コミケを風疹から守り隊

2012年3月20日火曜日

P02-05: ニセ科学批判の実践と責任

初回公開日:2012年03月20日
最終更新日:2012年03月20日



1.ニセ科学批判は(少なくとも現状では)誰がやっても良い、どんな方法でやっても良い
(ニセ科学批判とは、文字通り「ニセ科学を批判する行為」です。少なくとも私のブログでは、それ以上の意味は含ませていません)

現状におけるニセ科学批判は、組織立ったものではありません。ニセ科学批判を職業にしている人も居ません。たとえ本を書いて印税が入るとしても微々たるものであり、事実上ボランティアで行われていると言っても差し支えないでしょう。
従って、ニセ科学批判は、誰がやっても良いのです。特別な資格は必要ありません。そして、批判の方法も自由です。それぞれの人が、自分で出来ると思う事を、自分が良いと思う方法で行えば良いのです。
家族や友達と話し合うのも良いでしょう。ブログやツィッターを使って情報発信をするのも結構です。本を書いたりテレビに出たり、果ては国の政策決定に関与したり出来れば、それは確かに凄い事ですが、そういう事をするばかりがニセ科学批判ではありません。
私は以前からニセ科学批判の裾野が広がって欲しいと思っていましたし、その気持ちは現在でも全く変わっていません。ですから、出来るだけ多くの人が、自らの出来る範囲で行動して頂ければ、それはとても嬉しい事です。
あるいはその中で議論や相互批判や軋轢が生まれるかもしれませんが、それは不可避で必然であるばかりでなく、むしろ必要なものであるとすら思います。


2.「自分の言動から生じた結果は自分で引き受ける」という事


前項では、ニセ科学批判は、誰がどういう形で行っても構わないと書きました。
但し、ここで1つだけ心に留めておいて欲しい事があります。それは「自らの言動の結果は、自らで引き受ける」という事です。つまり「一人前の大人であるのならば(ニセ科学批判に限らず)自分の言動により生じた結果には(一定の)責任がある」という事です。

もし「自らの言動が他者の思考や行動に一切影響を与えない」のであれば、そこには一切の責任も生じないでしょう。何故なら、それは「自らの言動から何の結果も生まれない」という事だからです。でもそれって、単なる「チラ裏」ですよね。それだと自己満足以上の意味があるとは、あまり思えません。更に現実には「自分の言動が全く何ら他者に影響を与えない」などという事は、まずあり得ませんから、その影響の大きさに応じて責任を負う、となります。
これは、言われてみれば当たり前かもしれません。要するに、小さな言動には小さな責任が、大きな言動には大きな責任が伴うという訳です。

「責任がある」などと書くと何やら脅している様に思えるかもしれません。でも、上に書いた様に「一人前の大人」なら当然の事とも言えますし、責任とはネガティブな意味ばかりではないのです。つまり、もし自分の言動により救われた人が居るのであれば、それは
大いに誇りに思うべきだし自慢して良い。そこまでの意味を含めて、ここでは「責任」という言葉を使っていますが、誤解を受けそうなので最初は「引き受ける」という言い回しにしました。
逆に、自分の言動に責任を持たないのであれば、どんなデタラメでも言い放題です。ブログやツィッターにはそういう人が時々見受けられますが、どれほど年齢が上だろうが社会的地位が高かろうが、私はそういう人を一人前の大人とは看做してあげません(笑)。


ちなみに、わたしがこれまでツィッターで見た中で、最大級に無責任だと思った発言は、これとかこれです。どうやら自分では抱え切れない程巨大なブーメランを投げている様です。
しかもこのonodekitaという人、最近ではこんな事もしているのですね(この件に関しては、幾つもの問題点が複合していると考えますので、蛇足ながら列挙しておきます。1)ネット上に散在している個人情報を集めて「晒す」事の道義的問題、2)特定した個人に対して圧力を掛ける事の道義的問題、3)個人に対して圧力を掛ける事の法律的問題、4)発言内容と個人の属性のどちらを重視するかという、いわゆる「属人的議論」に関わる問題、などです。そして「属人的議論」の問題から発展するものとして「実名vs匿名」の問題や「情報発信戦略」の問題などがあります。この問題にコミットされる方は、御自分がどの点を問題にされているのかを意識されると、混乱を避けられるかもしれません)
色々と問題はあるのですが、今回の文脈で問題にしたい点はただ一つ。自分の発言に関しては徹底的に無責任を貫くくせに、他人(もぐさん)に対しては発言そのものを封じようとする態度です。ダブスタと呼ぶのもおこがましい。
という訳で、いくらなんでも、これはちょっとあんまりですので、普段はあまり言わない様にしている事を、一言だけ言わせてくださいね。
「こぉのボケナス野郎がぁ!」

3.「自らの言動に責任を持つ」はニセ科学批判のメインテーマの1つ

・・・(コホン)、

失礼しました。
さて。


ここまで「一人前の大人なら、自らの言動に責任を持つ」という姿勢について述べてきました。これは、ニセ科学批判において極めて重要なテーマだと言えます。何故なら、こうした姿勢は批判者に自覚して欲しいだけではなく、むしろニセ科学の提唱者にこそ、こういう姿勢を強く求めたいからです。
つまり、ニセ科学が批判される大きな理由の1つに「自らの言動に責任を持たない」という点があるのです(残念ながら、現状では批判が提唱者の心に届く可能性は極めて低いと言わざるを得ません。しかしそれでも、騙される側が提唱者のおかしさに気付く事が大切だと思っているので、こうして批判しているのです)
そうした例は枚挙に暇がありませんが、それでも一応、例を挙げておきましょう。


例えば、9.11テロに対する陰謀論です。陰謀論者は、自分では何も証明しようとしません。ただ「米国政府発表は鵜呑みに出来ない」と言い、根拠の無い荒唐無稽な妄想を述べては「可能性は否定できない」と繰り返すだけです。

あるいは、ホメオパシーです。ホメオパシーを推進する人達は、その効果を実証する事には極めて消極的です。偶然と弁別できない程度の事例を取り上げて、効果がある様に印象誘導しますが、その「効果」とやらは決して証明される事はありません。
その一方で、標準医療に対して批判を行う事もあります。しかしそうした批判は殆どの場合的外れであり、医療や医学に対する無知をさらけ出す結果になっています。

ホメオパシーであれ、米のとぎ汁(腐り汁)や乳酸菌風呂であれ、それらの持つリスクをきちんと理解した上で、自分自身に対してだけ行っているのであれば、それほど批判される事は無いでしょう。少なくとも私の知る限りでは、そういった行為を批判している人を知りません。
では、何が批判されるのでしょうか。勿論それは、ここまで述べてきた様に「自らの言動に責任を持たない態度」なのですが、更にその中身を考えてみると、大きく分けて2つあると思います。


1つめは「リスクに対する理解不足を広める行為」です。言い換えれば「間違った情報の発信」です。本来の危険性を無視ないし軽視した情報を広める事は、被害者の増加に繋がります。「間違った情報を発信しない、正しい情報だけを伝える、万一間違えたら直ちに訂正する」というのであれば良いのですが、それって結局「内容の正しさについて責任を持つ」という事ですよね。
2つめは「他者へ勧める行為」です。つまり勧誘です。人間関係のしがらみや不安に付け込めば、多少は「おかしいのではないか」と思う判断力を持っている人でも、引きずり込まれてしまう場合もあるでしょう。それでいて最後には「自己責任」で逃げるのですから、要するに無責任です。

4.「愚行権」について

ここで「愚行権」について少し書いておきます。
「愚行権」とは前項で挙げた例の様に「愚行であってもリスクを承知した上で自らに対してであれば行える権利」という程の意味ですが、この言葉は別に「その行為が愚かであるかどうか」という評価をする為のものではありません。
何故なら、人によって「愚行」の指し示す範囲は違うからです。酒も煙草もやらず、極めて健康と体力の維持に注意する一方で、冬山登山で命を落とす人も居るでしょう。ギャンブルを全くしないのに、真贋不確かな骨董品に大枚をはたいて大損する人も居るかもしれません。「何が愚行なのか」の基準は、それぞれの個人で全部違うと言っても良いくらいです。
という訳で、愚行権とは「たとえ他者から見て愚行の様に見える行為であっても、本人にとって行う価値がある場合には、本人がすると決めた以上、他者は本人の決定を最大限尊重すべき」という意味なのです。つまり自己決定権の一種なのです。
「愚行」という言葉の意味に引きずられて「どんなに馬鹿げた内容でも、本人の意思だけで実行する権利がある」という拡大解釈をしない様にして下さい。
但し、しつこい様ですが、愚行権を行使するうえでは「リスクをきちんと評価する事」と「他者の愚行権を侵害しない事」は必須です。これを怠ると、本物の「愚行」になってしまいますよ。



5.自発言の信頼性を増す為の心構え


ここまで、主に「自分の言動に責任を持つ」というテーマに沿って述べてきました。「こうした態度は、自らの発言の信頼性を高めるのに有用である」という点には多くの方が同意して頂けるでしょう。
そこで、もう少し具体的な「責任の持ち方」について述べてみます。既に述べた論点と重なる部分もありますが御容赦ください。


1)発言の論拠を述べる
最近はちょっと下火になりましたが、一時「ソースは?」って訊くのが、ちょっと流行りましたよね。何で流行ったかというと、ソースもなしに思い込みだけで適当な流言をする人が多過ぎたからだと思っています。
但し、ここで言う「論拠」とは、必ずしも情報ソースに限りません。他からの情報に基づいて自分なりの推論や思考を重ねたものが「自分の意見」である筈ですから、一次情報だけに限らず、自分の意見を持つに至った思考の筋道をも含めたものが「論拠」であると考えます。
勿論常に全てを述べろとは言いませんが、必要に応じて出せる様にはしておくべきでしょう(と偉そうに言えるほど自分でも出来ている自信がある訳ではありませんが・・・まぁ「心構え」です)。


2) 間違えたら訂正する
誰にでも間違いはあります。間違えない人は居ません。ですから、間違いに気付いたら、なるべく早く訂正すべきです。「君子は豹変す」というのは誤りを改める事の大切さを説いた言葉です。
しかし一方で、間違いを認めずに訂正するのは困ります。「偉い人達」は、しばしばやらかしてくれますが、絶対に間違いを認めない一方で「事実上の方針転換」を図ったりします。端的に言って、これはズルい態度ですから、信用を無くし易いです。特に高級官僚や政治家が良く使う手法であり、「君子豹変」とは全く似て非なるものです。
もう少し卑近な例で言えば、由井寅子さんや武田邦彦さんなどは、ホームページやブログの記載をこっそり書き換える事がままありました。それも単なるタイポの訂正とかではなく、明らかに内容を変更しているのです。つまり間違いを「無かった事」にしようとしているのですね。


3)解らない点は率直に「解らない」と言う
科学を初め、およそどの様な学問であれ「全ての事が完璧に判明している」などという状態は有り得ません。従って「解らない点がある」のは当たり前なのです。ですから、解らない事を「解らない」と素直に言うのは、むしろ誠実さの証しである場合の方が多いです。
むしろ騙して煙に巻こうとしている人の方が、自信ありげに断言したりしますよね。


4)自分の言動の影響力に思いを馳せる
この点は、今回の記事で繰り返し述べてきた「発言の責任」とも重なる内容ではありますが、最後にもう一度書いておきます。自分の言動がどの位の影響力を持っているか、それを正確に判断するのは、誰にとっても困難です。しかし、少なくとも想像してみる事は出来ます。無責任な放言をしている人達の発言内容を見ると「この人達は、自分の発言がどういう風に受け取られるかなんて、ろくに考えてもいないんだろうな」と思わされる事がしばしばです。
「思いがけない反響があってびっくりした」という経験をお持ちの方もいらっしゃると思いますが「そういう事もあるかもしれない」と頭の片隅に置いておくのは大切だと考えます。



6.おまけ

さて、こういう事を書いていくと、おそらく「じゃあそう言うオマエは責任を取れるのか」という意見を持たれる方も出てくると思います。本当は「じゃあそう言うオマエは・・・」っていうのは容易に水掛け論になってしまうので、あまりそういう話はしたくないのですが、少しだけ書きます。
私の語感では「責任を取る」と「責任を持つ」とではニュアンスが異なります。例えば何か事故が起こった時に、責任者が「責任を取る」と言った場合、何か懲戒的なイメージを持ちます。辞任するとか、刑に服するとか、そういったイメージです。一方、責任者が「責任を持つ」と言った場合には、未来に向かってのアクションという印象を受けます。例えば、事故処理や補償や再発防止策をきちんとするとか、そういう感じです。
逆に言うと「責任を取れ」と言う人は、どちらかといえば「糾弾」をしたがっているのであり「責任を持て」と言う人は、きちんとした対応を求めているという傾向がありそうです。
勿論これは私の個人的な感じ方に過ぎませんが、個人的意見ついでに言わせてもらうならば、私は責任を「取る」よりは「持つ」様にしたいと思っています。

私は前項で「責任の持ち方」について述べました。それでもなお、責任は「持つ」ものではなく「取る」ものだとお考えの方は是非、どうすれば責任を取った事になるのか考えて頂きたいです。そしてその「責任の取り方」は、その様に主張する自分自身にも適用されるという点にも気付いて欲しい。
震災と原発事故を例に取れば「危険を煽る情報は、たとえ間違っていたとしても問題無い」なんて事はありません。危険を煽った為に生じている被害も現実にあるのです。しかし危険を煽るデマを流した人の殆どは、全く責任を取ろうとも、責任を持とうとも、してませんよね。

せめて、私が前項で述べた「責任の持ち方」くらいは実践して貰えたらなぁ、と思わずにはいられません。

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2 件のコメント:

  1. 「反原発」であれば,あるいは「放射線の危険を叫ぶ」のであれば,どんな非人間的なことを口走っても構わないという人がしばしばいますね。ツイッターのある種のクラスターの中では,それが臨界状態の原子炉の中のように互いに励起して分裂させていく連鎖反応を起こしていて,とんでもないものがときどき外に漏れてくるというふうなイメージを持つことがあります。

    私は原発を廃止するべきだと思うし,放射線の害についても重視しなければならない問題だと思い,そのこと自体は多くの人に知ってもらいたいのです。が,上のような人たちは,志を同じくしているようでいて,実はどうも人間的なところや理性的な判断力が欠けていて,社会的にまともな力には成り得ないし,与することも難しいと感じるのですよね。

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    1. >こなみさん
      いらっしゃいませ。こちらには初めてですね。ようこそお越しくださいました。

      私が「極端に過激な反原発の人達」を見て感じるのは、1)反原発そのものが目的化しており、もはや「何の為に」原発に反対しているかが解らなくなっているのではないか、という点と、2)目的の為には手段を選ばなくなってきているのではないか、という点です。これらは単独でも問題なのに、それらが同時に存在している様に見える点が困ります。
      こういう方々の存在が「現実的に可能な脱原発」の道を模索していく過程の障害になる事を危惧しています。幸いにして、その過激さ故に広く一般に受け入れられる様にはなっていかないだろう、という(ある意味楽観的な)印象を持っています。しかし、そうすると今度は、理性的で現実的な脱原発派の声まで広がり難くなってしまうという問題が生じます。
      どちらに転んでも傍迷惑な話ですよね。

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