コミケを風疹から守り隊

2010年12月12日日曜日

「表現規制」について(「表現の自由」はなぜ大切か?)

初回公開日:2010年12月12日
最終更新日:2016年07月21日

1.はじめに

多くの方が御存知の様に、2010年3月の時点で継続審議となっていた「東京都青少年健全育成条例」(いわゆる非実在青少年規制条例)の改正案が12月都議会に提出されています。
私はこの条例には明確に反対です。その最も大きな理由は、これが「表現規制」、即ち「表現の自由を犯すこと」に繋がるからです。「この条例は表現規制そのものではない」というタテマエ論を述べる方もいらっしゃる様ですが、条例の内容は規制側の恣意的な運用が大幅に可能になっているものであり、実質的な表現規制に結び付く危険性はかなり大きいと言うべきです(ぶっちゃけて言えば、そもそも体制側が「表現規制をやります」なんて馬鹿正直に言う筈が無いと思っております)。

では、なぜ「表現の自由」は大切なのでしょうか。
それは勿論「憲法で保障されている基本的人権だから」ですね。
でも、もう少し踏み込んで考えてみましょう。
なぜ「表現の自由」は「基本的人権」なのでしょう。
そしてなぜ「基本的人権」は憲法で保障されているのでしょう。

これを書いている時点では、まだ条例の改正案がどうなるのか解りませんが、どうやら民主党が賛成に回る様で、可決される公算が大きそうです。「表現の自由」に配慮して付帯決議がなされるという見通しの様ですが、はっきり言えば、そんなもの「配慮してない訳ではないですよ」というガス抜きの為の言い訳に過ぎません。
そもそも、わざわざ付帯決議を行う時点で、欠陥条例である事を認めたも同然ではないですか。
「表現の自由に配慮する」なんてのは、言うまでも無く当たり前なので、今更そんな事を改めて決議するなんて、何をかいわんや、です。
そして、たとえ付帯決議があったとしても、そんなものは、現実の運用で幾らでも骨抜きにできます。
非常に姑息なやり方ですが、常套手段でもあります。

しかし、たとえ可決されたとしても、それで終わりではない。
そして、たとえ否決されたとしても、それで終わりでもない。
「表現の自由」に関しては、ずっと継続して考え続けなくてはいけない問題だと思いますので、書いてみた次第です。


2.基本的人権とは何か

基本的人権とは「全ての人が生まれながらに持っている権利」だと言います。
でも、なぜ「全ての人が生まれながらにして持っている」と言えるのでしょうか。
これは「どういう訳かそうである」という訳ではなく、むしろ「そうでなければならない必然性がある」と考えるべきでしょう。
その必然性を説明する為には、少し歴史を紐解いてみる必要があります。

まだ、人間が猿と殆ど区別が付かなかった頃。
全ての人は、自らの思うがままに生きていました。
眠ければ眠り、腹が減れば食い、腹が立てば怒り、欲情すれば犯す。
これこそ、究極の自由と言えるかもしれません。
しかし、不便な事もあります。
腹が減っても食べ物が無かったり、犯そうとしたら逆に反撃を食らって怪我をしたり、眠くても寒くて眠れなかったり、ようやく眠ったかと思えば、寝ている間に腹を減らした別の誰かに襲われ、殺されて食われてしまう事すらあったかもしれません。
これでは本当に不便です。
そこで(おそらく、自然発生的に)ルールが生まれました。
まだ人類は複雑な言語も思考体系も持っていなかったでしょうが、あえて言葉にすれば、例えばこんな感じです。
「俺はお前を殺さないから、お前も俺を殺さないでくれ」
「食い物が余ったら分けてやる。だからお前も食い物が余ったら分けてくれ」等々。
社会の誕生です。

勿論、こうしたルールを持たない個体や集団もあったでしょう。しかしその様な個体や集団は生き延びるのが難しく、結局は淘汰され、ルールを持った集団が生き残ったと考えられます。
これを後から見ると「人間は本来自由な存在だが、より良い生活を求める為に社会を形成し、社会の構成員となる際に自らの自由を制限する事に同意した」と解釈する事も出来ます。
これが、社会契約説と呼ばれる考え方です。
この考えによれば、社会のルールは構成員の合意によって決められる筈です。これが民主主義の最も基本的な形なのです。

しかし、社会が大きくなるにつれて、貧富の差や力の差が生じ、社会に階層が生まれてきました。そして、権力を握った者が、それ以外の人々を支配する様になったのです。
「権力とは極めて口当たりの良い美酒である。しかし、必ず悪酔いする」と言われる様に、歴史的に見ても、権力者はしばしば暴走してきました。無辜の人々が虐殺される様な事態すら起こりました。
しかし、支配される側から見れば、わざわざ原始の「自由な」状態を捨てて社会に所属したのですから、原始状態に比べて、より快適に生活できなければ割に合いません。
つまり、どんな権力者といえども、たとえ社会全体といえども、社会の構成員(=社会に所属する事を選択した個々の人)に対して、何をしても良いという事には、ならないのです。逆に言えば、全ての個人には、どんな権力によっても犯されてはならない部分が存在するという事です。
これを端的に言葉で表したのが「基本的人権」です。

実際、基本的人権の内容を見ると「これが保障されなければ、社会を離脱して一人で生きた方がマシ」と言える様な内容ばかりです。でも「表現の自由」は少し違う様にも思えます。別に表現に不自由したって、普通に生活していくには特に困らない様な気もします。
では何故「表現の自由」は基本的人権の一つ(しかも、特に重要なもの)なのでしょうか。
それを述べる前に、少し憲法の話をしたいと思います。


3.憲法の成立と基本理念

歴史上最初の憲法と呼べるのは、イギリスで1215年に成立したマグナ・カルタ(大憲章)だと考えています。詳しい内容はWikipediaでも見て頂くとして、何故これが憲法と言えるのかについて述べます。
それは、一言で言えば、大憲章が「王様と言えども国民に対して好き勝手にムチャクチャできる訳では無い」という事を定めたものだからです。これが、憲法の根幹に関わる最も重要な部分です。そしてこの事が、上記2.で述べた内容とも密接に繋がっています。

もう少し詳しく見てみましょう。
上記の「王様と言えどもムチャクチャできる訳では無い」から、幾つかの事が導けます。
一つめは、そのまま「国民は王様にムチャクチャされない権利がある」という事です。
二つめは「王様がムチャクチャをしない様に、監視したり行動を制限したりする存在が必要」という事です。
三つめは「それでもムチャクチャをやる様な王様は、交代させる事が出来る」という事です。

これらを概念として発展させたものが、それぞれ、基本的人権の尊重、権力分立、国民主権、であると言えます。
つまり憲法の基本理念そのものです。
ですから「憲法の根幹に関わる最も重要な部分」だと言えるのです。


4.表現の自由の重要性

ここまでが基本的人権の話です。ここからは、表現の自由とは基本的人権の中でも特に重要な権利である事に関して、「なぜそうなのか」を述べたいと思います。
上で述べた通り、基本的人権の真髄は「権力者にムチャクチャをさせない事」です。ムチャクチャをさせない為に大切な事は何点かありますが、最も重要なのが「自由にものを言える事」なのです。国民が自由にものを言えれば、王様がちょっとでもムチャクチャをやり始めたら、誰かが(誰でもが)公然とそれを批判できます。そうすれば、その批判は他の人の知るところとなります。
もし、どの様な理由であれ、権力者側が自由な発言を規制する手段を持っていたとすれば、何だかんだと理由を付けて自分達に都合の悪い発言を規制する事が可能になります。これは権力者側にとても有利な状況です。一人一人の国民は殆ど権力を持ちませんから、権力者に対抗する為には「堂々と、おかしい事をおかしいと言える」のが何よりも大切なのです。

「でも」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
「それって『自由に体制批判をさせろ』って話でしょう?有害なものを規制しろっていう話とは違うんじゃないの?」と思われたかもしれませんね。
ごもっともです。
確かに、明らかに有害なものであれば、規制されるのも、やむを得ないかもしれません。
しかし、しかしですよ。
一体、有害かどうかを、誰が、どの様にして決定するのですか?
その決定権を権力者側に与える事こそが、表現の自由の規制に繋がっていくのだと考えます。
勿論、権力者側も、あまりあからさまな手は使いません。一見、誰にも異論が無いかの様な大義名分を押し立てて、自らの支配力を少しずつ強めていこうとするものです。
その意味で、今回の都条例は極めて象徴的だと思います。
ひとたび「大義名分さえ立てば、規制しても良い」となれば、次は必ず「規制したいものを規制する為に、大衆が納得する大義名分をひねり出す」様になっていくでしょう。
その行き着く先は・・・考えたくもありません。

ところで「無害か有害か」は「好きか嫌いか」の話とは違います。私達はどうしてもここを混同しがちですが、これはきちんと区別しておく必要があります。
「自分が嫌いなんだから、有害に決まってる!」という様な考え方は、一度(と言わず何度でも)疑ってみるべきです。


5.おわりに

以上、非常に大雑把ではありますが、憲法・基本的人権・表現の自由の関係について述べてきました。しかし、これでもまだ長過ぎると思われる方がいらっしゃるかもしれません。そこで、最も重要なエッセンスだけを一言で述べます。
それは「表現の自由は、権力の横暴に対抗する為の最大の武器である」という事です。
そして、その武器は、既に我々一人一人が手にしている。
だからこそ、奪われない様に、常に注意し続ける必要があるのです。

最後に、もう一点だけ。これまで述べてきた通り、表現の自由は極めて重要であり守られるべき権利ですが、私は、その中には「見たくないものを見ない自由」も含まれていると考えます。
つまり、表現の自由とは、見たくない人に無理やり見せる権利ではありません。
同様に、言論の自由とは、聞きたくない人に無理やり聞かせる権利でもないのです。
人は、見たくないものは見なくても良いし、聞きたくないものは聞かなくても良いのです。
但し。
見ない・聞かない事が自らに不利益をもたらす可能性があるかどうかについては、予め知らされている必要があるでしょう。


6.表現の自由を規制しうるものは何か(2011年12月31日追記)
(この項目全体を、2011年12月31日に追記しています)

さて、表現の自由がそれほど大切なものならば、何をおいても絶対的に尊重されるべきなのでしょうか。そうではありませんね。
基本的人権である表現の自由に対抗できるものがあるとすれば、それは「他者の基本的人権」です。つまり、ある基本的人権を守る事が、他の基本的人権を侵害する事になるとすれば、それは矛盾ですから調整しなければなりません。言い換えれば、たとえ表現の自由といえども、他者の基本的人権を侵害してまで無制限に認められるものではないのです。

今回の規制に反対している人でも、実写版の児童ポルノまで認めろと言っている人は居ないと思います。何故、実写版の児童ポルノはダメでも「非実在青少年」なら良いと考えるのでしょうか。
それは勿論、実写には明確に「被害者」、つまり被写体になった子供達が存在するからです。つまり被写体の子供達の人権は著しく侵害されているのです。だからこそ、実写版の児童ポルノは、表現の自由によっても保護されないのです。
逆に、アニメとか漫画とかには、そういう形での「被害者」は存在しません。その意味で実写とは全く違います。これを混同する事は、極端に言えば「現実の殺人と推理小説の中の殺人とを混同する事」と大差ないのです。
(なお「実写版の児童ポルノ」という言い方は、本当は変だと思います。児童ポルノといえば実写の事であり、アニメや漫画は、本来は児童ポルノではないのですから。ただここでは、解り易さを優先して「実写版の児童ポルノ」という書き方をしました。)


7.デマは表現の自由で保護されるのか(2016年7月21日追記)
(この項目は、2016年7月21日に追記しました)

震災以来、様々なデマが流布され、それにより多くの人が傷付けられました。デマの発信元が明らかになった場合には、当然の如く批判を受ける訳ですが、その際に「表現の自由」を盾にして擁護する意見があったと記憶しています。即ち「デマも表現の自由で保護されている」という言い分です。
しかし、これは間違いです。まさかこんな斜め下の意見が出て来るとは予想だにしていませんでしたので、ここまでの「表現の自由」に関する記述でも全く触れていませんでした。そこで改めて、その論点についての私の考えを述べておきます。

結論を言いますと、勿論「表現の自由といえども、デマまでは保護しない」のです。
何故なら、デマは「故意に流される間違った情報(はっきり言えば、嘘)」だからです。

表現の自由とは「たとえ何びとであろうとも、自らの思想・信条・主義・主張を自由に表現できる」というものです。誰であろうとも、です。言い換えれば「あらゆる他者も、それぞれの思想・信条・主義・主張を自由に表現できなければならない」という事でもあります。ここから「他者の表現の自由を侵害してはならない」が導かれます。つまり「他者の思想・信条・主義・主張の表現を不当に抑圧したり排除したりする様な行為は、表現の自由(と思想・信条の自由)に対する重大な侵害行為」なのです。これは前項に挙げた例と、基本的には同様の考え方です。
ではここで「間違った情報」の影響について考えてみましょう。我々の判断や行動は、外部から与えられる情報によって大きく影響されます。そして、そうした判断や行動の積み重ねが我々の思想や主張(の少なくとも一部)を形成していると言っても過言ではありません。従って、外から与える情報を上手くコントロールできれば、他者の思想や主張に少なからぬ影響を与える事ができる筈です。もう少しはっきり言いましょう。要するに「嘘の情報を流す事によって(多少なりとも)他者の思想や主張を操れる」と言っているのです。これは、表現の自由(と思想・信条の自由)に対する重大な侵害行為そのものです。そうでなければ何だと言うのでしょうか。

という訳で、デマを流布する行為は表現の自由でも保護されません。それどころか、むしろ「表現の自由を守ろうと思えば思うほど、より強くデマは批判されるべき」だと考えています。

ついでに言えば「間違った情報」は思想・信条・主義・主張のいずれにも含まれません。確かに「デマを流しても良い」という主張そのものを表現する事は保証されます。しかしそれは、実際にデマを流す行為とは別です。行為の正当性を主張する事と、実際に行動に移す事とは別なのですから。
なお、デマを流しても信じる人が誰も居なければ「事実上は」問題無いと言えるでしょう。しかしその場合でも「デマが表現の自由に対する重大な侵害行為である」点については、全く違いは無いのです。要するに「未遂でも有罪」という事ですね。


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