コミケを風疹から守り隊

2012年10月1日月曜日

P02-06: 「科学的に間違っている」はニセ科学批判の中で最も簡単な部分です


初回公開日:2012年10月01日
最終更新日:2015年03月03日


1.ニセ科学批判は「科学的な間違いを指摘する事」だけではない

ニセ科学とは「科学ではないのに科学を装っているもの」です。
ですので「ニセ科学を批判するには、それが科学ではない事を示せば良いのだな」と思ってしまいがちです。そう考えるのは、素直と言いますか、確かに自然な感情だと思います。
しかし、現実のニセ科学問題は、それほど単純ではありません。
その、単純ではない理由について、順を追って説明してみます。

まず、多くのニセ科学は「科学的に間違っている事は自明である」レベルです。ですから、少し科学に詳しければ、ニセ科学の科学的な間違いを指摘する事は、むしろ容易なのです。
例を挙げましょう。


ホメオパシー:「元の物質が1分子も残らないほど希釈された「水溶液」でも、溶けていた時の事を、水が記憶している
水からの伝言:「書かれた文字、もしくは、そこに込められた感情を水が読み取って反応する
EM菌の万能性:「2000度で焼いてもEM菌の効果は消えない。EM菌がγ線を『食う』

いずれも、言葉を飾らずに言えば、荒唐無稽として一笑に付して構わないレベルの妄言です(もう少し丁寧に批判するならば「メカニズム的にもあり得ないし、あるという客観的な証拠も存在しない」となります。もし、それでも「無いとは言い切れないのではないか」とお思いの方は「立証責任」という事を少しお考え頂ければ幸いです。こちらの記事も参考にしてください)。
しかし、それにも関わらず、現実には、信じてしまう人、ハマってしまう人が、後を絶ちません。
そして、信じてしまった人に、科学的な間違いを指摘するだけでは、多くの場合、殆ど効果がありません。
ですからどうしても「科学的な間違いさえ指摘しておけば良い」とはならないのです。

これが、ニセ科学批判の難しさです。
なぜ、信じてしまうのか。
なぜ、そこから抜け出せないのか。
この問題を考える為には、多方面からのアプローチが必要です。人間心理、倫理、道徳、教育、社会構造、そして政治・経済に至るまで、この問いに影響を与えている因子は無数にあります。それらの全てを網羅するのは現実的に無理ですが、少なくとも複数の要素を併せて考えていくべきです。単純に「科学的な間違いを指摘すれば終わり」とは、決してなりません。そこに難しさがあるのです。

但し、大急ぎで付け加えておきますが、科学的な間違いを指摘する事は、決して無駄ではない。それどころか必要不可欠な要素と言うべきです。何故なら、それは「予防」に役立つからです。
上述の如く、既にハマってしまった人に科学的な間違いを指摘するだけでは殆ど効果がありません。しかし、これからハマるかもしれない人、ちょっとだけハマりかかっている人に対しては、科学的な間違いを指摘する事は(一定の)効果があります。
その点は改めて強調しておきます。

2.「地獄への道は善意で舗装されている」という話

この言い回しを聞いた事のある方も多いと思います。これは、ニセ科学問題(と、その他の社会問題)の中でも、難しい要素の1つだと考えています。つまり「科学的な間違いの指摘」以外の要素が、ニセ科学批判の中で重要な位置を占めている事の一例です。「バッタもん日記」の中のこちらの記事が、この問題をとても良く表していると思いますので、御覧ください。
敢えて一言で述べるならば「純粋な善意で行っている人は、自らの正しさに疑いを持たない」と要約できるでしょう。例えば「良かれと思ってやっているのに、なんで批判されなければならないの?」という反応を受けたりします。

これを考えていくと、どうしてもぶち当たるテーマがあります。それは「善意で行った行為の結果は免責されるのか?」という問題です。これはなかなかやっかいな問題で、一筋縄ではいきません。ですので、改めて次項で詳しく述べます。

3.善意で行った行為の結果は免責されるのか?

結論から申し上げれば「免責される場合もあるし、されない場合もある」となります。
あんまりですか?うん、あんまりですね。
それでは、もう少し詳しく述べましょう。

まず、免責される場合を考えます。
例えば、アメリカでは時々「子供が銃をオモチャにして家族や友達を撃ってしまった」事件が報道されます。勿論日本では一般人の銃の所持は認められていませんが、子供が訳も解らず危険な物に手を出して他者を傷付けてしまうという事件が起こる可能性はあります。
こうした行為は純粋な善意ではありませんが「悪気が無い」という点では同じです(全くの余談&私見ながら、通常の言葉としての善意と、法律用語としての善意を足して2で割ると、丁度「悪気が無い」という意味になる様な気がします)。
そうした場合に、この子供を罪に問う事は出来ません。それは「子供だから」という理由もありますが、より本質的には「自らの行為の結果を予測出来なかったから」だと考えられます。
もう少し一般化して述べれば、日本で刑法上の罪を問われる場合は、原則として「意思の存在」が必要です(刑法38条の1)。つまり、故意で無い場合は(法律に特別の規定が無い限り)罰せられる事は無いのです。

次に、免責されない場合を考えてみましょう。
故意ではなく(わざとではなく)行った行為であっても、その行為の結果、他人に損害を与えた場合には、賠償責任が生じる場合があります。端的に言えば「刑事訴訟と民事訴訟の違い」です。同一の事件に対して刑事訴訟と民事訴訟の両方が行われ、刑事では無罪になったけれども民事では損害賠償責任が認められる、という事もあり得ます。
一言で言えば、これは「被害者救済の為」です。たとえ故意が確認出来ない為に刑法上の罪には問われなかったとしても、行為の結果として損害が生じたのが明らかであるならば、被害者に対する賠償責任が別個に生じるという事です。
この事は一般論で考えても、ある程度は理解出来ます。例えば「うっかりして他人のお皿を割ってしまった」場合には、たとえわざとじゃなかったとしても、弁償すべき場合はあるでしょう。それと同じ様な事です。
また、民法の分野で言えば「事務管理」(一般用語としての事務管理とは、かなり意味が異なります)という概念も「善意で行った行為と、それによって発生する責任との関係」を考えるうえで興味深いテーマだと思いますので、興味のある方は調べてみてください。

以上より、責任とは「行為を行った意思」に対するものと「行為を行った結果」に対するものがあると言えます。大雑把に分けるならば、前者を「行為責任(意思責任)」後者を「結果責任」と呼んだりします(「行為責任論と性格責任論の違い」という議論もありますが、そこまで話を広げるのは私の手に余ります)。
更に細かい話をするならば、上記の例では、刑事訴訟と民事訴訟に分け、あたかも「行為責任を問うのが刑事、結果責任を問うのが民事」とクリアーに分解出来るかの様に書きましたが、本当は必ずしもそれほど単純ではありません(例えば違法性そのものを考える場合にも「行為無価値論」と「結果無価値論」という2つの考え方がありますが、これを述べるのは煩雑になりすぎますし、やはり私の手にも余りますので、省略します)。

かなり難しい話になってしまいましたので、なるべく単純化して再度まとめます。責任とは「行為を行った意思」に対するものと「行為を行った結果」に対するものがあるという事です。そして、善意で行った行為の場合でも「前者の責任は免責されるかもしれないが、後者の責任は免責されるとは限らない」となります。

この2種類の責任をきちんと切り分けて論じる事が大切です。この切り分けが出来ないと、感情的な行き違いに発展する危険性が高まると考えます。

4.教育(特に道徳)にニセ科学を持ち込む事の問題

さて、上の方でも折角「バッタもん日誌」の記事にリンクしましたので、教育現場での問題に関しても少し書きましょう。

これは「水からの伝言」に特徴的なのですが「科学的に間違っていても、イイ話なのだから、良いではないか」という意見があります。つまり教育効果があるから良い、という意見ですね。
この意見には幾つか反論があります。最も大きなものは「教育現場で嘘を教えるな」というものです。「水伝」は実験まで行ってみせて「客観的真実」のふりをしながら嘘を教えている。それはマズいでしょう。もし「嘘でも良い」と言うのならば、最初から嘘である事を明らかにして教えてみれば良いのです。それが出来ないのであれば「嘘でも良い」というのは誤魔化しに過ぎません。

この様に書いてくると、更に再反論もあると思います。それは「サンタクロース」や「ザントマン(砂男)」の話です。つまり「嘘を教えてはいけないと言いながら、こうしたものをあたかも真実の様に、教育の場で教えるのは良いのか」という意見です。
確かに、一理ある様にも思えます。特にザントマンは、明らかに子供に夜更かしをさせない為の御伽噺です。こういったものを教えるのは良いのでしょうか。「嘘も方便」と言いたくなりますが、そうしたところで、本質的な反論にはなっていません。

個人的な意見としては、これは「躾(しつけ)」と「教育」の違いに関わってくると考えています。和裁には「しつけ糸」という言葉があります。また言葉の構造を見ても「しつける」=「する」+「つける」という成り立ちだと考えられます。つまり「しつけ」とは「癖を付ける」即ち「習慣化させる」という意味です。習慣化させる事が目的ですから、最初の動機付けとして方便を使うのもアリ(何故それをしなければならないかは、後から考えれば良い)でしょう。
そして、習慣化した後であれば、方便を破棄しても構わない訳です。破棄した後で、その真の意義について、ゆっくりと納得出来るまで考えれば良いのです。
まとめると、方便として嘘を教えても良いのは「しつけ」の場合だけです。そして、その場合には、いつの日か真実を知る事が前提となっていなければならないと考えます。この2点が徹底されれば、教育現場の混乱も多少は解消される様に思います。

つまり、教育現場では「しつけ」と教育の境界が曖昧になっている為に混乱が生じているのではないでしょうか。その根本原因に関しては、家庭の問題なのか、核家族化などの社会の問題なのか、それとも教員不足など行政の問題なのか、様々な要素があると思いますので、この場での断定は避けます。
しかし、いずれにしても「しつけ」と教育との区別は必要です。「しつけ」であれば方便を用いても良い。極端に言えば問答無用になる場合もあるでしょう。「ダメったらダメったらダメ!」という奴です。どうしてダメなのかは、大人になってからゆっくりじっくり考えれば良いのです。
しかし教育となれば、そうはいきません。科学と同様に、根拠と理論が求められます。「どうしてそうなってるの?」と子供に聞かれた時に、キチンと説明出来ない様な事は、教育ではありません。

但し、念の為に付け加えておきます。私は決して「しつけと教育はクリアーカットに2つに分けられる」などと言いたいのではありません。普段から二分法的思考を戒めている身としては、むしろ「しつけと教育とを明確に分ける事は出来ない」と言いたいところです。
これは「科学と非科学のグレーゾーン問題」と類似した構造です。白と黒とがグレーのグラデーションを挟んで連続的に変化しており明確な境界を定め難い場合であっても、明確な白と明確な黒とを区別する事は可能ですし、その区別には大切な意味があるのです。

改めて申しますが、ことほど左様に、ニセ科学批判では「科学的な間違いを指摘する以外の部分」のウェイトが大きいのです。「科学的な間違いを指摘すれば終わり」なのであれば、そんな楽な事はありません。

5.おまけ(掛け算の順序問題について)

前項の終わりの部分を見てピンと来た人もいらっしゃるかもしれませんが、今回の記事を書いているうちに「掛け算の順序問題」(当ブログでも以前こちらの記事で取り上げています)とは、まさしく「しつけ」と教育の混同が起こっている事例(の1つ)ではないか、と考えるに至りました。

つまり、掛け算の順序とは、
まず、教える側が「掛け算の順序」を導入の為の方便(=しつけ)である事を理解していない。
教えた通りの形式で出来る事が教育だと勘違いしている(しつけとの区別が付いていない)。
だから、習慣化した後ではさっさと破棄すべき概念である事も理解していない。
それどころか、方便を真実であると言い張る為の屁理屈を一生懸命こね回している。
その結果、大人になっても「掛け算には順序がある」という考えのままの人が散見されてしまう。

こんな風に考えています。
言い換えれば、大人になっても掛け算に順序があると信じている人は、大人になってもサンタクロースの存在を信じている人と一緒です。但し勿論、必ずしも本人の責任ではありませんので、馬鹿にする意図はありません。誰からも教えて貰えなかったというだけの事ですから。
そして、掛け算に順序があるという理論武装を一生懸命している教育関係者は、サンタクロースの実在を(シャレではなくマジで)証明しようとするイタい人と一緒です(爆)

6.謝辞

今回は、何よりも「バッタもん日記」のlocust0138さんに御礼申し上げます。本文中にリンクした記事にインスパイアされたおかげで、今回の記事を書き上げる事が出来ました。
また、菊池誠さんや、その他のニセ科学批判をなさっている方々に、改めて心から慰労申し上げます。


7.おまけのおまけ:しつけと教育と体罰の違い

2013年1月末現在、大阪市立桜宮高校での「体罰」による自殺や女子柔道での監督・コーチによる暴力行為が問題になっています。上述した様に、私はしつけと教育は別々のものと考えていますが、体罰はしつけとも教育とも異なるものです(但し繰り返しますが、グレーゾーンを挟んだグラデーションは存在すると考えます)。
そこで、改めてこれらの違いについて述べたいと思います。

1)「しつけ」とは
「しつけ」とは前掲の通り「癖を付ける事」です。つまり条件反射的に行動できるのが目標です。理由は、後から教えたり自分で考えたりすれば良いのです。ですから時には問答無用になったり、強制力を伴ったりもします。
例を挙げましょう。
乳児や幼児が、熱く焼けたストーブに触ろうとしたり、コンセントに指を突っ込もうとしたりした時に、周囲の大人は止めるでしょう。咄嗟の事であったり、どうしても言う事を聞かなかったりした場合には、力ずくでも止める筈です。これは「しつけ」です。子供は、力ずくで止められる事に恐怖を覚えるかもしれませんが、それが「焼けたストーブに触る事やコンセントに指を入れる事」に対する恐怖である限りは、正当化されると判断します。

2)教育とは
教育とは「教え育てる事」です。そこには本来「怒る」という要素はありません。確かに、何度教えても出来ない場合など、どうしても怒ってしまいたくなる時もあるでしょう。それは人情としてやむを得ないものだと思います。但し、それは教育の本質とは別なのです。
増してや、教育に暴力が介在する必要性はありません。
念の為に付け加えますと、学校という場所には教育の要素と管理の要素が同居し混在していると考えています。それが問題を複雑にしている大きな要因の1つではないかと推測します。

3)体罰とは
体罰とは「管理の為の暴力」です。体に罰を与えるのですから「罰を受ける様な行動を再び起こさない様にする事」が目的です。そこには体罰を受ける側の人格形成とか能力開発とかの視点が欠けています(純粋な能力開発の為であれば、おそらく体罰を含まないトレーニングプログラムの方が効率が良い事でしょう)。
管理する側からすれば「管理出来なかった相手が管理出来る様になる」のですから、体罰は有効であると感じられるでしょう。しかしそれはあくまでも「管理」であり、教育でもなければ「しつけ」でもありません。

少し解り難いかもしれませんので、体罰と「しつけ」における強制力との違いを述べておきます。「しつけ」における強制力は、条件反射を身に付ける為のものです。そして、先に述べた例でも解る通り、それを行使したのか「本人の為」である点を合理的に述べる事が出来ます。ですから本人がある程度の思考力と判断力を身に付けた際には、その合理性を説明する事が可能になります。
しかし体罰にはそれがありません。「オマエの為に殴ってるんだ」と言いますが、何故それが「オマエの為」なのかを合理的に説明する事が出来ません。それは(繰り返しますが)体罰の本質が「管理する為の暴力」だからなのです。そして体罰には条件反射の要素はありません。「体罰を思い出して嫌な気分になり、それを避ける為に言う事を聞く」という行動はあるでしょうが、それは条件反射とは別のものです。


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7 件のコメント:

  1. PseuDoctor様

    ご紹介ありがとうございます。
    疑似科学を信じる人と議論してみて、何となく共通点があるように感じていたのですが、それが何なのかは上手く説明できませんでした。
    記事中に書いたように、学会でトンデモ発表を見て、共通点は「善意」だとようやく気付きました。
    これにより疑似科学信奉者の言動が色々と腑に落ちました。

    疑似科学については9/30にも記事を書いておりますので、そちらもご覧下さい。

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    1. >locust0138さん
      いらっしゃいませ、コメント(そしてリンク元の記事)有り難うございます。
      9月30日付の記事も拝見しました「自己責任では済まない」との御意見、確かにその通りだと思います。親子関係に限らず、他者に影響を与える様な言動を行っておきながら「自己責任」を免罪符にするのは、おかしいですよね。
      で、ここでもやはり「善意」の問題が顔を出すのです。何故なら、自己責任と併せて善意も免罪符として使われる事が多いからです。例えば「私は貴方の為に良かれと思ってやった。貴方だって『それは良さそう』と言っていたではないか」という様な言い分は、まさしく「善意と自己責任の合わせ技」だったりします。このコンボはなかなか強力なので、予め準備しておかないと反論は難しそうです。

      さて、医療の観点から1つだけ指摘させて頂きます。locust0138さんは「自然出産=病院以外での出産」と捉えておられる様ですが、この表現はいささか不正確だと考えます。何故なら(自宅出産は論外ですが)助産所での出産も必ずしも否定されるべきものではないからです。シンプルに述べれば、1)妊娠経過が順調であり、2)病院との密な連携の下で万一の場合には速やかに搬送される、という条件がキチンと満たされていれば、助産所で出産しても良いと考えます。逆に言えば、これらの条件を僅かでも満たさない場合には助産所で出産すべきではないと考えます(まさしくその点こそが、現状で助産所が抱えている大きな問題点なのですが)。
      ですので、もし添削させて頂けるのであれば「病院以外の場所」を「病院(もしくは病院と密に連携している助産所)以外の場所」となされば良いかな、と思います。差し出がましいですが、御検討ください。

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  2. トラックバックを http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20121003/1349199256 から頂きました。この方は確か、以前の掛け算エントリの時にもリンクを張ってくださった(当時はまだトラバを受けられない状態でした)ので、その際にもエントリを拝見しました。
    結論から述べると、前回の記事も、今回の記事も「何が書いてあるのか非常に解り難い」です。この方はどうやら大学関係者(という事は教員を養成する教育学部の人?)らしいです。そして、掛け算に関しては「乗数と被乗数との区別をつける派」の様ですが、これほどまでに論旨の不明瞭な文章ばかり書いていて、果たして普段、大学生に何を教えているのか、とても心配になります。
    どうしてこれほどまでに論旨が解り難いのかと言うと、大きな要因に「自分自身の意見が殆ど述べられていない事」があると考えます。幾ら丁寧に読んでも、書き手自身の意見が明確に述べられている部分が全くと言って良い程存在せず、言葉の端々から推測するしかない状態です。「誰々はこう言っている」というのも確かに大事ですが、普通はそれを受けて「自分はこう考える」という事を(出来ればきちんと筋道立てて)書くものです(少なくとも私は、小学校でその様に習いました)。こういう文章は読んでいて非常に疲れるし、イライラしますね。
    そういう文章を書いていながら一方では、例えば
    >上の文章を読んで,「そうだそうだ」と思う人が一定数いるんだろうなと思いながら<
    の様に、嫌味は「自分の言葉として述べている」訳です。主張は借り物の言葉でしか表現しないのに、嫌味や皮肉だけは自分の言葉で仰っています。

    そしてもう1つの要因は、文意を適切にまとめる事をせず、だらだらと書き連ねている点にあります。「これまで書いてきた自分のエントリを見直した」結果がこれだと言うのですから「で、結局何が言いたいの?乗数と被乗数を区別しろって言いたいだけ?」となってしまいます。私は、算数も数学も、本質は「論理の積み重ね」だと考えています。ですから、筋道立てた文章を書けない人が算数教育に関わっているというのは、どうにも出来の悪いジョークにしか思えません。

    少なくとも私の意見は前回の記事で殆ど述べ尽くしてあります。そして今回の記事を拝見した限りでは、その私の主張に対する有効な反論は無い様です。敢えて挙げるなら
    >論拠は「頭の中」と「Webの情報」であり,信頼の置ける研究(そして現場教育の)成果に基づく,かけ算の指導や算数教育の「書籍」「論文」はないのだな<
    という部分でしょうが、これとても御本人は「感想」だと仰っているので、マトモな論理に基づいた反論は無いとみなしても差し支えないでしょう。一応軽く反論しておくと「私は、私自身と何人もの人が乗数と被乗数の区別を付けずともキチンと学べた事を実例として知っている。大切なのは教わる側が理解できるかどうかであり、教える側の正当化や自己満足には意味が無い。その意味で、指導する側の一方的な屁理屈をこね回しただけの書籍だの論文モドキだのには価値を見出せない」となります。
    それから、この方はWebの情報は軽視する一方で、論文だけでなく書籍も論拠として認めている様ですから、高橋誠著「かけ算には順序があるのか」(岩波書店, 2011)を論拠として挙げておきましょう。
    それにしても、どうしてこの問題になると、こういう「訳の解らない屁理屈」を振り回す人が出てくるのでしょうか。

    ちなみに、この方のブログに関する、カワバタヒロトさんと黒木玄さんの評価はこんな感じ。私とほぼ同意見だと思います。
    https://twitter.com/Rsider/status/253754239061458944
    https://twitter.com/Rsider/status/253754635729399809
    https://twitter.com/genkuroki/status/253752193633615872
    https://twitter.com/genkuroki/status/253758381511286784

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    返信
    1. 黒木玄さんに教えて頂きました。教育学部ではなくシステム工学科の方だとの事。
      https://twitter.com/genkuroki/status/255542239873343488
      御指摘ありがとうございました。

      削除
  3. 当記事に対して、Mochikmasaさんが幾つか批判的Tweetをなさっています。Twitter上で反応しても良いのですが、Mochimasaさんに対するメンションだと両方をフォローしている人にしか見えません。わざわざ非公式RTにして反応すると字数制限が厳しくなってしまうし、そもそもブログ記事に対する批判なのだから、こちらの言い分はここに書かせて頂いたうえで、Mochimasaさんにはその旨をお知らせしておきましょう。
    例によって、TweetのURLを示した上で内容を引用し、それに対する当方の意見を書きます。また今回も引用部分は「>」と「<」で囲みます。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255019891021717505
    >「科学的な間違いを指摘する事」が「必要不可欠」であるというのはいいとして、それが予防的効果以外は殆ど無いとするのは何かしらの証拠に裏付けられているのか。 / “PseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味: P02-06: 「科…” http://htn.to/EU1cLK <

    証拠と言う程のものは別に無いです。多少なりとも言えるのは経験だけですね。私自身と、私の知る何人かの人の経験。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255020831799914496
    >「科学的に間違っている」がハマってしまった人にあまり効かないってのは経験上、そうだけと思うけど、それを言うなら他のあらゆる手段もハマってしまった人には効きにくい傾向にあるのでは? という気がする。<
    https://twitter.com/Mochimasa/status/255021644450516994
    >というか、「ハマっている人が説得しづらい」ってのは「虚弱な人は病気になりやすい」「金持ちの預金残高は多い」ってのと同程度に無意味な言及で、焦点はアプローチ間で効果に差があるか、それが対象のハマリ度とどういった関係にあるかにあるのだろう。<

    「気がする」レベルの話にあまり食い付くのもどうかとは思いますが「他のあらゆる手段も」は言い過ぎではないかと。例えば、単に間違いを指摘するよりは「ハマってしまう心理」を考慮に入れたアプローチの方が有効性は高いと思います。いや、定量的なデータは持ち合わせていませんが、メカニズム的に考えるならば「アプローチ間で効果に差がある」と私は考えています。しかし実際にこれを検証するのは大変です。何故なら、対人的なアプローチの場合、複数の要素が混在している事が普通だからです(これは相手方も同様)。ですから、単一の要素を抽出してその影響を比較するというのは著しく困難です。
    但し、私がこの記事で本当に述べたかった事は「科学的間違いの指摘は他の手法に比べて有効性が低い」という事では「ない」のです。科学的間違いの指摘は有効かもしれないし無効かもしれない。その他の手法も有効かもしれないし無効かもしれない。ですから少なくとも「ニセ科学批判なんて、科学的な間違いを指摘すれば終わりじゃん」というのは間違っている。それが一番言いたかった事です。
    ですから敢えて言うならば「科学的な間違いを指摘しても殆ど効果はありません」は「科学的な間違いを指摘するだけでは殆ど効果はありません」と書いた方が良かったですね。その様に本文(の2箇所)を修正しておきます。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255022070860234752
    >そういったかなり定量的な問題を議論するには、もはや「経験上」の一言では心もとない。某かのデータがないと怖くて言及できないレベル。それが「科学的に間違い」という批判を軽んじるべきではないとする根拠1。<

    既に述べた通り、私の論拠は「メカニズム論と、それを裏付ける形での経験」から成っています。それも私だけではなく、他の人の経験も合わせてです。「心許ない」と言われればそれまでですが、単なる個人的経験ではダメでも、それを集積していけばデータに成り得ると考えています。
    それと、まぁこれは見解の相違と言われてしまえばそれまでですが、私は決して「科学的に間違い」という批判を軽んじているつもりはありません。「必要不可欠」とまで(わざわざ大急ぎで)述べているのに、それを「軽んじている」と言われるのは残念です。おそらく「予防に役立つだけではない」と仰りたいのでしょうが、それに関しては既に述べた通りです。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255023843666698240
    >根拠2はガードの固い急所に固執するより、ガードが甘い別の部分を「攻撃する」のがトータルでは効果的なのではないかということ。少なくとも、ニセ科学をどれが欠けてもそれが成立し得ない複数のパーツに分けられるとしたら、一番壊しやすい部分をターゲットにするのが得策である。<

    う~ん、これに関しては何とも言えません。私がMochimasaさんの主張を捉え損なっているのかもしれませんが、少なくとも私は「ニセ科学批判はニセ科学信奉者とのディベート合戦ではない」と考えています。もう少し違う言い方をすれば「論破」と「納得」とは別だという事です。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255025969335767040
    >「科学的に間違っている」的批判は効果が薄いというなら議論の余地はあるが、効果がないというなら(そんな人がいるのか知らないが。)それは批判の仕方が悪いんじゃないか。少なくとも私は信じてたけど、理屈に合わないから/批判の理屈に部があるから信じるのやめましたって人を二人は知ってる。<
    https://twitter.com/Mochimasa/status/255026412736634881
    >たった二人は少ないというかもしれないが、じゃあ「倫理的に間違ってる」からという理由でニセ科学を放棄できた人は何人いるのかと問いたい。<

    これは私の記事に対する御意見なのかな?違う様な気もします。この間に別の方とメンションの遣り取りをなさっている様ですし。
    少なくとも私は「効果が無い」と言い切ってはいませんから。それと「批判の仕方」にまで言及するのであれば、それは対人的アプローチのテクニック論に含まれる話ですから「単なる科学的間違いの指摘」からは逸脱していますね。即ち、まさしく私の主張と合致する内容です。
    それからいつの間にか「科学的な間違いの指摘」vs「倫理的な間違いの指摘」の二項対立みたいな論調になっていますが、これも、私はそういう主張はしておりませんので、おそらく別の方との議論なのでしょうね。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255027970207518721
    >つまるところ、実際にどのアプローチをとろうと勝手なわけだが、あれが有効とかこれは無効とか言われたら、それに反論するのもまた勝手だろう。<

    勝手という言い方は好きではありませんが、まぁどんな形で行おうと自由ですよね。その点は以前の記事 http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com/2012/03/p02-05.html でも明確に述べました。勿論、反論するのも自由ですし、再反論するのも自由です。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255028763908255744
    >重要なのは「科学的に間違っている」論は、決着のつけようがあるが、他のアプローチ、例えば「倫理的に間違っている」論はそうとも限らないということ。<

    その通りです。ニセ科学問題における「科学的に間違っているかどうか」は既に結論の出ている論点です。だからこそ、そこを指摘するのは簡単なのです。そして、他のアプローチは決着がつくとは限らない。だから簡単ではないのです。

    https://twitter.com/Mochimasa/status/255029615188398080
    >「水を倫理の指標にするのは間違い」ってのは私たち"真人間"からみれば正論だが、世の中には近代的人権思想もないころの古代人が書いた聖書やコーランを倫理の指標として悪逆非道を働いているある意味同類の人が無視できないくらいいるわけで、それを説得する有効な手段が存在するとは考えにくい。<

    これも(異論はあるかもしれませんが)考えの大筋としては合意します。つまり、とても難しい問題なのです。繰り返しますが、だからこそ「科学的な間違いの指摘」は「最も簡単な部分」だと言いたい訳です。

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  4. 「科学では全くない」+「科学を完全に偽造している」という両方を満たして
    初めて「真っ黒だ」と言うことが正当化されるんですよ。

    前者だけでは駄目なのに、前者だけを取り出して「真っ黒だ」と断定しようと
    するところが「ニセ科学『批判【派】』」は全く駄目ですよね。

    ------
    安西「特別刑法7」P243
    刑法の偽造・変造と本法の模造とは、
    前者が一般人において通常の注意力をもってしでも真正なものと誤認する程度に達した外観を具えたものを作出することをいうのに対し、
    後者がその程度にまで至らない、すなわち、一般人が通常の注意力を働かせれば真正でないことに気付くような外観のものを作出することをいう点が異なる。
    誰が見ても直ちに本物との差異を容易に発見できるほど玩具的な(俗にいう「チャチ」な〉ものを製作するのは、模造にも当たらない。
    ------

    【(本物の)ニセ科学】=「偽造」=「騙されても当たり前のレベル」=【捏造】
    【模擬科学】=「模造、玩具」=「うっかりしていると騙されるかもね、くらいのレベル」=【(ニセ科学批判派の言うところの)ニセ科学】

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    1. いらっしゃいませ、コメント有難うございます
      …と言いたいところですが、他所にも同じ様なコメントをしておられますね。例えば http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2011-01-25 とか。
      もうそれだけでマトモにお相手する必要性を感じませんし、上記ブログでpoohさんが書いておられる内容に私も同意するのですが、まぁそれでも折角お越し頂いたのだから、一度だけお返事しておきましょうか。

      ニセ科学の定義じみた事をお書きの様ですが、そこまで仰るからには、拙ブログにおける「ニセ科学の(一応の)定義」 http://pseudoctor-science-and-hobby.blogspot.jp/2011/05/p01-01.html くらいは当然お読みなのでしょうね。
      いや勿論、お読みでないのは解っています。仮にも読んでいれば、こんなコメントを書ける筈が無いですからね(まぁお書きの内容がほぼコピペだから、しょうがないのでしょうが)。もっと言えば、今回の記事を読んだだけでも
      >前者だけでは駄目なのに、前者だけを取り出して「真っ黒だ」と断定しようと するところが「ニセ科学『批判【派】』」は全く駄目<
      が的外れである事は解りそうなものですがねぇ。
      という訳で「記事の内容を無視した(ほぼ)コピペのコメントを貼り付けて回ると、いらぬ恥をかく羽目になる実例」である点を御指摘申し上げました。

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