最終更新日:2012年03月25日
(この記事は、以前の記事(P02-04)にも増して、ある程度の知識がある方を対象にしています。初めてお読みの方には御迷惑をお掛けしますが、御容赦ください)
1.「欠如モデル」の(平川さんによる)定義に対する疑問
「欠如モデル」に関しては、以前の記事(P02-04)の中でも少し触れましたが、今回はもう少し掘り下げて考えて見ます。実を言うと、私も「欠如モデル」という用語は初耳でしたので、まずは以前の記事中にも記した通り、平川さんの言葉に基づいて、欠如モデルの定義を理解しようと試みました。
平川さんによれば、欠如モデルとは「 科学技術をめぐる不安や反対などトラブルの原因が、知識不足以外に(も)あるのに、知識不足の問題としてのみ扱うこと 」であり(ソースはこちら)、また「不安・反対の人々を「無知で不合理な存在」として表象し、「ご理解下さい」と一方的に技術の受容を迫るなど、テクノクラティックな態度のこと」だそうです(ソースはこちら)。
しかしながら、当初から私はこの定義に違和感を持っていました。即ち、上記の記事でも少し触れた様に、
「科学技術をめぐるトラブルの原因が知識不足のみだと考えている人など本当に居るのか?」
「一方的に技術の受容を迫っている人など居るのか?」
という疑問が消せなかったからです。
この疑問が言葉尻を捉えたイチャモンではない証拠に、平川さんは同時に「本当に知識不足が原因である問題に対して必要な知識を提供することは当然のこと。批判対象ではないし、敢えて欠如モデルと呼びもしない」とわざわざ述べておられます。つまり、私が太字で強調した部分、即ち「のみ」や「一方的」という修飾語こそが、欠如モデルのキモだという事になります。
でも、本当に、欠如モデルとはそういう意味なのでしょうか。更に平川さんによれば「そのくらいのことは10本も論文読めばわかること。科学技術社会論や科学コミュニケーションに関わる人は、それくらいは勉強しておかねば。これは、物理を学ぼうとする者に「まず解析学はちゃんと勉強して」というのと同じ職教育上の要求であって「欠如モデル的」でないのはいうまでもない」(ソースはこちら)だそうです。従って、科学技術社会論(STS)的には、上に述べた平川さんの定義は、ごくごく当たり前の常識であり、それを知らないのは解析学を知らずに物理を学ぼうとする位に無謀だという事になります。これって、極めて強い言い方ですよね。医学に例えれば「人体の構造や機能を知らずして臨床医学を学ぼうとする」ほど無謀だというところでしょうか。
ところが。
平川さんは御自分のブログ記事(2006年のものです)の中で、欠如モデルの事を、こんな風に書いています。即ち「一般市民は科学や技術の知識が欠如しており、専門家が正しい知識をわかりやすく伝えることが重要だ」というのが欠如モデルの考え方だそうです。
・・・あれ?
ここには、私がキモだと思った「のみ」や「一方的」の要素がありません。欠如しています。もしかして、これこそ欠如モデル?んなわきゃぁなぃ、ですね。
今更言うまでもない事ですが、ある事柄に関して「それが重要である」というのと「それのみが問題である」というのは、一見すると似ていますが、中身は大きく異なります。
簡単な例で示してみましょう。
「豊かな老後を送る為には、お金の有無は重要である」という意見には、多くの人が賛成してくださるでしょう。しかし、
「豊かな老後を送る為には、お金の有無のみが問題である」なんて書いたら、反論が山の様に来るでしょう。
別の例を挙げます。
「電力の安定供給の為には、原発の廃止vs存続の問題は重要である」確かに重要です。原発が存続した場合と廃止した場合とでは、電力供給事情は著しく異なりますから。
「電力の安定供給の為には、原発の廃止vs存続のみが問題である」えぇ?原油供給の問題は?代替エネルギー開発の問題は?
こんな例は、幾らでも作れます。
どうも平川さんは、こうした違いを理解出来ずに言う事がズレているのか、それとも理解した上で敢えて内容をズラして、しかもそれを「当然の常識」扱いしているのか、そのどちらかの様に思えます。 前者であれば日本語の理解不足ですし、後者であれば不誠実(卑怯)な態度です。
という訳で、ちょっと混乱してきたのですが、もしかしたらこれは、平川さんの言う事だけを聞いているせいなのかもしれませんね(平川さんも「論文を10本も読めば解る」と言っておられますし(笑))。そこで、他の人がどう言っているのかも、少し調べてみる事にしましょう。
まず取っ掛かりとして、TAKESANさんのブログ記事のコメント欄から幾つかの記事や論文がリンクされていましたので、それらを読んでみました(後述)。
また、それらとは別に、こちらのTogetterのコメント欄から辿って標葉隆馬さんのブログ記事(何と、ブログを開設した最初の記事が、これなのですね)を読みました。それによると、欠如モデルとは「一般の人々が科学技術を受容しないことの原因は、科学的知識の欠如にあるとして、専門家が人々に知識を与え続けることで、一般の人々の科学受容や肯定度が上昇するという考え方」であり、欠如モデルという用語を作ったのはブライアン・ウィン(Brian Wynne)だそうです。この定義は筋が通っているし、提唱者の名前も解りましたので、私には、とても腑に落ちました。
更に、この定義で大事なのは「科学的知識の欠如」以外の原因について、不用意に言及していない点です。まぁ「他の原因なんかある筈が無い」なんて事は、おいそれと言えるものではありませんよね。そういう態度は、科学の立場では忌むべきものである筈・・・などという程度の事は、いやしくも科学技術社会論の専門家であるなら、別に論文を10本も読まなくても、少し考えただけで解りそうなものです。
さて、これらの論文や記事を見比べてみると、なかなか興味深い点に気付きます。平川さんに近い定義を述べているのが林衛さんの記事(PDF)(但し、これはいわゆる「学術論文」ではありません)です。即ち、記事(の中の図)には「伝達することで事足りる」という表現があります。ところが、この記事の参考文献にはブライアン・ウィンの名前は出てきません。そう言えば平川さんの呟きやブログ記事にもブライアン・ウィンの名前はありませんね。一応、平川さんのブログ内を「Wynne」と「ウィン」で検索してみたのですが、ヒットしたのは「ウィンドウ」と「ウィンター」だけでした。
一方で、本文中にウィンの名前を出している隅本さんらの論文(PDF)や、参考文献にウィンの名前がある八木さんの論文(PDF)、そして上述の標葉さんのブログ記事などを拝見すると、いずれも「科学知識の伝達が重要」という点では一致しているものの「それのみが問題」とか「事足りる」という様な「強い」表現は出てきません。
勿論、平川さんや林さんの文章は論文ではありませんので即断は禁物ですが、提唱者の名前を出していない人達の方が、用語の意味を限定している様に見える点は、やはり興味深いです。増してや、前項で述べた様に、平川さんなどは、その限定した部分こそがキモであると解釈できる書き方をしています(意地悪な見方をすれば「もしかして、原典を参照されるのが嫌なのかな?」などと邪推したくもなります)。
いずれにしても、ちょっとこれは、平川さんの定義を額面通り受け取る訳にはいかなくなってきました。
(3月25日追記:科学哲学者の伊勢田哲治さんが、御自身のブログで、欠如モデルに関して詳しい記事を書かれています。
欠如モデルの由来と発展(その1)
欠如モデルの由来と発展(その2)
欠如モデルの由来と発展(その3)
欠如モデル(補足)
結論から言えば「欠如モデルには単一の定義は無く、使う人によって意味合いが異なる」という事になりそうです。そうであれば、平川さんが独自に欠如モデルを定義するのもアリだし、私が私の理解するところにより欠如モデルを定義するのもアリでしょう。
但しその場合でも、平川さんの様に御自分の定義を押し付けるのは、やっぱりおかしい訳です。
更に言えば、今回の私の記事の後半に書いてある内容は、平川さんや林さんによる欠如モデルの定義に従った場合に(も)成り立つ話を書いております。ですから、欠如モデルの多義性によって影響を受ける点は、あまり無いだろうと考えております。追記ここまで)
いずれにしても、ちょっとこれは、平川さんの定義を額面通り受け取る訳にはいかなくなってきました。
(3月25日追記:科学哲学者の伊勢田哲治さんが、御自身のブログで、欠如モデルに関して詳しい記事を書かれています。
欠如モデルの由来と発展(その1)
欠如モデルの由来と発展(その2)
欠如モデルの由来と発展(その3)
欠如モデル(補足)
結論から言えば「欠如モデルには単一の定義は無く、使う人によって意味合いが異なる」という事になりそうです。そうであれば、平川さんが独自に欠如モデルを定義するのもアリだし、私が私の理解するところにより欠如モデルを定義するのもアリでしょう。
但しその場合でも、平川さんの様に御自分の定義を押し付けるのは、やっぱりおかしい訳です。
更に言えば、今回の私の記事の後半に書いてある内容は、平川さんや林さんによる欠如モデルの定義に従った場合に(も)成り立つ話を書いております。ですから、欠如モデルの多義性によって影響を受ける点は、あまり無いだろうと考えております。追記ここまで)
3.(私の理解による)「欠如モデル」の図示
という訳で、論文を10本までは読みませんでしたが(しつこい)、ここでは平川さんや林さんの定義は採用しません。内容が曖昧な上に意味が限定され過ぎると考えるからです。私としては、現時点では、上述の標葉さんの記事やその他の文献も参考にした結果、欠如モデルとは「専門家が一般人に科学知識を与えれば与えるほど、科学技術に対する受容度や肯定感が増す」という意味だと理解しました。
言い換えれば「科学知識が増えるほど、科学技術を肯定的に受容する様になる」訳です。ここから導き出せる事として、欠如モデルでは「科学知識量と科学技術の受容との間には正の相関がある」と考えられます。一方、欠如モデル批判では「科学知識量と科学技術の受容との間に、必ずしも相関は無い」と考えるべきでしょう。
ちょっと解り難いかもしれませんので、図で示してみましょう。
こちらが、欠如モデル的な考え方です。一つ一つの点は、社会を構成する個々の人々(ないしは集団)を示しています。
平川さんや林さんによって「限定」された欠如モデルの定義によるならば、確かにそういう捉え方も成り立つかもしれません。しかし、上で述べた様に、私はその定義を採用しない事にしました。では、前項及び前々項で示した様な欠如モデルの定義に従った場合には、ニセ科学批判と欠如モデルとの関係はどの様なものになるのでしょうか。
(2012/2/16追記:ここの段落の記載は、取り消します。何故なら、平川さんや林さんの定義に従った場合であっても、以下に述べる理路は成り立つからです。むしろ平川さんらの定義に従った方が、「欠如モデルにおける知識量と受容度との相関」は、より強固になる筈です。
さぁ、ここまでくれば結論までもう少しです。それでは皆さん、この図3と、前述の図1及び図2を、頭の中で重ね合わせてみてください。
まず、図1と図3を重ねた場合、赤い部分に入る人は、それほど多くありません。
一方、図2と図3を重ねた場合、赤い部分にはそこそこの人が含まれます。
言い換えれば、
「欠如モデル的に社会を捉えた場合、ニセ科学にハマりやすい人は少ないと判断される」
「欠如モデル批判的に捉えれば、ニセ科学にハマりやすい人はそこそこ存在すると判断される」
という事です。
ニセ科学を批判するのは、ニセ科学にハマる人が居るからです。人数の多寡のみで決めるのは、必ずしも良い事ではないですが、少なくとも、ハマりそうな人が多ければ多いほど、批判しようという気持ちも強くなるのが自然でしょう。
という訳で、結論としては「社会を欠如モデル批判的に捉えている人の方が、むしろニセ科学批判を熱心に行う傾向がある」と言って良いでしょう。
そしてこちらが、欠如モデル批判的な考え方です。
これらの図は後で参照しますので、何となくでも覚えておいてください。
そして、繰り返しますが、この場合、知識量の他に受容度と相関する要素があるか無いかは、問題にしていません。「他の要素があるにせよ無いにせよ、いずれにしても知識量が増えるほど受容度が増す(従って、他の要素を揃えて検証すれば、知識量と受容度との間に正の相関がある)」というのが欠如モデルだと理解しています。
そして、繰り返しますが、この場合、知識量の他に受容度と相関する要素があるか無いかは、問題にしていません。「他の要素があるにせよ無いにせよ、いずれにしても知識量が増えるほど受容度が増す(従って、他の要素を揃えて検証すれば、知識量と受容度との間に正の相関がある)」というのが欠如モデルだと理解しています。
(2012/2/16追記:TAKESANさんのブログや、はてブコメでも何人かの方から御指摘頂きましたが、あくまでこの図は「イメージ」です。厳密には、知識量と受容度の双方を共に量的な指標として評価できる場合でなければ、この様な散布図は描けません。知識の量はテストか何かで評価出来るとしても、受容度をどの様に捉えるかという問題があります。
今思い付く一つのやり方としては、個々の点を個人ではなく集団にするという方法があるでしょう。つまり、知識量により標本を階層化し、それぞれの階層において肯定的に受容する人の比率を出す、という方法です。このやり方であれば、個々人が「受容する傾向にあるのか、受容しない傾向にあるのか」さえ解れば、何とか量的な評価も出来るでしょう。
また「無相関は必ずしも一様分布を意味しない」という御指摘も、その通りです。やはり「あくまでイメージ」という事で御理解頂きたいと思います)
4.「ニセ科学批判」は「欠如モデル的」なのか?
さて、上で触れた平川さんの呟きは、菊池誠さんとの会話に関連して出てきたものです。どうやら平川さんは、菊池さんの「ニセ科学に対する啓蒙的な活動」に対して「それは欠如モデル的である」という批判をしたいかの様に見えます。
確かに、ニセ科学に対して「これを知識不足による問題とみなし、科学知識を伝える事で解決できると考えている」のだとすれば、それは如何にも欠如モデル的な考え方に思えます。当初は私も、そういう考え方にも一理あると思っていました。
でも、本当にそうなのでしょうか。
(2012/2/16追記:ここの段落の記載は、取り消します。何故なら、平川さんや林さんの定義に従った場合であっても、以下に述べる理路は成り立つからです。むしろ平川さんらの定義に従った方が、「欠如モデルにおける知識量と受容度との相関」は、より強固になる筈です。
ですから、全体の論旨は変わりません。と言うより、批判的な意味合いに関しては、むしろ強化されたと言って良いでしょう)
その答えは(少なくとも私にとっては)全く意外なものだったのです。
5.ニセ科学批判と欠如モデル批判の意外な関係
まず、どういう人がニセ科学にハマりやすいかを考えてみたいと思います。何故なら、そういった人こそが、ニセ科学批判を届かせたい人々だからです。
この記事をお読みの方々なら先刻御承知の様に、ニセ科学とは「一見すると科学の様に見えるけれども、実は科学ではないもの」の事です。つまりニセ科学にハマってしまうのは「(本当は科学ではない)ニセ科学を(科学であると誤認して)信じ込んでいる状態」だとみなせます。
科学技術に対する受容度という観点のみで見た場合(判断の妥当性はともかくとして)「自分が科学であると認識したものを信じてしまう」人の受容度は高いのでしょうか、低いのでしょうか。
「自分が科学だと判断したものを信じる」のですから、受容度は高いのだと、私には思えます。
一方で、知識量はどうでしょうか。一般的に、他の条件が同じであれば、科学技術に関する知識が多い方が、科学と非科学との見分けをつけ易くなると言えるでしょう。つまり科学技術に関する知識が少ない方が、ニセ科学にハマりやすいと考えられます。
以上をまとめると、こうなります。
(他の条件が同じであれば)科学技術に対する受容度が高い方が、ニセ科学にハマりやすい。
(他の条件が同じであれば)科学技術に関する知識が少ない方が、ニセ科学にハマりやすい。
これを、図に示してみましょう。
ちょっとグラデーションが上手くいかず y=-x っぽいラインが見えていますが、要するに図の左上の方ほど赤くなっていると思ってください。勿論、赤い色が濃いほど、ニセ科学にハマりやすい事を現わしています。
科学技術に対する受容度という観点のみで見た場合(判断の妥当性はともかくとして)「自分が科学であると認識したものを信じてしまう」人の受容度は高いのでしょうか、低いのでしょうか。
「自分が科学だと判断したものを信じる」のですから、受容度は高いのだと、私には思えます。
一方で、知識量はどうでしょうか。一般的に、他の条件が同じであれば、科学技術に関する知識が多い方が、科学と非科学との見分けをつけ易くなると言えるでしょう。つまり科学技術に関する知識が少ない方が、ニセ科学にハマりやすいと考えられます。
以上をまとめると、こうなります。
(他の条件が同じであれば)科学技術に対する受容度が高い方が、ニセ科学にハマりやすい。
(他の条件が同じであれば)科学技術に関する知識が少ない方が、ニセ科学にハマりやすい。
これを、図に示してみましょう。
ちょっとグラデーションが上手くいかず y=-x っぽいラインが見えていますが、要するに図の左上の方ほど赤くなっていると思ってください。勿論、赤い色が濃いほど、ニセ科学にハマりやすい事を現わしています。
さぁ、ここまでくれば結論までもう少しです。それでは皆さん、この図3と、前述の図1及び図2を、頭の中で重ね合わせてみてください。
まず、図1と図3を重ねた場合、赤い部分に入る人は、それほど多くありません。
一方、図2と図3を重ねた場合、赤い部分にはそこそこの人が含まれます。
言い換えれば、
「欠如モデル的に社会を捉えた場合、ニセ科学にハマりやすい人は少ないと判断される」
「欠如モデル批判的に捉えれば、ニセ科学にハマりやすい人はそこそこ存在すると判断される」
という事です。
ニセ科学を批判するのは、ニセ科学にハマる人が居るからです。人数の多寡のみで決めるのは、必ずしも良い事ではないですが、少なくとも、ハマりそうな人が多ければ多いほど、批判しようという気持ちも強くなるのが自然でしょう。
という訳で、結論としては「社会を欠如モデル批判的に捉えている人の方が、むしろニセ科学批判を熱心に行う傾向がある」と言って良いでしょう。
6.予想される反論
あるいは、上で述べた内容には異論があるかもしれません。
例えば「ニセ科学にハマる人は、むしろ科学に対して不信感を持っている場合があるので、かえって受容度は低いのではないか?」とお考えの方がおられるかもしれません。
しかし私はそうは考えません。科学に対して不信感を持っているとすれば、それは科学に「裏切られた」という感覚が強いからでしょう。裏切られたと感じるのは、元々は受容度が高かったからです。そして、裏切られた時に替わりのものを探してニセ科学にハマってしまうのだとすれば、それはやはり、本質的には、未だ受容度が高い状態に保たれているからだと思うのです。
そしてその事は、ニセ科学の中にある「現代科学を超越した画期的な理論」や「海外や著名な学者も絶賛」といった煽りに魅かれる心性にも現れていると考えています。
また、よりクリティカルな批判としては「ニセ科学にハマるかどうかは、知識量と受容度のみで決まるのではない」というものがあるでしょう。確かにその通りです。特に重要なのは例えば「世の中にはそうそうウマい儲け話などない」とか「欠点が無く利点だけの方法など存在しない」などの「考えるコツ」に相当する部分です。こうしたコツは、知識と相互に補完しあう事で、いわゆる「リテラシー」を形作るものだと考えています。これはとても重要なポイントです。
しかし今回は、こうした「考え方のコツ」の要素は考慮していません。考慮していないといっても、勿論、どうでもいいと思っている訳ではありません。欠如モデル(批判)との比較を行う為に「考え方のコツ」のレベルを固定した場合に「知識量・受容度・ハマりやすさ」相互の関係がどうなるかを、考えてみたかったのです。
7.「ダメなニセ科学批判批判」との関係
ちょっと話は変わって。
もしかしたら「ニセ科学批判批判」(以下では「批判批判」と略します)という言葉を始めて見た方がいらっしゃるかもしれません。私がこの言葉を使う時は、文字通り「ニセ科学批判に対する批判」という意味で用いています。ですからその中には「傾聴すべき真摯な批判」も「単なるイチャモンに過ぎないダメな批判」も含まれています。ちなみに「良い批判批判とダメな批判批判の違い」とは、私が以前からずっと論じたいと思っているテーマです。なかなかまとまらずに苦しい思いをしていますが、必ず形にしますので(興味のある方は)今しばらくお待ちくださいm(_ _)m
さて、今回「批判批判」という言葉を出したのには理由があります。それは「ニセ科学批判を欠如モデル的に捉えるのはダメな批判批判の典型である」と思ったからです。どうダメなのかに関しては既に述べました。ここでは「何故その様に考えてしまうのか」についての仮説を述べたいと思います。
ダメな批判批判の一例として「ニセ科学なんて、ちょっと考えればウソだって解るじゃん。そんなのに騙される人なんていないよ」というものがあります(この意見自体に反論するのは簡単で、実際に騙された人が居る事を示せば良いのです)。
ここで、この様な意見を持ってしまう人の位置を、図1~図3に示した座標軸の中で考えてみましょう。本人はニセ科学を見破れるのですから科学技術の知識はある程度豊富である一方で、科学技術の受容度は必ずしも高くない、むしろ低めであると推測できます。つまり、図の中では右下のあたりに居ると考えられます。
以上をまとめて図示すると、この様になります。
即ち、
Aの領域は「ニセ科学に騙され易いクラスタ」
Bの領域は「(外から見て)欠如モデルの対象だと思われ易いクラスタ」
Cの領域は「批判批判の人が含まれる比率が高めのクラスタ」
だと考えられます。
おそらく、Cの人達は、自分達の事を「欠如モデル批判的」だと考えるでしょう。何故なら、自分達はBの領域に属していないからです。しかし、ここに落とし穴があります。Cの人達には「自分達は欠如モデル批判の立場にある。従って、自分達に賛成しない者は欠如モデル的であるに違いない」という考え方に陥ってしまう危険性があるからです。
この考え方は一見すると論理的にも見えますが、大きな欠陥があります。それは「二分法の罠」に陥っているという点です。つまり、図4で言えば「CでなければB」という捉え方です。ここでは先に図4を示しましたのでAの存在が明確になっていますが、その事に気付かないと、こうした二分法的な考えにハマってしまう危険性が増大します。
まとめますと「Cの領域に居る人達が二分法の罠に陥った場合、ダメな批判批判(の一種)を行いうる」と考えます。
勿論、この項で述べた内容は幾つもの推測による仮定を置いた結果です。ですから「これこそが真実である」などと力むつもりはありません。ただ「ダメな批判批判に陥ってしまう思考過程のシミュレーションの一例」としては、割とイイ線いっているのではないかと自負しています。
(2012/2/16追記:念の為お断りしておきますが、A~Cのいずれも、内部は均質ではありません。それぞれに、様々な人が含まれます。特にCに関しては「Cに含まれる人はダメな批判批判をする」と言っている訳でもないですし「ダメな批判批判をする人は必ずCの領域に居る」と言っている訳でもありません)
えっ、「ニセ科学批判者はどこに含まれるのか」ですって?
私自身は、Bの先端部に含まれたいと考えています。但し勿論、AやCが存在する事も認識しているつもりですし、今後もその認識を保っておきたいです。もしも「世の中にはBしか存在しない」と考える様になったら、それこそ「欠如モデル的である」という批判を受けるに値するでしょう。
ちなみに、私はCの領域に居る人にdisられても、あまり気にしない事にしています。何故なら、その人達がニセ科学にハマる可能性は低いと思われるので、さしあたり放置しておいても構わないと判断しているからです・・・という様な内容は、以前にkikulogにもコメントした事があります(こちらです)。
但し、そうは言っても、足を引っ張られる様な事は困ります。ですから、きちんと主張したり批判したりした方が良いと考える点については、なるべく対抗言論を挙げる様にしていきたいです(この記事全体にも、そういう意図を反映させたつもりです)。
8.何が問題だったのか
そもそも、この記事を書いたきっかけは、震災以後の菊池誠さんや野尻美保子さんらの活動に対して「欠如モデル的だ」という批判が成り立つかどうかを考えてみたかったからです。私は震災以前からの菊池さん達の活動についても多少は存じておりますが、どう考えても「欠如モデル的」だとは思えなかったのです。何故なら菊池さんは「科学的な正誤判定は、ニセ科学問題の中では最も簡単な部分」という意味の事を繰り返し仰っているからです。むしろ人々にニセ科学にハマってしまう人々の心性の問題をずっと意識してきたと判断しています。
その意味で「科学知識の伝達だけで足りると思ってるんだろう」などという批判は、限りなく的外れなものだと、ずっと感じてきました。
ところが今回「欠如モデル」という用語の意味を調べてみたところ、そもそも欠如モデルとはそういう意味では無いらしい事が解ってきました。つまり問題点としては、一部の科学者に対して行われた批判の根拠があやふやだった事、そして批判そのものが的外れであった事、の2つであると考えています。
ここで、改めて冒頭に引用した平川さんの発言を見直してみましょう。既に散々指摘され尽くした点ではありますが「欠如モデルという用語に対する無理解の原因を相手の勉強不足に求めるやり方」そのものが、如何にも欠如モデル的です。しかし平川さんは自らが「欠如モデル的」などとは全く考えておられない様に見えます。
それは何故なのでしょうか。私が思い付く限り、その理由は2つ考えられます。
1つは無論「欠如モデル」の定義を平川さんが独自に限定して使っている事です。これについては既に述べました。2つ目は、この場合の対象が一般市民ではなく「科学技術社会論や科学コミュニケーションに関わる人」だからというものです。確かに、対象が一般市民でなければ、勉強不足を非難しても欠如モデルには当たらないのかもしれません。でも、そんな事で良いのでしょうか。
念の為お断りしておきますと、私はSTSそのものがダメだと言いたい訳ではありません。そういう判断が下せるほどSTSに詳しい訳でもありませんし、STS関係者の中にもマトモな人が何人も居らっしゃる事も解ってきましたので。それに、そもそもSTSが学問分野の一種なのか、学問に対する姿勢の事なのかさえ、良く理解していない状態なのですから。
ただ、少なくともごく一部のSTS関係者に関しては、彼らの学問に対する誠実さに強い疑問を抱いています。もっとはっきり言えば「市民運動」の道具(括弧付きの「市民運動」です)としてSTSを利用しているのではないか、という疑いを持っています。
もし、仮に、私が「市民運動家」だったとしたら、STSという概念に触れた時に「これは自分達の理論武装に使えるぞ」と、ほくそ笑んだ事でしょう。
学問は、政治的に中立であるべきです。即ち、学問が権力によって捻じ曲げられる事は、避けなければなりません。
しかし一方で、学問が「市民運動」によって捻じ曲げられる事も、やはり避けなければいけません。何故ならそれは、ベクトルが逆であるだけで、やはり「学問の政治利用」である事に違いは無いからです。
いつも言う事ですが、私は「目的が手段を正当化する」という考え方には与しません。
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そしてその事は、ニセ科学の中にある「現代科学を超越した画期的な理論」や「海外や著名な学者も絶賛」といった煽りに魅かれる心性にも現れていると考えています。
また、よりクリティカルな批判としては「ニセ科学にハマるかどうかは、知識量と受容度のみで決まるのではない」というものがあるでしょう。確かにその通りです。特に重要なのは例えば「世の中にはそうそうウマい儲け話などない」とか「欠点が無く利点だけの方法など存在しない」などの「考えるコツ」に相当する部分です。こうしたコツは、知識と相互に補完しあう事で、いわゆる「リテラシー」を形作るものだと考えています。これはとても重要なポイントです。
しかし今回は、こうした「考え方のコツ」の要素は考慮していません。考慮していないといっても、勿論、どうでもいいと思っている訳ではありません。欠如モデル(批判)との比較を行う為に「考え方のコツ」のレベルを固定した場合に「知識量・受容度・ハマりやすさ」相互の関係がどうなるかを、考えてみたかったのです。
7.「ダメなニセ科学批判批判」との関係
ちょっと話は変わって。
もしかしたら「ニセ科学批判批判」(以下では「批判批判」と略します)という言葉を始めて見た方がいらっしゃるかもしれません。私がこの言葉を使う時は、文字通り「ニセ科学批判に対する批判」という意味で用いています。ですからその中には「傾聴すべき真摯な批判」も「単なるイチャモンに過ぎないダメな批判」も含まれています。ちなみに「良い批判批判とダメな批判批判の違い」とは、私が以前からずっと論じたいと思っているテーマです。なかなかまとまらずに苦しい思いをしていますが、必ず形にしますので(興味のある方は)今しばらくお待ちくださいm(_ _)m
さて、今回「批判批判」という言葉を出したのには理由があります。それは「ニセ科学批判を欠如モデル的に捉えるのはダメな批判批判の典型である」と思ったからです。どうダメなのかに関しては既に述べました。ここでは「何故その様に考えてしまうのか」についての仮説を述べたいと思います。
ダメな批判批判の一例として「ニセ科学なんて、ちょっと考えればウソだって解るじゃん。そんなのに騙される人なんていないよ」というものがあります(この意見自体に反論するのは簡単で、実際に騙された人が居る事を示せば良いのです)。
ここで、この様な意見を持ってしまう人の位置を、図1~図3に示した座標軸の中で考えてみましょう。本人はニセ科学を見破れるのですから科学技術の知識はある程度豊富である一方で、科学技術の受容度は必ずしも高くない、むしろ低めであると推測できます。つまり、図の中では右下のあたりに居ると考えられます。
以上をまとめて図示すると、この様になります。
即ち、
Aの領域は「ニセ科学に騙され易いクラスタ」
Bの領域は「(外から見て)欠如モデルの対象だと思われ易いクラスタ」
Cの領域は「批判批判の人が含まれる比率が高めのクラスタ」
だと考えられます。
おそらく、Cの人達は、自分達の事を「欠如モデル批判的」だと考えるでしょう。何故なら、自分達はBの領域に属していないからです。しかし、ここに落とし穴があります。Cの人達には「自分達は欠如モデル批判の立場にある。従って、自分達に賛成しない者は欠如モデル的であるに違いない」という考え方に陥ってしまう危険性があるからです。
この考え方は一見すると論理的にも見えますが、大きな欠陥があります。それは「二分法の罠」に陥っているという点です。つまり、図4で言えば「CでなければB」という捉え方です。ここでは先に図4を示しましたのでAの存在が明確になっていますが、その事に気付かないと、こうした二分法的な考えにハマってしまう危険性が増大します。
まとめますと「Cの領域に居る人達が二分法の罠に陥った場合、ダメな批判批判(の一種)を行いうる」と考えます。
勿論、この項で述べた内容は幾つもの推測による仮定を置いた結果です。ですから「これこそが真実である」などと力むつもりはありません。ただ「ダメな批判批判に陥ってしまう思考過程のシミュレーションの一例」としては、割とイイ線いっているのではないかと自負しています。
(2012/2/16追記:念の為お断りしておきますが、A~Cのいずれも、内部は均質ではありません。それぞれに、様々な人が含まれます。特にCに関しては「Cに含まれる人はダメな批判批判をする」と言っている訳でもないですし「ダメな批判批判をする人は必ずCの領域に居る」と言っている訳でもありません)
えっ、「ニセ科学批判者はどこに含まれるのか」ですって?
私自身は、Bの先端部に含まれたいと考えています。但し勿論、AやCが存在する事も認識しているつもりですし、今後もその認識を保っておきたいです。もしも「世の中にはBしか存在しない」と考える様になったら、それこそ「欠如モデル的である」という批判を受けるに値するでしょう。
ちなみに、私はCの領域に居る人にdisられても、あまり気にしない事にしています。何故なら、その人達がニセ科学にハマる可能性は低いと思われるので、さしあたり放置しておいても構わないと判断しているからです・・・という様な内容は、以前にkikulogにもコメントした事があります(こちらです)。
但し、そうは言っても、足を引っ張られる様な事は困ります。ですから、きちんと主張したり批判したりした方が良いと考える点については、なるべく対抗言論を挙げる様にしていきたいです(この記事全体にも、そういう意図を反映させたつもりです)。
8.何が問題だったのか
そもそも、この記事を書いたきっかけは、震災以後の菊池誠さんや野尻美保子さんらの活動に対して「欠如モデル的だ」という批判が成り立つかどうかを考えてみたかったからです。私は震災以前からの菊池さん達の活動についても多少は存じておりますが、どう考えても「欠如モデル的」だとは思えなかったのです。何故なら菊池さんは「科学的な正誤判定は、ニセ科学問題の中では最も簡単な部分」という意味の事を繰り返し仰っているからです。むしろ人々にニセ科学にハマってしまう人々の心性の問題をずっと意識してきたと判断しています。
その意味で「科学知識の伝達だけで足りると思ってるんだろう」などという批判は、限りなく的外れなものだと、ずっと感じてきました。
ところが今回「欠如モデル」という用語の意味を調べてみたところ、そもそも欠如モデルとはそういう意味では無いらしい事が解ってきました。つまり問題点としては、一部の科学者に対して行われた批判の根拠があやふやだった事、そして批判そのものが的外れであった事、の2つであると考えています。
ここで、改めて冒頭に引用した平川さんの発言を見直してみましょう。既に散々指摘され尽くした点ではありますが「欠如モデルという用語に対する無理解の原因を相手の勉強不足に求めるやり方」そのものが、如何にも欠如モデル的です。しかし平川さんは自らが「欠如モデル的」などとは全く考えておられない様に見えます。
それは何故なのでしょうか。私が思い付く限り、その理由は2つ考えられます。
1つは無論「欠如モデル」の定義を平川さんが独自に限定して使っている事です。これについては既に述べました。2つ目は、この場合の対象が一般市民ではなく「科学技術社会論や科学コミュニケーションに関わる人」だからというものです。確かに、対象が一般市民でなければ、勉強不足を非難しても欠如モデルには当たらないのかもしれません。でも、そんな事で良いのでしょうか。
では、一般市民が「科学コミュニケーションに関わろう」と思った時にはどうなるのでしょうか。
そう決心した瞬間に、市民ではなくなる?その瞬間に「論文を10本読め」という様な学問上の要求を突き付けられる?そんなのって、おかしくないですか。
一般市民が「欠如モデル」について理解したいと思った時に、その手助けをするのに適した立場に居るのは、STSの人でしょう。そしてその為には、ブログやツィッターは(完璧ではないにしても)有用なツールである筈です。
しかし平川さんはそういう手助けになる様には見えない。むしろ誤解を助長している様にすら見えてしまう。それでいて、勉強しない(出来ない)人の悪口を言う。そんなだから「欠如モデル的」だと言いたくなってしまうのです。
あるいはもしかしたら、意外と「市民」を無知のままに留めておきたいのかもしれません。そうすれば自分達の「市民」に対する優位性を保持しておけるからです。なるほど、確かにそういう態度であれば、形式的には「欠如モデル的」では無いでしょう。しかし考え様によっては、むしろ欠如モデルよりも酷い態度なのではないかと、私には思えます。
まぁ、平川さんや林さんに対しては、他にも言いたい事は色々とありますが、きりが無いので、この辺りで止めておきます。
あるいはもしかしたら、意外と「市民」を無知のままに留めておきたいのかもしれません。そうすれば自分達の「市民」に対する優位性を保持しておけるからです。なるほど、確かにそういう態度であれば、形式的には「欠如モデル的」では無いでしょう。しかし考え様によっては、むしろ欠如モデルよりも酷い態度なのではないかと、私には思えます。
まぁ、平川さんや林さんに対しては、他にも言いたい事は色々とありますが、きりが無いので、この辺りで止めておきます。
念の為お断りしておきますと、私はSTSそのものがダメだと言いたい訳ではありません。そういう判断が下せるほどSTSに詳しい訳でもありませんし、STS関係者の中にもマトモな人が何人も居らっしゃる事も解ってきましたので。それに、そもそもSTSが学問分野の一種なのか、学問に対する姿勢の事なのかさえ、良く理解していない状態なのですから。
ただ、少なくともごく一部のSTS関係者に関しては、彼らの学問に対する誠実さに強い疑問を抱いています。もっとはっきり言えば「市民運動」の道具(括弧付きの「市民運動」です)としてSTSを利用しているのではないか、という疑いを持っています。
もし、仮に、私が「市民運動家」だったとしたら、STSという概念に触れた時に「これは自分達の理論武装に使えるぞ」と、ほくそ笑んだ事でしょう。
学問は、政治的に中立であるべきです。即ち、学問が権力によって捻じ曲げられる事は、避けなければなりません。
しかし一方で、学問が「市民運動」によって捻じ曲げられる事も、やはり避けなければいけません。何故ならそれは、ベクトルが逆であるだけで、やはり「学問の政治利用」である事に違いは無いからです。
いつも言う事ですが、私は「目的が手段を正当化する」という考え方には与しません。
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今晩は。
返信削除私が紹介したものが多少でもお役に立てたとすれば、幸いです。
それはともかく、純粋に、読み物として大変面白いです。さすがに見事な構成と言いますか(偉そう)。
欠如モデル概念については、ご紹介頂いたコメント欄でも書いたように、よう解らんなあ、というのが正直な所でした。と言うよりは、もし平川氏のような限定された定義に従うならば、一体そのような姿勢でもって「市民」に接する科学者というのがどこにいるのか、という疑問が出てきた訳ですね。これは他にも感じていた人は結構いるでしょうし、それを直観していた人にとって、こちらのエントリーはとても参考になるのではないかと思います。
>TAKESANさん
削除えぇ、役に立ちましたとも(笑)。「読み物として面白い」と言って頂けるのも嬉しいです。
「そんな科学者がどこに居るのか」というのは、私もずっと感じてきた事ではあります。かとうさんに頂いたコメントと重なる部分ですが「欠如モデル批判とは、政策決定プロセスに関する批判である」と考えれば、理解出来る様な気もします。つまり、政府の決定に学問的裏付けを与え政策決定の後押しをする(狭い意味での)御用学者を指しているのではないでしょうか。
そう考えると、色々と腑に落ちる点もあります。元々、御用学者を批判する為の論だったものが、いつの間にか「批判されてるのだから御用学者なのだ」と拡大解釈されてしまったのかも、とか。
>また「不安・反対の人々を「無知で不合理な存在」として表象し、「ご理解下さい」と一方的に技術の受容を迫るなど、テクノクラティックな態度のこと」
返信削除ここに関しては、政策決定のプロセスの話であり、実際にそういう事は起きていると思います。
科学とは関係ないけど、成田空港とか基地問題なんかはその典型的ですよね。
元々、欠如モデル論ってのも政策決定プロセスに関する問題点としての話だと理解してましたが。いつの間にか、都合の良い部分を牽強付会している人たちが居るってだけの話かなと思ってます。
>かとうさん
削除こちらでははじめまして、ですね。いらっしゃいませ。
うぅむ「欠如モデル論ってのも政策決定プロセスに関する問題点としての話」ですか。なるほど。全部がそうなのかは不明ですが、確かにそういう要素は含まれていそうですね。本文にも書いた通り、一部のSTS関係者は、どうしても政治的な問題を絡めたがっている様に見えています。彼らの議論が解り難かったり、理が通っていなかったりするは、そのせいではないかと。
政治とか権力とかを語りたいのであれば、はっきりとそう言って頂ければ良いんですけどねぇ。
ニセ科学にハマる人は、Aに分類されるとしても、広める人は、そうとは限らないでしょうね。
返信削除ただの無知なBの下の人もいれば、解ってやってるCの人まで、横軸に沿って広く分布していそうに思います。
特に、マルチとか出資詐欺とかの胴元は、被害者と同じAにいたって、商売にならないでしょう。
>mimonさん
削除はい、御指摘の点は、仰るとおりだと思います。ただ今回は「ニセ科学の発信源」の人達の事は考慮しませんでした。何故なら、本当の発信源になっている人達に批判の声が届いて理解されるのは極めて望み薄だと思っているからです。少なくとも私は、騙される側の人々に届けば良いと思っていますので、敢えて「騙され易い人達が対象である」としました。
ずっともやもやと感じていた違和感・不快感の理由がすこし判った様に思います。良い記事をありがとうございます。
返信削除>匿名さん
削除いらっしゃいませ。
お褒め頂いて有り難うございます。
ただ、やはり、こうしてお呼び掛けする際にも不便ですので、ハンドルネームで結構ですから、お名前を入れて頂きたいと思います。
宜しくお願い致します。
大変失礼いたしました。また記名が遅れた事をお詫びいたします。
削除デマがはびこる現在の惨状には「STS」を名乗る方々の貢献が大きいなと嘆息しています。(あさましいことですが、個人的には彼らが数年後にどんな言い訳をするのか楽しみではあります。)
>rad*o1*09*さん
削除お名前を設定くださいました事に感謝申し上げます。
私はSTS全般がおかしいかどうかを判断する材料を持っておりませんが、STSに関係している方々の中で少なくとも、本文で取り上げた平川秀幸氏と林衛氏、そして本文では取り上げませんでしたが春日匠氏の3人に関しては、明確に批判的な立場を取っています。
確かに、仰る様に、数年後に彼らが、どの様に自分達の言動を振り返るのかには少しばかり興味があります。
あるいは、全く反省せずに同じ事を繰り返している可能性もありますが。
とても魅力的な記事でした!!
返信削除また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
>趣味の履歴書さん
削除いらっしゃいませ。
有り難うございました。
欠如モデルに関して、伊勢田さんがblogに書いてらっしゃいます。
返信削除http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1710164.html
そもそも「欠如モデル」の初出らしきものは刊行された物ではなかったし、その後の論文も様々な事が書いてある為、伊勢田さんが頑張って複数論文を読んで、やっと数個に類型出来たようなものですね。
当然の様に、使う人皆が定まった定義のある様なものではなさそうです。
>かとうさん
削除コメント有難うございます(他人行儀?)
私も伊勢田さんのブログ記事は御本人のTwitterで知りましたので、ざっとですが拝見しておりました。本文に追記しようと思いながらなかなか手が回っておりませんが、何とかいずれもう少し追記したいと思っています。
はじめまして。
返信削除科学に対する「受容度」が具体的に何を表しているのか、定義もないし、、、分かりませんでした。
そこをはっきりさせないと、科学技術に対する受容度が高い方がニセ科学にハマりやすい、という命題(仮説)は主観的な思い込みなのでは?という疑問に答えられないのではないでしょうか。
科学知識だからというお墨つきを貰っただけで、その知識を受け入れる、という態度のことでしょうか。、、、いろいろ明示的な定義が可能だと思いますが、PseuDoctorさんの定義を述べてみてください。
>匿名さん
削除えーと、まず、ブログの冒頭に記しました通り、名無しは御遠慮頂きたく存じます。勿論ハンドルネームで構いませんし実名は求めませんが、発言者は一意性を保って欲しいと思うからです。
さて、私の「受容度の定義」を知りたいとの件、確かに頷ける部分もありますが、一方では、これに関して厳密な議論を行うのは不毛だという思いもあります。何故なら先のかとうさんのコメントにもありました通り、そもそも「欠如モデル」という用語の定義そのものが不明確だからです。「受容度」という言葉は欠如モデルの定義を解釈する中で出てきたものですから、これだけを厳密に定義する事にさほど意味があるとは思えません。
と書くだけだと何だか逃げているみたいですので、厳密ではありませんが少しだけ書いておきます。STSの方々によると、どうやら受容度とは「科学を肯定的に受容する態度」の事らしいです。おそらく、その中には様々な要素が含まれている事でしょう。科学に対する単なる好き嫌いも含まれるでしょうし、科学という名が付いているだけで信じてしまいがちな傾向も含まれるでしょうし、これまで科学が人類の発展に貢献してきた事を積極的に評価する態度も含まれるでしょう。
ですから厳密に定義するのは困難だと思っています。本文中の散布図も、追記でお断りした通り、あくまでイメージであり、定性的な議論しかしていません。ですので現時点では、例えば定量的な検証に堪えるものだとは考えておりません。
お忙しい中、ご回答ありがとうございます。
削除STSとか欠如モデルがどうのということにはさしあたり興味なかったのですが(というか全く知らない)、提示されたグラフに興味を持ったのです。
三つのクラスタに分けられたということは、定性的になにか区別できた、というように理解しています。なので、定量的でなくても一向にかまいません。
STSの方々がどのように使おうと、上図をPseuDoctorさんが作成するに当たっては、「受容度」に関するご自身の暗黙の定義(イメージでもいいのですが)があったはずだと思います。
その定義に対する「共通」理解が成立しないと、上図は極めて恣意的なものとみなされても仕方ないのかな、と失礼ながら感じてしまったわけです。
例えば私は自然科学者のはしくれなので、科学が好きです。でも、科学を盲信してはいません(科学は生活の一部であって全部ではないとか?)。というわけで、受容度の側面でどの位置にあるのかなぁ、と疑問を持ってしまうのです。
言い換えると、受容度という言葉は極めて多義的で複雑な要素を含みます。これを単純な量に還元しているのが上図です。したがって、この還元が可能であるためには、各個人がこれについては○だな、とくくれるようなものだけをとりあげ、その一群に共通するものを一言で表現する、というような作業が必要ではないでしょうか:その一群として、各個人が×をつけるようなものをとっても構いませんけど。
まぁ、定義の方法として一例をあげたわけですけど、そのほかにもあるかもしれません。いずれにしても、現状では、PseuDoctorさんと読者(少なくとも私)とが受容度について共通のイメージをもてていない、ということはご理解いただけたでしょうか。
>ころころさん
削除ハンドルネームを設定くださいまして有難うございます。
図に関しては、私のイメージであり定性的なものであると明言しておりますので、恣意的と受け取られても構わないというか、仕方ないかな、と思っております。そもそもあの図は「欠如モデル批判に対する反論」として書いたものですので、その文脈を離れて図が一人歩きするのは避けたいと思っています。
とだけ書いて終わりにしようかと思ったのですが、折角ころころさんが興味を持ってくださったので、前段は「公式見解」という事にして、もう少しお付き合い致しましょう。要するに「私自身が受容度という言葉にどういうイメージを持っているのか」をお知りになりたいという事で宜しいでしょうか?そうであるなら、あくまで個人的な見解として申し上げます。
私の考えでは、受容度の最も中心的な指標は「科学技術を肯定的に評価するか、否定的に評価するか」であると思います。例えば私は医師なので医学分野の話をしますと「医学の発達により疾病が減少し寿命が延びた」という認識は、肯定的な評価です。しかし一方では「お産は自然に任せた方が良い」という考えや「医者は金儲けの為に病気を作っている」とか、甚だしきは「AIDSとは米軍が秘密裡に開発した生物兵器である」という主張をする人まで居ます。勿論これらは極端な例ですが、いずれも否定的評価であるといえます。
これらと同様に、科学技術全般に関して肯定的評価と否定的評価のどちらを重視するのか、という事が受容度の指標になると(個人的には)考えます。例えば一つの方法として、肯定的評価と否定的評価を記した短文を50個ずつ用意し順番をランダムに配置し、それらの一つ一つに対して「そう思う」「そう思わない」を選択して貰います。肯定的評価に対する「そう思う」と否定的評価に対する「そう思わない」を数えれば、妥当性はともかく、一応の点数化は可能です。その場合、点数が高いほど「受容度が高い」と推定する事になるでしょう。
PsueDoctorさん、コメント有難うございます。
返信削除科学と科学技術は別のものと思ってきましたが、、、。
後者は英語ではScience & Technologyで、結構明瞭な言葉ですが、日本語では科学的技術なのか、英語と同様、科学と技術なのか、個人によって受け止め方は違うでしょうね。
いずれにせよ、PsueDoctorさんが思い浮かべてきた受容度が、現代の科学と技術に対する総合的な評価に関連したものであることがうっすらと理解できました。
科学も技術も功罪ある、という私のような考えの持ち主だと、質問項目に大きく依存しますが、まぁ中間的な受容度の周辺に位置する、と考えればよいのかな。
菊池誠先生率いる?ニセ科学批判のグループの主要メンバーはどの変に位置する、と想定しているのでしょうか?ちょっと興味があります。差し障りがあれば、もちろんお答えいただかなくて結構です。
>ころころさん
削除あぁ、STSには興味が無いと仰っていたのでしたね。そもそもSTSとは Sience & Technology Study もしくは Sience, Technology and Society の略であり、そこで使われている意味と同様の意味として「科学技術」と書きました。つまり単純に「科学&技術」という事です。
ころころさんは「科学も技術も功罪ある」とお考えの様ですが、私だって「功罪ある」とは思っていますよ。ただ功の方がずっと大きいと思っているだけです。
こういう部分にこだわられるという事は、STSに興味を持たれる可能性が高いと思うのですが、本当に「興味が無い」のでしょうか。
>菊池誠先生率いる?ニセ科学批判のグループの主要メンバーはどの変に位置する、と想定しているのでしょうか?
この御質問には、2つの意味でお答え出来ません。
1つは、私が「菊池さんが率いるグループ」というものを認識していないからです。もっとはっきり言えば、そういうグループが存在するとは考えておりません。
例えば「菊池さんのブログによくコメントする人達」というくくりなら、あるかもしれません。しかしあそこには、ニセ科学を信じる立場から頻繁にコメントされる方も複数いらっしゃいます。
2つ目の理由は、単に、良く解らないからです。例えば「科学に詳しいけれどもあまり信用していない(だからこそ、正しく科学を使って欲しい)」とお考えの方がいらっしゃるかもしれませんし、一方で「科学にはあまり詳しくないけれど、多くの科学者の事は信頼している」という人がいらっしゃるかもしれません。
いずれにしても、差し障りがあるかどうかという以前に、私の個人的な想像に過ぎないものですから、それをお話しする事に、あまり意味があるとは思えません。