コミケを風疹から守り隊

2015年5月27日水曜日

佐久間功氏のTwitterでの発言に関して

初回公開日:2015年05月27日
最終更新日:2015年05月28日


1.はじめに

最初に2点、お断りしておきます。

まず、以下の文章では、たいちょう @8taicyo だけ敬称を略しておりますが、これは単に「たいちょうさん」や「たいちょう氏」では座りが悪いからであり、他意はありません。たいちょうは「たいちょう」と呼ぶのが最もふさわしいと、個人的には思っていますので。
次に、私が以下に書く文章の多くの部分は佐久間氏への批判で費やされていますが、人格批判をするつもりはありません。言動に対する批判と、人格に対する批判は、なるべく(可能な限り)分けるべきだと考えています。この点については、最後の方でもう一度触れます。
更に言えば、私には「水に落ちた犬を叩く」様な趣味はありません。佐久間氏は発端の呟きを削除しお詫びの文章をTwitterとWeb(こちらです)の両方に載せています。ですから私としては、道義的な観点から佐久間氏を責めるつもりはありません。
しかし。
それはそれとして、言動に対する批判は、行う以上はキッチリとやっておきたいのです。上記の対応(呟きの削除やお詫び文)に関しても、道義的にはともかく、その内容については何点か言いたい事があります(詳しくは後述します)。更に、そうした批判を行う為に、以下では既に削除された呟きの内容に関しても言及しています。しかしそれは(繰り返しますが)あくまで言動に対する批判であって、人格批判をするつもりはありません。その点は、くれぐれもお含みおきください。
なお、ここで言う人格批判とは「人格そのものに対する批判」即ち「人格を丸ごと批判する事」を意味します(以下の記載でも同様です)。

以上の2点を御理解頂ける方のみ、続きをお読み頂ければと思います。

2.これまでの主な経緯

まず、発端になったのはこちらのまとめですが、現時点では非公開になっています。非公開になった経緯は作成者さんの呟き(こちらこちら)をご覧ください。ここでは、状況が見えない方の為に(あくまで私の記憶に基づいてではありますが)簡単にまとめの内容とその後の展開を説明します。

あるドッグトレーナー氏(現在ではTwitterアカウントを削除)の「狂犬病ワクチンを『うったことにしてくれる』獣医師がいる」との呟きに対して、たいちょう他2名ほどの人が通報及び諫言をしました(余談ながら狂犬病ワクチンは必要です。これは重要なポイントですので、改めて本記事の末尾に記載します)。
ここで、ドッグトレーナーとは、犬の飼い方について一般の人に指導を与える立場であり、それを職業にしている人です。つまりプロな訳ですから、そういう立場の人が狂犬病ワクチンを軽視するのは極めて不適切であり、当局へ通報されても仕方ないレベルの行為です。ですが、たいちょう達の指摘は(内容は厳しかったかもしれませんが)礼を失したものではなく、むしろドッグトレーナー氏の方が「じゃあどうしたらいいっていうんですか!」みたいに(実際にはもっとひねくれた事を言っていた)逆切れしていたと記憶しています。
このまとめが公開されると、コメント欄にドッグトレーナー氏を非難するコメントが並びました。一方でドッグトレーナー氏は、たいちょうの個人情報の提供を求め始め、更に他の人に対してもストーカー行為と言える行動を取り、その方が警察に相談する事態にまで至りました。これは、はっきり言ってシャレになりません。しかしたいちょうは、逆にこれをネタにして「私の個人情報求む!」と呟いて大喜利状態になったりしていました。
ここまでの展開には、佐久間氏は直接関わっていません。
佐久間氏が関係してくるのは、まとめ公開後からです。即ち、まとめ及びそこから派生した内容に関して佐久間氏が幾つかの呟きをし、それに対する反論もありました。あくまでも私の印象では、佐久間氏は当初は比較的強気であったものの、やがて当事者に対して「個別に説明したい」 個々の当事者に対して「説明したい」 と申し出て更に火に油を注ぐ状態となりました。そして現時点では、前述した如く、幾つかの呟きを削除し、お詫びを表明しています。

大体こんなところです(もしも私の記憶違い等ありましたら、コメント欄もしくはTwitterの@メンション等で御指摘頂ければ幸いです)。



3.佐久間功氏の発端の発言と、その問題点

既に述べた通り、佐久間氏は炎上の発端になった呟きを既に削除しております。しかしながら、その内容に触れずに論評するのは極めて困難ですので、ここではスクショから私が文字起こししたものを掲載しておきます(別に証拠押さえという様な意図は無く、ここでは発言内容さえ解れば良いので、スクショそのものは貼りません)。

でもさ、これ、あざ笑っても何も解決せんのよ。本人は善意のつもりだし。どうやって考えを変えてもらうか?を見事に失敗したようにも見えるわけで。

(なお、元発言にはこの後に、発端となったまとめのタイトルとリンクが付いていますが、その部分は省略します)

ここには3つほど論点が含まれています。そして、私の目から見ると、その全てに問題がある様に思われます。そこで、以下で個別に述べていきます。

1)「あざ笑っても何も解決せん」について
佐久間氏は、別の呟き(こちらも既に削除されています)で「批判するのは正しいが、嘲笑する必要はあるの?それもよってたかって、と言う問題」と述べておられました。またこちらの呟きでは「特にコメント欄」とも書かれています。
以上より、佐久間氏の発言が「Togetterのコメント欄だけに出てきて非難・罵倒・嘲笑をする様な人達」に対する批判だと解釈するならば、その限りにおいては妥当性がある、と考えます。

しかし、それでもなお、2つほど問題が残ります。
まず「何も解決しない」なんて事はありません。「本人の説得」のみをゴールとする限りはそうかもしれませんが、今回の目的はむしろ別の部分がメインだと考えます。その「別の部分」とは言うまでもなく「狂犬病ワクチンの必要性を、より広く知らしめる事」です。たとえ本人が納得しなかろうが「ワクチンをしたことにしてくれる獣医師がいる」なんて話をするのを止めてくれれば「何も解決しない」とはほど遠い結果と言えるでしょう。その意味では、今回の件はむしろ「一定の成功を修めた」とさえ言って良いと思います。
次に、佐久間氏はその後の呟き(こちらも既に削除済みです)で「たいちょうの大喜利大会みたいなもの」について言及し「絶望した」とまで述べています。佐久間氏は「大喜利大会」まで「集団での嘲笑」に含まれると考えたのでしょうか?そうでなければ「絶望」する意味が解りません。しかし私は、今回の大喜利大会は嘲笑には含まれないと考えます。これは悪ふざけかもしれないが、嘲笑ではない。「個人情報の収集を始められ、更にストーカー行為にまで至った」部分に限って言えば、むしろたいちょう達は被害者です。私はこの大喜利大会を「相手の攻撃を無効化・弱体化する為にユーモアで返した行為」だと考えます。

2)「本人は善意のつもり」について
ここで佐久間氏が「善意」をどの様な意味で使っていたのかが不明ですが、もしも一般用語として使われていたのであれば、それは「犬と飼い主の為に良かれと思ってやっていた」という意味になるでしょう。しかし、動機が善であっても結果によっては免責されません(その事はこちらの記事の3.のあたりに少し書いてあります)。増してや、今回のやり取りを見た限りでは、私にはドッグトレーナー氏は善意と言うよりもむしろ「確信犯的」に行動していると思えました。そしてその思いは、まとめ公開後の行動によって更に強くなりました。この点に限っては、佐久間氏も(おそらく現在では)御自分の不明にお気付きになっている筈だと推測します。
また、法律用語としての「善意(悪い事だと知らずにやった)」だとしても、ペットに関わるプロとしての誹りは免れない所です。また、結果論にはなりますが、その意味でもドッグトレーナー氏の行動は善意とは考え難かったと判断しています。

3)「見事に失敗した」について
たいちょう達の目的が必ずしも説得ではない点に関しては上記1)に書きましたが、佐久間氏は「考えを変えてもらう」事(つまり説得)に失敗したと言っておられたので、そちらの論点について書きます。
そもそも「他者に考えを変えてもらう」のは容易な事ではありません。佐久間氏はそういう点に関しても経験がおありの様ですから、そうした難しさに関しては知っていておかしくない筈です。であれば、トライした人に対してこの様な言い方は宜しくないのではないでしょうか。
しかも、コメント欄での「嘲笑」にしろ、大喜利大会にしろ、いずれもまとめ公開「後」の話です。そしてまとめを読んだ私の感想では、まとめられた時点で既に完全に決裂していたと判断します。従って、いずれの場合においても「説得の失敗」と「嘲笑」との間に明確な因果関係は存在しないと考えています。

4.佐久間氏の「ニセ科学批判」の認識に対する疑問

上にもリンクした呟きで佐久間氏は「ニセ科学批判系とかそういうところは、わらわらと集まって来てみんなであざ笑う」と書かれています。こちらの発言は残っていますので、以下に埋め込み表示をします。

ニセ科学批判の末席に身を置いている身としては、この発言にも幾つかツッコミたくなります(ここだけちょっと口語調になるのを御容赦ください)。

a)わらわらと集まってくるのはニセ科学批判系「だけ」なの?ニセ科学と全く関係のない話題でも、Togetterのコメント欄て、結構こんな感じ(馬鹿にするだけが目的の様な書き込みがそこそこ見られる)なんじゃないの?
b)集まってきた人達は本当に「ニセ科学批判系」なの?少なくともあのコメント欄を見る限りでは、私から見れば、会った事も無いし一切コンタクトを取った事も無い人の方がむしろ多数だったと記憶しているけれど。
c)そもそも「ニセ科学批判系」っていう括りはどうなの?たまたま共通点があるだけの人達を雑に括って、そこに「集まって来てみんなであざ笑う」という属性を勝手に付加する。それは私に言わせれば「ダメなニセ科学批判批判」そのものだよ。

ところが、佐久間氏に言わせれば、ご自分は「ニセ科学批判批判」はしていないおつもりの様です。


要するに「感情論に基づいた人格攻撃」だけが批判批判だというお考えに見えます。そこまで言い切るのは極論としても、少なくとも「感情論が批判批判の最大の特徴である」程度の事は言っておられるでしょう。しかし、それは私の考えとは違います。確かに人格攻撃は良くないですが、別にそれは批判批判の専売特許ではありません。逆に人格攻撃を含まない批判批判も、幾らでも存在します。
更に、佐久間氏は「批判批判」という言葉を(そのとき対話していた相手が使ったからとは言え)特に説明も無くナチュラルに使用しています。私見では「批判批判」はかなりハイコンテクストな単語であり、これを普通に使用している人は「ニセ科学批判」に関してそれなりのレベルで理解している筈だとみなします。

以上の佐久間氏の発言から考えられる可能性は幾つかあります。

a)佐久間氏はニセ科学批判にあまり詳しくないのに知ったかぶりをした。
b)佐久間氏はニセ科学批判にそこそこ詳しいが「ニセ科学批判系」という雑な括り方をしたうえで、自分は「批判」側にも「批判批判」側にも属していない様なスタンスに立って発言した。
c)佐久間氏はあまり深く考えずに、その場その場で適当にものを言った。

そして、たとえa)~c)のいずれであっても問題だと私は考えます。a)とc)は言うに及ばず、個人的にはb)の場合が最も問題だと思います。ただ、そこまで述べ始めると長くなってしまいますので「どう問題なのか」には深入りしませんが、一点だけ。
上記3.の3)でも「説得の難しさ」について述べましたが、私がその様な考えに至ったのはまさしく「ニセ科学批判」を細々と継続してきた中での事でした。無論、ニセ科学批判を実践している人はすべからく私と同じ様にすべし、などと言うつもりはありません。ただ、現在での私の方針は「ニセ科学の提唱者やそれに近い人(言うなればニセ科学のアーリーアダプター)を説得するのは極めて困難であり効率も悪いので、半信半疑の人や良く知らない人に広がっていくのをなるべく防止する」のを基本戦略としております。そして、私以外にも同様に考えておられる人を複数存じ上げております。なので、集団で嘲笑する様な人達を「ニセ科学批判系」と言って括るのには、どうしても強い抵抗を覚える訳です。

5.嘲笑と説得に関するダブスタないしブーメランの疑い

1)「嘲笑」に関して
上記3.の1)で既に述べた通り、佐久間氏の「嘲笑」に関する認識には問題がありました。しかしここで言いたいのは、それとは別の論点です。佐久間氏は、発端の呟きをしてから半日も経たないうちに、以下の様な呟きをしています(これも元発言が削除されていますので文字起こしをしました)。

こういう言い方でしか反論(ってか自己弁護)はできないだろうって隙間を用意しておいたら、そこにピッタリはまるリプライが来て、それに対して予想どおりの人がRTするとか・・・もうね。ある意味面白いけど。

私の感覚では、これは(ややマイルドかもしれませんが)「嘲笑」に相当すると考えます。何故なら自分の仕掛けたトラップに嵌まった相手の反応を「予想通り」とし、更にそれを「面白い」としているからです。なので、この件に関する佐久間氏の考えは、以下のいずれかだと考えられます。

a)この程度では「嘲笑」には当たらない。
b)集団ではなく個人で行うのであれば「嘲笑」しても良い。
c)つい出来心で、自分でもダメだと思っている事をやってしまった。

私はa)とb)には同意しません。従って許容出来るのはc)の場合のみですが、その場合でも御自分でお認めになる事が大切です。即ち、最低限、事実関係を認め、今後の自己の言動に反省を生かす必要があると考えます。
その様にした上でなら、謝罪するかどうかは、御自分で決められれば宜しいと思います。即ち(私から見れば)必ずしも謝罪は必須ではないと考えます。むしろ、もしも事実認識と態度を改めないままに謝罪「だけ」を行うのであれば、それはかえって問題点を曖昧にしかねない行為だと考えます。

2)「説得」に関して
佐久間氏は相手の心理を読み取って行動するのが得意らしいです。その事は前項1)からも窺えますが、もっと直接的な発言もあります。既に削除されている発言も多く本論との関係も比較的薄いので、いちいち掘り返す事までは致しませんが、例えば発端となる発言の少し前には、こうした発言もありました。
この様に佐久間氏は、相手の心理を考慮して対処するのが当然とお考えになっており「見事に(説得に)失敗」とまで評していました。しかし、いざ御自分が渦中になると、批判してきた人達を説得出来た様には見えなかったのです。
何度も繰り返して恐縮ですが、やはり「説得は難しい」のです。佐久間氏の言動の問題点(の1つ)は「あたかも自分なら心理テクニックをも駆使して説得出来るかの様な書き方をしていたけれども、実際には出来なかった」という部分にあります。それが反発を招いた大きな原因の1つであったと考えます。

6.佐久間氏の謝罪文と今回の対処方法に関して

まず、謝罪文(再度こちらにリンクします)に関してです。
既に指摘している方もいらっしゃる通り、この文章には意味が取り難い箇所があります。具体的には
自分自身の今後の活動にて、ニセ科学・インチキ医療などに引かれる弱い人たちに寄り添い、誤った道に進まないよう導く、という皆様とは別の形に邁進することで心よりの反省とさせていただきます
の部分です。佐久間氏がどの様な方向に邁進したいのか、解り難いです。おそらく読点で区切られた部分、即ち「ニセ科学・インチキ医療などに引かれる弱い人たちに寄り添い、誤った道に進まないよう導く」方向に邁進する、という意味だろうとは思います。しかし原文では、そこに「という皆様とは別の形」が挿入されている為に意味が通り難くなっています。
つまり「ニセ科学(中略)導く、という皆様」とは「別の形に邁進する」という意味にも読めてしまいます。まぁ、おそらくこれは少し穿ち過ぎなのでしょう。何故なら、もしそういう意味だとすると「別の形」とは何なのか、が解らなくなってしまうからです。ですから、おそらく最初の読解で合っていると思います。
しかし、その意味だとしても、それはそれで大問題です。
つまり「ニセ科学(中略)導く」という活動が「皆様とは別の形」だと言っている訳です。ここで「皆様」には今回ドッグトレーナー氏を批判した、たいちょう及び他の方も含まれると読むのが妥当でしょう。しかしそうすると「ドッグトレーナー氏への批判」と「弱い人達に寄り添い導く行為」とが、相反する・両立不可能なものであるかの様にも読めてしまいます。
これは、少なくとも私などが目指しているところの「ニセ科学批判」とは全く相容れない見解です。何故なら、上記4.でもちょっと触れた様に、私は「ニセ科学の提唱者やアーリーアダプターに苛烈な批判を加える事」と「被害を受けそうな人々を導く(というと口はばったいですが)」のは、両立するどころか、本質的には同一の行為だと思っているからです。
その意味では、今回のたいちょう達の行為は、私から見ればまさに「ニセ科学批判の実践行為そのもの」だとすら思えるのです。なのに何故この様な対立軸を設定するのか、理解に苦しみます。自己正当化の為ではないかと勘繰りたくなる程です。
あと、形式的な事を言えば、文章にはお名前を付けた方が良いと思います。Twitterでの呟きを転載したものとの事ですが、この文章だけ見ると誰が書いたものなのか解り難いですね(URLからの推測が可能だとはいえ)。

次に、呟きの削除についてです。
あくまで私見ながら、呟きの削除は悪手だと考えます。理由は3つありますが、長くなりましたので簡潔に述べます。
a)スクショ・キャッシュ・魚拓・ローカル保存など様々な手段がある現状、完全に消し去るのは不可能。
b)第三者による検証が難しくなる。即ちリスクマネジメント的に言えば原因究明と再発防止に資する行為とは言えない。
c)以上より「無かった事にしようとしている」「単に幕引きを図ろうとしている」と思われる危険性がある。
まぁこれは私見ですから「削除するな」とまで言うつもりはありません。ただ、削除した方が後々不利になるのではないかと危惧します。
で、私ならどうするかと言えば、削除せずに元発言に自分でリプを付けて説明なり訂正を加えるか、あるいは、たとえ削除するにしても、経緯が解る様に何処かに情報をまとめておくでしょう。

7.今回の件から得られた教訓

さて、折角ここまで頑張って書いたのですから、今回の件から何かしらの教訓を得ない事には、関係者も、そして私の苦労も浮かばれませんよね(笑)。
なので、幾つか考えてみました。

1)確かに「集団で嘲笑する」様な行為は良くない。
特にTogetterのコメント欄みたいな場所では、そういう傾向が強まります(昔はそうでもなかったと記憶しているのですが、それだけ「まとめ」がメジャーになってきたという事なのでしょうね)。あそこにはツリー機能もありませんし、複数の議論が交錯してgdgdになっても(ブログなどよりも更に)コントロールは困難です。
なので現状ではTogetterのコメント欄は「そういう場所」だと思ってあまり深入りしない様にする位しか対処法はないのかもしれません。

2)批判行為はなるべく「個別具体的」に行う。
実はこれ、かなり勇気と胆力を要する行為です。なるべく相手を特定せずに、ふわ~っとした事を言ってる方が遥かに楽ですから。そうしておけば、反撃を食らっても「貴方の事ではない」「そういう意味で言ったのではない」という言い逃れもし易くなりますし。しかしいつまでも「ふわ~っとした事」ばかり言っていても仕方ないでしょう。それは自分の役に立たないばかりでなく、無用な対立軸を産む行為にも成りえます。
つまり「個別具体的な批判」とは、むやみに対立軸を産まずに建設的な議論をする為の知恵でもあるのです(言い換えれば、ディベート的に目の前の相手を言い負かす手法とは全く異なる考え方です)。何故なら、対象や行為を特定せずに大雑把な批判を行っていると、想定外の相手から反論される可能性が増すからです。
世間を見回せば、そうした「曖昧な全体攻撃」を行う人が(おそらく両側に)一部とはいえ含まれている為に、本来はさほどでもなかった筈の対立の溝がむやみに深まってしまう例が、幾つも見つけられます。例えば「喫煙派vs嫌煙派」とか「反原発派vs脱原発派」とかが挙げられるでしょう。

3)人格批判は(なるべく)行わない。
これは上記2)の応用とも言えます。即ち、人格批判とは(冒頭で定義した通り)「個人に対する全体攻撃」つまり「その人を丸ごと否定する行為」だからです。批判はあくまで個別具体的な言動に対して行うべきであり、人格そのものに対してむやみに批判を加えるべきではない。逆に(極端に)言えば、言動さえ改善されれば良いのであって、内心で何を考えていようが構わない訳です。
あるいは、こうした考え方には異論があるかもしれません。「そんなの真の改心じゃない」という感じで。しかしながら、殆どの人間は聖人ではありません。誰でも、外に出せないドロドロした考えの1つや2つ、裡に抱いているのがむしろ当然です(勿論私自身も)。なので問題は「そのドロドロしたモノを外に出してしまうか出さないか」なのです。外に出さずに心の中に秘めている限りは、誰からも批判や非難を受ける謂れはありません。人の内心を裁けるのは神だけであり、神ならぬ人の身では(たとえ聖職者であろうとも)他者の内心を裁く事は出来ないのです。
また、批判される側から見ても、人格批判はダメージが大きいです。例えば何かミスをして怒られるにしても
オマエのそういう所がダメなんだよ!
と言われるのと
それだからオマエはダメなんだよ!
と言われるのでは、似た様なフレーズですが後者の方が地味にダメージが大きいです。なので、もしも「なるべく相手にダメージを与えたい、出来れば再起不能まで追い詰めたい」という気持ちがあるのであれば、人格批判を多用するのも良いでしょう(いや、勿論皮肉ですよこれは)。
しかし、そうではない限り、出来るだけ人格批判は控えた方が良いのです。
それでも、どうしても人格を批判したくなったら…。
その場合でも、人格の全部ではなく一部を批判する様に心掛けると良いでしょう。例えば私は「目的の為には手段を選ばない」という考えには決して与しませんが、それでも、そういう考えを持っている人の人格を丸ごと否定している訳ではありません。どの部分が「絶対に許せない」のか、それを出来る限り明確にしておく事は、自分と、そして相手の為に有用であると信じます。

4)誤りは可及的速やかに訂正した方が良い。
上記6.で述べた通り、佐久間氏の「火消し」は完全なものではないと考えます。最も問題なのは「自らの誤りは何なのか、それを正す為に何をしたのか・していくのか」という視点が欠けている所です。それは、改めてお詫びの文章を見ても感じます(但し「失敗」発言が不適切であったという認識だけは正しいと思います)。そこでは主に「関係者を傷付けた事・怒らせた事」への謝罪が述べられています。しかしながら、私はここで佐久間氏の発言に対してかなり徹底的な批判を加えたにも関わらず、感情論は極力排除したつもりです。従って、たとえ誰も傷付いたり怒らなかったりしたとしても、私が述べた批判の殆どは、有効なまま残るのです。
なので重要なのはやはり「自らのマズかった点を認識して、なるべく早く改善する事」でしょう。これは別に佐久間氏に限りません。たとえ誰であっても、私自身であっても、誤りを犯す事はあります。その際には、ここに書いた事を思い出して欲しいのです。
そして、もし。
私自身がそれを忘れている様に見えましたら、その時は、どなたでも、私に向かってそれを指摘して頂ければ、それはとても有り難い事です。

8.狂犬病ワクチンの必要性について

最後に、狂犬病ワクチンの必要性について述べます。

狂犬病は、殆ど全ての哺乳類に感染する(勿論ヒトにも感染する)ウイルス性の病気です。ひとたび発症すればヒトでも犬でも、致死率はほぼ100%です。発症して助かった例は極めてまれにしかありません。即ち、確実に有効な治療法は、未だに存在しないのです。
繰り返します。狂犬病とは、発症したら致死率がほぼ100%である、有効な治療法が存在しない病気です。
しかし、ワクチンで予防する事が出来ます。
他の国ではコウモリなどの野生動物から感染した例が報告されていますが、日本では野生動物に噛まれるという事故自体が殆ど発生していませんので、犬に対するワクチン接種が予防の主体となります。
時々「日本は狂犬病の清浄国だからワクチン接種は不要」とか「曝露後防止策(PEP)があるから大丈夫」の如き意見を見掛けますが、とんでもない大間違いです。ワクチン接種を止めてしまえば、万が一にも国内で発生した際に、防止する手段が極めて限られてしまいます。確かに、日本と並んで狂犬病の清浄国であるオーストラリアでは狂犬病ワクチンは禁止されています。しかしそれは「敢えて集団免疫を弱くしておく事で流行を早期に発見する」という戦略をとっており、かつ、検疫体制を非常に厳しくしているからです(こちらの記事がとても参考になります)。なので「どうしてオーストラリアみたいに出来ないんだ!」というのは、浅はかな意見です。
つまり、もしも日本がオーストラリアを見習うとすれば、狂犬病発生地付近の飼い犬は皆殺し(敢えてどぎつく言っています)になる 殺処分も視野に入れて厳しく管理される 可能性も充分にあります。それでも良いのでしょうか。またPEPも確実ではありませんし、犬の殺処分を防ぐ効果もありません。
たとえ殺されなかったとしても、狂犬病にかかった犬もヒトも、大変に苦しみます。そして死にます。
今、自分の目の前に狂犬病が見えないからといって、ワクチン不要論を唱えたりするのは、法律違反であるばかりではなく、極めて愚かで、多くの愛犬と人命を危険に晒す行為です。

だからこそ、件のドッグトレーナー氏の行為は強く批判されたのです。


付.更新履歴
2015/05/28:佐久間功氏の御指摘により「2.これまでの主な経緯」を一部修正しました。
2015/05/28:Hiroo Ono氏の御指摘により「8.狂犬病ワクチンの必要性について」を一部修正しました。

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8 件のコメント:

  1. 大喜利なんかししてる人達がエアリプ一つにたかってるのがそもそもバカバカしいんだよなあ

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    返信
    1. >匿名さん

      まず、ブログヘッダーとコメント欄のすぐ下の両方に書いてあります通り、名無しは御遠慮ください。勿論本名は求めませんが、ハンドルの設定をお願い致します。
      次に「大喜利なんかししてる人達」とは誰で、「エアリプ一つ」とはどのエアリプの事で、「たかってる」とはどういう状態の事でしょうか。もし批判なさるのなら、そういう部分を詳らかにして頂きたいと思います。
      それこそが、私が本文7.の2)で述べた事そのものです。

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  2. 以前、1~2度コメントいたしました。カルストと申します。
    狂犬病清浄国ということに安心して、犬にワクチン接種しない専門家がいることに驚きました。ごく一部のことと思いたいですが、自称医大教授のブログを読むと暗澹たる気持ちになります。ご紹介の獣医さんのコラムで指摘されているように、日本でも狂犬病による死亡者(感染したのは外国ですが)が出ているのですから、決して安心できないはずなのですが。
    この話を読んで、川田弥一郎氏作のミステリ「白い狂気の島」を思い出しました。もう20年以上前に読んだ本ですが、この本で指摘されている狂犬病に関する問題点は今も変わっていないと感じます。

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    1. >カルストさん
      いらっしゃいませ。お名前は記憶にあります。
      ワクチンとか出産とか、医療の様々な分野に(更には医療の枠を越えて他の分野でも)共通して言える事なのですが
      「先人が大変な苦労を重ねてようやく手に入れた状況なのに、生まれた時から当たり前の様に享受し続けていると、享受している事実にすら気付かない」
      という事が結構あちこちで起こっている様に思えます。実感が得難いのは仕方が無い部分もありますが、多くの人が「正しい知識と、そこそこの想像力」を持てる様になれば、また違うのかもしれません。

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  3. 技術開発者2015年6月1日 9:34

    こんにちは、PseuDoctorさん。

    >確かに「集団で嘲笑する」様な行為は良くない。

    変な話だけど、人類が発明した抑止力の一つが「皆で嫌う」ではないか、なんて思うんですね。私は悪徳商法批判なんかで、ずっと法律の話なんかをしてきて、「強いルールと弱いルール」なんてことも言うのです。法律と言うのは「守らないと社会秩序に明確に障害となる強いルールだから、破った時のペナルティも大きい」ものなんですね。でも世の中にあるのは法律みたい「守らなくてはならない」という強いルールだけでは無くて、「守った方が良い」程度の弱いルールというのもある訳です。そして、そういう弱いルールを破った時のペナルティというのは、周りから「モラルを守らない奴だなぁ」とそれなりに「嫌われる」という形で表れてきたんじゃないかな。そして、その抑止力と言うのは弱いルールを破る者だけではなくて、その「皆に嫌われる」という状況を見ていた周りに対して結構効果的に働く抑止力なのかもしれないと思ったりします。
     私が使っていたたとえ話で言うと「上品なレストランで下品な話を大声でする」なんてものなんだけど、法で直接禁止することも無いようなマナーという弱いルールだけど、これを守らせる弱い強制力としては「このレストランにふさわしくない下品な奴だな」と周りから蔑まれるなんて形だよね。この「周りから蔑まれる」という雰囲気が伝わることで、マナーに疎い客も「ここでは上品にふるまわないといけないんだな」と理解したりもできる訳ね。
    なんていうか、この弱いルールとその違反に対する弱い強制力としての「周りの蔑み」みたいなことの価値が分からなくなっている気もするんです。

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    1. >技術開発者さん
      仰る事は理解できます。確かkikulogでも同様のお話をされていましたね。また黒木玄さんもTwitterで時折「バカな事をやっている人は皆で指差してバカにすべき」という意味の事を仰っています。
      ただ、今回の件がそれに相当するかどうかと言うと、少し違う様にも思います。
      何故なら、私が指摘したかったのは「馬鹿にする事それ自体が目的化している様に見える人が目立つ」という点だからです。マナーの話で言うなら「嗤う為にマナー違反を探しまくる」という感じでしょうか。つまり嘲笑そのものが目的であり、マナーやニセ科学批判はその為の道具に利用されているのではないか、そういう疑いを持っています。
      そうすると、馬鹿にされた方も「取り敢えず攻撃を何とかする事」が目的になってしまい、無視したり逃げたり反撃したりするのでしょうが「原因そのものを改める」という方向に行き難くなるのではないかと危惧します。
      とは言え、これも仰る様に「まさに『弱いルール』が上手く機能しなくなっている一例だ」と言われれば(電脳空間の特性という部分も含めて)その通りなのですけれど。

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  4. 技術開発者2015年6月9日 9:00

    こんにちは、PseuDoctorさん。

    >「馬鹿にする事それ自体が目的化している様に見える人が目立つ」という点だからです。マナーの話で言うなら「嗤う為にマナー違反を探しまくる」という感じでしょうか。つまり嘲笑そのものが目的であり、マナーやニセ科学批判はその為の道具に利用されているのではないか、そういう疑いを持っています。

    そのきらいは確かにあるんだけど、ある意味、「程度問題」ではあるよね。なんていうか、私なんかもネットでいろんな意見を表明してきた中で、しくじりを犯したことも結構あるし、その部分を叩かれる時には「なんで、こいつらまで一緒に叩くんだ」なんて付和雷同的に「叩ける対象がいたから叩く」者の存在にいらだったこともあります。でもね、不特定多数を相手に意見を表明するということには、そういう「単に叩きたいから、相手を探している」様なやからもまた(不特定多数の中に)相手にしている、という意識も必要かもしれないと思うんですね。

    なんていうかな、しくじりを犯さないなんてできないし、それを犯した時に誠意から「それは違っていますよ」という人とともに「叩きたいから叩くやから」を呼び込まないということも、たぶん、できはしないんです。でもね、批判を受けるときにどっちが優勢になるかは、やはり、元になる自分の発言の「重さ・軽さ」みたいなものが影響している気はするんです。たいていの場合に自分の発言の裏づけを確認しながら発言している者が、何かの拍子に馬鹿な発言をしてしまったような場合には、誠意の批判が優先になり、日ごろから勢いに任せた発言をしている者のしくじり発言には「叩きたいから叩くやから」が勢いづく感じかな(希望的観測かもしれないけどね)。

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    1. >技術開発者さん
      コメントの公開とお返事が遅くなりまして申し訳ありません。
      確かに「程度問題」だとは思うのですが、それでもtwitterなどを見ていると、どうしても「馬鹿にする事のハードル」が下がりすぎている様に感じてしまうのです。レストランの例えで言うなら「窓際に鈴なりになって、誰かがマナー違反をやらかさないかどうか、外から血眼になって覗き込んでいる」という感じです。
      繰り返しになりますが、確かに程度問題でもあり、言うなれば「馬鹿にする側にもTPOが求められる」のかな、とも思っています。

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