コミケを風疹から守り隊

2014年12月31日水曜日

S02-05: 「学術論文」の意義

初回公開日:2014年12月31日
最終更新日:2014年12月31日


1.はじめに

学術論文の意義に関しては、前の記事S02-04:「学術論文」って何だろう?にも簡単に書きました(正確には追記した部分です)が、ここではもう少し詳しく(と言っても長くなり過ぎない程度に)述べてみたいと思います。内容的に重複する部分もありますが、御容赦ください。
最初に結論を述べます。学術論文の意義をたった一言で簡潔に述べるならば「学術論文とは科学の発展そのものを(名実ともに)表しているもの」となります。
とは言え、これでは余りにもシンプル過ぎますよね。ですので、以下では「どうしてその様に言えるのか」について書いていきたいと思います。


2.科学の表現としての学術論文

「科学とは何か」は、このブログのメインテーマの一つでもあります。以前の記事S01-04:科学の特徴から、ポイントになる部分を引用します。

>「科学とは知的好奇心に応える為に知識を共有して増大させ、その結果として人類の発展に貢献していくシステムである
>「科学とは一種の集合知であり、その正確さは客観性と再現性を持った証拠の存在により(漸増的に)保証される

勘の良い方は既にお気付きかもしれません。「ははぁ、その『客観性と再現性を持った証拠』を提供するのが学術論文なのだな」と。確かにその通りです(が、それが全てという訳でもありません)。
学術論文には、科学の発展に資する客観性と再現性を持った証拠が記されます。但し勿論、裸の証拠を単独で置いただけでは、それが学術論文になる訳ではありません。その証拠が何故科学の発展に資するかを、理解力と思考力を持った読者であれば理解出来る様に、論理的に記載する必要があります。それは、今回新しく解った事を、既存の科学という「知の体系」に組み込む為の作業であるとも言えます。
ここで「組み込む」とか書いてしまった為に、あるいは「これまでの常識に反する事は認めないのか」と思ってしまう方がいらっしゃるかもしれませんが、勿論、そうではありません。もう一度、上の段落を読んでみてください。客観性と再現性を持った証拠に基づいて論理的に書いてあれば、たとえ結論が常識に反するものであったとしても、科学界からは真面目に相手をして貰える筈なのです(この点は以前の記事「科学者は権威主義者なの?」にも書きました)。更に付け加えるならば、科学者はむしろ常識に反する事柄の方が好物です。だって、その方が飯のタネに繋がる可能性が高いですから。

ともあれ、その様にして書かれた学術論文は、半ば必然的に、前回記事で説明した様な形式を取る事になります。その際に重要な点は幾つもありますが、中でも、単なる学術論文の形式を越えて広く重要だと言えるポイントがあります。それは「結果と考察とを分けて書く事」言い換えれば「事実と推測とを区別する事」です。観察や実験から得られた客観的事実と、その事実を「解釈」して得られる推測とは厳密に区別すべきです。もしその推測が正しければ、新たな観察や実験で確かめられる機会がある筈です(それが新たな学術論文となります)が、現段階でそこまで踏み込むべきではないのです。
この「事実と推測との区別」は学術論文に限らず、様々な物事を考える際に役に立つ態度です。逆に言えば、事実と推測とをゴチャゴチャにしてしまうと、考え方が歪み易くなると言えます。


3.科学の発展は学術論文と不可分の関係にある

前項までの記述で「マトモな学術論文を書く事が科学の発展に資する」という点は御理解頂けたと思います。でも、もしかしたら「別に、無理に論文にしなくたっていいんじゃね?」という御意見があるかもしれません。つまり「新しく発見したって言うなら、その発見したもの自体を示せば、それでいいんじゃないの?わざわざ論文とかにしなくたってさ」という御意見ですね。
これは、一理ある様にも思えますが、実は致命的な間違いを含んでいます。その間違いとは「『示すとはどういう事なのか』を理解頂けていない」点にあります。

例えば「ヒマラヤで雪男を捕まえた」と主張する人の場合を考えてみます。彼は論文にするなどという「面倒な」事はせずに、捕まえた「雪男」を檻に入れてマスコミに公開しました。確かに、一見するとこれで雪男の存在が証明された様に見えます。
でも、ちょっと待ってください。
その、檻に入っているモノは、本当に雪男なのですか?
それがゴリラでもチンパンジーでもオランウータンでもなく、増してや毛深いだけの人でも着ぐるみでもなく、雪男そのものだという証拠は何処にあるのでしょうか。幾らマスコミに公開されていたとしても、例えば「檻の背後に回って背中のチャックを確認する事すら出来ない様な状況」だとすれば、とても信用する訳にはいきませんよね。
ですから、やはり客観的な証拠が必要なのです。例えばレントゲン写真とか、体毛のDNA解析とかです。あるいは状況証拠(何処でどの様に捕まえられたか、など)も重要です。但し、証拠の形をしていれば何でも良いというものではありません。例えば捕獲者が「私が捕まえたモノは間違いなく雪男であると証明する」と書いて署名した「証明書」などには、殆ど価値はありません。彼は嘘吐きかもしれないし、単なる勘違いなのかもしれないからです。
という訳で、本当にソレが雪男だと証明したいのであれば。
入手した客観的証拠を並べ、そしてそれらが何故証拠だと言えるのかの説明も併せてする必要があります。

という訳で、お解り頂けたでしょうか。
科学上の新しい発見(大きくても小さくても)をキチンと示そうとすれば、論文を書くのが最も早くて確実な方法なのです。何故なら、万人が検証可能な状態で客観的証拠(と著者が主張するもの)を提示出来るからです。
逆に言えば「新発見だ!」みたいな事を言っておきながら論文になっていないのだとすれば、それは「したくても出来ないからじゃねぇの?」と疑ってみるのが最も合理的です。つまり客観的に示せる証拠が無い、素人を騙す事は出来ても論文を査読する人やその分野に詳しい筈の読者の目は誤魔化せない、その程度のデータしかないという事でしょう。

更に言えば、論文に極めて重要な疑義があり取り下げるかどうかが問題になっている状態で、幾ら本人が「○○は、あります!」等と強調してみせたところで、そんなものはマスコミ向けのパフォーマンスにしか過ぎません。増してや、捏造の疑いが極めて強いとして論文が取り下げられたにも関わらず、今更たっぷりと時間を取って「再現実験」とやらを他ならぬ本人にやらせるというのは、茶番でしかありません。
ええ、勿論私が言っているのはSTAP細胞の事ですが、この件に関しては、また改めて記事を書きたいと思っていますので、今回はこれ以上触れない事に致します。


4.学術論文はゴールでもあり、スタートでもある

全ての研究者にとって、論文を出す事は仕事の区切りであり目標です。それは、小説家が小説を世に問う事、作曲家が曲を仕上げる事などと同様に仕事の一部であり、大袈裟に言えば、人生の一部(もしくは大部分)でもあります。その意味では学術論文はゴールでしょう。
一方で、学術論文を受け取る科学界(もっと言えば、社会全体)の立場から見るならば、論文発表はスタートでしかありません。新たな事が解るのは良いですが、それが嘘でない・間違いでない事を確かめる為には、他の研究者による検証や発展を待つ必要があります。そして、そうした検証や発展は一度で済むものではなく、繰り返し確認される事によって徐々に確からしさが上がっていくものなのです。
ですから、生まれたての論文によって提唱される理論は不安定なものです。しかし何度も検証を受け、時には修正を受けながらも生き残ってきた理論(例えば相対性理論など)は、その分強固なものになっています。

そうした意味では、学術論文の成果とは「永遠のβ版」もしくは「永久に完成しない夢と魔法の王国」の如きものなのかもしれません。


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6 件のコメント:

  1. 技術開発者2015年3月11日 9:20

    こんにちは、PseuDoctorさん。こちらにお邪魔するのは初めてかも知れません。

    >学術論文はゴールでもあり、スタートでもある

    なかなか理解して貰えないのは、このスタートであるという部分なんですよね。学生の頃に先生から「学術研究をするなら生きているうちには評価されないくらいの覚悟をしてやれ」なんて言われたことを思い出します。学術的であるほど、その価値が認められるのには時間がかかるわけです。私の場合は結局学術というより技術開発に生きてしまった訳ですけどね。こっちは勝負か早いというか、役に立つか立たないかの結論が出るのが早い訳です。

    技術開発の経験の中で、私は自分が生まれる前に出た論文の中の理論式を応用して技術開発を行ったことがありました。その論文では、学術的な意味で一つの現象の詳細が理論式としてまとめられていたのですが、その理論式が公表された当時はまだ周辺技術が発展していなくて理論が解明されても応用することができずに埋もれていたものです。現象は比較的良く知られていたのだけど、その現象に理論式が既にあることなんて忘れられていたというか、私も知らなかったのです。ひょんなことから過去の論文を調べていてその論文に出会った時は一種衝撃的でしたね。今と違ってデータは全て紙ベースですから検索も容易では無い時代の話です。
    その理論式をいじくって「こうやれば、こんな応用ができる」なんて思いついて、自分の学位論文の中心に据えるような研究ができた訳です。

    その理論式の論文から私の応用まで40年と言う時が経っていますから、私自身その論文の著者は名前しか知りません。私が応用した頃に生きていたかどうかも知らない。でもそうやって、一つの知見が論文と言う手段で研究者から研究者へ受け継がれ発展していくのが科学と言うものだろうと思っています。

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    1. >技術開発者さん
      はい、こちらにコメントを頂くのは初めてです。いらっしゃいませ。

      技術開発者さんにこれを言うのは失礼かもしれませんが、よく言われる様に「基礎研究をおろそかにして応用研究は有り得ない」のですよね。何の役に立つのか見当もつかないけれど、ともかくこれまで解らなかった事が解る様になった。そういう事の積み重ねで科学は成り立っている訳ですから、性急に応用した結果だけを求めるのは「基礎研究に対するフリーライド」と呼んでもいい位に思っています。
      無論、応用研究を貶めるつもりはありません。どちらも重要であるという事がもっと広く知られる様になって「で、それは何の役に立つんですか?」などという間の抜けた質問は恥ずかしいと思われる様な世の中になって欲しいと願います。

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  2. 技術開発者2015年3月24日 16:55

    こんにちは、PseuDoctorさん。

    >よく言われる様に「基礎研究をおろそかにして応用研究は有り得ない」のですよね。

    その通りではあるのだけど、私自身が嘆いているのは「細々と研究できる程度の冷遇」すら許されなくなっていることなのね。結局私は選択しなかったのだけど、もし私が学術研究に走っていたら何をしていただろうなんてことね。むやみに難しい課題に挑戦して、あまり論文なんかも書けない人生を送っていた可能性は結構あるんですね。研究室で教授に「持て余し者」扱いされて、研究費もわずかで、学生も余らなければ付けてもらえなくて(たいていは「持て余し者」の学生ね)、結局助手のまま定年までやり続けるなんてね(私が学生の頃には居たんですね、そんな助手が)。それでも、その助手は「食えた」訳ですよ、貧しくても生きてはいけるし、他の研究者からの貰い物で実験するようでも、研究はできた訳です。そういう部分が先に書いた「学術研究をするなら生きているうちには評価されないくらいの覚悟をしてやれ」という意味ね。それでも、自分が「このテーマ」と決めたら細々でもなんでもやるのが研究者って生き物でね。

    実例で言うとオワンクラゲの下村先生とかね。決して恵まれていないですよ。ついでに言うと研究おやりになっている時の課題だって、その時には「何の役に立つんだ」の状態です。日本では研究費に恵まれないから米国に行かれた訳だけど、米国でだってそんなに研究費があった訳じゃないから、家族駆り出してクラゲとりをやられている訳だものね。結局、きちんと化学構造を明らかにしたクラゲの発光物質に、生物・医学面でのスゴイ用途が見つかって、応用が進んだのが生きているうちだったからノーベル賞を貰われたけどね。

    なんていうか、人間がすごくさもしくなって「そんな、先の分からない研究なんてやる奴に助手の地位も与えるんじゃない、研究費なんてもってのほか、給料も出すな」とそういう研究者を追い払っているのが現代の日本の様に見える訳ね。

    そんな状態で本当に「明日があるのだろうか?」なんて思ってしまう訳です。

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    1. >技術開発者さん
      済みません、私の書き方が不十分でしたね。
      私が基礎研究が重要だと思っている理由は2つあります。1つは前述の如く「何時どの様に応用研究に役立つか解らないから」ですが、もう1つは「これまで解らなかった事が解る様になる、それ自体に価値がある」と思うからです。
      これは乱暴に言えば文化や芸術と同じだと思います。「役に立つ」事だけが価値なのではないと考えています。

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  3. 技術開発者2015年3月30日 16:57

    こんにちは、PseuDoctorさん。

    >もう1つは「これまで解らなかった事が解る様になる、それ自体に価値がある」と思うからです。

     その通りだと思います。変な話、私は工学の研究者として「役に立つ開発研究」をやってきたからこそ、「文化としての学術研究」みたいなものに心惹かれて、価値を重く感じてしまうんですね。同時に「文化としての学術研究」が世の中できちんと認められるためには、「学術成果を楽しめる市民」と言うのが必要なんです。
     その部分は芸術と似ています。中島誠之助ではないけど、江戸の後期くらいに作られたそれほど高くは無い骨董の染付の皿や湯飲みを日常使いに使うことで楽しめる人が増えないと、古美術品の価値は分からない訳です。100円ショップのプリント柄の皿や湯飲みを使っていれば、骨董に「高いものかどうか」しか価値基準が無くなり、そして、そうなった人は粗悪な偽物の骨董に騙される訳です。

     そういう意味では、「楽しめる学術文化」に成ることができた学問としては、天文学なんかがありそうです。結構、天体ファンみたいな人は多くて、星の良く見えるところにキャンプに行くと星座表とか持って空を見上げながら薀蓄を傾けている人たちがかなりいますね。天文学の方では結構な予算で高度な望遠鏡を作っても「何の役に立つんだ」と言い出す人があまりいない(笑)。
     それに比べて化学とか生物の方だと「楽しめる学術文化」になかなかなれなくて、その学術成果そのものを楽しむ人が少なく、何かあると「それは、何の役に立つのか?」なんて直ぐに言われてしまう(笑)。
    でもって、「役に立つためのもの」と言う意識ばかりになると、マイナスイオンとかEMみたいな「役に立ちます」の嘘にコロッと騙されるようになる。ある意味、100円シップの皿や湯飲みを使っている骨董収集家みたいになってしまう訳です。

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    1. >技術開発者さん
      楽しいと感じる事が出来るかどうかは重要な要素ですね。
      科学に限らず、様々な学問に関して言える事だと思います。

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