コミケを風疹から守り隊

2011年1月29日土曜日

S03-01: 科学者は権威主義者なの?

初回公開日:2011年01月29日
最終更新日:2011年02月01日


トンデモさんの多くは、科学者が自説を認めてくれない事について不満を持っています。そうした不満は、例えば以下の様な言葉で表現されます。
「科学者なんて頭の固い連中ばっかりで、新しい事を認める度量なんて無いんだ」
「あの世界では、誰か偉い学者がこうだと言えば、それが絶対なんだよ」
「あいつらは自分達の立場を守るのに精一杯で、それを脅かす様な新説は最初から認めないんだ」


勿論、こうした非難は悉く的外れです。しかし、たとえトンデモさんでなくても、こうした意見にも一理あると思ってしまう人も、おそらく居るでしょう。もしかするとそういう人は、科学者達に対して権威主義の臭いを嗅ぎ取っているのかもしれません。確かに、科学者ではない普通の人からすれば、科学者って「良く解らない難しい事を言い、素人からの反論を許さない」という雰囲気を醸し出している様に見えるのかもしれません。
でも、果たして本当に科学者は権威主義者なのでしょうか。


どんな集団でもそうですが、ベテランと新人、達人とアマチュアが混在している集団であれば、自然と発言の重みに差が出ます。科学者集団でも同じ事です。その意味で、権威主義の要素がゼロかと言えば、そんな事はありません。
しかし、敢えて比較するならば、科学者集団の中ではむしろ権威主義的な色彩は弱いと推測されます。そう判断する理由は、科学の性質そのものにあります。


以前の記事(S01-04)で書いた様に、科学における「正しさ」とは、証拠の客観性と再現性に強く依存しています。つまり、誰が見ても(偏見や予断が無ければ)、何度やり直したとしても(条件が同じならば)、同じ結果が得られるというのが大きな特徴です。別に、偉い人が実験したから結果がちゃんと出る、という様なものではありません。
もっとも、現実にはプロとアマチュアで実験結果に大きな差が出る事は珍しくありませんが、殆どの場合、それは技術と経験(そして実験態度)の差によるものだと看做して良いでしょう。


この様に考えてくると、科学の方法論と権威主義とは極めて相性が悪い、むしろお互いに相容れないものであるとすら言えます。勿論、科学者も人間ですから、偉くなれば威張りたい部分もあるでしょうし、生意気な相手に対しては不快にもなるでしょう。増してや、あからさまにトンデモな説を開陳する人は門前払いをしたくもなります。
しかし、若造だろうがアマチュアだろうが、きちんと客観性と再現性のある証拠を公に提示出来たなら、それを無視する事は出来ません。何故なら、それこそが科学の方法だからです。ただ、歴史的に見れば確かに「政治的な圧力により科学的事実が捻じ曲げられる」という事もありました。しかしそれは科学そのものの問題ではなく「政治により事実が曲げられる」という点こそが問題なのだと考えられます。ですから科学そのものとしては、有力な証拠を門前払いする様な事はありません。
その一方で、トンデモさんのトンデモたる所以は、薄弱な証拠から極めて強い主張を行なう点にあります。言い換えれば、主張の強さに見合う根拠を示せていない。その事に気付かず、自分の持つ証拠の強さを極端に過大評価してしまうのがトンデモさんの特徴の一つです。


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ちょっとテーマからズレますが、この「証拠の強さを過大評価する」という点について、もう少し詳しく述べましょう。これはトンデモさんに限らず、誰でもつい陥りがちな落とし穴なのですが「個人的体験の重視」と「確率的な考え方の軽視」が大きな要素であると考えます。


まず「個人的な体験の重視」とは例えば「この目で見た」とか「自ら体験した」という言葉で表されるもので、こうした言い回しには強い説得力があります。何故なら、我々の判断の大部分は経験に頼っているからです。しかし現実には「この目で見た」なんてのは、どれほど当てにならない事か。それは、例えば錯視(錯覚)とか手品のトリックとかを少し調べてみれば、すぐに解る事です。自らの「認知の歪み」(の一つである「過度の一般化」)を克服するのは、多くの人にとって難しい事でしょう。
そこで「知識と経験」という言葉がある様に、理想的には直接的な体験で得た経験と、言わばバーチャルな手段により入手した知識とのバランスが取れているのが望ましいでしょう。そうする事によって、体験だけに頼った場合に判断が歪みがちなのを矯正する事が可能になるからです。
逆に言えば、どうしても我々は個人的な経験を重視する傾向があり、かつ、経験だけでは判断に偏りが出る。だからこそ「知識と経験」という言い方でバランスを取る事が奨励されてきたとも考えられます。
もう少し言うと、知識と経験との間を埋めるのが想像力、つまりイマジネーションです。知識は頭の中にしかないとしても、それを現実に応用したらどうなるか。その事をリアルに想像できるのであれば、単なる知識も経験に準ずるものとして、自らの骨肉と化していくのです。


次に「確率的な考え方の軽視」とは、要するに、低い確率の事が起こった場合に「偶然ではあり得ない」と解釈する考え方の事です。こうした考え方の欠点としては「心理的なバイアス」と「確率計算の誤り」が挙げられます。
例えば車を運転していると「急いでいる時に限って信号に引っ掛かる」という感想を持つ人も多いと思います。しかしこれは「急いでいない時は赤信号で止められても殆ど意識しないで忘れてしまう」と考えれば説明が付きます。これが心理的なバイアスの一種です。また確率の大きさにしても「同じクラス30人の中に誕生日が同じ人が居る確率」とか「健康診断を行なった時に、1つ以上の項目で異常値が出る確率」とかは、おそらく多くの人が直感で判断するよりも大きな値を示します。


更に言えば、こうした考え方の背景にあってこれらを強化しているのが「因果論的な思考の重視」だと考えています。
因果とは本来仏教用語ですが、ここで言う「因果論的な思考」とは、むしろ主に自己啓発系で良く言われる様な「全ての事柄には原因がある」的な考え方の事です。これは偶然を否定する考えでもありますし、個人的経験を含むあらゆる事例にもっともらしい理由付けを行なう考えでもあります。ですから、上記の2つの考え方を強化する方向に働き易いのです。


「世の中に偶然などは無い。全ては必然である」とか「あらゆる物事には理由がある。無意味な出来事など無い」というのは、一見すると非常に耳当たりの良い言葉です。
しかしよく考えてみると、これは実に残酷な思想でもあります。
何故なら、事故や天災にも意味がある事になってしまうからです。「神様は乗り越えられない試練はお与えにならない」という言葉があります。これは、現に苦しんでいる人を励ますのには良い言い回しですが、もし試練を乗り越えられなかった場合には、徹底的に本人が悪い事になってしまいます。救いが無いのです。
おそらく宗教的な立場からすれば「現世で試練を乗り越えられなくても来世(あるいは煉獄など)で修行しなおす」という形での救済が用意されている事でしょう。しかし、そうした不可知なものを導入した時点で、因果関係はかなり曖昧(つまり検証不可能)になってしまいます。逆に言えば、因果論的な考え方は、不可知なものを導入しない限り破綻してしまう、とも言えます。


ですから、現実世界で生じている事柄を説明する際に因果論的な考えを適用するのには慎重であるべきです。それによって証拠の強さが増す訳では無いのですから。
勿論「人生の指針」としての使い方まで否定するものではありません。
また、おそらく誤解する人は少ないとは思いますが「因果論的な思考」と「因果関係の検証」とでは、同じ「因果」という言葉が使われていますが、中身は全く異なるものだという点にも注意が必要です。


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2011年1月11日火曜日

青いプリンの食し方(なるべく食当たりを起こさない為に)

2011年12月25日追記:こちらの記事に、早川由紀夫氏に関しての私見を述べております。そちらも是非御覧ください。

注)この記事はネタであり、フィクションです。しかし、これをお読みの方が現在抱えている問題に僅かでも役に立つ可能性があるかもしれないと思って書いている部分もあります。

ネットには様々な人がいます。そしてそれぞれの人が言わば好き勝手に情報を発信しています。それは玉石混交と言うもおこがましい程のカオス状態でもあります。ですから「まさかこんな馬鹿げた事を言う人が居るなんて!」と思う様な状況に出会う事もまた、稀ならず起こります。

ここで、以下の様な特徴を持つ人物の存在を仮定してみましょう(しつこい様ですが、これはフィクションです。現実に似た人が居ても、ただの偶然でしょう)。
1)社会的地位は比較的高い。
2)その場その場では一応整合性のある事を言うが、しばらく観察していると以前言った事と辻褄が合わなくなってくる。
3)ジャイアニズム的なダブルスタンダードを持つ。即ち、他人に対する要求は高く、自分に対する要求は低い。
4)自説を開陳するのに熱心だが、基本的に勉強不足である。例えば、分野外の専門用語の意味を知らず、字面から連想しただけの俺様解釈を振り回す。
5)上述したダブスタや勉強不足を指摘されると、屁理屈で糊塗しようとする。それに失敗すると、逆切れするか、拗ねる。
6)自分の発言が他人を傷付ける事に対しては鈍感であるが、自分が傷付く事には過敏である。
7)自分を表すアイコンが漫画チックであるが、いわゆる二次元キャラとは異なる。また機嫌によってアイコンの表情も変える。

さて、わざわざこんな人物を仮定してみたのは「どうしてこの人はこんななのか」を考えてみたいからです。
一言で結論を言うなら、こうです。
坊やだからさ!
もう少し詳しく言うなら「知能は成長したけれども、人格形成が未発達のままである、言わばワガママな幼児」だという事です。勿論これは推測であり、それを裏付ける決定的な証拠がある訳ではありません。しかし一方で、この様に推測すれば、上記の各項目を上手く説明できるのも確かです。

幼い子供というのは、基本的に「構ってちゃん」です。即ち、自分が世界の中心であり、いつも周囲からチヤホヤされていないと気が済まない。ただ現実には、常にチヤホヤされている訳では無い。そういう時に子供はどうするかというと、何とかして注目を引こうとする。例えば奇声を上げたり暴れたりして周囲の関心を集めようとします。それでも相手にして貰えないと行為はエスカレートし、わざと怒られる様な悪い事をしてでも構って貰おうとする。
こうしたメンタリティを持った人であれば、上記の様な特徴を有していたとしても、さほど不自然ではありません。
以下、個別に解説していきます。

1)社会的地位の高さについてですが、これはちょっとこじつけ気味になるのをご容赦ください(何しろネタですから)。勉強の出来る子であれば「良い成績を取る」というのはチヤホヤされる為に最も効果的な手段の一つです。家庭にもよるでしょうが、勉強をして良い成績を修めていれば、概ね幸せな子供時代を送れるでしょう。そのまま上手くいけば高学歴を身に付ける事が出来、社会的地位も高くなろうというものです。
2)論理的不整合についてです。自分がチヤホヤされる事が最優先ですから、その場その場では尤もらしい事を言わねばなりません。馬鹿にされるのは嫌なのです。でも長い眼で見ると辻褄が合わなくなります。所詮、注目を浴びる為の発言だからです。
3)ダブルスタンダードについては、比較的特徴的であると言えましょう。即ち「みんながダメでも、ボクだけは良いんだもん!」というのは、かなりあからさまな幼児性の発露です。
4)目的が周囲に構って貰う事ですから、勉強を教えて貰えるのは、却って嬉しい事なのかもしれません。最初に勉強不足を指摘された時はちょっと恥ずかしい思いをしたかもしれませんが、開き直ってしまえば、これは逆に構って貰えるチャンスでもあります。だから「自分で勉強しなさい」と言われるのは嫌いなのです。あくまで優しく教えて欲しいボクちゃんなのです。
5)という訳で、指摘を受けた時の態度も決まってきます。まずは屁理屈により自己の正当化を図る。そのうえで、構ってくれそうな人が相手ならば、甘えてみせるか、拗ねてみせる(子供ですから)。でも、構ってくれなさそうな人に対しては、ソッポを向くのです。
6)これはもう、あまり説明の必要は無いでしょう。子供というのはある意味残酷であり、自分の言動により他人が傷付く可能性にはなかなか思い至りません。想像力が不足しているとも言えます。その一方で自分が世界の中心ですから、自分が傷付く事には我慢出来ない。
7)漫画的に自らを表現するのも、幼児性の発露です。しかもそこに、その時点での自らの感情を反映させるという事は、言わば「自分の御機嫌を取って欲しい」という要求の現われと解釈する事も可能です。

ただ、単なる子供と違うのは、上記に書いた様な事を前面に押し出し過ぎると却って相手にされなくなる、というのを知っている点です。ですからそれを隠す為に尤もらしい事を色々と述べますが、それはしばしば上記の「自分にとってだけ都合の良い主張」を偽装したものに他なりません。だからこそ、発言に矛盾が出てくるのです。
具体例で見てみましょう。
「自分だけは傷付きたくない」というのをそのまま主張しても、相手にして貰えないという程度の事は流石に知っています。ですので、これを一般化する事により、反論を封じて自分の意見を通そうとします。つまり「人を傷付けるのは良くない」と主張する訳です。
しかしそのココロは上述の如く「自分だけは傷付きたくない」ですから、一方で他人を傷付ける様な言動を平気で垂れ流します。この様にしてダブルスタンダードが形成されるのです。

ところで、上記の人物像は架空のものですが、これらの特徴の幾つかを持った人に遭遇する事は(特にネット世界の中では)それほど稀な事ではありません。
では、もし、実際にこういう人が居た場合に、どの様に対処すべきでしょうか。
これは、対処の目的と方法とに分けて考えると解り易いでしょう。

まず目的ですが、大きく3つに分けられます。
1)本人が自らの考えと行動を改める事。
これは最も直接的な目的ですが、最も達成が困難な目的でもあります。他人の思考や行動様式を変えるのは、しばしば非常に困難です。
2)本人の意見を見た第三者に悪影響が及ばない様にする事。
上記1)に比べるとやや控え目な目的ですが、決して重要性が低い訳ではありません。(自分から見て)おかしな意見が世の中に広まるのを防ごうと思うのも、大切でしょうから。
3)自分自身の精神衛生を悪化させない様に保つ事。
上記1)や2)に比べると利己的に思える目的です。しかし考え様によっては、最も大切な目的でもあります。何故ならこの目的は、上記1)2)を目指す為には必要な条件であるとも言えるからです。自分自身がしんどくなってしまっては、何も出来なくなってしまいかねません。

次に、これらの目的を達成する為の方法もまた、幾つかに分けられます(但し、1対1の対応ではありません)。
a)論理的批判
本人の意見に含まれている、論理構造の誤り・事実誤認・一貫性の無さ、等を見つけ出し、それを指摘します。冷静で理性的な議論が期待できます。一方で、感情的になった相手や第三者には殆ど効果が無いという欠点があります。ですから、上記の如き特徴を有する本人自身に対する効果は、実はさほど期待できません。
b)倫理的批判
相手の倫理観に訴える批判方法です。根本を辿っていくと上記a)との境界が曖昧になってきますが、倫理的な部分を前面に押し出す場合は、これに含まれるでしょう。a)に比べると加減が難しくはありますが、それでもこうした批判が必要な場面もあるでしょう。

これらの批判はいずれもそれなりに有効な方法ではありますが、必ずしも目的を達成出来るとは限りません。特に1)の目的が達成出来ない場合、その事が徒労感を生み、その為に3)の目的も達成出来なくなってしまう場合があります。この状況を何とかしたい。
私がその場合に有効だと考えている対処法は、
c)相手を理解する事
です。
但し、理解する事は、同意する事でも迎合する事でもありません。そうではなくて、1)の目的が達成出来なかった原因を探る為に行なうのです。これが上手くいけば、自分のやり方に改善の余地があるのか、あるいは1)の目的が達成出来なかったのは仕方が無かったのか、判断できるでしょう。
そして、こうした考察をする事によって、少なくとも3)の目的は最低限達成されると期待出来ます。
もっと言えば、3)の目的のみを達成する為であれば、真に相手を理解する必要すら無く、単に自分自身が納得出来る様に「理解した」と思い込めれば、それで良い事になります。非常に後ろ向きな意見の様に思われるかもしれませんが、3)の目的を1)や2)と切り離して考えるのであれば、私はこうした対処法も場合によっては「アリ」だと考えます(勿論使い過ぎには注意すべきです)。

という訳で、本記事はネタではありますが、ネット上の発言により心穏やかではいられなくなった方々に対する一服の清涼剤にでもなれば、と思って書いたものでもあります。

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