コミケを風疹から守り隊

2013年8月1日木曜日

S02-01: 科学の方法、その特徴(特に「実験で証明する」という事について)


初回公開日:2013年07月31日
最終更新日:2013年08月01日

1.簡単な科学の方法論

ごく単純化すれば、科学の方法論は、3つのステップからなります。
それは「観察」「推論」「検証」の3つです。
つまり、物事や現象を観察し、その仕組みや成り立ちについての論理的な推測を行い、それを客観的手法によって検証するというものです。

でも、それって、別に科学に限った事じゃないでしょう?例えば犯罪捜査とか」と思った方もいらっしゃるかもしれません。確かにそれは鋭い指摘です。あくまで個人的意見ではありますが、その様な方法が重視される様になってきたからこそ、近代の犯罪捜査では「科学的捜査」が大切になってきたのだと信じています。例えば「その辺を歩いている怪しそうな奴を強引に連行して自白するまで責め立てる」という様な「自白を極端に重視する前近代的な手法」は、科学的ではないですよね。

ちょっと脱線しました。
各ステップの解説は次項で行いますが、その前に全体を通じた顕著な特徴を述べておきましょう。それは、科学の方法は「サイクル的」もしくは「スパイラル的」であるという事です。これには2つの意味があります。
1つは「科学の検証は繰り返し繰り返し行われる」という意味です。一度で証明終わりとはなりません。現在「確立された科学的事実」とされているものは、何度も何度も検証される事によって、事実である確率が極めて高くなったものです。従って、確かに従来の「科学的事実」が覆る可能性も無い訳ではないとは言え、それは、これまでに行われてきた全ての検証をひっくり返す事になります。ですから、生半可なものではない、極めて強力な証拠が必要です。たとえニセ科学の人が「現代科学は万能ではない」などと(それ自体は間違いではない)台詞を口にしたところで、事実としては小揺るぎもしません。
勿論、科学的な手法を用いても、間違えることだってあります。間違いの可能性は完全にゼロにはなりません。しかし、上述の客観的な検証を繰り返し行うというシステムが、間違いを修正し正しさの可能性を更に上げ続けていく機能を担っているのです。この「科学は時に間違える。だけど間違いは修正される」というのは大切なポイントです。ニセ科学は間違えません。何故なら、自らの誤りをなかなか認めないからです。
2つめの意味は「検証が次の推測に繋がり、それが次の検証につながり・・・と連綿と続いていく」という意味です。一つの科学的事実が明らかになれば、それに基づいた新たな推測が可能になります。その推測は、これまで観察されていても未解明だった現象を説明できるものかもしれません。であれば、新たな推測は検証の対象になります。上で述べた「スパイラル的」という表現は、こうしたプロセスを意識しています。
この様にして科学(的な手法に基づく人類の叡智)は発展してきました。

以上をまとめると「科学的手法とは、自己修正機能と自己発展機能の両者を兼ね備えたシステムである」と言えるでしょう。

2.各ステップの解説

それでは、各ステップについて、順番に解説していきます。

1)「観察」について
観察により、物事や現象を認識し把握する事が出来ます。即ち、観察とは、単に眺めるだけではありません。客観性を持つ事や記録する事が大切であり、その点が単なる「個人的経験」とは異なるところです。個人的な体験は、しばしば強烈な印象を残しますので、どうしても経験した本人は、それを判断の中心に据えたくなります。しかしそれは、あくまで主観に過ぎないのです。
私でも貴方でも誰でも、限られた人生の中で「あらゆる事柄を経験し尽くす」のは不可能(それどころか、多くの事柄を経験するのすら困難)ですから、世の中に存在する大部分の事例については、個人的経験が無い状態で判断するしかない事になります。

では、個人的な経験を上回るものは何でしょうか。
それは「みんなの経験」です。
たとえ貴方が鮮烈極まる体験をしたとしても、その体験をした人が世界中に貴方一人だけだったとしたら、それは単なる妄想や錯覚と区別が付きません(区別が付かないだけで「嘘だ」と言っている訳ではないですよ)。逆に、貴方が体験していない事でも、多くの人が経験した事柄であれば、それを無視する事は出来ません。
但し、これは単なる多数決ではありません。集団で幻覚を見たり妄想に陥ったりする場合もあるからです。ですから、客観性を持った記録が大切なのです。
きちんと記録されていれば、類似の条件の際に現象が再現するかどうかも確認できます。
この様に、個人的経験を上回る「みんなの経験(の客観的な記録の集積)」によって、まずは「現象の存在が確認(もしくは高い確率で推測)」されます

この「観察により現象の存在を確認する」ステップは、科学のスタートラインですから、ここでつまづいていたら、その先には進めません。例えば幽霊とか超能力とかは、未だにその存在すら客観的に確認出来ていない状態です。ですから科学として扱えません。現象の存在が確認出来ていないので「確認出来てから出直しておいで」と言われるだけです。
逆に言えば、このステップさえクリアすれば、正式に科学の土俵に乗れるとも言えます。もう一度書きます。たとえ、メカニズムが不明で検証もされていなくても、現象が確実に存在すると言えるのであれば、それは科学の土俵に乗ります。何故なら、メカニズムの解明や検証自体が、科学の重要な営みだからです。

2)「推論」について
「観察による現象の把握」が出来たら、その現象を起こしているメカニズムを推測します。この段階ではあくまで「推測」ですから、勿論それが正しいかどうかは解りません。正しいかどうかは次のステップで「検証」する事になります。
但し、検証以前の問題として「推測そのものが矛盾したり破綻したりしていない」のも重要です。言い換えれば「現象そのものをきちんと説明できる」のが大切です。
この「現象をきちんと説明できる推測」の事を、仮説と呼びます。この段階ではあくまで推測であり正しいかどうかは解らないので「仮の説」なのですね。次ステップである「検証」で否定されてしまえば仮説は棄てられますが、それ以前に矛盾を含んでいれば、そもそも仮説として成り立たない訳です。

そしてもう一つの重要な点は、当たり前の様ですが「正しいかどうかを検証出来る」、つまり「検証可能」である事です。幾ら現象を矛盾なく上手に説明できても、それが正しいか間違っているかを確認出来なければ、話はそこで終わってしまいます。
それで良いかどうかは別にして、少なくともそれは、科学ではありません(例えば、これは科学と宗教とを分ける大きなポイントでもあります)。

そして、この点はニセ科学にもしばしば当て嵌まります。多くのニセ科学は、仮説以前に最初のステップである「現象の存在」の段階で既に怪しいのですが、たとえそこを譲ったとしても、メカニズムの説明がいい加減で検証不可能だったりします。更に、たとえ検証が可能な場合でも、検証に消極的であったり検証を拒否したり無視したりします。
こうした「検証不可能性」もしくは「検証への消極的態度」はニセ科学の大きな特徴の一つです。例えば「EM菌の万能性」です。単なる微生物資材としてならともかく、提唱者の比嘉さんは、EM菌は放射能除去・熱中症・etcに効くと、その万能性の喧伝に余念がありません。しかし、それにも関わらず、第三者による客観的な検証を拒否し続けています。

3)「検証」について
「観察」によりある現象の存在が確認され、その現象を起こしているメカニズムが「推測」出来たら、その推測が正しいかどうかを「検証」します。ここで「検証」とは簡単に言えば「その推測が正しければ、こうなる筈だ」というのを確認する作業です。
例えば「○○が原因である」と推測した場合には、○○を取り除いた状態で現象が起こらないのを確認し、更に○○を加えた時に現象が起こるのも確認したりします。
これこそが「実験」という行為です。

勿論、実験は万能ではありません。自然現象などが相手の場合には条件を整えて実験するのは極めて困難ですし、社会現象が相手の場合も実験には多大なコストを要するうえに道義的な問題が関わってくるかもしれません。従って、こうした際には観察と記録の繰り返しが検証の主体を占める事になります。
逆に言えば、きちんと条件をコントロールした実験が実施出来る場合には、それは検証の手段として非常に強力なものであると言えます。そう、ここでのポイントは「条件をコントロール出来る」というところです。実験が実験である所以とも言えるでしょう。

但し、条件とは「コントロール出来る/出来ない」の二者択一ではありません。例によって、完全にコントロール可能な場合から全くコントロール不能な場合までグラデーションがあります。そして、コントロールし難い条件に対しては、上記の如く観察と記録の繰り返しに頼る訳ですが、もう少し詳しく言うと「観察と記録によって得られたデータを分析する」となります(この点に関しても次項で更に述べます)。

こうした、実験による証明に関しては、個人的に少し気になる点がありますので、それを次項で取り上げます。

3.「実験により証明する」のイメージ

前項まで述べて来た通り「実験による証明」は、前項の3番目のステップ「検証」の中でも極めて重要な要素を占めています。
ところで、皆さんは「実験」という単語にどの様なイメージを持っているでしょうか。科学に馴染みの薄い方であれば、理科の実験とか、あるいはTVの健康番組の中で行われる実験とかをイメージするのではないでしょうか。
しかし(意外かもしれませんが)それらは科学の方法論(の中の「検証」のステップ)で行われる「実験」とは、いささか似て非なるものです。

そこで、ここでは、そうした違いについて述べてみます。

1)理科の実験に関して
理科実験の最大の特徴は「予め結果が解っている」という点です。既に科学的事実として確立しているものを題材として選んでいますので、少なくとも教える側は、どの様な結果が出るのかを承知しています。
つまり、この場合の実験とは「期待した通りの結果が出る事を確認する」ものだと言えるでしょう。そこには「検証」の要素はありません。ですので、こうした理科の「実験」は、実験と言うよりもむしろ、デモンストレーションと呼ぶ方が適切かもしれません。
もしも「実験」を、こうしたイメージだけで捉えてしまうと「実験による証明」が比較的容易なものだと思い込んでしまう危険性があります。
但し、念の為に付け加えておきますと、これは決して理科実験の価値を貶めるものではありません。実際にデモンストレーションを行う事には大きな教育効果があります。たとえ真の意味での実験ではないとしても、その重要性はいささかも損なわれるものではないのです。

2)健康番組等の実験に関して
上記の理科の実験に比べると、TVの健康番組などで行われる実験は、もう少し「証明」っぽくなっています。例えば「あるサプリメントを飲んだ人と飲まない人を3人ずつ集めて、前者の方が体重が減った」とかの「実験」を行ったりしています。しかし、それで証明されたと言って良いのでしょうか。
私の様にひねくれた性格(笑)をしていると、すぐに「そんなの偶然じゃないの?」と言ってしまいたくなります。確かに、たまたまサプリメントを飲んだ人の方が体重が減ったという可能性はあります。
実は、この「それって偶然じゃないの?」というツッコミは、かなり本質的なものと言えます。何とかして「それは偶然ではない(せめて偶然である可能性は低い)」としたいものです。

3)偶然である可能性を減らす方法
では、どうしたら「なるべく偶然の可能性を減らせる」のでしょうか。
まず考えられるのは「数を増やす」方法です。上記の様に3人ずつでは偶然かもしれませんが、百人、千人集めても同じ傾向が出続ければ、偶然である可能性は(ゼロではありませんが)非常に少なくなると言えるでしょう。
但し、幾ら人数を集めたとしても、例えば片方の群が「ダイエットに興味がある20代女性」で、もう片方の群が「仕事が忙しい40代男性」だとしたら、たとえ明らかな差が出たとしても、その結果はちょっと信用できませんね。勿論これは極端な例ですが、異なる条件の群を比較するとむしろ「たまたま」の可能性が大きくなってしまう点は御理解頂けると思います。
そこでなるべく条件を揃えたい訳ですが、条件を揃えながら数を増やすのはなかなか大変です。一般的には、ひたすら大量のデータを集めてから選別したり、予め一定の条件を満たした人だけを集めたりします。
そして、こうした問題が生じる原因は、まさしく前項に挙げた「条件のコントロールが難しい」という言い方で表現する事も可能です。もしも「完全に同じ状態の人」が何人も居れば、そのうち半分だけにサプリメントを与えて効果を見れば良いでしょう(但し、実験の内容によっては「倫理的に許されるのか」という問題は残ります)。しかし実際には完全に同じ状態の人は存在しないからこそ、出来る限り条件を揃え、更に人数を増やす事で揃え切れなかった(把握しきれなかった)条件も平均化される様にします。
ごく大雑把に言えば、良く話題になる「二重盲検」も「無作為抽出割付」も、条件を揃える為の手法であると考えれば、理解し易いかもしれません(2013年8月1日追記:ここの修正に関しては、コメント欄でのTAKESANさんへのお返事も御覧ください)。

4.結論(&おまけ)

以上、駆け足ではありますが科学の一般的な方法論であり「観察」「推論」「検証」について述べました。こうした「科学的な考え方」は、たとえ科学者でなくても、物事を考える際には有用であるので、心に留めておかれると良いでしょう。

そこで、おまけとして、科学の方法論の実生活への応用(とその限界)について考えてみましょう。
例えば、こんな感じです。

最近、カレシが冷たい(観察)
きっと浮気してるんだわ(推論1)
浮気してないなら、どんなワガママでもきいてくれる筈(推論2)
思いっきりワガママを言ったら、別れ話を切り出された(検証)
やっぱり浮気してたんだ(結論)

「どこが科学なんだ」と言われそうですが(爆)
確かに、このままでは科学の方法論とはかけ離れています。そこで、どこを変えれば科学的になるのかを、順を追って検討します。

まず観察です。「カレシが冷たい」というのは主観です。直感も大切ですが、客観性を持たせる為には根拠が必要です。勿論、根拠は具体的であるほど良いです。例えば「昔は私の話を楽しそうに聞いてくれたのに、最近は自分の話ばっかりする」とかですね。
更に言えば、定量性がある(数字で表せる)と、もっと良いです。「つきあい初めの頃はデートの最後は必ず家まで送ってくれたのに、今では5回に1回しか送ってくれない」なんて感じです。
データはそこそこ多い方が良い(多過ぎても混乱しますが)ので、なるべく「カレシが冷たい(と貴方が感じる)根拠」を書きだしてみましょう。「冷たい」という判断よりもむしろ、そうした「根拠」こそが、観察によって得られた内容だと言えるでしょう。

次に推論1です。おそらく、上の例では、ここのステップに違和感を感じた方が多いのではないでしょうか。確かに浮気は「カレシが冷たい(と感じる客観的な根拠がある)」状態を説明できる推論です。しかし、浮気以外にも可能性は色々あるでしょう。仕事が忙しくなったとか、倦怠期に入ったとか…
一般的に、現象を説明できる仮説は複数あるのが普通です。ですからその中で、可能性の高そうなものから順番に検証していった方が効率的です。
そして、推論2は「検証の為の推論」ですが、ここには明らかに論理的な誤りがあります。「浮気していない ならば どんなワガママでも通じる」は真ではありません。浮気していなくてもワガママをきくとは限らないし、浮気しているからこそ優しくなる場合もあるでしょう。確かに、もし上記の命題が真であったならば、その対偶である「あるワガママが通じなかった ならば 浮気をしている」も真になった筈です。しかし残念ながら、そうではありません。「浮気をしていない ならば ○○」に入る適切な条件を見つけられれば良いのですが、その条件がなかなか見つからないところに、男女関係の難しさがあります。

従って、検証の方法も誤りであると言えます。推論が間違っているので、その間違った推論を検証する形になってしまっています。
そして、検証の方法にも注意が必要です。観察と記録の繰り返しによる検証ならともかく、前項の様な「実験による証明」は、多かれ少なかれ、対象に何らかの働きかけを行い、その影響を調べるという形を取ります。ですから、対象に影響を与えてしまう危険性が常に存在する点を念頭において、必要に応じ実験対象に対して配慮すべきです。

という訳で、この方法では結論も誤っていると言いますか、浮気しているかどうかが不明なばかりでなく、そもそも冷たくなったのかどうかすら解りません。
上記に述べた内容を完璧に行うのは難しいですが、少しずつでも科学的な方法論を取り入れていけば、二人の仲ももう少し安定に向かうかもしれませんね。

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6 件のコメント:

  1. 今晩は。

    ▼ 引  用 ▼
    「二重盲検」も「無作為抽出」も、条件を揃える為の手法
    ▲ 引用終了 ▲
    「条件を揃える」のと二重盲検と同じ所にあるという文脈から、ここは「無作為割付」ではないかと思いました。

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    1. >TAKESANさん

      コメント有難うございます。
      やはりと言いますか、迂闊な書き方をした箇所は御指摘を受けますね。有難い事です。

      結論から申し上げますと、仰る通りだと考えますので、該当箇所は修正致します。
      まず、確かに「条件を揃える為に無作為抽出する」はおかしいです。条件を揃えるのであれば、その条件を満たしたサンプルだけを選び出す、即ち「作為的に抽出」すべきだからです。通常はその様に「作為的に抽出」されたものが実験の対象になります。あるいは「作為的抽出により母集団(研究対象)の設定を行う」という言い方も可能かもしれませんが、却って混乱しそうでもあります。
      そうして得られたサンプルを2群に分ける際に、可能なら無作為に割り付ける。その事によって、予め揃えた条件以外の条件を平均化し、それらによる影響を極力排除する。その様に理解しています。という訳で「無作為割付」の方が適切だと考えるに至りました。

      もう少し自省してみますと「無作為抽出」は、例えば標本集団に母集団の分布を反映させる為には必要な条件ですので、臨床検査の基準値を設定したりする際には重要な概念です。ですので、そちらの考え方に引っ張られた用例になってしまったのかもしれません。
      しかしながら本文で述べた様な「実験による検証」(医学分野では介入研究とほぼ同義だと考えます)に於いては、無作為抽出という概念は馴染まないと言いますか、そもそも有り得ない想定の様にも思えます。

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  2. 素晴らしい科学論作成ありがとうございます。
    そちらの科学論と以下の論文とを対置させ、その方法と行為について即ち科学とは何かを論じると、よりよいと思いましたことコメントさせていただきます。

    参考論文リンク
    科学的事実の産出と研究者の実践について
    解説:池田光穂 神経生理学研究室における事例から:Cultural Production of Scientific Facts:(未定稿)
    http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/111231VRR.html

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    1. >石部統久さん
      いらっしゃいませ、コメント有り難うございます。
      ご紹介の論文を少し拝見しましたが、拙ブログの内容と比べますと、いささか専門性が高い様に思います。私は「基本的な事柄をなるべく正確かつ平易に記述する」のを目標にしておりますので、少々方向性が異なると感じました。
      とは言え、折角ご紹介頂いたのですから、可能な範囲で参考に致したいと存じます。有り難うございました。

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  3. (以下、前フリから始まります)
    今週の御言葉:『私の批判的思考は「重力歪曲時間転移装置によって別の世界線に出掛けている」状態である』

    PseuDoctorさん、こんにちは。お久しぶりです。ほとんど忘れかけていると思いますので、改めて自己紹介します。
    私は、「罵倒芸の評論家として飯を食う」ことを目的として修行の旅に出かけ、つい最近までヘリオスフィア付近を散策していた者です。
    その旅の間も、自分なりの思索を続けておりました。
    たとえば、「科学リテラシー」と「カナダヤマアラシ」の関係を調べたり、「情報リテラシー」と「マテバシイ」の関係を調べたり、
    「ネルトリンゲンの隕石」と「練り消しゴム」の関係を調べたり、「ルクセンブルクの国務院(コンセイユ・デタ)」と、「果物の晩白柚(バンペイユ)」の関係を調べたり、
    「アクションRPG『ディアブロ』のGod Mode」と「明らかにダメすぎるニセ科学批判批判を披露して読者達から総ツッコミを貰うも、その芸風を平然と続ける論者」の関係を調べたりしていました。
    ちなみに現在は、「Watch out」という言葉と、「分かち合う」という言葉の関係を調べています。(語呂が似ているため、語源を辿れば何らかの関係があると思われます)
    ・・・・・
    ところで、PseuDoctorさんの記事で浮気のくだりを読むうちに、私は「罵倒芸に応用することが出来るかも?」と思いつきました。
    たとえば、このような感じです。
    観察:「最近、あのブログ主はdisの記事を書くことが少なくなったようだ」
    推測:「もしかして、礼儀を重視する芸風に変えるつもりなのではないか?」
    推測、そのニ:「礼儀を重視する芸風に変えるつもりが無いのならば、私のワガママなボケのコメントにも、disを交えながら乗りツッコミしてくれるはずだ」
    思案:「ここは一つ、前フリとして明らかにダメすぎるコメントを送り、次に言い訳のコメントを送り、その次に逆切れのコメントを送り、さらには後釣り宣言して勝利宣言するというワガママなコメントを送って、disり合いを仕掛けてみるべきなのではなかろうか?」
    実行:「本当に送ったら、冷静に退場を促された」
    結論:「思ったとおりだ。あのブログ主は、罵倒芸から礼儀を重視する芸風に変えたのだ」
    その後:「仕方がない、あのブログ主が罵倒芸に見切りをつけた今となっては、私が引き継ぐしかないだろう」

    ネット上で新たな罵倒芸の論者が次々と現れる背景には、このような事があると思われます。
    PseuDoctorさん、この私の推論は如何でしょうか?全く的を射ていない推論のように見えるかもしれませんが、遠目で見れば的を得ている推論だと自負しています。

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    返信
    1. >TAKAさん
      お久しぶりです。
      えーと、推論は概ね妥当に思えます。観察結果から仮説を立ててそれを検証するという形になっておりますので。但し、罵倒芸を引き継ぐという意思決定に至るかどうかは、また別の問題ですね(^^)

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