最終更新日:2011年8月24日
(4.と5.を加筆修正しました)
(4.と5.を加筆修正しました)
東日本大震災と福島第一原発の事故から(この記事の初回公開時点で)丁度2ヵ月が経過しました。しかし、今もって、これらの話題を聞かない日は1日もありません。
現在も、多くの人々が放射線に対する不安と恐怖に苛まれていると感じます。
この記事は、直接「安全だ」「危険だ」という議論をするものではありません。しかし「ニセ科学に嵌る心理」を分析する事が、皆さんの感じている放射線への不安に対して、少しでも役に立つかもしれません。そういう気持ちも込めて書きました。
最初に、結論を述べます。
私は「ニセ科学に嵌る心理は、多かれ少なかれ誰でも持っているものであり、そしてそれは、放射線を恐れる心理とも通じるものがある」と考えています。
では、その様に考えるに至った思考の道筋を、以下に記してみます。
最初に、結論を述べます。
私は「ニセ科学に嵌る心理は、多かれ少なかれ誰でも持っているものであり、そしてそれは、放射線を恐れる心理とも通じるものがある」と考えています。
では、その様に考えるに至った思考の道筋を、以下に記してみます。
1.恐怖と不安の違い
まず考えてみたいのは「恐怖」と「不安」の違いについてです。
皆さんは、この2つがどの様に違うと思いますか?
それとも、そんなのは、考えた事も無いでしょうか?
一言で言うと、対象が明確である場合を「恐怖」と呼び、対象が不明確である場合は「不安」と呼びます。つまり「不安とは、対象の無い恐怖である」と言えます。
もう少し詳しく述べるならば、恐怖とは、現実に存在し、既に確定している脅威に対する感情であり、不安とは、未確定もしくは未知の脅威に対する感情であると言えます。
まず、この違いを良く覚えておいて下さい。
まず、この違いを良く覚えておいて下さい。
2.恐怖と不安、どちらが対応し易いか
次に、この2つのうち、どちらがより対処し易いかを考えてみましょう。
異論はあるかもしれませんが、私見では明らかに「恐怖」の方が対応が楽であり、不安の方が対応が難しいと考えています。その理由は、まさに上述した「対象が明確であるか不明確であるか」という違いによるものです。つまり「対象が明確であるならば対応手段もとり易いけれど、対象が不明確だと、どうやって対応すれば良いのか解り難い」という事です。
小学生の時、テストで悪い点を取った事はありませんでしたか?家に帰ってお母さんに見せたら、凄く怒られそうです。怖いです。
この時、怒られる内容が予め解っていれば、どれほど恐ろしくても、それは「恐怖」です。例えば、30分みっちりお説教を食ったうえにオヤツ抜きになる、その様に解っている場合などです。
一方、どんな風に怒られるか解らない場合は「不安」を感じます。もしかしたら全く怒られないかもしれないし、烈火の如く怒られたうえにオヤツどころか夕食まで抜きになるかもしれない。そういう状況では不安を感じます。未確定要素が大きければ大きい程、不安も大きくなります。
そして、どちらが対処し易いかと言えば、怒られる内容が明確になっている場合です。その場合には我慢する・誤魔化す・逃げる等の選択肢から自分で選ぶ事になります。しかし、怒られる内容が不明確な場合には、こうした選択を行なうのは極めて難しくなります。
という訳で、恐怖よりも不安の方が対処が難しいと考えられます。
余談ですが、恐怖と不安はしばしば同時に発生し、明確に分離されないまま心の中で渦巻いていたりします。そこで、自らの感情のうち、どの部分が恐怖で、どの部分が不安なのかを見極める必要もあるでしょう。
3.多くの人が苦しめられているのは恐怖よりもむしろ不安である
この様に言い切ってしまうのには、ためらいもありますが、それでも敢えて書きます。
地震と津波で、多くの人が家を失い、仕事を失い、家族や友人を失いました。これらは勿論それだけで大変に悲しく辛い出来事です。しかし、改めて考えてみると、今なお人々を苦しめ続けているのは、
「家を失った事よりもむしろ、今後住む所が見つかるかどうかが解らないという不安」であり、
「仕事を失った事よりもむしろ、これから仕事が見つかるか・再開出来るのかが解らないという不安」であり、
「家族を失った事よりもむしろ、家族無しでどうやって生きて行けば良いのかが解らないという不安」である、という風に考える事も出来るでしょう。
悲しみは、時が経てば、本当に少しずつですが、徐々に癒えてくる事が多いです。
でも、不安は「解らない」状態が続いている限り、いつまでも解消されません。
ですから「恐怖よりもむしろ不安」という言い方をするのです。
そして、同様の事が、放射線についても言えます。おそらく多くの人にとっては、放射線とは、解らない事だらけでしょう。目にも見えず匂いも無く(基本的には)肌で感じる事も出来ない。そして何よりも、普通の方々は知識も経験も少ないでしょうから、どの様なものかをイメージし難いのだと思います。
こうした「解らなさ加減」が不安をもたらす大きな要因になっているのだと考えます。
4.不安の解消方法
ここまで述べてきた様に、不安という感情は、対象が未確定である場合に発生します。本当は、不安を無くすのに最も良い方法は対象が消滅する事なのかもしれません。しかし、元々未確定な(つまり存在するかしないかも解らない)ものですから、単純に「対象は消滅した」と言われても、容易には納得できないでしょう。結局、不安は簡単には解消しないのです。
従って、不安を解消させるには、対象を確定させる事が有効です。対象を確定させれば、不安は恐怖に転換します。恐怖であれば(対象が確定していれば)自ずから対処の方法も見えてくるでしょう。
つまり、有効なのは「正しい知識と、適切な判断」です。まず正しい知識により脅威の対象を確定させ、不安を恐怖に換えます。次に適切な判断により、自らの対応行動を決定します。
この様に出来れば理想的です。
しかし、困った事に、現実には上記の様に行なうのはなかなか難しいのです。何故なら、正しい知識を得て、かつ、それに基づいて適切な判断をするのには結構な手間と労力がかかり、更に自ら判断して決断する力も必要だからです。不安が強くて切羽詰っている時であれば、尚更難しいです。
その場合の次善の策として「とりあえず周囲と同調する」という方法があります。「赤信号、皆で渡れば怖くない」とか「怖いのは貴方だけじゃないよ」という言葉に示されている様に、我々は周囲と同じである事によって、多少なりとも安心感を得ます。逆に言えば「安心感を得る為に、積極的に周囲と同調する」という行動もあり得る訳です。
5.不安の解消先としての「ニセ科学・デマ・煽り」
という訳で、不安が強くて切羽詰っている場合には、どうしても、手っ取り早く不安を解消させたい(脅威の対象を確定させたい)という気持ちが強くなりがちです。そうすると、なるべく労力の少ない方法を選びたくなります。
ここに、ニセ科学やデマの入り込む余地があります。
何故なら、ニセ科学やデマには「単純明快で、解り易く言い切る」という特徴があるからです。解り易く言い切る事によって、対象は確定します。即ち不安は(恐怖に変わる事により)解消に向かいます。更に、ニセ科学を信じる人たちの輪に入る事によって「周囲との同調」も得られます。
これら2つの要素によって、不安は完全には解消されないまでも、軽減されるでしょう。
ただ、最も問題なのは、その不安の軽減は「見せ掛けだけ」だという事です。
厳しい言い方をすれば「ウソを信じる事によって安心感を得ている」とも言えます。
これでは、不安という感情だけは軽減するかもしれませんが、問題そのものの解決からは逆に遠ざかってしまいます。
例を挙げましょう。
「直ちには健康に影響の無いレベル」という言い方には、どこか不安にさせるものがあります。何故なら、安全か危険かを言い切っていないからです。その不確実さが不安を呼ぶのです。本当は「絶対安全」と言って欲しいのですが、それが叶わない場合には、不安定な状態よりもむしろ「絶対危険」と言って貰った方が不安感は小さくなるでしょう。
つまり、言い換えれば、不安の大きさは
解らない>絶対危険>絶対安全
という順番になります。
むやみに危険性を煽る人が一部でもてはやされるのには、こうした要因もあるのです。
そして、支持する人がある程度集まると(ネットのおかげでバーチャルに「集まる」事が容易になりました)その輪に入る事で、同調による不安軽減も同時に得られるという「利点」もあります。
6.リスクの管理として「意思決定」を行なうという事
ところで、では何故、政府や科学者は、なかなか「絶対安全」とは言わないのでしょう。
本当は危険なのを隠しているからでしょうか。そうではありません。
それは、一言で言えば「誠実だから」です。
誠実という言葉が褒め過ぎだと思うのであれば「嘘をつくとバレた時に困るから」でも良いです。
正確な情報を述べようと思えば思うほど「絶対安全」などという表現は使えなくなります。
何故なら、あらゆる行動には全てリスクが伴うからです。
道を歩いていただけでも、車にはねられて死ぬ人もいます。
家の中に閉じこもって居ても、隕石が直撃するかもしれませんし、竜巻に巻き上げられるかも、地震につぶされるかもしれません。
要するに、世の中に「絶対」という事は無いのです。ありとあらゆる行為には、多かれ少なかれ、必ず危険性は含まれています。ですから本来は、ある行為を行なう時には、それを行なった場合と行なわなかった場合とで、リスクを比較した上で選択する必要があります。この「比較する」という点が大切です。一方のリスクしか見なければ、判断を間違える可能性が高くなります。
具体的に言うならば、例えば、低線量の被曝のリスクと、避難する事によるストレス・交通事故・経済的負担などのリスクを比較する様な事です。こうした比較をきちんと行う為には、正しい情報と正常な判断力が不可欠であると言えます(「それが難しいんだよ」というお叱りもあろうとは思いますが、あくまで「それを目指す」という事でご容赦願いたいと思います)。
しかし一方で、誰でも普通は、特に危険とも思わずに家の中で暮らしたり道を歩いたりしています。それには「経験」が大きく影響していると考えられます。つまり「これまでは大丈夫だった」という経験の積み重ねによって「これからも大丈夫だろう」と予測しているのです。
この様に、一般的に言って、我々は経験を重視します。重視し過ぎると言っても良いでしょう。個人的経験は日常生活を送る上ではとても役に立ちますが、それに頼りすぎるのは危険です。
この事は、以前の記事(S03-01)の後ろの方でも少し述べましたので、そちらも御覧ください。
7.「二分法思考」や「ゼロリスク信仰」の罠に陥る心理
ここまで述べてきました様に、不安が強い場合には、どうしても明確な割り切りを求めてしまう心理が強くなります。そうした心理状態を表す言葉として「二分法思考」や「ゼロリスク信仰」があります。
二分法思考とは「味方でなければ敵」の様に、中間の存在を認めない考え方です。
ゼロリスク信仰とは「リスクはゼロでなければならない」という信念の事であり、これは「0%でなければ100%も同然」という、二分法思考の一種であると考えられます。
こうした考え方は「思考の労力」を軽減しますので、色々考えるのが嫌な場合に、これらの罠に陥りやすいと言えます。これらの思考法に陥りそうになった場合には「第三、第四の可能性は無いのか」とか「程度の問題なのではないか」とか考えてみるのも有用です。
お気付きの方がいらっしゃるかもしれませんが、この様な罠に陥るのを極力避ける為に、私自身は「グラデーション主義」を採用しているのでした(こちらの記事の最後の方や、こちらのTwilogなども御覧頂ければ幸いです)。
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放射線物質に限らず、農薬も食品添加物も合成洗剤も、同じような構図をとっていますね。
返信削除たしかに、昔は毒性や発がん性や環境負荷の大きいものを使われたことがありましたが、今どき、そんなのは残っていません。
適切に使うことで二次代謝物、食中毒、石鹸などのリスクを回避できるのですが、「総称」で呼ぶことで、わざと「不安」にさせているように感じます。
>mimonさん
返信削除遅ればせながら、コメント有難う御座います。
どうしても「良く解らないもの」「馴染みの薄いもの」に対するリスクは多めに見積もってしまいがちですよね。多くの人に馴染み深い存在になれば、無闇に怖がられる事は減ってくるだろうと思うのですが。