道草氏の「理路、考え方」に対してであって、怒らない事自体を「おかしい」と言った訳ではないのです。私の発言にそうした意味がある可能性を全く考慮せずに「感情要求」と決め付けてしまうあたり、やはり道草氏は「理と情」の分離が上手くできていない様に思えます。

更に言えば、道草氏は一方でこんな事も言っている訳です。「他者の感情を理解するのは当たり前」だと仰るのですね。そうであるならば、少しは私の感情も理解してくれても、罰は当たらないでしょう。

6.道草氏は武田氏の事をどれだけ知ってるの?

既に何度か触れましたが、道草氏は武田氏の事をあまり良く御存知でない様に見受けられます。その事は、例えばこちらのTweetこちらのTweetなどからも窺えます。要するに「人を騙す様な商売をしていた(私は詐欺という言葉は使っていません)かどうかの情報は持っていない、それを勝手に共有知とされても困る」という事らしいです。
2点、反論があります。

まず、一般論として「良く知らない事柄や人物について言及する際には慎重であるべき」だと考えます。「芸風」という語の使い方にしてもそうですが、最初に引用したTweetでは「真意はわからないが」としながらも武田氏の意図まで推測している訳です。しかもその後で自らの知らない情報を提示した人(私だけではありません)に対して自らの不明を恥じるでもなく「勝手に共有知にされても困る」と仰います。控え目に言って、あまり宜しくない態度だと感じます。
次に、本当に「勝手に共有知とされては困る」のでしょうか。ネットに接続し、御自分の病気に関してググる(この件は後述します)程度のリテラシーをお持ちの方が「武田邦彦」でググる程度の事もなさらない。「その程度の事はしてくださっても」という期待も「勝手にされては困る」という訳でしょうか。例えば、ちょっと調べただけでも「武田氏が著書に引用しているデータは間違い(はっきり言えば捏造)」だと指摘しているHPですとか、こういったまとめも出てきます。勿論これらは「ほんの一例」に過ぎず、他にも数多くの情報があります。
百歩譲って、当初に御存知なかった点は仕方ないとしましょう。しかしそれでも、自らの知らない部分を指摘された時に「自分でも調べて情報をアップデートし、必要に応じて見解を修正する」といった行動を取らず「勝手に共有知とされても困る」と言って済ませるとすれば、そういう言動はどうかと思います。

7.ちょこっとまとめ

ここまで、道草氏の意見に対する異論や批判を書いてきました。
改めて申し上げますが、私は道草氏に対して恨みとか怒りを持ってはおりません。ですので例えば「謝罪を求める」という様な気持ちはありません。
むしろ彼に望みたいのは「良く知らない人物や事柄について言及する時はもう少し慎重になって欲しい」という点、そして「自らの誤りや不明を指摘されたら(無条件で受け止めろとまでは言いませんが)少なくともそれを考慮に入れて欲しい」という点です。
より具体的に言えば「武田邦彦氏という人がどういう人物なのか、もう少しお調べになって認識を新たにして頂きたい」と思っています。
この一言が言いたいが為に、この記事を書いたと言っても過言ではありません。

8.余談(御見舞い)

全く本論とは関係の無い話です。
道草氏は3月3日頃に「尿管結石」を患われた様で、病院に行った後で病名をググって調べられた様子などがTweetから伺えます。実は、私も尿管結石を持っており、これまでに何度も発作に襲われ何個も石を排出しました。
例えば、一昨年の夏に排出した結石がこちらです(^^)
夏は脱水気味になるので、どうしても結石が出来易いんですよ(爆)

排出された尿管結石

で、発作にも軽いものも重いものもあり、私自身も日常行動を継続できる程度のものから、脂汗を流しながらのたうち回って苦しむ程度のものまで様々な経験をしています。
まさに「同病相憐れむ」という訳で、道草氏には改めて御見舞いを申し上げます。
お大事に。

9.おまけ(だけど本論)真に闘うべき相手

本文にもコメント欄にも書きましたが、私が道草氏の言動を批判したのは「武田氏への無理な擁護を止めて欲しい」からです。
その点について、もう少し詳しく書きます。私が様々な場面で最も批判しているのは「嘘やデタラメを吹聴する行為」であり「事実を捻じ曲げる事」であり「真偽も不確かな事を解っているかの様に言い立てる行為」であり「逆に既に解っている事に目をつぶって全部を『解らない』の枠に押し込めたりする行為」です。これは、対象が原発でも、経済でも、医療でも、科学でも同じです。そういう行為を金や名誉や権力の為にするのはもとより、特に嫌なのは、自らのイデオロギーや思想や信条の為にこれらの行為を「確信犯として」行う事です。そういう言動は(たとえ元にあるイデオロギーや思想や信条に深く共感していたとしても、いや共感するなら尚更)強く批判します。では何故、それらの行為を批判するのでしょうか。理由は幾つもありますが、ここでは1つだけ挙げます。それは「イデオロギーや思想や信条は自由だと思っている」からです。誰でも「自分の信じたいものを信じる自由」がある筈だと思うからです。で、それは同時に「他者の信じる自由を侵害しない」という事に繋がります(どうも「自由」にまつわる話をすると、ここの所で勘違いしてしまう人が必ず居るのですよね)。繰り返しますが「誰でも」自分の信じたいものを信じて良いのです(しつこいですが「誰でも」には「自分以外の全ての人」が含まれます)。しかし。信念の為に嘘やデタラメを吹聴する行為は、自分の信ずるもの「だけ」が正しいという思想から生まれます。事実を捻じ曲げてまで自分の信念を強弁するのは、他者の「信じる自由」を侵害する行為です。それが、私が「嘘やデタラメを批判する理由(の1つ)」です。


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7 件のコメント:

  1. 技術開発者2016年3月30日 16:44

    こんにちは、PseuDoctorさん。

    最近、自分の仕事場の労組で労働法の勉強会の講師なんてたまにしていましてね(無資格なんですけどね:笑)。話の最後にこんな話をしているんですね、どこかで書いたかもしれませんけどね。

    以前、「特急列車レイプ事件」というのがあった。一緒に仕事をしていたご婦人が「年頃の娘を持つ身としては、犯人も許せないけど『見て見ぬふり』をした周りの乗客も許せない」と息巻いた。「では、息子さんに『そんな時は止めに入れ』と言いますか?」と言ってしまった。ご婦人は「とても言えない」と悩まれてしまった。

    私も「自分も息子にそんなことは言えない」と一緒に悩んで出した答えは、「止めに入るなんてできないけど、眉をしかめて周りを見回すくらいはして欲しい」だった。

    たぶん、人間社会における「雰囲気の持つ力」というのは結構大きいのだろう。その事件の時の車内に「何とかしないといけない」という雰囲気が醸成されれば誰か止めに入っただろう。そしてその人は孤立はしなかったのではないだろうか。

    なんて話です。なんていうかな、現代の我々が「見て見ぬふりをする」と「ならず者を止めに入る」の二択ではないその中間にある「良くないことだよね、止めなきゃならないよね」という雰囲気を醸成する力を失い始めているような気がしてならないわけです。

    無関係かも知れないけど、「芸風だと理解することで腹も立たない」という言い方に、雰囲気の醸成能力ということを失っていることとの共通性のようなものを感じたので、書いてみました。

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    1. >技術開発者さん

      確かそのお話は某所で拝見した記憶があります(が、現在では見られなくなっているので確信はありません)。
      でまぁ、技術開発者さんは以前から「普通の人のリテラシーの向上」とか底上げみたいな感じの事(御本人の言葉だと「雰囲気の醸成」ですね)を仰っていると理解しており、それ自体には同意も共感もしています。ただ一方では「ミスや間違いは一切許さず集団で吊し上げる」という傾向(最近で言えばカップヌードルのCM中止など)も感じており、このギャップをどうしたものかなぁ、とも考えたりします。
      一つの要素としては「長いものには巻かれろ、弱いもの苛めをしろ」という風潮が強まっているのかもしれません。だとしたら、誰にでもそういう傾向はある(誰だって、長いものに巻かれて弱いもの苛めをしていた方が楽ですから)点を認めたうえで「そうは言っても、やっぱりそればっかりじゃあんまりにも情けないから、ちょっとは考えようよ」という風になっていけば、お書きの事とも繋がっていく様な気はします。

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    2. 技術開発者2016年4月11日 8:42

      こんにちは、PseuDoctorさん。

      >「そうは言っても、やっぱりそればっかりじゃあんまりにも情けないから、ちょっとは考えようよ」という風になっていけば、お書きの事とも繋がっていく様な気はします。

      私の「人間の基本仕様の取扱マニアルとしての文化」論というのは、まさにこの部分を考えています。人間の文化というのは合理的人間のために作り上げられたものではなく、人間の持つ基本的に不合理な仕様をも利用しながら作り上げられられたものだと考えている訳です。

      例に出すたとえ話が「巻狩りの勇者」なんですが、原始人が集団で分業した巻狩りを始めた時、最も危険な役割である「仕留め役」を確保するために「村の勇者」として褒めた。原始共産制なので獲物の分配に差をつけることはなかったが、「村の勇者」となることで、子供たちの憧れとなり、村娘に、たぶん、もてた(笑)。人間がもつ「群れの中の順位を重く見る」意識は身体の危険すら超えるという不合理性を利用して、危険な役割の担い手を確保した。なんてのが私の考察なんです。

      社会に「困ったものだ、なんとかしなくては」という雰囲気を醸成することが少なくなっていることと、ミスや間違いを皆で非難する傾向が強まっていることの間には、おそらく、かなり強い関係性があるだろうと思います。「公憤」という文化そのものが「群れの順位制」みたいな人間のもつ仕様の利用の一つだったのかも知れないと思います。そのマニアルが機能不全となったところで、人間の持つ基本仕様は変わりませんから、その代替として、誰かのミスを大きく叩くという行動が増えるのかも知れないと思います。

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    3. お返事が遅くなりました。

      >機能不全
      この点については「社会構造の複雑化により因果関係が解り難くなってきた」という要素を思い付きます。「狩猟の仕留め役」ならは、その危険性が共同体の成員にも理解し易いでしょうが、現代社会で我々が肉を手にする為には遥かに多くの人々(職種)が関与していて、しかもそのどれが欠けても我々の口には入らない訳です。しかしそうした人々の営為は、通常殆ど想像されないか、されても部分的なものだったりします。
      その様に「各人の社会への貢献度」が見え難くなっている事も影響しているのではないかと思います。

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    4. 技術開発者2016年5月6日 9:13

      こんにちは、PseuDoctorさん。

      >その様に「各人の社会への貢献度」が見え難くなっている事も影響しているのではないかと思います。

       と同時に多くの人が「社会について考える」時間も動機も失ってしまっているような気がします。
       愚痴みたいになってしまうのだけど、私は労働組合と関係の深い人間なので、今年もメーデーに参加したんですね。でもって、そこで歴史的なスローガンを聞かされた訳です。それは「8時間を労働に、8時間を休息に、8時間を自分の好きな事に」なんてものです。これは、ロバート・オーエンが200年ほど前に唱えたスローガンなんです(彼は経営者でもあったから、自分の工場を8時間労働制にしたのだけどね)。メーデーの起源は今から130年前の米国のゼネストと言われている(その前からヨーロッパでは皆で祝う5月祭の風習はあったけどね)のだけど、そのゼネストで掲げられた要求も8時間労働制だった。
       オーエンから200年、米国のゼネストから130年も経って、まだこのスローガンを掲げなくてはならないこの国って、何?、みたいな気もするんですね(涙)。

       「社会人の3つの義務」みたいなことも頭をよぎります。「仕事をする義務」「家庭を作り維持する義務」「社会を適正に維持する義務」は本来社会人にとって等価であるみたいな概念ですけどね。そういう意識が既に崩れているのかも知れないと思います。

      つらつらと、愚痴めいたコメントになってしまいました。

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    5. >技術開発者さん

      「愚痴」と仰っているので、まぁ私の方も繰り言の様になってしまうのですけれど「社会構造をあまり意識しなくても済む様になる」事自体には良い面もあると思うのです。それだけ豊かになったおかげなのかもしれないからです。でもそれが知識不足・無気力・無関心・諦念などからくるものだとすれば、それは困った事態です。
      おそらく、どちらの面もあるのだろうとは思います。

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  2. そういえば、道草氏から反応がありましたね。

    https://twitter.com/KutaroMichikusa/status/707681779101007872
    >私のために通常業務を切り縮めてまで書いて頂いた長文だそうですが、申し訳ないけど「批判する理由はその気になれば幾らでも作り出せる」「批判のための批判は労力に反比例して当方には届かない」と感じるに留まりました。あしからず。<

    これ、一見すると「歯牙にも掛けない」態度の様にも見えますが、私から見れば何とも「頓珍漢」です。何故なら、このたった1つの呟きの中にさえ(またもや)幾つものおかしな点があるからです。
    細かい点からいきましょう。
    まず私は「通常業務を切り縮めて」などいません。Twetterフォロワーの方ならすぐにお解りの事と思いますが、私が「短めのお届け」と書いたのは勿論「週間PseuDoctor」の事です。これを「通常業務」と呼ぶのは、シャレならアリかもしれませんが、道草氏がそういう意味で用いたとは考え難いですね。それとも、もしかして私が「週プシ」を仕事としてやってるとかお考えですか?
    次に「批判する理由はその気になれば幾らでも作り出せる」ですが、この一言だけでもツッコミどころ満載です。「幾らでも作り出せる」のなら、それはもはや批判ではありません。難癖です。道草氏は私の意見を「難癖」だとお考えなのですか。
    そもそも、本当にちゃんと私の記事を読んだのでしょうか?私が最初に記事を公開したのは日本時間で3月9日の午後11時42分です。一方上記の道草氏のTweetは3月10日の午前6時37分のものです。記事を読み内容を理解し自分の対応を決めてTweetするのに、7時間未満というのは不十分な時間とも限りませんが、このタイミングは、ちょっと拙速ではないですか?
    それと、文意を正確に読み取るならば「幾らでも作り出せる」のは「批判」そのものではなく「批判する理由」という風にお書きですね。私は批判内容は結構沢山書きましたが「批判する理由」については、それほど書いていない筈です(突き詰めれば、私が道草氏を批判した理由はたった一つです(後述))。一体、道草氏は私の文章の何を読んでいるのでしょうか。全然内容を読み取れていないじゃないですか。だから拙速だと言いたくなるのですよ。

    なので「当方には届かない」とか仰っていますが、それも当たり前ですね。ちゃんと読んでいないのであれば、内容を理解出来ないのも当然です。いや、もしかしたらキチンと読んで理解されたのかもしれません。そのうえで、筋道立てた反論をしたくても出来なかったからこそ、こういった語り口で「逃げて」いるという可能性もあります。
    えぇ、勿論失礼を承知で言っていますよ。
    何故なら、道草氏は私の記事の事を「批判のための批判」だと仰るからです。既に述べた通り、この記事の内容を読めていない(あるいは読んだ上で内容に触れるのを忌避している)にも関わらず、書いた私の動機や内心を勝手に決め付けている訳ですから。
    そういうのは、極めて失礼な態度だと判断します。先に書いた通り、道草氏は「理と情」をうまく分離できていないのです。あるいはもっと積極的に「理と情を意図的に混ぜている」のかもしれません。何故なら(印象論ではありますが)「内容に反論出来ない時に、相手の人格や属性や動機を攻撃対象とする」様な事例をしばしば見聞するからです。
    であるならば、私も(最初は人格について言及するつもりは無かったけれども)多少の忖度ぐらいは許されるでしょう。
    私から見れば道草氏は「自らが『論を以て人に対峙するには不適格な人物である』事を図らずも明示してしまった人」です。そういう人には、それにふさわしい扱いをしてあげます。

    大体私は「何の為の批判か」を書いてますよ。そんなに解り難かったですか?なら、もう一度はっきり書いておきましょう。
    私が道草氏を批判した最大の目的は「武田氏への無理な擁護を止めて欲しい」からです。その為に、道草氏の言い分の「どこがおかしいか」を列挙した訳です。

    で、武田邦彦氏について多少はお調べになったのでしょうか?私の事を馬鹿にするだけならまだマシですが、もうテキトーな言い分を撒き散らすのは控えて頂きたいのです。もし今後も武田氏について何か言及しようと思うのなら、少しはお調べになってからにした方が、赤っ恥もかかずに済みますし。
    「もはや新しい事も学ぼうとせず、自らの既存の知識と経験の範囲内だけで思考を完結させようとする様になってしまった人」の事を、何と呼ぶのがふさわしいか知っていますか?
    …まぁ、この辺で止めておきます。
    (「真に闘うべき相手は他に居る!」…なんてね;p)
    とだけ書いて終わりにするのも何ですから、その「真に闘うべき相手」については、本文に追記しておきます。

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