コミケを風疹から守り隊

2012年7月29日日曜日

時事ネタを幾つか(オスプレイ、生活保護、経済問題など)

初回公開日:2012年07月29日
最終更新日:2012年07月29日

1.はじめに

今回の記事は、最初はTwitterで呟くだけにしておこうかと思った内容です。しかし下書きをしているうちに、思いの外長くなってしまったしまいました。
折角ですので、まとめて記事にする事にします。
元がTwitterで連投しようと思っていた文章ですので、常にも増してダラダラとしたメリハリに乏しい文章になってしまっておりますが、どうか御容赦ください。

2.オスプレイ問題

7月23日にオスプレイ(MV-22)が岩国基地に搬入されました。皆様御承知の様に、オスプレイに関しては「安全性に不安がある」という理由での反対運動があります。この反対運動に関して私の気持ちを簡潔に述べるならば「反対する心情には理解も共感もできるが、議論としての筋は通らない。そしてそこには、過激で極端な反原発運動と類似の構造も見える」となります。



まず、とても解りにくいのは、推進側である筈の政府(野田総理)も反対側である岩国市長らも、異口同音に「安全性の確認」「安全性の証明」という言い回しを使っている事です。一体、何をどうすれば「安全性が確認ないし証明された」事になるのでしょうか。
もし、本当に安全性の議論をしたいのなら、まず考慮すべきは、何よりも事故率(飛行時間あたりの事故数)でしょう。この数字を現行機と比較すれば、オスプレイの安全性に関する解り易い指標になると考えます。
そこで、日本に配備される海軍型のオスプレイ(MV-22)の事故率を見てみましょう。ソースがWikipedia及び、飛ばし記事で有名な産経なのが残念ですが、2012年4月の事故を計算に含めた値で見ても、事故率は1.93(事故数/10万飛行時間あたり)とあります。これは、他の航空機やヘリに比べても低い数値と言えます。例えば、現在在日米軍に配備されている輸送ヘリであるCH-53Eシースタリオンの事故率は2.35、旧型のCH-53Dに至っては4.15です。また海兵隊全体での事故率は2.45です。
一方、空軍型のオスプレイCV-22(日本に配備される予定は無い)の事故率は13.47とかなり高い値になっています。しかし、海軍型と空軍型では装備も運用方法もかなり異なります(MV-22は輸送用、CV-22は特殊作戦用)ので、そうした違いを考慮する必要があります。
なお、7月27日のNHKニュースによると、軽微な事故に関する事故率はオスプレイで高いというデータがある様ですが、その点を過度に問題視するのは論点のすり替えだと考えます。何故なら、そもそもオスプレイの安全性に対する懸念とは、墜落の様な重大事故に対して示されたものであり、日本の立場から冷静に考えれば、たとえ軽微な事故が多くても重大事故が少ない方が良い筈だと思えるからです。

また、オスプレイの試作機が重大事故を起こした事を重視する向きもあります。しかし試作機は試作機なのであって、試作段階での構造的な欠陥や不具合を内包している可能性が高いのは、むしろ当然です。そういった欠陥を可能な限り取り除いた物が量産機となる訳です。
なんとなく「試作機の方が量産機よりも高性能な筈だ」と思ってしまったアナタ。それはもしかしたら、ガンダムの影響かもしれません。でも、実は、ガンダムの世界でだって、MS-05よりはMS-06の方が遥かに高性能だし、RX-78よりもRX-78-2の方が微妙に性能が上らしいです。

しかしながら、たとえ上記の様な説明をしたとしても、反対する人達は「そんなデータでは不充分だ」「まだ安全性が証明された事にはならない」とか言い出す可能性があります。極端な場合は「絶対に事故を起こさないと保証しろ」という意見すら出るかもしれません。
しかし、航空機であれ艦船であれ車両であれ、いかなる交通機関であっても、およそ機械である以上「絶対に事故を起こさない」などという事はあり得ません。
もしも、現実には不可能な「絶対安全」を要求するのであれば、それに対応する為には結局「安全神話」を唱えるしか無くなってしまうのです。
つまり、一旦「安全性を証明しろ」という議論に乗ってしまうと、反対論者は無限後退による「絶対に負けない議論」を展開できます。これは如何にも不毛な議論に思えますが、反対論者にとっては「絶対に負けない議論」は必ずしも不毛では無いのでしょう。

何故なら、本当に反対したいのは在日米軍の存在そのものではないかと推測するからです。オスプレイ問題はその一側面に過ぎないのでしょう。もっとはっきり言えば、方便だと思うのです。
しかし、最初に述べた様に、その議論は筋が悪いと考えます。
筋が悪いというのは、理が通っていないという事です。そういう議論を展開していくと、最初のうちは良くても、中立の第三者から見ていると、いずれゴネている様にしか見えなくなってくる可能性が高いでしょう。それでは結局、不利になるだけです。
その先に予想されるのは、推進側がアメリカの事故報告書もしくは説明会か何かの開催を以って「これで安全性が証明された」という事にしてしまうシナリオです。政府が既にそういうシナリオを何通りか考えている可能性もあります。

その一方で、基地の近くに住んでおられる方々が「米軍の新兵器が日本に入ってくるのは嫌だし怖い」という気持ちは、心情的には理解できるし共感も出来ます。それはそれで一つの意見なので、堂々と主張されるのが良いと思います。むしろおかしな屁理屈で理論武装するのは逆効果ではないでしょうか。
但し、既に述べてきた様に、事故率から単純に考えれば、現行機であるシースタリオンが墜落してくる可能性の方が高いという事になります。その点を考えると、むしろオスプレイを配備した方が近隣住民の方々の安全に資するのではないか、とも思えてきます。

冷静に考えれば、オスプレイに乗り組んで機体に命を預け、万一墜落した時に真っ先に死ぬのは米軍兵士です。そして、墜落する度に、金銭的にも作戦運用的にも損害を受けるのは米軍そのものです。それらの点を考え合わせれば、極端に危険な機体を配備する可能性は低いという推測も成り立ちます。

さて、ここで、私が大きな問題だと考えている点について述べます。
それは、上記の様な「人々の素朴な忌避感情」を煽り立てて政治的な意図に利用しようとする事です。在日米軍に反対なら反対で、おかしな屁理屈抜きで堂々と主張すれば良いのです。ここまで述べてきた様に、筋の通らない屁理屈を使って過度に危険性を強調し、人々の不安を煽り立てる事によって自らの主張を通そうとする様なやり方は、決して是認できません。何故なら、それは、言い換えれば「自らの主張を通す為には無辜の他人を巻き込んで不幸にしても構わない」という考え方になるからです。これは「極端で過激な反原発運動」が福島の人々に対して行っている事と同類であり、だからこそ私はそういう動きには同調しないのです。
そういうやり方を続けていく限り、徐々に支持は失われていくものと予想しています。

3.「極端で過激な反原発運動」の問題点

次の話題に行く前に、前項の末尾で述べた点について少し補足しておきます。
私が「極端で過激な反原発運動」と最も相容れないと考えている要素の一つが「犠牲の必要性を認めるか否か」という点です。綺麗事と言われるかもしれませんが、私は、誰かを犠牲にしなくては達成できない運動には賛成できません。言い換えれば「大事の前の小事」「大儀の為の犠牲」「目的の為には手段は選ばない」という考え方には与しない、という事です。
但し、現実問題として考えた場合に「全く何の犠牲も払わずに物事を達成する」というのは著しく困難であるのもまた、確かです。しかし、だからこそ、少しでも犠牲を少なくする事を考えなくてはならないのです。「どうせ避けられないのだから犠牲が出ても仕方ない」という考え方は、方向性が逆だと考えます。

更に言えば「極端で過激な反原発運動」を見ていると、犠牲が避けられないと考えるだけではなく、更に踏み込んで「積極的に福島の地とそこに住む人々」を犠牲にしようとしている様にすら見える時があります。
それは「穢れを払う」という呪術的思考にも見えます。しかし一方では、合目的的行動であるという解釈も成り立ちます。つまり「どうしても社会に存在してしまう理不尽や非合理から自らの精神を守る為に、積極的に生贄を差し出していく」という解釈です。

我々が生きていく上で、理不尽や非合理を完全に無くす事は不可能です。何故なら、どうしても偶然の要素を排除出来ないからです。そうした理不尽や非合理の存在を許さない考え方が、Lernerが提唱した「公正世界信念(正当世界信念)の一種」という概念です。詳しくはこちら(PDF注意)こちらのTogetterを参照してください。
「公正世界」は我々の理想ではありますが、おそらく現実には存在し得ない世界でしょう。だからこそ我々はそのギャップに苦しみ、その解消を目指そうとするのではないでしょうか。それが悪い形で結実したものが「いじめにおける自己責任」論であり「災害は天罰」論でもあるのです。

4.生活保護の問題

いささか旧聞に属する話題ですが、河本準一氏に端を発する生活保護問題があります。これはなかなか複雑な構造を持っていると思います。少し自分なりに整理しますと、大雑把に分けるだけでも、政治の問題・国民意識の問題・制度の問題の3つくらいに分けられます。更に、実際には、これらは絡み合っており完全に分離するのは極めて難しいのですが、何とか可能な限り解きほぐして順番に述べていきたいと思います。

1)政治の問題
そもそも、生活保護の不正受給(ではない可能性が高いのですが)の追求は国会議員の業務ではありません。にも関わらず、どうして片山さつき議員や世耕弘成議員はここまで拘ったのでしょうか。「人気取り・票集め」と解釈する方もいらっしゃいますだが、もう少し複雑だと私は見ています(後述)。

ここで、世耕議員と片山議員の問題点について少し述べておきます。
世耕議員の祖父である弘一氏(近畿大学初代総長)は「国民を飢えさせてはいけない」と言って政治家を志したと聞きます。きっと弘一氏は、孫の体たらくに草葉の陰で泣いている事でしょう。
一方の片山議員は生活保護制度の根幹も、憲法の理念すら理解出来ていない有様です。即ち彼女は「生活保護は社会保障ではない」と言って制度への無知を晒し、「受給するのは生きるか死ぬかの時」と言って憲法25条への無理解を晒しました。更に、河本氏の個人情報をほじくった挙句、吉本興行へ資料請求を行うというプライバシー権の侵害(越権行為)まで行っています。

一方で、政府の対応の早さには驚きます。たかが一芸能人を野党議員が吊るし上げたところでオタオタする必要など全く無いと思うのですが、小宮山厚労相は早々と支給水準の引き下げにまで言及するという手回しの良さです。
仮に、河本氏の件が不正受給だったとしても、支給水準を引き下げる事は、全く、何の解決にもなりません。99.5%の正規受給者を苦しめるだけの結果になります。こんな対応は一言でいってムチャクチャです。どうしてそうなったのでしょうか。

これはいささか陰謀論めいた話になってしまって恐縮なのですが、もしかしたら片山議員が財務省出身である事と関係あるのかもしれません。
いや、幾ら陰謀論と言っても、財務省自身が今回の騒動を作ったとまでは思いませんよ、私だって。ただ少なくとも財務省は、隙さえあれば上手く世論を誘導して政府支出を削減する機会を鵜の目鷹の目で窺っているのは間違いないところだと考えます。
だとすれば今回の騒ぎは絶好のチャンスでしょう。片山議員らを動かして騒ぎを大きくしたところで小宮山大臣に上手く「御説明」申し上げて支給水準引き下げを目論んだとしてもおかしくありません。仮に、支給額を1%引き下げられたとすれば、それだけで300億円の金が浮きます。これは政府と役人にとって、かなり強力なインセンティブではないでしょうか。
もし失敗しても財務省に失う物はありません。仮に批判が大きくなったとすれば、その時は片山議員の首を差し出せば良いでしょう。どれほど最悪でも議員辞職程度で済む筈です。片山議員も次の選挙で受かれば無問題だし、自民党は政府と役人に貸しを作れます。全員Win-Winの関係になって万々歳です。
そう、国民以外は。

そういえば昔、漫画「るんるんカンパニー」第27話で「とりかま学園での秋田先生の所業が国会で追求された挙句、内閣が総辞職した」というネタがありました。現実は虚構新聞を追い抜いただけでは飽き足らず、ギャグマンガの域にまで達したという事らしいです(爆)

2)国民意識の問題
まず、今回の問題は「不正受給である可能性は少ない」のです。その点を理解せずに河本氏を叩いて不正を糾弾しているつもりになっていた人は、片山議員らのプロパガンダにまんまと乗せられたと言うべきでしょう。
不正受給ではないとすれば、残りは道義的問題です。つまり、河本氏は道義的責任のみを追及されるべきです。そしてそれは、彼の家庭事情をも斟酌する事を意味します。これは彼を叩きたいだけの人にとっては少々都合が悪い事態です。だから見えない振りをしているのかと勘繰りたくなります。
これはもう最近しょっちゅう感じるのですが「人は、自らに正義があると信じた時に最も残酷になれる」のです。そして、正義と信じているものの実態が「嫉妬と独善」である事は珍しくありません。今回の件も、まさにそうである様に思えて仕方ありません。
勿論、不正受給は悪い事です。減らさなければなりません。しかし完全にゼロにするのは無理です。そんな事はみんな解っている筈です。やはり、一部の不正受給者の為に、全体の支給水準が引き下げられるのはおかしいのです。

そもそも、生活保護は「特別な人」だけのものではありません。自分や家族がケガをしたり病気をしたりして収入が激減する、そういった事は、いつ誰にでも起こり得ます。また、自分に責任が無くても働き口が無くなって収入が途絶える事だって、有り得るのです。誰でも、自分がそうなった時の事を少しは考えておくべきでしょう。
生活保護に関心のある人の間では、以前から「問題なのは不正受給よりもむしろ補足率の低さ」という指摘がなされていた様です。つまり、実際には保護が必要な人の2~3割しか受給できていないという事です。確かに、不正受給よりもそちらの方が大きな問題に思えます。しかしこれは、金を出す側から見れば都合が悪い話なので、なるべく表沙汰にしたくない事実に思えます。

そんなに生活保護に金を掛けられるか。そもそも対象者がどんどん増えているのがおかしい」という意見もあります。しかしその前に、どうしてそんなに需給対象者が増えたのかを考える必要があります。私は、やはりこれは景気が悪化したせいだと考えます。即ち、政府は本当に生活保護費の増大を憂えるなら、まずはさっさと日銀を動かして、金融緩和を積極的・継続的に行うべきなのです。景気が回復すれば働き口が増えて「働きたくても働けない人」の割合は下がりますし、生活保護費の減額に繋がります。国の財政改善にだって大きく寄与します。
そういう、国民の幸福(と政府自身)の為の施策をなおざりにしておいて、せっせと「受給者叩き」に精を出し、出ていくカネだけを絞ろうとする。これは国民に対する裏切りだと考えます。

また「生活保護需給者の方が良い暮らしをしている」という意見もあります。しかしこれは単純に話が逆なのです。つまり問題は最低賃金が安過ぎる事です。真面目に働けばきちんと暮らしていける、それが当たり前になるべきです。その為には持続的な経済成長が必要であり、日本以外の多くの先進国政府と中央銀行は、それを当然の目標にして動いています。
かつては、日本も「高度経済成長」をしていた時期がありました。その時には「真面目に働けば家族を養いながら貯金をし、やがて自分の家を買う」というのが「平均的な国民」だったのです。
繰り返しますが「真面目に働けば家族を養いつつ貯金が出来て、いずれ家くらい買える」というのが社会の「平均」になるべきだと考えます。そういう社会を目指すべきだし、その為には、そういう方向を目指している政治家に投票して当選させなければならないでしょう。
時間は掛かるかもしれません。しかし、野田総理が消費税増税の際に口先だけの上っ面で言った「次の世代の為に」という台詞を我々が本気で考えるのならば、財務省のプロパガンダに乗せられて国民に苦しみを押し付けるだけの政治家達には御退陣頂いて、たとえ時間は掛かっても、少しづつでも政治を改善していくべきでしょう。

3)制度そのものに関わる問題
既に述べた通り、生活保護とは「働きたくても働けない」人の為のものです。従って、受給者の増加を問題にするのであれば、制度をいじる(改悪する)のではなく、前述の如く「働きたい人が働ける社会」を目指すべきです。むやみに制度をいじっても問題の解決にはなりません

もう一つの問題は、これも既述ですが「潜在的未受給者」の存在です。本来なら、支給対象者は大手を振って受給すべきである。何故なら、くどいですが生活保護は「働きたくても働けない」人の為なのですから、それは「働きたい人が働ける社会」を用意出来ない政治の責任という事になるからなのです。
その意味では、確かに不正受給者対策も重要ですが、これを強化し過ぎる制度変更も好ましくありません。何故なら、不正受給者対策に注力する余り、本来の受給対象者まで受給を自粛してしまう様な風潮は、断固として避けなければならないからです。あくまで優先されるべきは、潜在的未受給者対策、そして雇用対策であって、不正受給者対策は、それらをきちんとやった後の問題なのだからです。

5.消費税増税を初めとする、経済分野での政府閣僚の発言

Twitterでの【週間PseuDoctor】にも書きました(^^)とおり、安住財務相は、国会で『大手新聞の社説は軒並み消費増税に賛成』と発言しました。新聞の社説を根拠にするとは、詭弁にも程があります。言うまでも無く大手新聞は「軽減税率の適用」をお願いしている身です。従って、財務省の御機嫌を損ねる様な事は厳に慎まなければならないのは当然です。
財務大臣がその程度の事を知らないのならアホですし、知っていてこの答弁なら姑息な卑怯者です。

また、野田総理は「日本の金利が低位安定している今の段階で財政健全化に取り組み、財政規律を守る国だと行動で示すことが教訓だ」と述べました。全く何も解っていない経済オンチの発言です。これでは、国債利率が上がる事だけを恐れている財務省の代弁者に過ぎません。
確かに先日、スペイン国債は財政悪化を原因として利率が急上昇しました。しかしそれは逆に言えば、日本国債の利率が低いという事は「日本の財政はまだまだ大丈夫だと市場が判断している」という事でもあります。
更に、国債利率とインフレ率との間にも、強い正の相関があります。つまり、日本の金利が低いのは、我が国が深刻なデフレ不況に陥ったままである事の反映であるとも言えるのです。そう考えると、野田総理の言っている事は「不況を言い訳にして国民から更にカネを搾り取る算段をしている」様に思えてなりません。総理は「三丁目の夕日」の舞台になっている昭和三十年代が理想だそうですが、よりによって高度経済成長の時代が理想だと仰るとは、マヌケにも程があります。やってる事は丸っきり逆だからです。もしかしたら御本人は国を良くする為に頑張っているつもりかもしれませんが、だとしたら皮肉な事このうえありません。
あるいは、政府側は「丁度7月に日本再生戦略の原案を決めたところだ。良くなるのはこれから」などと言うかもしれません。しかしこの原案も酷いもので、その通りにやっても、まず再生など無理でしょう。長くなるので詳しくは書きませんが、例えばこちらの記事などを御参照頂ければと思います。

さて、そのスペインの財政悪化によりユーロ安が一段と進みました。これに対して安住財務相は「断固たる措置を取る」と発言し、為替介入を示唆しました。
しかし、これは本当に口先だけです。いわゆる「口先介入」にすらなっていません。安住大臣の発言など「やるやる詐欺」でしかないと、完全に市場から見透かされているのです。
彼が深く考えずに思い付きで喋っている事は、今年の2月に介入水準を国会でペラペラと暴露してしまった「前科」からも明らかです。またもや陰謀論じみてしまって申し訳ありませんが、これほどまでに経済の知識が欠片も無い人物が財務相をやっていられるのは、むしろ無知な人物の方が裏から操るのには都合が良いからではないか、と勘繰りたくなってしまう位です。

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4 件のコメント:

  1. 初めてまして。
    先生はSF好きと言う事なので、J・P・ホーガンの「ガニメデの優しい巨人」を引用してコメントしてみます。

    社会の荷物になること以上に惨めな境遇はない(創元SF文庫P172)ガニメアンならきっと、>本来なら、支給対象者は大手を振って受給すべきである。・・・は理解できない言葉と思います。
    もちろん受給者は人間ですが(笑い)、この様な言い方(大手を振って)は不正受給者は喜んでも正規受給者は迷惑なのではないでしょうか。
    どうでもいい様な言葉じりを捉えて、とも思いましたが、気になりましたので。

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    1. >じろさん
      いらっしゃいませ。コメントの公開&お返事が遅くなってしまいましたが、どうか御容赦ください。
      「先生」と呼ばれるのは、まぁリアルでは慣れてはいるのですが、何だかWebだと逆に妙な感じですね。別に嫌だというレベルではないのですが。

      さて、私は地球人として
      >社会の荷物になること以上に惨めな境遇はない
      という台詞には、幾つかの点で、ちょっと首肯しかねるのです。大きく分けると「社会の荷物とは誰か」と「社会の荷物は最も惨めなのか」の2点になります。

      まず「社会の荷物とは誰か」について。例えば「姨捨山の民話」という話があります http://www.pref.nagano.lg.jp/kids/menu3/minwah01.htm これなどを見ますと、一体「社会の荷物になっているのは誰なのだろうか」と考えてしまいます。もう少し一般化して述べれば、今現在、社会の荷物になっている(様に見える)人でも、少し状況が変われば社会に貢献できる可能性もあります。逆に、今、社会の役に立っている人でも、ほんのちょっとした事で、たとえ本人に全く責任がなくても、お荷物になってしまう事もあります(実際に、幾らでもある事です)。
      という訳で「誰が社会の荷物なのか」に関しては、単純に判断できないと考えます。
      ちなみに私自身は「そもそも『社会の荷物』という考え方自体を、すべきではない」と考えています。何故なら、荷物かどうかは「社会の役に立つか立たないか」という観点で判断している訳です。しかしながら、それは社会の価値観に依存する考え方です。例えば、社会が貧しくなれば、娯楽や芸術は「役に立たない」として切り捨てられる傾向があります。
      しかし、本当にそうでしょうか?問題は「娯楽や芸術が存続し難い社会構造」の方にあるのではないのでしょうか。にも関わらず、娯楽や芸術を「役に立たない」として切り捨ててしまったら、貧しい社会が豊かになるとでも言うのでしょうか?

      まぁ、ここは譲って、仮に「社会の荷物」という概念を認めるとしましょう。その場合には「社会の荷物は最も惨めなのか」という論点に移る事になります。
      「惨め」という状態をどう定義するのかも問題ではありますが、ここでは「当人の自己肯定感が低い状態」と考えてみましょう。何故なら、他者が何と言おうが当人が惨めだと思わなければ、惨めとは言い難いと考えるからです。そうすると、確かに「社会の役に立っていない」状態では自己肯定感が低いだろうと考えられます。
      しかしながら、自己肯定感に最も影響を与えるのは「社会のお荷物かどうか」だけなのでしょうか。実際には、他にも色々ありそうです。まぁ、この辺がガニメアンと人類との違いなのかもしれませんが。
      この論点に関しては少々考察が不足しているとも感じますが、取り敢えずは、こんな所です。

      最後に
      >この様な言い方(大手を振って)は不正受給者は喜んでも正規受給者は迷惑なのではないでしょうか。
      これはちょっと、仰る意味が解りませんでした。じろさんはやはり、支給対象者は自らを「惨めだ」と自覚しなければならないとお考えなのでしょうか。それとも「こういう言い方は不正受給者を喜ばせるだけだから良くない」という御意見なのでしょうか。
      「言葉尻を捉えて」と仰っているので私も細かい話をしますが、私は「支給対象者は大手を振って受給すべきである」と書きました。あくまで「大手を振って受給すべき」なのは「支給対象者(即ち正規の受給者)」です。不正受給者が大手を振るべきだとは考えていません。
      私が主張したかったのは「不正受給者がけしからんからと言って、正規受給者にそのシワ寄せをすべきではない」という事なのです。

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    2. 私のガニメアンに絡めた無茶振りコメント、てっきりボツと思っていたのに丁寧な返信、びっくり、ありがとうございました。

      私のコメントで意味が解らなかったと言う部分ですが、よくよく考えてみると、どうも私の“大手を振る”の解釈の間違いでした。
      ちょっと気になって広辞苑(かなり古い版ですが)を見ると、“大手を振る”は
      ①両手を振っていばって歩くさまにいう。
      ②だれにもはばからずに事をするさまにいう。
      と言う事で、PseuDoctorさんは当然②の意味で使ったのでしょうが、私は“いばって”と言う様なイメージしか頭に浮かばず、ワーキングプアのいる現状(もちろん受給者の責任ではないですね)で、せめて淡々ともらって欲しいと思ったわけです。
      私の国語力の無さでした。M(_ _)m

      「社会の荷物とは誰か」については、確かその通りですね。
      誰でも、いつ税金や介護保険を払う側から貰う側になるか分かりませんね。
      「社会の荷物は最も惨めなのか」について、そういえば昔、・・・障害者はその存在だけで光である・・・みたいな事、読んだのを思い出しました。
      あれ?、この私の解釈も大丈夫かな(^_^;)。

      削除
    3. >じろさん
      すみません、ボツではありませんでした(爆)
      単に(ひとえに)私のお返事が遅いのがいけないのです。ブログの管理がお世辞にも充分とは言いがたい状態ですので、頂いたコメントの扱いをどうするかはずっと悩んでいるところですが、当面は現状のまま御容赦頂きたいと存じます。
      さて「大手を振る」の件は了解しました。確かに生活保護は、威張って受給するものでもありませんが、さりとて卑屈になる必要も無いと考えます。当たり前の事として淡々と受けられれば、それが一番良いですね(現実にはなかなか難しいですが)。
      それから「障碍者はその存在だけで光である」という言葉、逆の意味でちょっと気になります。勿論、善意から出た言葉だとは思いますが、ベクトルが逆ではあるものの、やはり「障碍者を特別視」している事には違いないと思ってしまうからです。
      私の理想としては「障碍者が何ら特別な存在ではない社会」が良いと思っています。それは先ほどの「生活保護の受給は威張るでもなく卑屈になるでもなく、淡々と受けられれば良い」というのと、感覚としては似ていると思っています。

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