最終更新日:2012年03月10日
(2012/12/26追記:「6.余談その2」について、黒猫亭さん本人からTwitter経由で御意見を頂いておりますので、今後内容を変更する可能性があります。現在の記述は暫定的なものとしてお読みください。)
(2011/12/29追記:「6.余談その2」に関しては、内容の削除や書き換えは行わず、もとの文章を残したままで追記及びコメントによって補足する事にしました。括弧でくくり「追:」を冒頭に付けた部分が、今回追記したものです。また追記で書ききれない内容をコメント欄に書いてあります)
(2012/03/10追記:「わたしたちは子供を産めますか」というTogetter経由でこちらに来られた方は、是非こちらの記事もお読みください)
1.はじめに
既に報道等で御存知の方も多いとは思いますが、2011年12月7日、早川由紀夫氏(群馬大学教育学部教授)がTwitter上での発言を問題視され、学長より訓告を受けました(本人によるまとめはこちら)。この件に関しては幾つかの論点があります。また私は震災以前の早川氏の言動も多少知っており、直接遣り取りした経験もありますので、そうした点も踏まえて、以下に述べていきたいと思います。
また、これは大切な事なので初めに書いておきますが、早川氏は衆目を集めたくてわざと暴言を吐いている節があります。ですから彼の発言をマトモに相手して軽挙妄動に走るのは控えてください。少なくとも、感情的になるのは、相手の思うツボです。
この記事を最後までお読みになれば「早川氏はマトモに相手するに値しない」という事を御理解頂けるかもしれません。
2.早川発言の問題点
報道では「殺す」「オウムと同じ」という様なセンセーショナルな部分がクローズアップされがちです。しかし、彼の発言の問題点はそれに留まりません。これはある意味、震災前から一貫しているとも言えます。
まず項目を挙げます。
1)表現が過激で乱暴である。
2)嘘吐き、もしくは無責任。
3)差別的である。
4)明らかに知識不足であり、にも関わらず(だからこそ?)俗流・独自解釈に固執する。
5)詭弁を多用する。
6)ワガママで自分勝手。
7)上記5)6)からの帰結として、しばしばダブルスタンダードに陥る。
以下、個別に解説していきます。
1)表現が過激で乱暴である。
これは冒頭にも述べた通り、彼のTweetには「殺す」「死んでも構わない」と言った表現が使われています。彼の暴言は枚挙に暇が無いのですが、そんなものを列挙しても見たくない方もおられるでしょうから、いちいち挙げません。この記事内での具体的な引用も、必要最小限に抑えたつもりです。
それでも見たい方は、Skeptic Wikiの中に、まとめられたページがありますので、そちらを御参照ください。
更に、どうしても元発言を確認なさりたいという方は、例えば彼のTwilog内を「殺」とか「死」とかで検索してみるのも一つの方法です。但し、これは本当に気分が悪くなる可能性が高いですので、決してお薦めはしません。
2)嘘吐き、もしくは無責任
伝聞ですが、12/8の記者会見では「殺すの表現は9月以降はしていない」と述べた(ソースはこちら)そうですが、これは嘘です。彼は10/25の時点でも「殺す」と述べています(その発言はこちら)。
つまり暴言を吐くだけではなく、嘘吐き(ないしは自分の発言に責任を持たない人)という事であり、これは6)の項目にも関連してきます。
また会見内でも堂々と「医学も生物学も解らない」と公言しています。それでいて「放射能」の危険を煽り「毒で死ぬ」だのと暴言を吐く訳です。この無責任さには呆れます。
更に、彼をいわゆる「早川マップ」の作成者として評価する向きもある様ですが、そのマップはそもそも彼以外の人の努力による部分が大きい(この事は本人も認めています)うえに、その内容に関してもクリティカルな批判が成されています(例えばこちらのまとめを御覧ください)。
そのまとめにも書かれていますが、早川氏は間違ったデータを安易に採用した上に、それを指摘した堀田さんの事をブロックし、勿論間違いの訂正もしていません(その一方で、どういう訳か、御自分の勤務先周囲だけは不自然に低い評価になっていますね)。つまり「デタラメをやったうえに、指摘されてもその誤りを認めない」という事です。もし彼が自分の事を科学者だと言うのなら、事実に基づいて誤りを認めて訂正すべきです。
それが出来ない者は科学者の名に値しません(いや、「それ以前の問題だ」というのも、重々承知していますよ)。
3)差別的である。
あくまで一例としてですが、彼は震災以前から血液型差別に関して極めて無神経な発言を繰り返しています(不快なのでいちいち挙げませんが)。
そして彼の持つ差別性を最も端的に表しているのが、こちらのTweetです。一般に差別とは単に差別的感情を持つだけではなく、それによって被差別者に不利益を与える事です。しかし早川さんは「差別は犯罪でもなく違法でもない」とお考えの様です。つまり他人を差別して不利益を与えても犯罪でも違法でも無いと仰る訳ですね。
ところで、早川氏は群馬大学教育学部教員養成学科の教授です。彼は公開授業に於いて、最前列で寝ていた3人の学生に対して「最初の2人には起きろと言ったが、後の1人は放置した。好きに死ぬがよい」と書いています。好意的に解釈するならば、これは「ボクが放射能の危険を訴えている授業なんだから、それを聞かないでいると死んじゃうよ」という意味なのかもしれません。しかし、起こした2人と「死ぬがよい」とまで言われた1人との間にどの様な違いがあったのか無かったのか。それについては、彼は述べていません。また、上記Tweetと前後の発言の情報を考慮すると、学生本人やその周囲の人には、これが誰の事を指しているのか、明確に解る筈です。
以上の点をまとめると、早川氏は「教授という立場にありながら、当事者が見れば個人を特定できる形で、ある学生に対して だ け 『死ぬがよい』という発言をTwitter上で公然と行った」訳です。これはかなり重大なポイントだと思います。
彼は教授ですから、教員を養成し、学生を評価する立場です。当然ながら彼の評価によって学生の進級や就職は大きな影響を受けます。そういう立場にある人が、この様な言動をしていて良いのでしょうか。
4)明らかに知識不足であり、にも関わらず(だからこそ?)俗流・独自解釈に固執する。
まず知識不足に関する一例としては「自然放射能と人工放射能は違う」という発言が挙げられます。その経緯はこちらにまとまっていますが、ここでも彼は当然の突っ込みに対して逆切れし、間違いを指摘した相手に対して「勉強してください」とまで言い放っています。
前述の様に彼は記者会見で「医学も生物学も解らない」と公言していますが、それだけに留まらず、物理学も解っていない訳です。本当に、もっと勉強してくださいよ、早川さん。
また、彼が使う「用語の独自解釈」には最初非常に戸惑いました。「どうして話がすれ違うのだろう」と何度も思ったものです。しばらくして、早川氏が用語の定義が極めていい加減であり、その一方で「自分で考えたオレ流定義に固執する」という点に気付いたのです。
かつて、私自身がニセ科学問題に関して、彼と直接対話を試みて挫折した記録がこちらにあります。その際にも言葉の定義で苦労しました(例えば科学の定義を古典的なポパーの定義のみで事足れリとしている部分など)。
また今回の件で言えば、彼は「言論の自由」「学問の自由」の意味を正しく理解していません。彼のTwilog内をこれらの言葉で検索してみると、彼がこうした用語を無節操に使用している事が解ります(この論点に関しては後述します)。
5)詭弁を多用する。
彼の述べる事は、表現の過激さや幼稚さを除くと、一見すると論理的に見えなくもありません。しかし丁寧に論旨を追っていくと、時々奇妙に論理が捻れるのです。何故捻れるのかというと、自分に都合が悪くなりそうな部分だけを誤魔化しているのですね。その為全体としておかしな結論を出してしまう。しかし一部だけ見ると論理的な部分もあるで、おかしさに気付き難いのです。
これを具体的に示す為には、ある程度丹念に論理展開を追っていく必要があるので、端的に示せないのが残念です。
また、広義には上記4)や下記6)で述べた内容も詭弁の一種と言えるかもしれません。
6)ワガママで自分勝手。
これは、彼を以前から知る人であれば、皆さん御存知かと思います。例えば、かつてこんな事がありました。要するに、自分の要求は通って当然と思っているけれど、他者からの同様の要求は拒否するのです。
一言で言えば「自分は良いけど他人はダメ」という幼稚なメンタリティです。
7)上記5)6)からの帰結として、しばしばダブルスタンダードに陥る。
一例を挙げます。彼はこちらのTweetで「学問の自由に抵触するような記事を、全国紙が書いてはいけない」と述べています。これは、朝日新聞が大学の授業内容について批判的な記事を書いた事に関してのものです。つまり早川氏によれば、新聞が大学の授業内容について批判的に言及するのは「学問の自由」に抵触する行為らしいですね。
はて、「言論の自由」は一体何処に行ってしまったのでしょう?新聞が大学の授業内容について批判するのは「言論の自由」の行使ではないのでしょうか?「言論の自由」を行使する事が「学問の自由」に抵触する?
普段からフリーダム過ぎる発言で「言論の自由」を謳歌していると思われる早川氏も、他者の「言論の自由」に関しては著しく不寛容な様です。どうやら彼が守りたいのは「自分の」言論の自由であり、「自分の」学問の自由の様ですね。つまり、彼はとにかく「ひたすら自分に都合の良い様に解釈し振舞う」という態度を取っていると推測できます。その意味ではむしろ「一貫した態度」だと言えるのかもしれません。
ともあれ、彼は言論の自由や学問の自由について、あまり理解していないと思えるので、これらについては、次項で更に考察します。
はて、「言論の自由」は一体何処に行ってしまったのでしょう?新聞が大学の授業内容について批判するのは「言論の自由」の行使ではないのでしょうか?「言論の自由」を行使する事が「学問の自由」に抵触する?
普段からフリーダム過ぎる発言で「言論の自由」を謳歌していると思われる早川氏も、他者の「言論の自由」に関しては著しく不寛容な様です。どうやら彼が守りたいのは「自分の」言論の自由であり、「自分の」学問の自由の様ですね。つまり、彼はとにかく「ひたすら自分に都合の良い様に解釈し振舞う」という態度を取っていると推測できます。その意味ではむしろ「一貫した態度」だと言えるのかもしれません。
ともあれ、彼は言論の自由や学問の自由について、あまり理解していないと思えるので、これらについては、次項で更に考察します。
3.「言論の自由」「学問の自由」との兼ね合い
「言論の自由」「学問の自由」は基本的人権(煩雑になりますので、以下では単に「人権」と書きます)の一つであり、最大限尊重されるべきです。特に「言論の自由」は「表現の自由」の一部であり、特に重要なものと言えます。この点については、いわゆる表現規制の問題と関連して、こちらの記事で述べましたので、そちらも御覧ください。
さて、「言論の自由」がそれほど大切なものならば、早川氏の発言がどれほど不快で有害なものであったとしても、発言自体は守られるべきなのでしょうか?
ここで、刑法には「名誉毀損罪」「侮辱罪」といった罪が定められています。これらは「言論に対する刑罰」であると看做せます。こうした刑罰が存在する事は、言論の自由を侵害するものではないのでしょうか。憲法に違反する法律は無効ですが、これらの刑罰は憲法違反なのでしょうか?
この疑問に答える為には「貴方の持つ人権に対抗しうるものは何か」を考えてみる必要があります。「人権は何よりも尊重されるべきだから、それに対抗できるものなんて無い」と思いますか?違いますよね。
「貴方の人権」に対抗しうるのは「他者の人権」です。つまり、貴方の人権を守る事が他者の人権を侵害する事になるのなら、それは矛盾ですので、調整する必要があります。その調整原理が「公共の福祉」だというのが、現在の通説です。公共の福祉というと抽象的なので、もう少し解り易く言うと、例えば「みんなの人権を侵害する様な場合には、貴方の人権を制限するよ」ですとか「誰かの人権を著しく侵害する場合には、みんなの人権を少しずつ制限するよ」という事になります(あくまで一例です)。
名誉毀損罪とか侮辱罪は、他者の人権を侵害しているからこそ、刑罰として成立するのです。そこまでの自由は憲法も認めていない、それ故、憲法の理念を現実に運用する為に刑法が作られているのです。
ここまで書いた事を現実に即して考えるには、スマイリーキクチさんの事例も参考になるでしょう。
この様に考えてみると、早川氏の発言が言論の自由で保護されるべきかどうかは、かなり微妙です。実際の判断は裁判所でしか出来ませんが、私見では、多くの人を公然と傷つけているのだから、既に憲法で認められた言論の自由の範囲を逸脱していると考えます。
もっとも、早川氏本人は、言論の自由の事を「無制限に好き勝手な内容を(自分が)放言する自由」という風に都合よく信じ込んでいる節があります。
一方「学問の自由」とは幾つかの自由の複合です。まず学問研究の方法や対象を自由に選ぶ権利、次に研究発表を自由に行う権利、そして教育の成果を自由に教える権利、最後にこれらの自由を守る為の大学の自治です。このうち1つめは「思想の自由」の一部であり、2つめは「表現の自由」の一部であると言えます。
そしてこれらの自由も、そもそもは国家権力の干渉を防止する為の権利なのです。ですから前述の様に、個人や団体が大学の授業内容を批判する事は別に学問の自由の侵害でも何でもありません。また学問の自由を理由にしても、他者の人権を侵害する事が無条件に認められる訳でもありません。その点は表現の自由と全く同様です。
更に、大学の自治とはあくまで学問の自由を守る為のものですから、学問の自由の保障に資さない様な形での大学の自治は、意味がありません。
ついでに書いておきますと、憲法の理念を実現する為に、それ以外の法律が制定され、改正され、あるいは廃止されます。社会の実情に合わなくなった法律は、変更されるべきです。逆に言えば「法に違反していない」というだけの理由で自己の行為を正当化するのには限界があります。
社会の変化に法の整備が追い付いていないだけなのかもしれないのですから。
4.早川氏を擁護する論調
早川氏を擁護する意見が幾つか見られたので、代表的と思われるものを挙げます。
1)過激な表現は福島の人に思いを伝える為のもの。強い言葉を使わなくては伝わらない。
早川氏を擁護する人だけでなく、御本人も会見でこうした主張をされていた様です。しかし、これは詭弁です。大体、日常生活を見たって「普通に言えば伝わるのに、乱暴に言ったせいで誤解された」なんて事は幾らでもあります。増してや、そうでなくても被災者の方々は神経質になるのが当然です。「過激な表現の方が、思いが伝わる」なんて言う人は、どれだけ人間心理に関して深い洞察をお持ちなんでしょうか(勿論、皮肉ですよ、念の為)。
ここで、仮に「過激な言葉を使った方が思いが伝わる」のだとしましょう。そうであれば、私は早川氏に対して普通に接して思いを伝えられなかった人を何人も知っています。そうした方々が、もし、早川氏に対して「殺す」とか「あんたの方こそ好きに死ねばいい」とか言ったとすれば、その方が早川氏に思いが伝わるという事になるのでしょうか(くどいですが、これは仮定の話ですよ)。
賭けても良いですが、早川氏は言った方の気持ちなんて受け止めませんよ。こういう擁護の仕方は、本人のダメさ加減(この場合はダブスタによる甘え)を助長するだけです。そういうのを「贔屓の引き倒し」と言うんです。
実際、既に(軽率にも)早川氏に向けて「強い」言葉を向けてしまっている人も複数いらっしゃいますが、果たしてその人達の「思い」が早川氏に伝わったかどうかは、こちらのまとめを見て頂ければ一目瞭然だと思います。
但し、こうした過激な物言いが一定の支持を集めているのも事実の様です。それは何故なのでしょうか。
おそらく、早川氏を支持する人(の一部)は、何らかの怒り(原発事故とは限りません)を内に溜めているのだと思います。本当はもっと怒りたいのだけれど、何に対して、どうやって怒れば良いのか解らないのかもしれません。そうした人にとって、早川氏の過激な物言いは一種のカタルシスをもたらしている可能性があります。
つまり、彼の発言は「スカッとする」ので支持している訳です。理屈ではない。だから根拠とか論理的整合性は二の次になってしまうのです。
2)「言論の自由に対する弾圧」「学問の自由の侵害」「大学自治の危機」である。おそらく、早川氏を支持する人(の一部)は、何らかの怒り(原発事故とは限りません)を内に溜めているのだと思います。本当はもっと怒りたいのだけれど、何に対して、どうやって怒れば良いのか解らないのかもしれません。そうした人にとって、早川氏の過激な物言いは一種のカタルシスをもたらしている可能性があります。
つまり、彼の発言は「スカッとする」ので支持している訳です。理屈ではない。だから根拠とか論理的整合性は二の次になってしまうのです。
この点に関しては前述しましたが、もう一度簡潔にまとめておきます。
「言論の自由」「学問の自由」は基本的人権である。だからこそ、他者の基本的人権を侵害してまで認められるものではない。これらの自由の行使が他者の基本的人権を侵害する場合には、それらの自由も制限されうる、となります。
3)早川氏は「早川マップ」の作成によって社会に貢献している。
いわゆる「早川マップ」に対する批判に関しては既に述べましたので、その事はおいておきましょう。
ここでは、仮に、仮にですよ、早川マップが文句無く有効なものであったとしても、「それとこれとは別の話」だと言っておきます。話題がタイムリーなので、まだ罪が確定していない事を承知で言ってしまいますが、例えば金メダルを取ったって準強姦罪は帳消しにはなりませんよね(繰り返しますが、勿論、あくまで犯罪の事実があれば、ですよ)。
4)早川氏は潜在的な危険を訴えているのだから、大袈裟・不正確であっても構わない。
こういう意見を見るといつも私は、イソップ物語の、狼少年(正確には「狼が来たという嘘を吐き続けた羊飼いの少年)の寓話を思い出します。彼はずっと嘘を言い続けた為に村人から信用されなくなり、本当に狼が襲ってきた時には誰にも助けて貰えず、彼の飼っていた羊は全滅してしまったのでした。
この話は一般的に「嘘は良くない」という教訓として語られる様ですが、これを羊飼い個人ではなく村全体の立場から見ると「危険性を大袈裟に言い立てる事によってリスクマネジメントに失敗した例」と考える事も出来ます。実際に襲ってきた狼は、たまたま嘘吐き羊飼いの羊だけを襲いましたが、村全体が被害に遭っていた可能性もあるからです。
村人達は、最初は羊飼いの嘘を真に受けました。何故なら、狼による危険性は現実に存在していたからです。しかし、羊飼いの(危険性を過大に言い立てる)嘘が重なるにつれ、村人達は逆にその危険性を過小評価する様になってしまったのです。ですから、現実に狼が襲ってきた際には、何も対策を立てていなかった事でしょう。
以上をまとめますと「危険性を過大に言い立てる事は、長期的に見ると却ってマイナスに作用する可能性が高い」となります。
5.余談その1:早川氏の綽名について
早川氏には、彼のTwitterアイコンから連想される、お菓子をもじった綽名がつけられており、これはかなり広まっている様です。私自身も過去に、その綽名を意識した記事を書いてたりします。
しかし、この呼称については、最初に使用した方が「過度の揶揄は好ましくない」という理由でそれを封印されている事もあり、私も現在では使用しておりません。
他者の使用を制限するつもりはありませんが、私自身は今後も使わない予定です。
ただ、上記の記事に関しては「既に言ってしまった事は、無かった事には出来ない」という考えに基づき、今回の記事へのリンクを張ったうえで、そのまま残しておきます。
6.余談その2:apjさんと黒猫亭さんとの遣り取りを見て思った事
先日お2人がこの件に関連してかなり熱い遣り取りをなさっていました。不正確になるのを承知で大雑把にまとめると
apjさん:学外での言動の責任は本人個人に負わせるべきであり、大学が関与すべきでない。具体的には被害者が法的手段に訴えるべきである。
黒猫亭さん:大学の訓告は、手続き上の瑕疵が少々あったかもしれないが、内部統制の観点から見て処分自体は妥当だったと言える。
という感じでしょうか。どちらの意見にも、それぞれ傾聴すべき部分はあると考えます。
(追:ここまでがapjさんと黒猫亭さんの主張をまとめたものです。これ以降の部分は、あくまで、それぞれの主張を拝見したうえでの「私の感想と意見」です。またここにはお二人の主張の結論のみを書いてあります。結論に至った黒猫亭さんの理路についてはコメント欄を御覧ください)
apjさんは「私怨だ」とわざわざ述べられている通り、かつて誣告によって大学当局から理不尽な扱いを受け、それに対抗する為に法的手段を取った事があります。そうした経験があるので、上記の様な意見になるのも無理からぬ点もあるでしょう(ちょっと感情的になり過ぎかな、とは思いますが、そこはやはり「私怨」なのでしょうね)。apjさんにしてみれば「内部統制」などと言われたところで、それがマトモに機能していない事は骨身に沁みている訳です。
しかしながら「被害者が法的手段に訴えるべき」という部分は、まだまだ普通の人にはハードルが高過ぎると思います。その「ハードルが高過ぎる」事こそが問題であり、司法の場はもっと万人に開かれているべきである、と私も思います。しかしそれは理想であり、現実には未だそうなっていません。そのハードルを下げる為にもapjさんが積極的に法的手続きを利用する、というのであれば、それは尊敬に値する態度ですが、全ての人にそれを求めるのには、未だ無理があると考えます。
(追:以下の段落は「感情」という言葉を不用意に用いてしまった事もあり、私の意図が伝わり難い文章になっています。この段落は飛ばして読んでいただいても構わないのですが、コメント欄に詳しい説明を書きましたので、宜しければ御覧ください)
一方で、黒猫亭さんの主張は、大学外に居る人達の持つ自然な感情に沿ったものと思われます。「あれだけ暴言を繰り返している人に何のお咎めも無いのは、組織としてどうなのだ」という感情も納得できますし「元々用意されている筈の訓告等の処分を、こういう時に使わなければ何時使うのだ、それでは社会的な立場は悪くなるばかりだぞ」というのも理解できます。
しかしながら、上述の如く、内部統制がおかしくなっている場合、それをどうしたら良いのか、という問題は残ります。今回の処分はたまたま適正だったかもしれませんが、実際に内部統制が上手く働いていない例もあり、apjさんはそれに巻き込まれた訳です。その時にどうするか、と考えると、結局、現状では「理不尽な内部統制による被害者は、法的手段に訴えろ」という事になってしまいます。
現に、apjさんの件のみならず、例えばオリンパスで内部通報をした人が不当に左遷させられた件などは、裁判沙汰になっています。
この様に見てくると、どうも私には「公正さを担保する方法が法的手段しかない」という部分こそが問題点である様に思えてきました。泣き寝入りと訴訟との間が、あまりにも広く空き過ぎているのではないでしょうか。そのギャップを埋めるものが(皆無とは言いませんが)少ないからこそ「所属組織への電凸」とかの手段が横行してしまうのではないでしょうか。
例えば、多くの方が御存知のBPOという団体があります。これは、放送(が言論の自由を行使する事)により視聴者の人権が侵害される事を防ぐ為の、独立した第三者です。勿論法的な強制力は持ちませんが、BPOの意見には一定の社会的影響力があると思われます。この様に、放送に関しては、法的手続きによらずに人権間の調整を取る機能が存在しています(充分と言えるかどうかはともかくとして)。これは、放送というマスコミの力が社会に与える影響が大きいからでしょう。
ところで、早川さんのTwitterのフォロワーは2011年12月現在で約4万人弱です(震災前には2千人未満でした)。つまり現在では、早川さんが何か呟く度に4万人弱の人がそれを目にする訳です。RTも含めれば10万人規模にもなるかもしれません。これはもう、マスコミに(匹敵するとまでは言わないにしても)準ずるレベルではないでしょうか。
要するに、ITの普及により個人が情報発信できる範囲が飛躍的に拡大した為に、個人の「自由な発言」による人権侵害を救済する機能の社会的整備が追い付いていない、そんな感想を持っています。「Twitterの発言にはTwitterで対抗せよ」というのは原則論ですが、フォロワーの数に差があり過ぎる場合には、現実的に困難です。それではまるで、マスコミによる中傷に手書きのビラで対抗する様なものです。
一方で、国立大学と教職員の関係に於いても、類似の事が言えます。私見ですが、国立大学の法人化によって大学の内部統制の力は以前よりも強くなったと考えます。その分、相対的に教職員の力は弱くなった。これまでが優遇され過ぎなのかどうかはともかくとして、大学の内部統制が適切か否かを、公正に客観的に判断する機能が弱いのは確かです。
(追:この段落で述べた論点に関しても、黒猫亭さんが既にこちらの呟きで書かれております。ですので私はここでも黒猫亭さんの見解に同意しており、そのうえで、この論点を更に強調・発展させたくて書いたものと御理解ください)
という訳で、繰り返しになりますが、泣き寝入りと訴訟との間を埋める機能がもっと整備されれば良いな、と考えています。言い換えれば、被害者が選択できるオプションがもっと増えれば良いという意味でもあります。
個人的には、裁判外紛争解決手続(ADR)の制度が、もっと活用される様になれば、と思っています。また、法務省が出している「人権委員会設置法案」はどうなのかな、とも思うのですが、こちらに関しては残念ながら、論じられる程の情報を持っていません。
今回の記事も、多くの方々の発言や議論を参考にして出来ています。apjさん、菊池誠さん、黒猫亭とむざうさん、ながぴいさん(五十音順です)、その他沢山の方の御言葉や議論が無ければこの記事は書けませんでした。謹んで御礼申し上げます。
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2.4)「自然放射線と天然放射線は違う」ご確認ください。
返信削除もとは「自然放射"能"」と「人工放射"能"」ではないですか?
「自己愛性人格障害」をウィキペディアで調べると「誇大な感覚、限りない空想、特別感、過剰な賞賛の渇望、特権意識、対人関係における相手の不当利用、共感の欠如、嫉妬、傲慢な態度」のうち5つ以上が当てはまることで示されるとある。専門医の判断はいかに。
返信削除>Masanori Hayaseさん
返信削除早川氏自身が書いているのは御指摘の通りですね。本文を修正しておきます。
むしろ「放射能」の方が更に早川氏の「物理学も解ってない感」が増す様に感じます。
>匿名さん
返信削除申し訳ありませんが、トップに書いてあります様に「名無し」での発言は御遠慮ください。勿論ハンドルネームでも結構ですが、発言者の同一性を保持する為に、宜しくお願い致します。
さて、匿名だからという訳ではありませんが、御質問にはお答え出来ません。理由は3つあります。
1.私は医師ですが、精神科の専門医ではありません。
2.仮に精神科の専門医であったとしても、いや専門であれば尚更、Web上の限定された情報だけを根拠にして判断をする事には慎重であるべきです(もっとも、匿名さんのコメントを厳密に読むと、誰か特定の個人がどうだとかは、一切書いてありません。ですから「専門医の判断はいかに」と書かれてましても、何に対する判断を求めておられるのかが明確ではありませんね)。
3.仮に判断を下す事が出来たとしても、その判断を後悔して良いのかどうかというのは、また別の問題です。
という訳で、ご期待に沿えず申し訳ありません。
本文の補足(1/2)
返信削除最初に、解り難い文章を書いてしまった事を、黒猫亭さんと全ての読者にお詫びします。
このコメントでは、黒猫亭さんの「今回の件では内部統制による処分は妥当と考える」という主張について述べます。
まず私は、記事執筆の時点から、この主張に同意しております。それは結論だけではなく、そこに至るまでの理路も含めての事です。しかし記事では結論のみを書き、そこに至るまでの理路を省略してしまいました。それには2つほど理由があります。1つは思ったより記事が長くなってしまった事、もう1つは結論を前提としたうえで、その先の話(内部統制の公正さを担保する仕組みの事です)をしたかったからです。
しかし、結論のみを書き理路を省略した為に、その後に書いた「私自身の感想と意見」があたかも黒猫亭さんの主張の根拠であるかの様に読める形になってしまいました。
そこでここでは、黒猫亭さんの「内部処分は妥当である」という意見の根拠を、改めて述べます。とは言っても、私が解釈した内容を書いたのでは同じ事の繰り返しになってしまう危険性がありますので、黒猫亭さん御自身の発言(の一部)を引用して示したいと思います。引用だらけになってしまうのはカッコ悪いですが、今回は御容赦ください。
>大学も国費や授業料で賄われている教育機関なのだから、世間の声を完全無視するわけにも行かない http://twitter.com/chronekotei/status/144689889001209856
>大学が法人化したことで尚更内部統制のツールは必要になってくる。その部分は未だ整備されていない http://twitter.com/chronekotei/status/144690325535997952
>組織である以上は内部統制の手段を持っていなければならない(中略)組織に所属する以上はそれに反する行動は制限されるべき http://twitter.com/chronekotei/status/144690739538960384
「無制限ではダメ(中略)客観的規範みたいなものを考えていかなければならないのだろうし、それが確立するまでは個別に判断するしかない」 http://twitter.com/chronekotei/status/144694804742275073
>今回の事例では、早川センセイの差別的発言が問題であり、「殺す前に殺す」発言が著しく社会通念に反することは疑いがないし、それが大学経営に対して一定の損害を与えるだろうと謂うのは合理的推測なので、何らかの処分が下されたとしても、それ自体は問題ではないはず http://twitter.com/chronekotei/status/144695555401060352
>早川センセイが訓告を受けたのは、「福島の農家に対して差別的発言をしたことで人権を侵害したからだ」と群大側は言っているはず http://twitter.com/chronekotei/status/144958030834974720
>法的に正当な服務規程なら法律よりも下位だけど個人の言動に対して強制力があるわけね。それが不服なら司法の裁定を仰ぐと謂う順序になる http://twitter.com/chronekotei/status/145001707359842306
まだ他にもありますが、より詳しく御覧になりたい方は、黒猫亭さんのTwilog
http://twilog.org/chronekotei
の、2011年12月8日~11日付近のログを御参照ください。
本文の補足(2/2)
返信削除こちらのコメントでは、本文中の以下の部分
-----ここから-----
一方で、黒猫亭さんの主張は、大学外に居る人達の持つ自然な感情に沿ったものと思われます。「あれだけ暴言を繰り返している人に何のお咎めも無いのは、組織としてどうなのだ」という感情も納得できますし「元々用意されている筈の訓告等の処分を、こういう時に使わなければ何時使うのだ、それでは社会的な立場は悪くなるばかりだぞ」というのも理解できます。
-----ここまで-----
について、何故この様な文を書いたのか、について述べます。この部分がある為に、黒猫亭さんの主張の根拠が専ら感情であるかの様に読めてしまうと推測されるからです。
既に述べました通り、この部分は黒猫亭さんの主張そのものではなく、主張に対する「私自身の感想及び意見」です。しかし勿論、感想や意見だと断れば何を言っても良いなどとは考えておりません。
つまり私はこの部分を「早川なんて酷い奴なんだから処分を受けて当然だ。それが自然な感情というものだ」という意味で書いたのでは「ない」のです。むしろ「内部統制の妥当性は、組織が社会からの負託を受けて存在しているという点に依存する」という主張を補強する例としたつもりだったのです(ただ「感情」という言葉を用いたのは、不適切だったと考えています)。
以上で述べた事を、以下で一文ずつ挙げて説明します。
>黒猫亭さんの主張は、大学外に居る人達の持つ自然な感情に沿ったものと思われます。
この文では「人達」と複数形にした部分に、黒猫亭さん個人の意見とは異なるという意味を込めています(「人達」の中に黒猫亭さんも含まれている様に見える、と言われればそれまですが)。そして「沿ったもの」という表現の中にも「似て見えるけれど違う」という意味を込めたつもりでした。
また「自然な感情」というのは上記の通り「早川はけしからんので処分されてしまえ」というものではなく「おかしな事をした輩は組織の内部統制に基づいて処分されるべきだ」という考え方(繰り返しますが「感情」という言葉は不用意で不適切でした)の事です。この点は以下で更に述べます。
>「あれだけ暴言を繰り返している人に何のお咎めも無いのは、組織としてどうなのだ」
括弧内の末尾が「組織としてどうなのだ」となっています。つまりこの台詞は「組織の内部統制がきちんと機能している事への期待感(≒きちんと機能しない事に対する不満感)の例」として書いたつもりだったのです。確かに紛らわしいですね。
>「元々用意されている筈の訓告等の処分を、こういう時に使わなければ何時使うのだ、それでは社会的な立場は悪くなるばかりだぞ」
前の文もそうですが、この文全体が、大学組織に向けてのものです。早川氏に向けたものではありません。
「元々用意されている筈の訓告等の処分」という部分で、既に内部統制の仕組みが存在している事を示しています。そして「こういう時に使わなければ何時使うのだ」の部分は、内部統制の仕組みだけ存在していても、それを有効に機能させなければ意味が無い、という気持ちを現わしています。そして「それでは社会的な立場は悪くなるばかりだぞ」の部分に、組織の内部統制は社会の負託の下で存在しているものなのだから、それをきちんと使いこなせなければ社会から受け入れられなくなるぞ、という意味を込めています。
という訳で「早川はけしからん、だから処分されて当然」というのは、黒猫亭さんの御意見ではありません。
勿論、私もそんな風には考えていません。
「大学外にいる人達の自然な感情」がその様なものであるとも思っておりません。
きちんと筋道立てて考えたうえで「今回の処分は妥当である」と結論付けるのと「あんな奴は処分されて当然だ」と考えるのとでは、結果的には似ているかもしれませんが、内容は違います。
私の中ではその違いを認識していたつもりですが、文章にきちんと表現し切れなかったのは「私の筆の拙さ」と「このくらいは好意的に読み取ってくれるだろうという甘え」の故だと考えます。
その意味で、今回は改めて自省する良い機会になったと、前向きに捉えようと思います。
度々お邪魔します。修正ありがとうございました。もう一度、ご確認ください
返信削除2.4)「自然放射能と天然放射能は違う」
もとは「自然放射能」と「"人工"放射能」ではないでしょうか?そして、この二つの違いは、元素の違いにより化学的挙動が違うため、懸念すべき違いではないのでしょうか?
>Masanori Hayaseさん
返信削除うわぁ、折角御指摘頂いていたのに、大変失礼しました。直します。
さて、御指摘の「元素の違い」という観点も確かにあるのですが、それに対する反論を書きます。
1.完全な「人工」の元素は無い。
いわゆる「人工放射能」の元とされる元素は放射性セシウムやプルトニウム等だと思いますが、実はこれらの元素は天然にも存在しています。ですので「人工放射能」というのはあたりません。
ただ、そうは言っても「天然には少量しか存在しない放射性元素に大量曝露されたら、やはり状況は違うのではないか、それが科学的挙動の違いという事ではないか」という御意見はあると思います。それについては以下で。
2.元素による科学的挙動の違いは既に考慮されている。
現在問題になっているのは主に放射性セシウムです。プルトニウムの放出は極めて微量であったと考えられますし、放射性ヨウ素は既に半減期の20倍以上の時間が経過していますので、100万分の1以下に減少している筈です。従って現在では主にセシウムについて考えれば良い事になります。
勿論元素によって体内動態は異なりますが、セシウムという単独の元素が相手であれば、その体内動態を考慮して被曝量を考えるのはそれほど難しい事ではありません。
3.自然放射線には耐性が出来ているというのは嘘。
例えば、代表的な自然放射線であるラドン。これは肺癌の原因です。人類が進化により自然放射線に対する耐性が出来ているのであれば、ラドンによる肺癌など発生しないという事になってしまいますが、現実には違うのです。
修正およびコメントありがとうございました。
返信削除私はPseuDoctorさんとは異なり、体内動態を考慮して被曝量を考えるのは非常に難しいと考えています。たとえば、放射性Csが吸着したゼオライトがnmから数μmの粒子となって、肺に吸引された場合など、未解明かと思います。(放射性の有無に関わらず、体内でのナノ粒子の挙動は未解明な点が多いはずです。)
私が懸念する放射性土壌微粒子の影響については、Rnのほうが量的に多そうなので、小さいだろうとは思っています。しかし、これは、定量的なデータも乏しい科学的ではない判断です。
このような理由から、早川氏の他の言動はどうであれ、「自然放射能と人工放射能は違う」と懸念すること自体は、十分、科学的だと考えています。
>Masanori Hayaseさん
削除お返事が遅くなりました。
まず再確認したいのですが「自然放射能と人工放射能は違うかどうか」についてのお話でしたよね?しかし、Masanori Hayaseさんが仰っているのはどうも、ゼオライト微粒子の体内動態についてのお話の様に思えます。だとすると、ゼオライトが吸着するのはセシウムだけなのかどうか、そのセシウムが放射性なのか非放射性なのか、増してや、そのセシウムが「天然」なのか「人工」なのか、そういった部分については如何でしょうか。幾ら「ゼオライト微粒子の体内動態には不明な部分がある」という話をされても、それが「自然放射能と人工放射能とは違う」という話には、直接は結び付かないと思います。
まぁ、御自身でもRnに比べると影響は少ないと判断されている様ですから、あまりこだわる必要も無いのかもしれません。ただ、仮に、ゼオライト粒子に吸着した放射性セシウムを問題にするとしても、その場合に注意すべきはあくまで被曝量であり、それが自然か人工かという部分を気にし過ぎると、却って判断を誤る様な気もします(「自然放射能に対しては進化の過程で耐性を獲得している」などというヨタ話を飛ばす輩が居るくらいですから)。
なお、私もゼオライト微粒子の件はそれほど心配してはおりません。何故なら、もし肺への吸入が問題になるほど放射性の微粒子が飛散しているとすれば、それは空間線量の上昇という形で検出する事が可能であると考えるからです。
ご返事いただいていたのですね。ありがとうございます。ただ、私の意図したことが伝えられていなかったので、くどいですが、書き込み致します。
削除1Bqの純物質の大きさを考えてみます。私の計算が正しければ、K40では、一辺0.17mmの立方体、Cs137は590nm、Cs134は240nm、I131は28nmになります。大きさがまるで違います。私が、自然放射能と人工放射能が違うと判断する一番大きな要因です。
1BqのK40は細胞よりはるかに大きく、0.17mm角の粒子など、なかなか肺胞に入り沈着することはないでしょう。一方、1BqのCs134ならば、240nm角ですから、細胞膜すら通り抜けられるほどの小ささであり、容易に肺胞にまで入り込めます。実際には、KやCsは反応性が高いですから、上記のようなことはありません。
しかし、汚染地域では、地面表層にK40などよりも遥かに高Bq濃度で放射性Csが堆積しています。そして、ゼオライト等の土壌粒子に吸着しているはずです。そこでは、自然に存在するK40やU,Th,Ra等の放射性物質よりも、圧倒的に高濃度(体積あたりのBq数が大きい)の放射性Csが吸着した微粒子が多数形成されていると考えられます。こうした、微粒子の吸引を警戒しています。
Csのゼオライト系土壌への吸着はKより強く、なかなか外れないそうですので、不溶性のゼオライト微粒子とともに、肺内部に沈着すれば、しばらく定位置に留まり、周辺の細胞は集中的に放射線にさらされることになります。
K40等の自然由来の放射性物質はBq当たりの体積が大きいですから、1つの肺の細胞に毎秒1発の放射線を当てることなどまず不可能です。一方、放射性Csならば、十分可能です。こうした違いがあるので、「自然放射能と人工放射能は違う」は科学的と考えています。
専門家は http://www.jrias.or.jp/index.cfm/1,14676,c,html/14676/20110909-103902.pdf にあるように、こうした局所的な被曝は、細胞死を引き起こすので、影響はむしろ小さくなると言います。しかし、それならばなぜα線の荷重係数を20にもするのでしょうか?
また、http://www.rea.or.jp/ire/pdf/report4.pdf では、低線量被曝でも、原発作業者の肺癌発症が有意に高いことを示しています。報告書では、喫煙由来の可能性を示唆していますが、私は人工放射性物質の僅かな吸引によるものではないかと疑っています。
自然放射能では、短時間に同一細胞が照射されることはなかなかありませんが、上記のように人工放射能では容易に起こり得ます。したがって、「自然放射能に対しては進化の過程で耐性を獲得している」というのも、あながちヨタ話ではないと私は考えています。
>Masanori Hayaseさん
削除どうも、やはり仰る内容が良く解りません。
まず純物質の話をお書きになったかと思えば、自然界には純物質のままでは殆ど存在しない事も理解していらっしゃるご様子。
それから、前にも書きましたが、自然界にも放射性セシウムは僅かですが存在しています。それをわざわざ「人工放射能」と表現される事に違和感を表明している訳です。
それから、ゼオライトの微粒子に吸着した放射性物質の御心配をされている様ですが、これは幾重にも仮定を重ねた話ですよね。ですから危険性の見積もりが過度になっているのではないかと、逆にそれを危惧します。もし本当にゼオライト微粒子が高濃度の放射性物質を吸着し、それが大気の吸入により肺に取り込まれるのであれば、大気をフィルターにかけ、そこに引っ掛かった物質の線量を測定すれば検出できる筈です。
いずれにしても、これだけ複雑で論点が複数ある話を「自然放射能と人工放射能は違う」という、ある意味解り易いフレーズでまとめてしまう事は、むしろ危険だと考えます。
私も、PseuDoctor さんおっしゃることがわかりませんでしたが、下記のコメントで良くわかりました。的外れな議論で、失礼いたしました。
削除【放射性セシウムは僅かですが存在しています。それをわざわざ「人工放射能」と表現される事に違和感を表明している訳です。】
ただし、多くの人は、Cs137,Cs134を人工放射能と判断するのではないかと思います。なお、私は、”自然に存在する物質であっても、人為的に精製あるいは濃縮したものが、自然界ではありえない濃度なっていれば人工物”と考えて、今回コメントしてきました。自然由来のCs134は、一体、いかほど地球に存在するのでしょうか?また、その自然由来のCs134を人間はどれほど体内に取り込むのでしょうか?ご存知でしたら、お教えて頂けないでしょうか。
また、以前【肺への吸入が問題になるほど放射性の微粒子が飛散しているとすれば、それは空間線量の上昇という形で検出する事が可能】と返信頂きました。地表面にあるものが再浮遊しても、地上1mにおける空間線量はほとんど変わらないか、むしろ上空高くまで舞い上がることにより、空間線量は低下するのではないでしょうか?そこで、述べてきたようなことを懸念するのです。
【本当にゼオライト微粒子が高濃度の放射性物質を吸着し、それが大気の吸入により肺に取り込まれるのであれば、大気をフィルターにかけ、そこに引っ掛かった物質の線量を測定すれば検出できる筈です。】この方法では、ゼオライト系の土壌に吸着して、セシウムが溶出しにくい粒子になっているかはわかりません。しかし、まさに、こうしたダストサンプリング測定を砂ぼこりの立つ悪条件下で行って欲しいと思っています。自分でもやりたいところですが、空間線量を測るよりも格段に敷居が高く、出来ずにいます。
それから、【自然界には純物質のままでは殆ど存在しない】ことは述べたとおりですが、今回は、一種、蒸留に近い作用でセシウムが放出されているのではないでしょうか?純物質までいかなくても、かなり純度の高い微粒子が飛んだのではないでしょうか。
「幾重にも仮定を重ねた話」とのことですが、私の挙げた程度の仮定が認められないのであれば、多くの科学的議論が成り立たないのではないかと思います。特に、防護を目的とするならば、なおさらだと思います。
>Masanori Hayaseさん
削除いや、こちらこそ解り難いコメントで失礼しました。私としては、当初から「自然放射能と人工放射能は違う」という意見に疑問を呈していたつもりでおります。ですから、どうしてMasanori Hayaseさんがその様に仰るのかをお尋ねし続けていた訳です。色々と脇道に入ってしまったせいで解り難くなったとは思いますが、基本的にはそういう事です。
さて、Masanori Hayaseさんのお考えだと
>自然界ではありえない濃度なっていれば人工物
とのお考えですが、これはちょっと「不自然」な考え方だと思います。例えばサプリメントなどでは、よく「一粒に○○100個分の××が含まれています」などの宣伝を行っております。この場合、含まれている成分は「自然界では有り得ない濃度」になっていると思いますが、これも「人工物」という事で宜しいのでしょうか。当該サプリメントは「天然成分100%」を謳ったりしている訳ですが。
屁理屈と思われるかもしれませんが、要するに「こういう場面で敢えて「自然と人工」を対比させる事に何の意味があるのか」という事です。一部には「自然なら安全、人工は危険」という短絡した思考をする方もいらっしゃいますので、私はそうした傾向を憂いているのです。「自然なら安全」などという事は全くありません(その良い例が、以前にもコメントしましたラドンガスです)。いみじくもMasanori Hayaseさんも仰っている通り、濃度(つまり、被曝量)が問題なのであり、自然由来か人工由来かは関係ありません。
以上の点を踏まえた上で。
どうも、Masanori Hayaseさんが問題にしていらっしゃる「高濃度セシウムを吸着したゼオライト微粒子」の話は、とっくに否定されている「ホットパーティクル説」と放射性セシウムの危険性とを合体させた珍説の様に思えてなりません。色々と述べられていますけれども、クリティカルな部分だけ指摘させて頂きます。
>【自然界には純物質のままでは殆ど存在しない】ことは述べたとおりですが、今回は、一種、蒸留に近い作用でセシウムが放出されているのではないでしょうか?
「蒸留に近い作用」が起きると、化合物が純物質に変わるのですか?どうもMasanori Hayaseさんは「不純物を含んだ純物質」と「純物質ではない化合物」との区別がついていない様ですね。私が「純物質では存在しない」と書いたのは「純度の高い物質としては存在しない」というだけの意味ではありません。むしろ「化合物として存在している」という意味で書きました。分子や原子の大きさを問題にしていらしたので、純物質と化合物の違いくらいは御存知であり、化合物の分子の方が純物質よりも遥かに大きいという点も認識していらっしゃると思っていたのですが。どうやら私の見込み違いだった様です(2つ前のコメントで気付いておくべきでしたorz)。
失礼な言い方になってしまうので先に謝っておきます。せめて高校程度の物理や化学の知識は、再確認された方が良いかと思います(もしも、Masanori Hayaseさんが高校生以下でいらっしゃるのであれば幸いです。これから勉強すれば良い事ですから)。
>「幾重にも仮定を重ねた話」とのことですが、私の挙げた程度の仮定が認められないのであれば、多くの科学的議論が成り立たないのではないかと思います。
簡単に「私の挙げた程度の仮定」と仰っていますが、一体、御自分がどれほどの事を仰っているのかお解りですか?Masanori Hayaseさんの御説に従えば、
1)土壌中に極めて高濃度のセシウムが残留しており、
2)その高濃度のセシウムがゼオライト粒子に数多く吸着しており、
3)そうしたゼオライト粒子が空中に舞い上がって肺に吸入され、
4)一旦吸入されたゼオライト粒子は決して排出される事は無く、
5)局所的に高線量に晒される事によって肺がんの発生率が上がる
という事ですよね。このうちどれか1つでも否定されれば、論全体が成り立たなくなります。従って御説が成立する確率は1)~5)のそれぞれが正しい確率を全て掛け合わせたものになります。1つ平均で1/10ならば全体では10万分の1になります。1つ平均で1/100なら100億分の1です。
「仮定に仮定を重ねる」とはそういう事です。「科学的議論」などと仰るのであれば(厳密に計算できるかどうかはともかくとして)確率の大きさを(概略であっても)無視してはいけません。
>特に、防護を目的とするならば、なおさらだと思います。
これも、まるっきり逆です。防護を目的とするからこそ、確率の大きさが問題になるのです。危険度(発生する確率×発生した時の被害の大きさ)の大きなものから順番に対応していくべきです。「仮定に仮定を重ねて発生確率も定かではなくなってしまった仮説に対処する前に、する事は幾らでもある筈だ」というのが私の考えです。
例えば、仮に、御説が全て正しかったとしても、それにより発生する最悪の事態は「肺がんの発生率が上がる」というものですよね。であれば、がん検診をきっちりやる様にするのが、最も現実的に役に立つ対応方法だと考えます。
いずれにしても(繰り返しますが)「自然放射能と人工放射能は違う」などというヨタ話とは、もはや全く無関係な議論になってしまいました。
コメントありがとうございました。いろいろと意見が食い違いますね。理解しあうには、壁が高すぎそうですので、これで終わりにします。
削除私にとっては、サプリメントは人工物です。ですから、自然に得られる場合にはあり得ない副作用があると思っています。
なお、かなり信用が高いと思われる
http://www.jcac.or.jp/method_artificial.html
ここでも、人工放射性核種、自然放射能という言葉が使用されています。PseuDoctorさんが認めない言葉というのは分かりましたが、他者が使うことは認めても良いように思います。
"とっくに否定されている「ホットパーティクル説」"この点は、私の不勉強です。ぜひ、いろいろと教えていただければ幸いです。先に示した日本アイソトープ協会のトロトラストの例で否定できているとはとても思えません。また、先に示した放射線影響学会調査を、もっと精確かつ公正行えば、肯定されてしまうのではないかと懸念しています。さらに、原発を操業している(したい)状態では、公正な研究はなされないと思っています。
化合物と純物質の違いも承知の上のお話をしていたつもりです。雨で降ってきた当初のセシウム化合物の大きさは、体積でセシウム単体の高々数倍でしょう。その上で、放射性セシウムの方が、放射性カリウムより濃縮している可能性を示したつもりです。純物質、一辺240nmと0.17mmの差は影響すると思います。
それから、
”4)一旦吸入されたゼオライト粒子は決して排出される事は無く”
こうした決めつけは良くないと思います。排出されないとは言っていません。私は、ICRPが想定している肺胞滞在時間よりも桁が違うほどにまで長くなることを懸念しています。おそらく、ゼオライト粒子は、肺の後、肝臓に行き、そこでもまた、ICRPの想定よりも長く滞在すると懸念しています。
”防護を目的とするからこそ、確率の大きさが問題になるのです。”
計算された確率が十分精度良ければ、おっしゃることに説得力を感じます。しかし、私は、以前述べたとおり、体内動態を考慮して被曝量を考えるのは非常に難しいと考えています。したがって、確率が正確に見積もれていないと考えるわけです。
実際の政策では、現状のモデルに基づいた確率で物事を進めることは重要だと思います。しかし、理解出来ていないことがあることを理解し、また今までの理解が正しいか検討し続けることが科学的だと思います。
一例として、”とっくに否定されている「ホットパーティクル説」と放射性セシウムの危険性とを合体させた珍説”を挙げたまでです。”決して排出される事は無い”等の誤解は修正していただき、しっかり科学的に否定していただければ、とても有難いです。
最後に、私の考えをまとめておきます。現在までの知見よりも桁違いに大きな被害が出るとは考えていません。しかし、人工放射性核種は体積当たりの放射能が大きい状態で存在することが多く、化学的挙動も自然放射性核種ほどは理解されてはいない。これらに起因して、自然放射性核種では起こりえなかった被害が人工放射性核種により引き起こされる可能性は否定できない。既にSr90などは危険性が認識されている。
ということです。ですから、「自然放射能と人工放射能は違う」は与太話とは思いません。
>Masanori Hayaseさん
削除「意見が食い違っている」という点を御理解頂けて嬉しく思います。取り敢えずは、その点だけでも御認識頂ければ宜しいかと。
私が最も申し上げたかった事は「未知の危険性を過大に評価する事は避けるべき。何故なら自然界にも人間界にも、我々の生命や健康を脅かす既知の危険が無数に存在しており、未知の危険性を過大評価すると、それらの既知の危険を軽視する事に繋がりかねないから」です。
Masanori Hayaseさんは、様々なデータを駆使して理性的に考える事の出来る方だとお見受けしました。ですので是非とも、放射線以外の様々な危険性(例えば、感染症とか、精神的ストレスなど)についても目を向けて頂ければと願います。
「これで最後」との事ですので、もう何点か申し上げておきます。
まず「ホットパーティクル説」に関しては、例えばこちらのまとめ http://togetter.com/li/261741 が参考になると思います。BB45_Coloradoさんは、どちらかと言えば危険よりの判断をする方であり、私とはかなり見解が異なります。しかしそのBB45_Coloradoさんにしても「完全に死んだ学説」とまで仰っている訳です。
次に、
>雨で降ってきた当初のセシウム化合物の大きさは、体積でセシウム単体の高々数倍
本当にそうですか?「体積で高々数倍」という事は、直径にすれば2倍にも満たないですね。それと分子間の距離も大きな要素だと思いますが。
いや、私も正確に知っている訳ではないですよ。でもMasanori Hayaseさん御自身が、殆ど存在していないセシウム単体に関しては1Bqに相当する大きさに関して詳しく計算なさっておられたのに、実際に存在している化合物に関しては「高々数倍」で済ませておられる。お返事を頂く必要は無いですが、今一度お考え頂ければと思います。
前のコメントにも書きましたが、条件を追加する度に、それが真実である可能性は減少していくのです。多くの仮定による前提を置いておきながら、それを支持する客観的証拠に乏しい、というのが、失礼ながらMasanori Hayaseさんの御説の現状だと認識しています。
放射線対策の為には行わなければならない事が沢山あります。これも繰り返しになりますが「真贋不確か(というよりも真実であると信じる理由に極めて乏しい)ものに割いている労力は無い」というのが私の考えです。
最後に、
>PseuDoctorさんが認めない言葉というのは分かりました
認めない等と書いた覚えはありません。私が一貫して申し上げているのは「自然放射能と人工放射能は 違 う というのはおかしい、それはヨタ話である」という点です。放射「能」という用語は不正確に使われがちだという懸念は持っておりますが、用語そのものを否定したつもりはありません。
更に http://www.jcac.or.jp/method_artificial.html を引き合いに出しておられましたが、同じサイト内の http://www.jcac.or.jp/method_2.html を見ますと、きちんと自然放射「線」と人工放射「線」と書いた上で、
>ただし、放射線自体に変わりはありません。
>自然放射線だから身体に良く、人工放射線だから身体に悪いというようなことはないのです。
と明確に述べてあります。
これは、私が最初から述べている事と同じです。いみじくも、Masanori Hayaseさんが引用なさったサイトの中に、私の当初からの主張と同じ内容が書いてありました。
Masanori Hayaseさんも「これで終わりにします」との事ですし、私の方も、これ以上続けていても同じ事を繰り返して述べるだけになってしまいますので、終わりにしたいと思います。
私のコメントが、少しでもMasanori Hayaseさんのお役に立てば幸いです。
ありがとうございました。
私のブログにしては沢山のはてブコメを頂いているので、幾つかにコメントを致します。
返信削除tari-Gさんのブコメ:「正直、ネット医師でまともに科学的思考ができる人は実際には極めて希。特に人権論などの社会科学的テーマでは、見ての通り本当に駄目すぎる。」
わぁい、一部で大人気の、たり爺さんにブコメ貰っちゃったぁ・・・というネタはおいといて。
仮に「見ての通り本当に駄目すぎる」という御意見が真実であるのならば、少しでも人権論に詳しい人が見れば、ほぼ一瞬で私の論のダメさが解る筈、という事になりますね。
ところで、私は細々とTwitterをやっておりますが、私のフォローやリストの中には、私よりも人権論に詳しいと思われる方々が複数おられます。そして、そうした方々は、明らかに今回の記事を御覧になっておられます。で、私の見る限り、そういった方々は、私がダメ過ぎる論を展開した時にスルーしてくださるほどお優しくない筈です(爆)。また今回の記事は、有り難くも相当多数の方々に御覧頂けましたので、本当に一瞬で解るほどダメなのであれば、tari-Gさん以外の方からもツッコミが入る筈だと考えております。
だけど実際には、上記の様な事を仰っているのは(今のところ)tari-Gさん御一人だけなのです。
settu-jpさんのブコメ:「早川氏の処分については妥当だと考えるが同調圧力を認めるこちらでの理路については違和感がある。コメントすべきか…/トラックバックがないのが困る」
申し訳ありません。トラックバックが無いのはブログの仕様なのです。
それはともかく、私の意見が「同調圧力を認める」かの様に読み取られましたのは、これも私の筆力の拙さと言う他はありません。おそらく「大学といえども社会の負託を受けている事を忘れてはならない」という主張から、その様に読み取られたのだと思います。しかし、私が「社会からの負託」という表現に込めたかった思いは「内部統制をきちんとやれ」という事だったのです。
言い換えれば「自分達は内部統制をきちんとやっている」と堂々と示せる事、それこそが社会からの負託に応える行為だと考えています。外部からの同調圧力に安易に迎合すると、自分達では内部統制がきちんと出来ないのではないかと疑いたくなってしまいます。
その意味で今回の訓告に対しては、処分そのものはともかく、その理由について「外部からの指摘」が理由であるとも読み取れる記載が訓告書にあったのは納得できません。これではまるで、大学当局が外部からの同調圧力に屈したかの様に見えます。それでは内部統制の放棄ないし軽視になってしまいますので、それはまずいと考えます。
以下の方々はIDのみとさせて頂きます。
fuka_fukaさん:ツッコミ待ちのボケだったのに、放置しちゃってごめんなさい。
doramaoさん:お元気ですか~ノシ
その他の方々も、ブクマ有難うございました。