コミケを風疹から守り隊

2010年12月31日金曜日

ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その2)

前回の記事ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その1)でmobileWifiを検討していると書いた。その結果どうなったかと言うと、10月よりmobileWifiを導入して通勤時や出張時に使用していた。具体的には、NTTの「光ポータブル(SIMフリー版)に日本通信のb-mobileSIMを差して使っていた。自宅にBフレッツがあるので光ポータブルは月額315円でレンタル出来る。従って、これとb-mobileの組み合わせは、mobileWifi環境としては最安の部類に入るのではないかと思う。
但し、これはあくまでも暫定措置。何故なら、今後短いスパンで大きく状況が変化すると予想されるからである。即ち、10月の時点で、近い将来にテザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売されるかもしれないと予想していたので、とりあえずの措置として上記の構成にした。Wifi機器をレンタルにしたのも、SIMを2年縛りとかと無縁な日本通信にしたのも、暫定だからという面が大きい。

b-mobileと言えば最大のネックはやはり通信速度の遅さ(上り・下りともベストエフォートで300kbps)なのだが、通勤時に最も使っているのはtwitterなので、さほど苦にならない。またWebブラウジングをする際でも、プロクシを設定すると実効速度が2倍以上になるので、まぁ許容範囲内である。例えばkikulogなんかだと1000コメント以上あるエントリなんかはそれなりに待たされるが、それでもページの大部分がテキストなので、何とかなる。私の結論としては「それなりに使える」である。
ついでに昔話をすれば、インターネットの黎明期にはアナログモデム+従量制でやっていたのだから、それに比べれば多少の待ち時間はどうって事は無い(そう言えば音響カプラも買ったけど、結局一回も使わなかった)。ちなみにその時に使っていたモデムは9600bps、つまり9.6kbpsでしかない。ISDN回線の64kbpsが羨ましくて仕方なかったのだが、その後アナログモデムの性能も向上して、理論限界と言われる56.6kbpsのものが出てきた。しかし待ち切れ無かった私は、その少し前に28.8kbpsのモデムを買ってしまったので、暫くの間それを使っていた。
その頃と比較すれば、今の状況は格段にマシである。なので、個人的には、無闇に高速化を競うよりも、安定して繋がる方を優先させて欲しいと思う。

さて、そうしているうちに、やはり「テザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売される」事になった。例えばイー・モバイルのPocket WiFi S(S31HW)とか、Camangi社のFM600とかである。これで非常に選択肢が広がったと言える。


ポイントは「テザリング」と「SIMフリー」である。テザリングとは要するにスマートフォンをモバイルWifiルータにする機能であり、本来はiPhone4にもAndroid2.2にも搭載されている筈のものである。これがあれば、わざわざWifiルータを持ち歩く必要は無くなる。今も昔も、モバイラーの最大の悩みは「如何にして持ち歩くアイテムを減らすか」ではないだろうか。その意味で、Wifiルータを減らせるのは大きい。しかしながら、現在のところ、国内のキャリアから発売されているスマートフォンでテザリング機能が使える物は殆ど無い。個人的な推測だが、これには大きく2つの理由があると考える。
1つ目は、トラフィックの増大である。テザリングが使えれば当然の様に通信料が増え、今よりも混雑すると予想される。
2つ目の、より本質的と思われる問題は、料金プランと通信料、そしてマーケティング戦略である。例えばドコモでは、パソコンに繋いでデータ通信をする場合は、パケ・ホーダイの上限金額が2倍に跳ね上がる。この状況を維持するならば、スマフォのテザリング機能にも同様の課金をすべきな訳だが、スマフォを売り込みたい側としては、そんな事はしたくないし、スマフォが売れてもデータ通信カードやWifiルータが売れなくなるのは困る。
そして、この問題はSIMフリーとも関連してくる。おそらくどのキャリアも本音を言えばSIMフリーなど進めたくは無いのだろう。ドコモがSIMフリーを推進する態度を示したのも結局はiPhoneやiPadを使いたいからだったと意地悪に解釈すれば、Android携帯が好調な現状に於いては、無理にSIMフリーを推し進める理由は少ないと言える。とは言え、一旦は口にしたものを全く無視する訳にもいかないので、他機種との競合が少ないWifiルータだけSIMフリーにしてみせた、というところではないだろうか。イー・モバイルがPocket WiFi SをスマフォではなくあくまでPocket WiFiの後継機と位置付けているのも、おそらく同様の理由によるものであろう(但し上述の如く実質的にはSIMフリーかつテザリング搭載のスマフォなので、この機種自体は支持したい)。


そんな訳で、国内キャリアのスマフォにはなかなか食指が動かなかったのだが、結論から言うと、Camangi社のFM600を購入し、そこにb-mobileのSIMを差して使っている。まださほど使い込んでいないのだが、これがなかなか快適なので、(その3)では使用感をレポートしようかと思う。
とは言え、御覧の様に遅筆なので、おそらく今更感満載のレポートになる可能性が極めて高いと予想されるが、そこはひとつ、広い心でお許し頂きたい。


それでは皆様、良いお年を。


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2010年12月12日日曜日

「表現規制」について(「表現の自由」はなぜ大切か?)

初回公開日:2010年12月12日
最終更新日:2016年07月21日

1.はじめに

多くの方が御存知の様に、2010年3月の時点で継続審議となっていた「東京都青少年健全育成条例」(いわゆる非実在青少年規制条例)の改正案が12月都議会に提出されています。
私はこの条例には明確に反対です。その最も大きな理由は、これが「表現規制」、即ち「表現の自由を犯すこと」に繋がるからです。「この条例は表現規制そのものではない」というタテマエ論を述べる方もいらっしゃる様ですが、条例の内容は規制側の恣意的な運用が大幅に可能になっているものであり、実質的な表現規制に結び付く危険性はかなり大きいと言うべきです(ぶっちゃけて言えば、そもそも体制側が「表現規制をやります」なんて馬鹿正直に言う筈が無いと思っております)。

では、なぜ「表現の自由」は大切なのでしょうか。
それは勿論「憲法で保障されている基本的人権だから」ですね。
でも、もう少し踏み込んで考えてみましょう。
なぜ「表現の自由」は「基本的人権」なのでしょう。
そしてなぜ「基本的人権」は憲法で保障されているのでしょう。

これを書いている時点では、まだ条例の改正案がどうなるのか解りませんが、どうやら民主党が賛成に回る様で、可決される公算が大きそうです。「表現の自由」に配慮して付帯決議がなされるという見通しの様ですが、はっきり言えば、そんなもの「配慮してない訳ではないですよ」というガス抜きの為の言い訳に過ぎません。
そもそも、わざわざ付帯決議を行う時点で、欠陥条例である事を認めたも同然ではないですか。
「表現の自由に配慮する」なんてのは、言うまでも無く当たり前なので、今更そんな事を改めて決議するなんて、何をかいわんや、です。
そして、たとえ付帯決議があったとしても、そんなものは、現実の運用で幾らでも骨抜きにできます。
非常に姑息なやり方ですが、常套手段でもあります。

しかし、たとえ可決されたとしても、それで終わりではない。
そして、たとえ否決されたとしても、それで終わりでもない。
「表現の自由」に関しては、ずっと継続して考え続けなくてはいけない問題だと思いますので、書いてみた次第です。

2010年12月4日土曜日

S01-04: 科学の特徴

初回公開日:2010年12月4日
最終更新日:2010年12月4日

前回までの記事(S01-01からS01-03までの記事)で「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」「その為には得た知識を共有するのが便利である」という話をしてきました。以上をまとめると、極めて大雑把なPseuDoctor流オレ様定義ではありますが「科学とは知的好奇心に応える為に知識を共有して増大させ、その結果として人類の発展に貢献していくシステムである」と定義しても、まぁ大抵の場合は良さそうです(もっと上手い言い方があったら、誰か教えて欲しいです)。
そこで今回は、そのシステムを最適化させる為に何が必要かを考えてみましょう。それがそのまま「科学の特徴」になると思います・・・なればいいなぁ。

まず「知識の共有」ですが、これって、一方通行であってはいけないのですね。何と言うか、上記の定義を見て、巨大デジタル図書館の様なデータベースシステムを想像された方もいらっしゃるとは思いますが、図書館と科学とでは、決定的に違う部分があります。
それは「情報の発信者と受け手を区別しない」という点です。図書館では書架に並んでいる本と読み手とは明確に区別されています。勿論、図書館の本を調べて新しい本を書き、それが図書館に並ぶという事もありますけれども、それは例外ですよね。
しかし科学の世界では情報の発信者と受け手は同一の土俵にあります。誰もが情報の受け手であり発信者になりうるのです(トンデモさんには受け入れ難い事実かもしれませんが)。その意味では、図書館よりもむしろネット世界におけるWikiなどの様な「集合知」に近いイメージかもしれません。

しかし「集合知」だとすると今度は、情報の正確さを誰が保証するのかという問題が生じます。「ネット情報は玉石混交」だというのは今更言うまでもない事実ですが、それは、正確さの保証が存在しない故だとも言えます。
では、科学の世界では何が正確さを保証するのでしょうか。誰か偉い先生が正しいかどうかを決めるのでしょうか。それとも学会が決めるのでしょうか。
違いますね。
別に、神の如き絶対的な審判が存在して、その人(たち)が正しさを決める、というわけではない。そんなのは科学ではない。(但し表面的には「偉い人が決めている」様に見える場合があるかもしれません。しかしそれは別に恣意的に決めているのではなく、偉い人は、以下に述べる要素によって決められた事を「知っている」というだけの事です。)
さて、では何が正確さを保証するのでしょうか。

それは「証拠(根拠)」と「他人の眼」です。
どれほど魅力的な内容であっても、根拠を提示できなければ、単なる「面白い話」で終わってしまいます。あるいは「こうすれば証拠は見つかる筈」というところまで話を持っていけば、もしかしたら、誰か奇特な人が証拠を見つけてくれるかもしれません。
勿論、誰も協力してくれないかもしれません。その場合は「面白い話を言った人」で終わってしまいます。それが嫌なら証拠を見つけるしかありません。自分自身で、あるいは他人の助力を仰いで。
「先に言ったモン勝ち」は許されないのです。

さて、何でもいいからとにかく証拠(根拠)を提示できさえすればそれでオッケーかと言うと、そんな事はありませんね。その証拠が、正しさの根拠として充分な強さを持っているかどうかが問題になります。その場合に「他人の眼」が重要になってきます。つまり、自分が幾ら「これが証拠だ」と力んでみても、他人がそれに同意してくれなければ、証拠として認められないという事です。
但し、これは証拠の採用を多数決に頼るという意味ではありません。多数派が常に正しいとは言えないのは、歴史が示しています。では、この場合の「他人の眼」とは何を意味するのでしょうか。

それは「誰でもいつでも見る事が出来る」という意味です。主張者以外には証拠を見られない、なんてのは論外ですが、限られた人しか証拠を見る事が出来ない場合でも、その信憑性には疑問符が付きますね。また、ほんの一瞬だけ情報を公開して「ほら見せたよ、もういいだろう」なんてやっても、二度と見られないのでは、やっぱり信用できません。
そして、この様に証拠の情報が共有化されるならば、その証拠を用いた検証が誰にでも可能になります。勿論、お金・時間・技術などの問題はありますが、重要かつ説得力のある情報であればあるほど、検証したがる人も増えるでしょう。こうして多くの人が繰り返し検証していくほどに、情報の正確性は増していくのです。勿論その過程で、情報が修正されたり捨てられたりする事も起こるでしょう。むしろ、そういう事が起こるからこそ、正確性が増していくのだとも言えますね。

これを一言で表現するなら「正確さの保証には客観性と再現性が必要」となります。

以上をざっくりまとめると「科学とは一種の集合知であり、その正確さは客観性と再現性を持った証拠の存在により(漸増的に)保証される」となります。

しかしそれでも「俺は科学が正しいなんて信じない。科学者なんて嘘ばっかり言ってる。みんな騙されてるんだ」と言い張る人もいるでしょう。バッサリ切り捨てる様な言い方をさせてもらえば「事実よりも信念を優先させている時点で、科学の正当性について語る資格は無い」と思うのですが、それだけで済ませてしまっては本人も納得出来ないでしょうね。
そこで、次の記事(S01-05)では「ある知識を得た時に、個々人がその知識を『正しい』と判断するとは、どういう事か」を考えてみたいと思います。

ああ、こうやって少しずつ予定がズレていく・・・(笑)

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2010年11月18日木曜日

掛け算の順序論争について

1.これまでの展開と私の見解

「掛け算の順序論争」というものがある様だ。どうやら、かなり以前(1970年台頃)から繰り返し出ている話題らしい。
先週末くらいにTwitterでやり取りしている方々がいらしたと思ったら、早速幾つかとぅぎゃったになっていた(例えばこれとか)。色々拝見した結果、この件に対する現時点での私の考えは、以下の通り。

1)順序にこだわるのはナンセンス。
2)「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを理解させるべき、という意見には一理ある。
3)しかし「掛ける数と掛けられる数との違いに関する理解」にこだわるのであれば、むしろ単位を重視すべきであり、やはり順序にこだわるのはナンセンス。
4)しつこい様だが、式の順序を「正しく」書いているかどうかで理解度は測れない。「正しい」順序で立式している子の中にも理解が不十分な子は居るだろうし「間違った」順序で立式した子の中にも理解している子は居る筈だから。

一言でまとめるのなら「順序にこだわる事によるメリットが全く見つけられない」となる。

2010年11月2日火曜日

S02-03: 「悪魔の証明」について

初回公開日:2010年11月02日
最終更新日:2010年11月02日

「立証責任について」の記事が割と好評の様なので、調子に乗って(?)今回は「悪魔の証明」について書きたいと思います。何故この2つの項目が目次で隣り合わせになっているかと言いますと、それはお互いに密接な関係があるからなのですね。それがどんな関係なのかは、以下の記事中で触れたいと思います。

さて、科学や論理の分野で良く使われている意味での「悪魔の証明」とは、一言で言えば「存在しない事を証明せよ」というものです。これを、より一般化すれば「否定の証明」という事になります。
通常の証明は、その多くが「Aである事を証明する」という形になっています。これに比べて「『Aではない事を証明する』のは著しく困難である」というのが「悪魔の証明」の意味するところです。

例を挙げるなら、おそらく多くの人にとって馴染み深いのが「アリバイ」という概念だと思います。ミステリ好きなら勿論御存知だと思いますが、アリバイは日本語では「不在証明」と言います。つまり犯行時刻に犯行現場に「居なかった事」の証明なのですね。しかしこれは悪魔の証明に相当し、直接証明するのはほぼ不可能です。そこでその代わりに「他の場所に居た事の証明」を以て「不在証明」とする訳です。
この考え方は「同一人が同時に複数の場所に存在するのは不可能である」という前提に基づいています。ですから、もし、テレポーテーション能力や電送装置の存在を前提にしたとすれば、アリバイそのものが成り立たなくなってしまいます。
かくの如く「ない事の証明」は難しいのです。

もう一つ例を挙げましょう。
「白いカラスが存在する」のを証明するとします。もし本当に白いカラスが居るのならば、それを捕まえてみせれば証明になりますね。しかし「本当は白いカラスなど存在しない」のだとしても、それをきちんと証明しようとしたら、一体どうすれば良いのでしょうか。世界中に存在する全てのカラスを捕まえて調べる必要があります。更に、調べているうちに、どこかで白いカラスが生まれているかもしれませんので、それも調べ直さなければなりません。それを調べているうちに、もしかしたらまたどこかで・・・きりがありません。
この様に「世界中のカラスを全て漏れ無く調べ尽くす事の大変さ」に比べれば、比べればですよ、白いカラスを見つける為に、たとえ密林をかきわけ断崖絶壁を登り猛獣や吸血虫の襲来にも耐えてようやく白いカラスを見付け出したとしても、その程度の苦労は、全く取るに足りない、本当に微々たるものだと断言できます。

つまり、一般的に言って「存在する事の証明」と存在しない事の証明」との間には、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの労力の差が存在するのです。ですから、通常は「存在しない事の証明」を求めるのは理不尽とされるのであって、アリバイの場合などはむしろ例外的です。
但し、アリバイの様に、代替的な証明方法によって事実上「存在しない事の証明」が可能になる場合もあります。その点には留意しておかなければなりません。

「悪魔の証明」問題はオカルトやニセ科学を批判する際に大きな問題となります。例えば、目の前に居る自称超能力者がインチキである事を完膚なきまでに繰り返し証明して見せても、その事は決して「超能力自体の否定の証明」にはならないのですから。
この事を悪用して、オカルトやニセ科学側が「無いとは言い切れないだろう」という風に、悪魔の証明に「逃げ込む」のは、ある意味常套手段となっている風潮があります。そういう逃げは許しませんよ、というのが、実は「立証責任」の考え方にも通じていくのですね。

「でも」と思う方もいらっしゃるかもしれません。「数学では『存在しない事の証明』なんてしょっちゅうだよ?」と思われるかもしれません。
ごもっともです。
ではここで、数学における「存在しない事の証明」と「悪魔の証明」とでは、一体何が違うのかを考えてみましょう。数学における証明とは、与えられた条件の中で考えられる「全ての可能性」について検討します。例えば無限に存在する自然数について証明する場合でも「数学的帰納法」という巧妙な方法を用いる事によって、全ての自然数について成り立つ事を証明できます。
数学には、この「考えられる全ての可能性について検証できる」という特徴があるからこそ「存在しない事の証明」が可能になるのです。現実問題として世界中のカラスを捕まえるのは不可能ですが、数学の世界では相手が無限に存在していても、その全てを「捕まえる」事が可能であるのです。
但し、数学の世界でも「捕まえるのが可能でない」場合も沢山あります。その場合には、たとえ数学といえども「証明できない」となるのですね。要するに「考えられる全ての場合において検証し得た時に初めて『否定の証明』が可能となる」という点に関しては、数学であろうと無かろうと、結局は同じ事なのです。
以上より「それは悪魔の証明である」という指摘(批判)に対して、数学の話を持ち出して反論するのは、的外れだと言えるのです。

もう一つ別の話をしましょう。
「ホメオパシーが効かない事は科学的に証明されている」「血液型と性格は関係ない事が科学的に証明されている」という言い方はおかしいのではないか、それは悪魔の証明をしている事になるのではないか、という意見に対してです。
確かにそうした意見にも一理あります。「ホメオパシーには全く効果は無い」「血液型と性格との間には全く何の関係も無い」という事を証明するのは、不可能と言って良いほど困難です。
だからと言って、何も言えないという訳ではありません。「全く無い」という事は言えなくても「非常に少ない」ですとか「実用上は無いと言って差し支えない」とかのレベルでの証明なら可能なのですから。血液型性格判断やホメオパシーの効果の如きは、そうしたレベルに於いて「無い」と証明されているのです。これは「程度問題」の話です。
某血液型の人などは、この程度問題を絶対に認めようとしません。それも当然で、彼の主張全体が「無いとは言い切れないだろう」という点に依存していますので、何が何でも認める訳にはいかないのでしょう。

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2010年10月20日水曜日

S02-02: 「立証責任」について

初回公開日:2010年10月20日
最終更新日:2010年10月20日

ちょっと順番通りに書くのも飽きた(笑)ので、今回は科学の世界における「立証責任」について書きたいと思います。
とは言え、ここを読まれている大多数の方々は、立証責任の事を「新規な説を提唱した側に立証する責任がある」という風に正しく理解されていると思います。しかし、世の中は広いもので、例えば某マイナスイオンの人の様に、幾ら説明されても頑として理解するのを拒否する(認知的不協和の回避かも?)人もいます。
そこで今回は「立証」という言葉も「責任」という言葉も使わずに説明してみます。

と言っても、それほど難しい事ではありません。ポイントは2つだけです。
主張には根拠が必要である
主張が強いほど根拠も強固である必要がある
の2つです。
別にこれは科学の世界に限った事ではなく、きちんと物事を考える場合には常に言える事です。
ただここで「必要」という表現に引っ掛かった人もいるでしょう。一体、誰が根拠を必要としているのか。勿論、根拠を必要としているのは「主張」そのものです。これはトートロジーの様ですが、そうではありません。
要するに、主張に根拠を伴っていなくても、誰も困らないのです。ただ、主張がマトモに取り合って貰えなくなるだけの事です。キチンと相手をして欲しいのなら、根拠が必要。根拠が無い(もしくは薄弱)なら、それなりの対応をされるだけ、という事なのです。

少し具体例で見てみましょう。
例えば「私は神である」という主張はどうでしょうか。真面目に考えるならば、これは物凄く強い主張です。ですから、この主張を裏付けるには、極めて強力な根拠が必要です。何も根拠を示さなければ、ただの「変な人」で終わりです。
では、どのくらい強い根拠が必要なのでしょうか。
少なくとも「指差すだけで地を裂き山を割り海を干上がらせる」位の御ワザは見せて欲しいですよね。でもその程度なら東丈や超人ロックでも出来そうですので、根拠としては弱い。では「死人を蘇らせる」ならどうでしょう。これはかなり強い根拠と言えそうです。ただそれでも、神ならぬ悪魔かもしれないし、ネクロマンシーなのかもしれない。神の根拠を示すのは大変なのです。
さて、そろそろお気付きの方もいらっしゃるでしょうが「神とは何か」つまり神をどう定義するかで、必要とされる根拠も変わってきます。我が国における八百万の神、つまり超自然的な精霊と類似の存在であれば、上記に挙げた程度の根拠でも足りるかもしれません。しかし「全知全能の神である」という主張ならば、どれほど奇跡を起こして見せても充分とは言い難いですね。
その意味では「私は神である」という主張自体が大雑把で不正確なものだった訳ですが、少なくとも「主張の強さに応じた根拠が必要である」というのは御理解頂けるかと思います。

更に言うならば「何とかイオンドライヤーには効果がある」と主張しているのに根拠はユーザの評判や商品の売れ行きだけとか、「何とかミネラル水で癌も糖尿病も何万人も治した」と主張しているのに、根拠は自らの曖昧な言動しか無いとか、そういうのは主張に見合った根拠を示せていないと判断します。それが「立証責任を果たしていない」という事です。
勿論、主張するだけなら「言論の自由」の範囲内ですが、マトモに相手をされなくても仕方が無いという訳です。

それでは、ここで今日の一言。

その主張に、見合う強さの根拠はあるのかい?
福山雅治風にお読み下さい(江口洋介風でも可)。

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2010年10月18日月曜日

ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その1)

初めて携帯電話を持ったのは、もう15年以上前になる。当然アナログ(1Gって奴ね)で、通話機能以外何も無い、携帯電話というよりも無線機に近いゴツさだった。当時はNTT以外の選択肢は無かったので、それ以来ずっとNTT(ドコモ)を使っている。
機種変更は頻繁にする方ではない。アナログがデジタル(2GのPDC)になった時に(仕方なく)替えた。これが2台目。次に替えたのはmovaからFOMA(3G)にする時。つまり1世代で1台しか使っていない事になる。この調子でいけば次に買うのは4Gになる筈だったのだが、バッテリーの消耗が異常に早くなった(故障?)ので(またもや仕方なく)今年替えた。これでようやく4台目。

さて、物凄く久し振りに電車通勤をする事になった。高校生の時以来である。もっとも、高校生の時は「通学」だから、厳密に言えば人生で初めての電車通勤である。
そうなると通勤時間を何かに使おうと考えるのが性である。読書でも勿論良いのだが、これまで全く視野に入っていなかったスマートフォンに急に興味が出てきた。
もともとデジタル小物は異常に好きなのであり、これまでにもカシオペアとかザウルスとかのPDAを使った事もある。しかしいずれもしばらく経つと使わなくなってしまっていた。どうしても機能が中途半端に思えたからである。そんな訳で、ビューアの付いたケータイを持ち歩くぐらいならUMPCの方が良いという考え方に達していた。ところが最近のスマフォの性能を見ると、メール・Web・Twitterくらいなら充分にストレスなく使えそうなので、これなら使っても良いかと思う様になってきた。

勿論iPhoneも考えたのだが、やはり地方在住なのでドコモの電波状況が魅力的なのと、Appleの体制が性に合わないというのがあって、ドコモのスマフォを第一候補とした。そうするとWindows MobileとかBlack Berryとかもあるのだが、やはりここはAndroidだろう。
ところがドコモのAndoroidスマフォはOSのバージョンが古い。去年の機種ならいざ知らず、2010年4月発売のXperiaまで1.6とか、あり得ない。それだけ開発に時間が掛かったという事なのかもしれないが、開発に時間が掛かっても良いから独自機能をテンコ盛りにしてユーザを抱え込もうとする戦略だとすれば、少なくとも私にとっては逆効果でしかなかった。

そんな風に迷っているうちに、ようやく2.2搭載の機種(Galaxy S)がドコモから出てきた。しかし残念な事にテザリング機能が殺されている。これは私に取って致命的である。あわよくばスマフォをWifiアクセスポイントにしてUMPCとの2台持ちという贅沢も出来るかと思っていたが、その皮算用は水泡に帰してしまった。

なんて事を延々と考えてたらもう面倒臭くなったので、ここはいっそモバイルWiFi接続にしてしまおうかと考え始めた。そうすればスマフォとUMPCのどちらも使えるし、各社から定額のプランが出ている。勿論新たに契約するのでお金が掛かるが、単なるiモードでも外出先などでちょっと油断してTwitterとか見ているとすぐにパケット代だけで3千円~4千円になってしまうのが現状なので、それなら真剣にWiFi接続を考え始めた方が良いという気がしてきた。
今の携帯契約とダブる部分もあるが、そちらは電話とメール(iモード)に特化すれば良い。携帯のメールは、妻への帰るメールにしか使ってないし。元々が連絡用なので、万が一にも電池切れを起こしたくないというのもあるし。

という訳で、モバイルWiFiを真剣に検討し始めたのが先日の事である。
続きの顛末は、また後日(その2)で。

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2010年10月1日金曜日

S01-03: 「未知の事を知る」ってどういう意味?

初回公開日:2010年10月01日
最終更新日:2010年10月01日


さあ、ここまででようやく「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」というところまで来ました。しかしここで、タイトルにも挙げた通り「未知の事を知る(=知的好奇心を満たす)」とはどういう意味かを考えてみたいと思います。
あるいは「そんな事解ってるよ」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし慌ててはいけません。当然解ってる筈の内容でも、改めて考えてみる。その事によって新たな発見があったとすれば、とっても面白いと思いませんか?

では、こんな状況を考えてみましょう。
アナタは、殆どの人が知らない「本当の真実」を手に入れました。アナタはそれが真実である事に絶対の確信を持っています。ですから、それが「真実である」と誰に対しても自信を持って述べる事が出来ます。しかし残念ながら、何故それが真実であるのかを上手く説明する事が出来ません。

この様な状況の時に、その「真実」はアナタの知的好奇心に応えていると言えるのでしょうか?
・・・・・・
こういう書き方をする時は、大体答えは決まっていますね(笑)。
そう、答えは「否」です。
では何故「否」なのか。それは一言で言えば「上手く説明出来ないから」なのです。勿論、確信を持って「○○は真実である」と述べる事は出来るでしょう。しかし「何故そう考えるのか」と問われた時に、アナタは何と答えるのでしょうか。
例えば「天から啓示があった」「古代の書物に書いてあった」「偉大なる賢人に教わった」などと答えるのかもしれません。しかしそれでもなお「では何故その理由が正しいと考えるのか」と更に掘り下げて繰り返し問う事が出来ます。そして、その「どんどん掘り下げて繰り返し理由を問う」事こそが知的好奇心の発露なのです。
つまり、いくら確信があっても、掘り下げる問いの反復に耐えられなければ、知的好奇心に応えているとは言えません。

とは言え、知力も体力も有限ですから、無限に問い続ける・答え続けるのは不可能です。何処かで止めなければなりません。しかし、ただ止めるのもしゃくですから、何か理由を考えてみましょう。
最も適当らしい理由は「私には(少なくとも現時点では)これ以上は解らない」というものです。この答えを出せば、問いの連鎖は止まるでしょう。
ここで「解らない事」に対して二つの態度が考えられます。一つは「解らない事は解らない」とする立場です。そしてもう一つは「解らないけれども真実だと思う」とする立場です。上の例では「確信がある」のだから、後者の立場ですね。
前者の立場は暫定的(いずれ解るかもしれないという含みを残している)であるのに対し、後者の立場はそこで断ち切れていると言うか、閉じています。そして、後者を「信念」と呼ぶ事も出来ます。

さて、ここまでずっと「真実」という言葉を使ってきましたが、これは「信念」との結び付きを意識して使っています。真実という言葉は「人の数だけ真実がある」とか「その人にとっての真実」という使い方をされる事があります。この場合には「その人がどの様に信じるか」という点が問題になっています。
これに対し、信念と切り離された存在を述べる場合には「事実」という言葉を使いましょう。これは、信じるかどうかに関わらず、そこに在るものです。つまり客観的存在です。
「真実」と「事実」はしばしば混同して用いられますが、上記の様に区別しておけば「知的好奇心とは真実を求めるのではなく、事実を求める心の働きである」と述べる事が出来ます。

但し、ここで大急ぎで追加しておかなければなりませんが、私は決して「信念には価値がない」と言っている訳ではありません。何を信じるかはともかくとして「信じる事」自体は極めて重要であり、それが無ければ、おそらく何人たりとも生きていけない(言い換えれば、一切の信念を全く何一つ持たなくなった存在は、もはや人間とは呼べない)でしょう。
しかし上述の様に、信念は事実の追求を停止させるので知的好奇心を麻痺させます。従って、何でもかんでも「信じる」というのは非常に残念な態度です(思考停止という言葉で表現されたりします)。私達は「信じる事」と「信じない事(疑う事)」との区別をしっかりとつける必要があります。

そして、この「信じる事と疑う事の区別を厳密につける態度」こそが「懐疑主義」と呼ばれるものなのです。どうしても語感に引きずられて「あらゆる事を疑うのが懐疑主義だ」と思われがちですが、そうではありません。繰り返しますが、信じる事(それ以上考えず追求しない事)と、疑う事(考え続け、追求し続ける事)とを厳密に区別するのが(現代の科学における)懐疑主義です。

従って「神を信じる懐疑主義者」というのは普通に存在しますし、別に矛盾でも何でもありません。また、根拠も無いのに頭から否定するのは懐疑主義ではありません。それは方向が逆向きなだけで、それもまた一種の「信念」なのですから。
もっとも、現実には「ちゃんとした根拠があるのだけれども、説明するのが面倒臭いので頭から否定する様な言い方をしてしまう」という態度を取る場合も(相手によっては)あり得ます。あまり良い態度ではありませんが、全ての人にとって、時間も知力も体力も根気も有限ですので、極端に効率の悪そうなやり方は(気が向かない限り)とてもやってられません。
増してや、根拠があって述べている内容に対して「それはオマエがそう信じているだけだろう」などと非難するのは、もはや懐疑主義でも何でも無く「懐疑主義のふりをした詭弁」に過ぎません。

なお、懐疑主義についてもっと知りたい方はググって頂いても良いのですが、ここでは3つほどリンクしておきましょう。
あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない
懐疑主義とは何か by Brian Dunning
懐疑論者の祈り
それぞれの記事を書かれているlets_skepticさん、kumicitさん、ワカシムさんはいずれも優れた論者であり、ブログや記事全体もとても参考になります(既に御存知の方も多いとは思いますが)。


さて、ちょっと懐疑主義の話に流れ過ぎましたので、少し話を戻しましょう。


「未知の事を知る」というのは、得た知識をアナタ一人の頭の中にしまっておく事ではありません。知的好奇心を自己満足の為の道具として使いたいと言うのならば別ですが、通常は、知識は他人と共有してこそ初めて価値を持ちます。
何故なら、もし知識を自分だけで占有しておくのならば、それが本当に偉大な知識なのか単なる妄想なのかが区別できないからです。いくら「私には確信がある」と力説したところで、妄想に取り付かれた人だって、確信の強さだけなら負けないでしょう。
知識を共有しないという事は「他人にどう思われようと構わない。自分はこれが真実だと信じる」という意味ですから、自己満足であり、かつ、知的好奇心の発現としても、極めておかしな態度です。
逆に言えば、他人と知識を共有すれば他人の知識をも得る事になりますから、それはそのまま「知的好奇心の更なる満足」に繋がる事でもあるのです。社会に貢献するかどうかはともかくとして、単に自分の知的好奇心に忠実なだけだとしても、知識は共有した方が良いというのを理解して頂けるでしょうか。


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2010年9月25日土曜日

S01-02:科学は何の為にあるのか?

初回公開日:2010年9月16日
最終更新日:2010年9月25日

さて、いよいよここから実際に「科学とは何か」を考えていきましょう。考える為の取っ掛かりは幾つかあるでしょうが、とりあえずは、タイトルにも挙げた、この質問から。

「科学とは何の為にあるのでしょうか?」
これは、言い換えれば「科学が目標としているものは何か?」という質問でもあります。もし科学が目指しているものがおぼろげにでも解れば「その様な目的を持っているところの存在」として科学を捉える事が出来るかもしれません。そう考えたので、この質問を取っ掛かりに持ってきたのです。
さぁ、どう思いますか?

例えば、こんな答えなら、どうでしょう。
「人類の幸福の為」とか「社会の発展の為」とか。
はい、どちらも確かに素晴らしい答えです。でも、何て言うか、それだけだと、どうもちょっとキレイ事すぎる感じがしてしまいます。勿論、結果として人類の幸福とか社会の発展に役立てば、それに越した事はありません。
でも、そういう御大層な目的を持たなければ、科学に関わる事は出来ないのでしょうか。それよりも手前に、もっと普通っぽい科学の目的だって、あっても良いのではないでしょうか。

勿論、私はあると信じています。それは「未知のものに対する憧れ」と深く関わっています。未だ見ぬものを知りたいと思う気持ち(知的好奇心)とは、人間の基本的な欲求であると考えます(何故そうなのか、というのも非常に興味深いテーマですが、それを述べ始めると話題がどんどん拡散してしまうので、今回は触れません)。
そして、その知的好奇心に、しっかりと応えてくれるのが科学なのです。科学は、我々の「知りたいという欲求」を満たしてくれます。但し、完全に、ではありません。「限り無いもの、それが欲望(知ってる人は歌いましょう)」なのですから、欲望が完全に満たされるという事は、あり得ません。
そして、その「知的好奇心が完全に満たされる事は永久に無い」という事実こそが、科学の絶え間無い発展に結び付いているのです。

あれ?でも、知的好奇心に応えてくれるのは科学だけなのでしょうか。いわゆる「学問」であれば、どれも「知りたいという欲求」を満たす役に立ちそうですが。
確かに、そんな気もします。でも一遍に論じるのも大変ですので「科学と他の学問との違い」については、別の記事で、また改めて書く事にしましょう。

もう少し違う言葉で書きます。
「科学の目標」には大まかに言って2つの座標軸があると考えます。1つは「社会の為-自分の為」という軸。そしてもう1つは「知的好奇心を満たす-現実の役に立つ」という軸。これらをそれぞれX軸とY軸に設定すれば、各人が科学に対して求めている目標をプロットする事が出来るでしょう。
原点に近いほどバランスがとれていると言えますが、バランスが取れていなければならないというものでもありません。

以上をまとめると科学とは、我々の知りたいという気持ち(知的好奇心)に応える事を通じて、人類の幸福や社会の発展に役立っていく学問であると言えます。これでもちょっとキレイにまとめすぎかもしれませんが、まあ、今のところは、この位に考えておきましょう。

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S01-01:「科学とは何か」という難問

初回公開日:2010年9月12日
最終更新日:2010年9月25日

皆さんの中で、科学という言葉を聞いたことの無い人は、まずいないでしょう。そして、このブログを読まれる程の方でしたら、科学が我々の生活に欠くべからざるモノであることも(ごく一部のへそ曲がりの御仁を除けば)殆どの方には賛成してもらえるものと思います。
そう、例えば、インフルエンザを予防するのも、がんを治療するのも、科学によってもたらされた結果と言えます。もっと身近な例を挙げれば、パソコンもインターネットもカーナビも、日食の予想が出来るのも、新幹線が走るのも、みんなみんな科学の力があればこそ、ですね。

でも、改めて「科学ってなんだろう」と尋ねられたら、なんと答えれば良いのでしょう?
はい、そこのアナタ。
「えーと、その、何だ。白衣着た科学者が試験管振ったり黒板に数式書いたりして、何か研究とかしてるんだろ?」
そう、イメージとしてはそんな感じですね。でもそれは、あくまでイメージに過ぎません。

実を言うと「科学とは何か」(言い換えれば「何が科学で何が科学でないか」)というのは、とても難しい問題です。何しろ、それを専門に考える「科学哲学」という学問があるくらいですから。
ところで「難しい」とはどういう意味でしょう。一体、何が「難しい」のでしょうか。
一言で言うならば、科学と科学でないもの(非科学)との間に明確な境界を引くのは事実上不可能なのです。これを、白黒つけられないという意味で「グレーゾーン問題」と呼んだりします。

「え、不可能なの?じゃあ、科学哲学なんて言っても、意味無いじゃん」などと言ってはダメです。完璧に白黒つけられないとしても、グレーの範囲を少しでも狭くしていく事は出来るのですから。
そして、更に重要な事は、たとえ「グレーゾーンの存在により白から黒までが境界無く連続的に変化する」のだとしても、それでも真っ白と真っ黒とは明らかに違う、という事です。

要するに「科学と非科学との間に明瞭な境界線を引く事は出来ない」からと言って「科学と非科学は区別出来ない」という事にはならないのです。だから「明らかな科学」と「明らかな非科学」を区別する事は、きっとアナタにも出来る筈。

ここはひとつ、なるべく難しい話には踏み込まず、ある程度確実に言える事だけを使って「科学とは何か」を考えてみましょう。これをきちんと考える事で、科学と「科学でないもの」とを見分けるのが少しでも楽になると思います。
この「ある程度確実に言える事」について、もう少し述べましょう。「科学とは何か」というテーマで話をすると、どうしても科学と非科学のボーダーライン上にあるもの(つまりグレーゾーンのもの)を話題にしがちです。それは勿論、決着が付き難いからこそ議論の対象になる訳です。それに比べるとどうしても自明な事は議論にしづらいです。
しかしここでは、自明な事から始めて考察を進めていくのを目的にしていますので、少なくとも最初のうちは、あえてグレーゾーンには踏み込みません。即ち「○○は科学である」と書けば、かなり厳しい見方をする人でも科学と認める筈だという意味ですし「××は科学ではない」と書けば、どれほど贔屓目に見ても科学とは認められない、という意味です。
具体例を挙げておきましょう。まず、明らかに科学であると認められるものは、いわゆる自然科学です。一方、明らかに科学でないものには色々ありますが、ここでは宗教とオカルトを挙げておきましょう。

ただ、ひとつだけお断りしておかなくてはならないのですが「科学である・科学でない」というのは、単に事実を述べているだけであり、そこに価値観は含まれていないのです。つまり科学であるというだけで価値があるとも言えませんし、科学ではないからといって価値が無いとも言えません。

ちなみに(御存知の方が大部分だとは思いますが)「科学じゃないのに科学の様なふりをするもの」の事を「ニセ科学」と呼びます。「似非科学」とか「疑似科学」という言葉を使う人もいます。それぞれニュアンスは微妙に異なるが、とりあえず、あまり細かい事は気にしなくても大丈夫。
ニセ科学は、しばしば社会に有害な影響を及ぼします。このブログではニセ科学についてもボチボチ考えていく予定なので、是非そちらの記事もご覧ください。

(以下は余談です)
意外かもしれませんが、私自身は、一般的に言って「○○」と「非○○」との間に明瞭な境界線を引く事は出来ない、という信念を持っています。例えば、生と死、善と悪、男と女、etc・・・どれも通常は明確に分けられます。しかしギリギリの境界を見ていくと、必ず曖昧な部分があります。
こうした考え方を、私は勝手に「グラデーション主義」と呼んでいます。
という訳で、本日の豆知識。
「PseuDoctorは、グラデーション主義者である」

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2010年9月15日水曜日

公務員組織の功罪について

このブログを見に来られる方の興味とは多少方向性の異なる話題かもしれませんが、ちょっと書いてみます。
最初にお断りしておきます。私はここで特定の思想信条に肩入れするつもりはありません。以下の文章では自らの信じるところを述べていますが、それ以外の考え方を必ずしも否定するものではありません。
従って、冷静な議論であれば(時間があり、かつ、私の気が向いた場合に限り)お受けします。気まぐれですから無視するかもしれませんし、途中で投げ出すかもしれません。あるいは何ヶ月も何年もお待たせするかもしれません。少なくとも喧嘩腰であったり揶揄する様な態度であれば、無視する確率は確実に高まります。
予め御了承ください。

さて、今回のきっかけは @kamezonia さんがまとめられたTogetter

公立病院の医師から見たお役所(公務員組織)を読んだ事です。


結論から言うと、ここで述べられている @slummy77 さんの見解に概ね同意します。
私も公立病院での勤務が結構長かったし、他の同僚に比べると行政職(いわゆる事務方と言うか、お役人)との交流も多めだったと感じています。そうした経験を踏まえた上で @slummy77 さんと同じ様な感想を抱いています。

私なりに、まとめ直してみます。
まず、公務員組織は個人に権限を持たせる構造になっていない。従って、自らの裁量で仕事するというのが著しく困難である。その為、ひとりひとりは決して悪い人ではない(個人的に良い人と悪い人との比率は、多分、他の職種と大差ないと想像する)けれども、組織の中で生きていくうちに、大部分の人は体制に順応したり開き直ったりする。ごく僅かな例外だけが、体制の隙間を縫って自らの裁量で仕事をする方策を見出すが、本当にそれは例外である。

この様に書いてみると、あたかも公務員個人に権限を持たせてもらえない事が諸悪の根源みたいに響きますが、現状がこういうシステムになっているのにも、ちゃんと理由があります。
公務員は、基本的に地位も身分も安定しています。そういう立場の人に権力を持たせるのは危険である、という考え方が基本にあるのでしょう。「権力はナマモノであり、極めて腐敗しやすい」のは、歴史が教える経験的事実です。ですから、同じ人に継続して権力を持たせる事は、なるべく避けるべきなのです。
という訳で、基本的に安定して働き続けられる公務員は権力を持ちません。Togetterの最後の方で @kamezonia さんが呟かれていた様に、良く問題になる「定期的な異動」にも、そういう側面があるのではないかと推測します。お役人がずっと同じ場所にいると、その存在自体が眼に見えない権力を持つ様になってくるからです。

では、誰が権力を持つのかと言うと、それは民意により交代させる事が可能な人です。地方自治体で言えば首長(知事、市長、町長、村長)であり、国で言えば総理大臣です。総理大臣は国民が直接選べませんが、国民が選んだ国会議員の投票により決まるので、間接的に選んでいると言えます。
以上より、公務員組織に対して希望通りに動いて欲しいと思ったら、首長選挙や国政選挙を通じて自分の考えに近い人に当選してもらえば良い、という事になります。
しかし(多くの人が感じている様に)それはあくまで「タテマエ」に過ぎません。実際には全然そうなってない。どうしてそうなっちゃうのか。

最も大きな理由は、首長や総理大臣の意向がなかなか行政に反映されないという点にあります。これには更に理由があります。行政組織は巨大であり全貌を把握するのは困難です。失礼な言い方ですが、首長や政治家は選挙に当選するのが最大の関心事(だって「落ちればタダの人」ですから)であり、当選した後にどう組織を運営していくかの具体策については、はっきり言って当選してから考える部分の方が多いのではないでしょうか。
役人出身の人が首長や政治家に選ばれる例が結構ありますが、これは本人と行政組織の双方にとって仕事がしやすいという利点があります。しかし、もしそういう理由でしか選べないとすれば、それは、何とも窮屈な「民意の反映」であると感じます(勿論これは、逆の立場の人を選ぶ場合にも言えます)。
一方で、行政組織には継続性が求められます。これにも功罪はありますが、利用する側からしても役所の対応がコロコロ変わっては困る部分も多いと思います。ですから、なかなか「変えよう」という話にはならず、どうしても「例年通り」「前例を踏襲」という方向に行ってしまいやすいのです。
そうこうしている間に、こうした状況の間隙を縫って、公務員組織の上の方にいる人達が事実上の権力を握ったりする場合もあり得ますので、それが更なる問題を引き起こしたりします。

ちょっとゴチャゴチャしてきたのでまとめますが「首長や政治家はきちんと選ばなければならない」けれども「ちゃんと選んだからといって上手く行くとは限らない」という、何とも萎える話になってしまいます。
これ、敢えて言うならば「現在の行政機構には歪みが出ており、もはや当初の設計通りに作動しているとは言い難い」という事だと考えます。やはりここは権力を分散して、公務員であっても地位に応じた権限を持てる様にする(しかし余分な権限を持ち過ぎない様にする)事が必要かもしれません。
これはとても大変な事ですが、政治を少しずつ変えていけば、何とかなるかもしれません。

そこで、最後に「政治を変えるにはどうしたら良いのか」を考えてみます。
勿論「選挙における投票行動」を通じて変えていくのが基本です。しかしそれだけで良いのでしょうか。
選挙における投票は国民の権利であると同時に義務でもあります(基本的に権利と義務とは表裏一体のものです)。しかしそれだけが権利と義務の全てではありません。

我々は全て、社会の構成員です。我々は誰でも、自らが属する社会の一員として(自らの観点から見て)社会がより良くなる様に求める権利があります。しかしそれは同時に、社会がより良くなっていく様に(自らの出来る範囲で)努力しなければならないという義務でもあります。
具体的に何をすべきかというのは、それぞれの立場によって異なります。繰り返しになりますが「自らの観点から見て良くなる様に、自らに出来る範囲で行う」のですから。

ただ、そうは言っても「今はとてもそんな事はやっていられない」「生きていくのに精一杯で、そんな余裕は無い」という方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そういう場合でも、誰にでも出来る事が、少なくとも一つ、あります。
それは「考え続ける事」です。
たとえお金が無くても考える事は出来ます。たとえ時間が無くても、寝る前に考えた疑問に対して目覚めた時に答えを思いつくという事もあります。常に「どうしたら良いか」を考え続ける事によって、状況が変化した際にすぐに対応が出来る様になります(スポーツにおけるイメージトレーニングと似ていますね)。
ですから、どうか皆さん、考える事を止めないでください。場合によっては、一旦結論が出た様に見えても、そこで止めずに更に考え続ける事も必要でしょう。

「なんだ、結局、結論は自己責任に丸投げかい!」なんて言わないでくださいね。我々の属する社会をどういう方向に持って行きたいかは、我々自身で考えるしかないのです。もし考える事を放棄すれば、それは結果として「どんな社会になっても構わない」という意思表示をしたのと同じ事になってしまうのですから。

(余談)
実は @slummy77 さんの事は、個人的に存じ上げています。私は本名を出しておりませんので先方からは解らないと思いますし、もう何年もお会いしていないのですが「相変わらず頑張っておられるなぁ」と感じました。

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2010年9月12日日曜日

ブログ開設の御祝いに対する御礼m(_ _)m

えー、思いがけず多くの方々から御祝いの言葉を頂きました。

Twitterで呟いて下さった方、有難うございます。
はてブをつけてくださった方、有難うございます。
(直接コメントくださった方には、コメント欄でお返事致します)
私は別IDでのはてなアカウントも持ってはいるのですが、殆ど使っておりません。
でも、ブラウザの拡張機能にはてブを入れているので、ワンクリックで見られるのです。
特に「一旦書いた記事に手を入れたり書き直したりする」のは「ウチなんかしょっちゅう」と言ってくださったcomplex_catさん、お蔭様で少々気が楽になりました。


実は、皆様の期待にどこまで答えられるか解らないので、やはりプレッシャーに感じている部分はあるのです。しかし、落ち着いて考えてみたところ「自分が楽しんで書かなければ、なかなか読み手に面白いとは思ってもらえないだろうなぁ」という事を思い出しました。


という訳で、基本的には「自分が楽しめる様に」書いていくつもりです。


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2010年9月10日金曜日

始めました。

何とかブログの開設にこぎつけました。
ぼちぼちやっていきます。
というわけで
コンゴトモ、ヨロシク・・・

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