コミケを風疹から守り隊

2014年12月31日水曜日

S01-09: 科学的知見と社会的合意について

初回公開日:2014年12月31日
最終更新日:2014年12月31日


1.はじめに(この記事を書いたきっかけ)

(この項は、文字通り「きっかけ」について書いたものであり本論とは直接には繋がっていませんので、読み飛ばして頂いても構いません)
きっかけになったのは こちらのまとめ です。当初の私の心情は、そこにまとめられてる人達と同じ様なものでした。しかしその後、地下猫さんの記事 を読んだ際に「言ってる事は理解出来る」とも思い、また ublftbo(TAKESAN)さんの記事 を読んで「これは比較的中立だ」と感じたりしました。それらを踏まえて最初の岩波『科学』の呟きに対する私自身の考えを述べるならば「言ってる内容は概ね妥当だけれど、これまでの態度を考えると字面通り受け取る訳にもいかない」となります。
という風に色々考えているうちに、より一般化した形で、タイトルに書いた様な考えが少しずつまとまってきました。これはブログのレギュラーメニューにふさわしい(^^)と思って記事にしてみた次第です。

2.科学的知見とは何か

科学的知見とは「科学によって得られた知識と見解」という程の意味です。拙ブログでは繰り返し述べています様に、科学的知見は「客観的な証拠と論理的な推論によって得られるもの」であり、更に「常により正確でより深い知見を求めて永久にブラッシュアップされ続けるもの」でもあります。
ですから、そうした意味で使われる「科学的知見」という言葉には「人類が積み重ねてきた知的営為の総和」と言うのにも匹敵する重みがあります。勿論、常にブラッシュアップされている以上、科学的知見といえども修正されたり否定されたりする可能性が無い訳ではありません。しかし過去から現在まで生き残っている知見は、そうした検証にも耐え続けてきた訳ですから、なまなかな事では覆らない(それこそ人類の英知を傾けても容易には覆せない)のだと理解すべきでしょう。


3.社会的合意とは何か

社会的合意とは、文字通り「社会の合意」です。もう少し言葉を補うならば「社会の構成員が合意した内容」とでもなりましょうか。しかしその実態には様々なものがあります。例えば、独裁国家では独裁者の意志がそのまま社会的合意となるでしょう。一方で民主主義社会に於いては、民主的な手続きに則って、社会的合意が形成される筈です。
もしかすると「独裁者の意志が社会的合意である」という例に違和感を感じる人がおられるかもしれません。「どこが『合意』なんだよ」という感じですね。しかしながら、本当の内心は本人にしか解りませんから、合意というのも表面に現れた形で判断するしかないとも言えます。ですから、独裁国家に所属する人々は、独裁者の意志に従う事に合意しているとみなせる訳です。もしもその合意が崩れれば(国民の多くが独裁者の意志に従わないと決めれば)例えば革命が起こり新たな社会的合意が形成されるでしょう。

但し、以上の説明には重要な点が1つ抜けています。それは「社会的合意は常に弱者の抑圧を伴う」という点です。社会的合意というものが「全ての構成員が心の底から同意する」ものであるのなら良いのですが、そんな事はまず現実にはあり得ません。ですから実際には、多かれ少なかれ、その時の強者の立場に寄り添う傾向で合意が形成されます。これは必然であり、合意というものの性質上不可避であると言えます。
そこで「弱者に目を向ける」必要が出てきます。「弱者は常に抑圧される」という認識からすれば「少し優遇される位で丁度いい」となるでしょう。但し現実には、バランスを取るのは非常に難しいです。ある弱者を抑圧しない様にする事が別の弱者を生み出す場合もあるでしょう。その難しさを知ったうえで、難しいからこそ、向き合って行くべきだと考えています。

少々脱線しましたが、いずれにせよ「社会的合意」とは社会のルールを形成するものと言えます。緩くは風習から厳しくは法律に至るまで、あらゆる社会のルールはどれも(直接的もしくは間接的に)社会的合意によって作られていると言っても過言ではありません。
つまり「社会的合意を形成する」とは、事実上「社会のルールを作る」事と、ほぼ同義であるとみなせるのです。


4.科学的知見と社会的合意、どちらが優先されるの?

1)社会的合意は常に科学的知見よりも優先されてきた
歴史的に見れば、ガリレオの昔から宗教裁判や魔女狩りに於いては、殆ど常に社会的合意が優先されてきました。そしてその点に関しては、現代に於いても大して状況は変わっていません。嘘だと思いますか?では、例を挙げてみましょう。
EM菌を推進する国会議員は何人も居るし複数の行政機関でも採用・推奨・黙認されています。
「がんは治療するな放置しろ」などと言う医師がTVや新聞や雑誌に登場し続け、患者から大金を取っています。
STAP細胞は存在する証拠が皆無になった「後で」お金と人手を掛けて「検証実験」が行われました。
他にも、同じ様な例は幾つも挙げる事が出来ます。
これらはいずれも「科学的には完全に決着が付いているもの」ですが、社会的には全くそうではありません。確かに、完全には「社会的合意」が得られている訳ではないでしょう。しかし逆に言えば、「社会的合意が不十分であってさえ、社会的に存続できている。いわんや社会的合意が十分である場合においてをや」つまり「科学的知見は社会的合意に比して圧倒的に劣位である」と言えるのではないでしょうか。

2)科学的知見は社会的合意の基礎になるべきもの
さて、私が「社会的合意に対して恨み節を述べている」などと誤解を受ける前に、大急ぎで言っておきましょう。「社会的合意が優先されるのは当たり前」なのです。前述した様に「社会的合意は社会のルールを作るもの」なのですから、社会が自分の決めたルールに従うのは当然でしょう。
但し。
ここまで意図的に黙っていた点が1つあります。
それは「社会的合意を形成する為には、正しい情報が必要である」という点です。もう少し一般化して言えば「物事について判断を下す際には、必要にして十分な情報に基づくべきである」と言えます。その意味で「科学的知見とは判断の元になる正しい情報を提供するもの」なのです。ですから、本来は「どちらが優先されるか」という問い自体がおかしいのです(自分で書いておいて何ですが)。これらは決して競合するものでも相反するものでもなく「科学的知見は社会的合意を形成する為の材料に過ぎない」のですから。
そう、折に触れて書いている通り「科学とは道具に過ぎない」のです。道具である以上、それ自体が善悪を決めたり価値観を形成したりする事はありません。あくまで「使う人次第」なのです。従って「道具をどの様に評価するか」には使い手の価値観が反映されるとも言えるでしょう。
例えば、無免許の暴走車が小学生の列に突っ込んでも、多くの人は「自動車という乗り物が悪なのだ」とは考えません。それは、道具の一種である自動車に対する、その人の価値観を反映しているのです。しかし一方で、秋葉原でサバイバルナイフを使った通り魔事件が起きると、ナイフそのものを悪とみなす人が(一部ではありますが)出てきます。これも、ナイフという道具に対する価値観の反映であるとみなせます。

3)何故「科学的知見の方が優先する」かの如くに思ってしまうのか?
ここまで述べてきた通り「どちらを優先させるか」「どちらを取るか」という問いは、本当は無意味です。しかしどうやら、世の中には「科学的知見の方が優先されていてケシカラン」と考える人々も居る様なのです。それは何故なのでしょうか。推測する事しか出来ませんが、一応書いてみます。
科学的知見とは、普遍的な事実を追求するものです。一方で、社会的合意とは、その性質上、いかようにも変化し得るものです。この「科学的知見の揺るぎ無さ」が「うつろい易い社会的合意」に比べて優位にあるかの如くに感じてしまうのかもしれません。科学の側からすれば「そんな比較に意味は無い」と言いたい所ですが、そうした態度がまた「歯牙にも掛けられていない」と思われてしまう可能性もあります。
更に想像を逞しくすれば「科学的知見の存在そのものを葬りたい」という意図があるのかもしれません。先に述べた通り、科学的知見は判断の元になるものですから、社会的合意を自らの望む方向に誘導したいと思った際には、その中立性を疎ましく感じるかもしれないからです。
まぁ、あまり推測ばかりしていても仕方ないので、この位にしておきます。

4)「判断は正しい情報に基づくべきである」というのは本当か?
少々余談気味ではありますが、上の2)では「判断には正しい情報が必要である」ことを無条件に肯定しています。しかし、それは本当なのでしょうか。もう少し一般化して言えば「正しい情報は間違った情報よりも『善い』ものなのか?」という問いです。
私達の社会を見渡す限り、この問いに対する答えは自明に思えます。間違った情報の方が尊重される状況は、フィクションを読む時や手品を観る際など、ごく一部に限られます。しかし本来ならば、情報そのものは、善でもなければ悪でもない筈です。そうであるならば、それこそ「正しい情報が善い」という価値観自体が社会的合意により形成されたものなのではないでしょうか。
という事は「間違った情報の価値が高く、そうした情報(例えばインチキ教祖の御託宣など)に基づいて判断する社会」が存在したとしても、それはそれでアリと言いますか、単純に善いとか悪いとか決め付けられるものでもない事になります。
そこで、少し想像してみましょう。
正しい情報に基づいて判断する社会と、間違った情報に基づいて判断する社会の双方が存在した時に、歴史の変動を経て生き残る可能性が高いのは、一体どちらの社会でしょうか。
おそらく、前者でしょう。
つまり「正しい情報に基づいて判断する社会」とは「淘汰されて生き残った社会」であると、私は考えます。ですから(あくまで個人的意見ですが)言わば「弱い社会的合意」の結果として「正しい情報が善い」とされる社会になってきたのだと考えています。
逆に言えば、そうした合意が失われれば(正しい情報が善いという価値観が共有されなくなれば)私達の社会は徐々に脆弱になって行き、大袈裟に言えば存亡の危機に立たされるのではないかと危惧します。だからこそ、科学的知見を軽視したり道具として使いこなせなくなる様な状況に対しては危機感を抱いているのです。


5.まとめ

少しややこしい話になりましたので、簡単にまとめておきます。

科学的知見は、真実を追求するもの。
社会的合意は、社会のルールを作るもの。
社会的合意が科学的知見より優先されるのは当たり前。
本来は競合したり相反したりするものではない。
科学的知見は判断の元になる正しい情報を提供するもの。
科学的知見を軽視する社会は徐々に脆弱になっていくのではないかと危惧している。


6.謝辞

今回はまず、冒頭に挙げたまとめに登場した方々、参考になる記事を書いてくださった地下猫さんとublftbo(TAKESAN)さん、そして、きっかけに関してタイミング良く示唆に富むTweetをなさっていた@tonkyo_Vcさんに御礼申し上げます。有難うございました。


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1 件のコメント:

  1. >間違った情報の価値が高く、そうした情報に基づいて判断する社会」が存在したとしても、それはそれでアリと言いますか、単純に善いとか悪いとか決め付けられるものでもない事になります

    私もこのことが気にかかっていました。日常生活では厳密に科学的に真実を追求しようという動機を持たなくてもなんとなく生きていける。小説を読むにせよ漫画をよむにせよ冗談を言うにせよ真実の追求とはあまり関係のない営みでしょう。当たり前と言えば当たり前の話なんですが人間が使う言語は真実の追求以外の用途にも使える。これも善い悪いがいえるものではない。しかし真実の追求に特化した言語や制度がないと(個人的にはその言語観を深めていかないと)間違った情報に簡単にだまされるかもしれない。真実の追求とそれに基づいた正しい情報を求めない社会は脆弱であり怪しげな扇動者に踊らされる社会です。

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