コミケを風疹から守り隊

2010年9月25日土曜日

S01-02:科学は何の為にあるのか?

初回公開日:2010年9月16日
最終更新日:2010年9月25日

さて、いよいよここから実際に「科学とは何か」を考えていきましょう。考える為の取っ掛かりは幾つかあるでしょうが、とりあえずは、タイトルにも挙げた、この質問から。

「科学とは何の為にあるのでしょうか?」
これは、言い換えれば「科学が目標としているものは何か?」という質問でもあります。もし科学が目指しているものがおぼろげにでも解れば「その様な目的を持っているところの存在」として科学を捉える事が出来るかもしれません。そう考えたので、この質問を取っ掛かりに持ってきたのです。
さぁ、どう思いますか?

例えば、こんな答えなら、どうでしょう。
「人類の幸福の為」とか「社会の発展の為」とか。
はい、どちらも確かに素晴らしい答えです。でも、何て言うか、それだけだと、どうもちょっとキレイ事すぎる感じがしてしまいます。勿論、結果として人類の幸福とか社会の発展に役立てば、それに越した事はありません。
でも、そういう御大層な目的を持たなければ、科学に関わる事は出来ないのでしょうか。それよりも手前に、もっと普通っぽい科学の目的だって、あっても良いのではないでしょうか。

勿論、私はあると信じています。それは「未知のものに対する憧れ」と深く関わっています。未だ見ぬものを知りたいと思う気持ち(知的好奇心)とは、人間の基本的な欲求であると考えます(何故そうなのか、というのも非常に興味深いテーマですが、それを述べ始めると話題がどんどん拡散してしまうので、今回は触れません)。
そして、その知的好奇心に、しっかりと応えてくれるのが科学なのです。科学は、我々の「知りたいという欲求」を満たしてくれます。但し、完全に、ではありません。「限り無いもの、それが欲望(知ってる人は歌いましょう)」なのですから、欲望が完全に満たされるという事は、あり得ません。
そして、その「知的好奇心が完全に満たされる事は永久に無い」という事実こそが、科学の絶え間無い発展に結び付いているのです。

あれ?でも、知的好奇心に応えてくれるのは科学だけなのでしょうか。いわゆる「学問」であれば、どれも「知りたいという欲求」を満たす役に立ちそうですが。
確かに、そんな気もします。でも一遍に論じるのも大変ですので「科学と他の学問との違い」については、別の記事で、また改めて書く事にしましょう。

もう少し違う言葉で書きます。
「科学の目標」には大まかに言って2つの座標軸があると考えます。1つは「社会の為-自分の為」という軸。そしてもう1つは「知的好奇心を満たす-現実の役に立つ」という軸。これらをそれぞれX軸とY軸に設定すれば、各人が科学に対して求めている目標をプロットする事が出来るでしょう。
原点に近いほどバランスがとれていると言えますが、バランスが取れていなければならないというものでもありません。

以上をまとめると科学とは、我々の知りたいという気持ち(知的好奇心)に応える事を通じて、人類の幸福や社会の発展に役立っていく学問であると言えます。これでもちょっとキレイにまとめすぎかもしれませんが、まあ、今のところは、この位に考えておきましょう。

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S01-01:「科学とは何か」という難問

初回公開日:2010年9月12日
最終更新日:2010年9月25日

皆さんの中で、科学という言葉を聞いたことの無い人は、まずいないでしょう。そして、このブログを読まれる程の方でしたら、科学が我々の生活に欠くべからざるモノであることも(ごく一部のへそ曲がりの御仁を除けば)殆どの方には賛成してもらえるものと思います。
そう、例えば、インフルエンザを予防するのも、がんを治療するのも、科学によってもたらされた結果と言えます。もっと身近な例を挙げれば、パソコンもインターネットもカーナビも、日食の予想が出来るのも、新幹線が走るのも、みんなみんな科学の力があればこそ、ですね。

でも、改めて「科学ってなんだろう」と尋ねられたら、なんと答えれば良いのでしょう?
はい、そこのアナタ。
「えーと、その、何だ。白衣着た科学者が試験管振ったり黒板に数式書いたりして、何か研究とかしてるんだろ?」
そう、イメージとしてはそんな感じですね。でもそれは、あくまでイメージに過ぎません。

実を言うと「科学とは何か」(言い換えれば「何が科学で何が科学でないか」)というのは、とても難しい問題です。何しろ、それを専門に考える「科学哲学」という学問があるくらいですから。
ところで「難しい」とはどういう意味でしょう。一体、何が「難しい」のでしょうか。
一言で言うならば、科学と科学でないもの(非科学)との間に明確な境界を引くのは事実上不可能なのです。これを、白黒つけられないという意味で「グレーゾーン問題」と呼んだりします。

「え、不可能なの?じゃあ、科学哲学なんて言っても、意味無いじゃん」などと言ってはダメです。完璧に白黒つけられないとしても、グレーの範囲を少しでも狭くしていく事は出来るのですから。
そして、更に重要な事は、たとえ「グレーゾーンの存在により白から黒までが境界無く連続的に変化する」のだとしても、それでも真っ白と真っ黒とは明らかに違う、という事です。

要するに「科学と非科学との間に明瞭な境界線を引く事は出来ない」からと言って「科学と非科学は区別出来ない」という事にはならないのです。だから「明らかな科学」と「明らかな非科学」を区別する事は、きっとアナタにも出来る筈。

ここはひとつ、なるべく難しい話には踏み込まず、ある程度確実に言える事だけを使って「科学とは何か」を考えてみましょう。これをきちんと考える事で、科学と「科学でないもの」とを見分けるのが少しでも楽になると思います。
この「ある程度確実に言える事」について、もう少し述べましょう。「科学とは何か」というテーマで話をすると、どうしても科学と非科学のボーダーライン上にあるもの(つまりグレーゾーンのもの)を話題にしがちです。それは勿論、決着が付き難いからこそ議論の対象になる訳です。それに比べるとどうしても自明な事は議論にしづらいです。
しかしここでは、自明な事から始めて考察を進めていくのを目的にしていますので、少なくとも最初のうちは、あえてグレーゾーンには踏み込みません。即ち「○○は科学である」と書けば、かなり厳しい見方をする人でも科学と認める筈だという意味ですし「××は科学ではない」と書けば、どれほど贔屓目に見ても科学とは認められない、という意味です。
具体例を挙げておきましょう。まず、明らかに科学であると認められるものは、いわゆる自然科学です。一方、明らかに科学でないものには色々ありますが、ここでは宗教とオカルトを挙げておきましょう。

ただ、ひとつだけお断りしておかなくてはならないのですが「科学である・科学でない」というのは、単に事実を述べているだけであり、そこに価値観は含まれていないのです。つまり科学であるというだけで価値があるとも言えませんし、科学ではないからといって価値が無いとも言えません。

ちなみに(御存知の方が大部分だとは思いますが)「科学じゃないのに科学の様なふりをするもの」の事を「ニセ科学」と呼びます。「似非科学」とか「疑似科学」という言葉を使う人もいます。それぞれニュアンスは微妙に異なるが、とりあえず、あまり細かい事は気にしなくても大丈夫。
ニセ科学は、しばしば社会に有害な影響を及ぼします。このブログではニセ科学についてもボチボチ考えていく予定なので、是非そちらの記事もご覧ください。

(以下は余談です)
意外かもしれませんが、私自身は、一般的に言って「○○」と「非○○」との間に明瞭な境界線を引く事は出来ない、という信念を持っています。例えば、生と死、善と悪、男と女、etc・・・どれも通常は明確に分けられます。しかしギリギリの境界を見ていくと、必ず曖昧な部分があります。
こうした考え方を、私は勝手に「グラデーション主義」と呼んでいます。
という訳で、本日の豆知識。
「PseuDoctorは、グラデーション主義者である」

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2010年9月15日水曜日

公務員組織の功罪について

このブログを見に来られる方の興味とは多少方向性の異なる話題かもしれませんが、ちょっと書いてみます。
最初にお断りしておきます。私はここで特定の思想信条に肩入れするつもりはありません。以下の文章では自らの信じるところを述べていますが、それ以外の考え方を必ずしも否定するものではありません。
従って、冷静な議論であれば(時間があり、かつ、私の気が向いた場合に限り)お受けします。気まぐれですから無視するかもしれませんし、途中で投げ出すかもしれません。あるいは何ヶ月も何年もお待たせするかもしれません。少なくとも喧嘩腰であったり揶揄する様な態度であれば、無視する確率は確実に高まります。
予め御了承ください。

さて、今回のきっかけは @kamezonia さんがまとめられたTogetter

公立病院の医師から見たお役所(公務員組織)を読んだ事です。


結論から言うと、ここで述べられている @slummy77 さんの見解に概ね同意します。
私も公立病院での勤務が結構長かったし、他の同僚に比べると行政職(いわゆる事務方と言うか、お役人)との交流も多めだったと感じています。そうした経験を踏まえた上で @slummy77 さんと同じ様な感想を抱いています。

私なりに、まとめ直してみます。
まず、公務員組織は個人に権限を持たせる構造になっていない。従って、自らの裁量で仕事するというのが著しく困難である。その為、ひとりひとりは決して悪い人ではない(個人的に良い人と悪い人との比率は、多分、他の職種と大差ないと想像する)けれども、組織の中で生きていくうちに、大部分の人は体制に順応したり開き直ったりする。ごく僅かな例外だけが、体制の隙間を縫って自らの裁量で仕事をする方策を見出すが、本当にそれは例外である。

この様に書いてみると、あたかも公務員個人に権限を持たせてもらえない事が諸悪の根源みたいに響きますが、現状がこういうシステムになっているのにも、ちゃんと理由があります。
公務員は、基本的に地位も身分も安定しています。そういう立場の人に権力を持たせるのは危険である、という考え方が基本にあるのでしょう。「権力はナマモノであり、極めて腐敗しやすい」のは、歴史が教える経験的事実です。ですから、同じ人に継続して権力を持たせる事は、なるべく避けるべきなのです。
という訳で、基本的に安定して働き続けられる公務員は権力を持ちません。Togetterの最後の方で @kamezonia さんが呟かれていた様に、良く問題になる「定期的な異動」にも、そういう側面があるのではないかと推測します。お役人がずっと同じ場所にいると、その存在自体が眼に見えない権力を持つ様になってくるからです。

では、誰が権力を持つのかと言うと、それは民意により交代させる事が可能な人です。地方自治体で言えば首長(知事、市長、町長、村長)であり、国で言えば総理大臣です。総理大臣は国民が直接選べませんが、国民が選んだ国会議員の投票により決まるので、間接的に選んでいると言えます。
以上より、公務員組織に対して希望通りに動いて欲しいと思ったら、首長選挙や国政選挙を通じて自分の考えに近い人に当選してもらえば良い、という事になります。
しかし(多くの人が感じている様に)それはあくまで「タテマエ」に過ぎません。実際には全然そうなってない。どうしてそうなっちゃうのか。

最も大きな理由は、首長や総理大臣の意向がなかなか行政に反映されないという点にあります。これには更に理由があります。行政組織は巨大であり全貌を把握するのは困難です。失礼な言い方ですが、首長や政治家は選挙に当選するのが最大の関心事(だって「落ちればタダの人」ですから)であり、当選した後にどう組織を運営していくかの具体策については、はっきり言って当選してから考える部分の方が多いのではないでしょうか。
役人出身の人が首長や政治家に選ばれる例が結構ありますが、これは本人と行政組織の双方にとって仕事がしやすいという利点があります。しかし、もしそういう理由でしか選べないとすれば、それは、何とも窮屈な「民意の反映」であると感じます(勿論これは、逆の立場の人を選ぶ場合にも言えます)。
一方で、行政組織には継続性が求められます。これにも功罪はありますが、利用する側からしても役所の対応がコロコロ変わっては困る部分も多いと思います。ですから、なかなか「変えよう」という話にはならず、どうしても「例年通り」「前例を踏襲」という方向に行ってしまいやすいのです。
そうこうしている間に、こうした状況の間隙を縫って、公務員組織の上の方にいる人達が事実上の権力を握ったりする場合もあり得ますので、それが更なる問題を引き起こしたりします。

ちょっとゴチャゴチャしてきたのでまとめますが「首長や政治家はきちんと選ばなければならない」けれども「ちゃんと選んだからといって上手く行くとは限らない」という、何とも萎える話になってしまいます。
これ、敢えて言うならば「現在の行政機構には歪みが出ており、もはや当初の設計通りに作動しているとは言い難い」という事だと考えます。やはりここは権力を分散して、公務員であっても地位に応じた権限を持てる様にする(しかし余分な権限を持ち過ぎない様にする)事が必要かもしれません。
これはとても大変な事ですが、政治を少しずつ変えていけば、何とかなるかもしれません。

そこで、最後に「政治を変えるにはどうしたら良いのか」を考えてみます。
勿論「選挙における投票行動」を通じて変えていくのが基本です。しかしそれだけで良いのでしょうか。
選挙における投票は国民の権利であると同時に義務でもあります(基本的に権利と義務とは表裏一体のものです)。しかしそれだけが権利と義務の全てではありません。

我々は全て、社会の構成員です。我々は誰でも、自らが属する社会の一員として(自らの観点から見て)社会がより良くなる様に求める権利があります。しかしそれは同時に、社会がより良くなっていく様に(自らの出来る範囲で)努力しなければならないという義務でもあります。
具体的に何をすべきかというのは、それぞれの立場によって異なります。繰り返しになりますが「自らの観点から見て良くなる様に、自らに出来る範囲で行う」のですから。

ただ、そうは言っても「今はとてもそんな事はやっていられない」「生きていくのに精一杯で、そんな余裕は無い」という方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そういう場合でも、誰にでも出来る事が、少なくとも一つ、あります。
それは「考え続ける事」です。
たとえお金が無くても考える事は出来ます。たとえ時間が無くても、寝る前に考えた疑問に対して目覚めた時に答えを思いつくという事もあります。常に「どうしたら良いか」を考え続ける事によって、状況が変化した際にすぐに対応が出来る様になります(スポーツにおけるイメージトレーニングと似ていますね)。
ですから、どうか皆さん、考える事を止めないでください。場合によっては、一旦結論が出た様に見えても、そこで止めずに更に考え続ける事も必要でしょう。

「なんだ、結局、結論は自己責任に丸投げかい!」なんて言わないでくださいね。我々の属する社会をどういう方向に持って行きたいかは、我々自身で考えるしかないのです。もし考える事を放棄すれば、それは結果として「どんな社会になっても構わない」という意思表示をしたのと同じ事になってしまうのですから。

(余談)
実は @slummy77 さんの事は、個人的に存じ上げています。私は本名を出しておりませんので先方からは解らないと思いますし、もう何年もお会いしていないのですが「相変わらず頑張っておられるなぁ」と感じました。

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2010年9月12日日曜日

ブログ開設の御祝いに対する御礼m(_ _)m

えー、思いがけず多くの方々から御祝いの言葉を頂きました。

Twitterで呟いて下さった方、有難うございます。
はてブをつけてくださった方、有難うございます。
(直接コメントくださった方には、コメント欄でお返事致します)
私は別IDでのはてなアカウントも持ってはいるのですが、殆ど使っておりません。
でも、ブラウザの拡張機能にはてブを入れているので、ワンクリックで見られるのです。
特に「一旦書いた記事に手を入れたり書き直したりする」のは「ウチなんかしょっちゅう」と言ってくださったcomplex_catさん、お蔭様で少々気が楽になりました。


実は、皆様の期待にどこまで答えられるか解らないので、やはりプレッシャーに感じている部分はあるのです。しかし、落ち着いて考えてみたところ「自分が楽しんで書かなければ、なかなか読み手に面白いとは思ってもらえないだろうなぁ」という事を思い出しました。


という訳で、基本的には「自分が楽しめる様に」書いていくつもりです。


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2010年9月10日金曜日

始めました。

何とかブログの開設にこぎつけました。
ぼちぼちやっていきます。
というわけで
コンゴトモ、ヨロシク・・・

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