初回公開日:2012年10月21日
最終更新日:2012年10月28日
(2012年10月28日追記:こちらの記事に関して幾つかの反応があり、また古田さん御本人も追加のTweetをしていらっしゃいます。それらの点を踏まえて何点か追記を致しました。括弧で括り冒頭に追:と表示した部分がそうです。また「7.その後の展開」を追記しました)
1.はじめに
今回の記事は、こちらのTogetter「科学報道を殺さないために-研究機関へお願い」を読んだ感想です(こちらのTogetter「科学報道のありかた」も参考に致しました)。最初はTogetterのコメント欄に書こうかとも思ったのですが、例によって思いの外長い文章になってしまったので、エントリにしました。
最初にお断り申し上げます。
私は古田さんを個人的に存じ上げている訳ではありませんので、古田さん御本人に対しては、何も含むものはありません。あくまで、人格ではなく御意見に対して、思うところを申し上げます。
(追:この様に書いた理由は、古田さんは個人として発言されていますので、所属機関の意見でもなければ、増してやマスコミ全体を代表する意見でもないからです。こういう場合にはどうしても個人の意見を、全体を代表する意見の様にみなして批判しがちです。ですから私自身に対してそれを戒める意味もあります)
2.古田さんの御主張
Togetterから読み取れる古田さんの御主張は、幾つかある様です。
最初に「大学や研究機関が研究発表・取材を一元管理」する事に反対しておられます。
その理由として「記者の判断は,研究者の話を聞く中からしか生まれ」ない事と「あさっての方向に行っちゃった研究者が自らマスコミに接触するのは防げません。記者を鍛えるしかないのです」を挙げておられます。
一方で「理系出身の記者、研究経験のある記者を増やすのは大賛成ですが,そこが本質ではありません」と仰います。
そしてその理由として「博士号を持った方でも、論文やリリースを読んで判断し、記事を書ける分野は限られ」る事と「科学はどんどん先へ進み、学生時代の知識は古くな」る事を挙げておられます。
結局、古田さんが目指す研究者との関係とは「気がつけば6時間、8時間ということもザラにあり、空腹か疲労でバテるまで続きます。そういう取材を何度かしていると、咄嗟に携帯に電話できる関係になります」といった関係になる事らしいです。
3.御主張に対する幾つかの疑問点
1)大学や研究機関が研究発表を一元管理するのはダメなのか?
コメント欄でも指摘がありますが、そもそも一元管理は、忙しい研究者が取材対応に忙殺されるのを防止する為の方策という意味合いもあった筈です。古田さんの主張は、これに真っ向から対立するものです。
前項の最後に書いた通り、古田さんは「研究者の時間を6~8時間も取るのがザラだったり、いきなり携帯に電話したりできる」関係を持ちたがっている様ですが、それって、自分の都合で相手の時間をそれだけ奪っているという事を自覚していらっしゃるでしょうか?
しかも、研究者側は、それだけの負担をしても、基本的に無報酬ですよね?
「科学記者として」そういう関係を目指すのであれば、それは「全ての科学記者は、その様にすべきだ」というのと殆ど同義でしょう。そうしたら一体どうなりますか?全ての科学取材にそれだけの対応をしていたら、極めて高い確率で、その分だけ日本の科学研究は遅滞するでしょう。
そこまで考えた上で、主張なさっているのでしょうか。
それとも「科学記者は絶対数が少ないから、そこまでの状況にはならない」という事でしょうか。もしも科学報道の実態がそうだとしたら、それはそれで大きな問題だとは思います。
勿論、寝食を忘れ何時間も取材に専心する古田さんの熱意と努力は素晴らしいと思います。これは本当にそう思います。
しかし(これは科学報道に限らず全ての報道に関して言える事ですが)取材対象に対する配慮と思いやりも、常に忘れないで頂きたいと思います。
これは私からのお願いです。
一方で「広報を通じて以外の接触も認めて欲しい、ハードルを上げないで欲しい」という御主張に関しては、限定付きですが同意致します。その限定とは何なのかは、記事を最後までお読み頂ければ解ると思います。
(追:ここの部分は再度強調しておきたいのですが、私は決して研究者に話を聞く事を否定しているのではありません。むしろ必要だと思っております。ただそれを無制限に拡大する様な事は控えて頂きたいという気持ちがあります。古田さん御本人は論文も読み研究会にも出席され、そのうえで研究者にも話を聞かれていると理解しました。古田さんに共感する人は、その御努力を評価されているのだと思います。一方で、反発を覚える研究者の方には、古田さんほど努力も勉強もしていない記者に悩まされた経験があるのではないかと考えます。その部分が、すれ違いの大きな原因になっている様に感じます)
2)記者の判断は、研究者の話を聞く中から「しか」生まれないのか?
古田さんは、全体を通じて「研究者に直接話を聞く」事を最も重視されている様です。確かに記者として、そこは大切なのでしょう。しかし、科学報道においては必ずしも最重要とは限らないと考えます。
私見では「科学」記者として最も大切な事は、最新の学術論文(査読を受けた論文)を読み込む事だと思います。
その様に考える最大の理由は、最新の学術論文こそが、学術界のトピックスだからです。一般的に、学会発表は玉石混交であり、しかも明らかに石の方が多いです。これはある意味当然で、未だ論文にならないレベルの研究、予備段階のもの、あるいは海のものとも山のものともつかない状態のものすら学会発表される事があるからです。しかしマトモな学術論文では、そうはいきません。(詳しくは前回の記事を御覧ください)。
つまり学会発表レベルでは、極端な話「ああ、何かそういう事を言ってる人も居るらしいねぇ」程度の話でしかない場合も多いのです。にも関わらず、そのレベルの内容を発表者(最大の利害関係者)の話に基づいて記事にしたりしてますよね?
そういうやり方が背景にあるから、例の「森口氏によりiPS細胞の臨床応用が捏造された事件」が生まれたのではないでしょうか。
但し、これは「科学記者としての古田さんは、森口事件に関しても責任(の一端)がある」という意味ではありません。
何故なら、森口事件の本質は「科学報道のあり方」という程のものではなく、それ以前の問題だからです。即ち「利害関係者個人の言い分だけを鵜呑みにして、ロクに裏取りもせず大々的に取り上げてしまった」という点が本質だと考えるからです。
(追:古田さんに対する批判意見の幾つかに感じた事ですが、一般紙の報道と科学誌の報道とをあまり区別していないものが見受けられます。当然ながら一般紙と科学誌では求められるレベルが異なります。古田さん御自身は新聞記者の経験もあるので通じる部分も多々あるとお考えの様ですが、それでもこれらを同一視して批判するのは、良い方法とは思えません。これは私自身も大いに反省すべきところです)
話を戻します。
これも完全な私見ですが、私は、科学記者の最も基本的かつ大切な仕事とは、最新の学術論文(=学術界の最新トピックス)を読み込み、そして、その内容を解り易く紹介する事だと考えています。その為には何よりもまず、最新の論文を読まなければ何も始まりません。なのに論文の読み込みを軽視して(言葉は悪いですが)研究者の話を聞いて「お手軽に」済ませようとしている様にも見えます。
これは非常に重要なポイントですので、項を改めて再度述べます。
3)「記者を鍛える」とは何を意味するのか?そして、何の為?
「記者を鍛えるべき」という御意見は、ごもっともですし、とても立派な態度だと思います。しかし、何の為に「鍛える」のかには疑問が残ります。どうやら古田さんは「おかしな事を言ってくる研究者に騙されない為に(も)」鍛えるべきとお考えの様です。
しかし、その考え方には同意できません。
そもそも、マトモな研究者なら、論文にすらなっていない研究成果をいきなりマスコミに売り込む事などしません。つまり、その時点で怪しいという判断が出来る筈です。これは別に研究者と話をしなければ鍛えられない様な能力ではありません。印象論で恐縮ですが「自分から売り込んでくる奴は、まず疑え」ってのは、記者としての基本姿勢ではないのでしょうか。増してや相手が研究者の場合には、そうした疑いは極めて強いものになるべきです。
ですので(専門の記者さんに対して失礼千万とは存じますが)どうも、鍛える目的のベクトルがずれている様な気がして仕方がありません。
4)「博士号を持った記者、研究経験のある記者」の価値とは何か?
古田さんのお考えだと「博士号を持った記者でも、論文を読んで記事にするのは自分の専門分野でしか出来ない」「専門分野でもすぐに進歩してしまうから更に書けなくなる」とお考えの様です。
なるほど、博士号にその程度の価値しか認めないのなら、確かに採用するのは無駄ですね。
皮肉な書き方をしたのは勿論「博士号の価値は、そこではない」と考えているからです。
では、博士号の価値とは何か。
博士号を持っているとは、博士論文を書いた経験があるという事です。論文を1本書く為には、関連分野の論文を少なくとも数十本読み、それらのエッセンスを絞り出す必要があります。つまり博士号所有者は「論文を読んでそのエッセンスを絞り出す」訓練を受けているという事です。たとえ分野が異なっていても、論文の書き方には通底する部分が多いので、この能力は決して無駄にはなりません。ですから「分野が異なる」「科学はどんどん進む」という返答は、いささか頓珍漢に思います。
結局、ここでも「学術論文を読み込む事の重要性」がキーになってくると考えます。
そこで次項では、その点について述べます。
4.「学術論文を読み込む」事の重要性
既に述べた通り、学術界の最新トピックスは学術論文です。ですから、学会発表レベルで大騒ぎするのは異常です。あるいは、研究機関からのプレスリリースですら、これこれの論文として発表された(あるいは、既に発表が確定している)という裏付けの無いものは、眉に唾を付けて聞くべきです(但し、その様なプレスリリースが実際に存在するのかどうかまでは存じません)。
増してや、研究成果(と自称するもの)を自分からマスコミに売り込んでくる研究者など、基本的に門前払いすべきでしょう。
勿論、学術論文になったから全面的に正しいなどという事は有り得ません。
しかし、学術論文の内容に対する検証・批判・反論等もまた、論文により行われるのが基本です。ですから、常に最新の論文に目を通しておく習慣があれば、誤りを修正するのも可能な筈です。
さて(あくまで個人的な意見ですが)ここで、私が最も本質的だと思う事を書きます。
と言っても、既に述べた内容の繰り返しです。
私は、科学記事の本質とは、最新の学術論文を読み込んで、その内容を解り易く読者に紹介する事だと考えています。そういう記事こそが、科学報道の本流になるべきです。
「それじゃスクープが取れない」ですって?
いやいや、事件報道じゃないんですから、科学記事に極端なスクープなんて不要です。何度でも書きますが、学術論文にすらなっていないものは、未だ科学的検証のスタートラインにすら立っていない状態です。ですから、その段階でマスコミが取り上げるのは「スクープ」というよりむしろ「飛ばし」と言った方が近いのではないかと思います。
そして、それは読者のニーズにも合わない筈です。
そもそも、読者が「科学記事」に求めているものって、何でしょう?
「最新の科学の成果を解り易く紹介してくれる事」ではないでしょうか。
であれば「最新の学術論文を読み込んでその内容を解り易く紹介する事」こそが、読者のニーズに応える事の筈です。
そして、そういう記事を書く様にしていけば、研究機関側の発表の一元管理とかは、あんまり関係無いので、割とどうでも良い話になっていく訳です。ですから、古田さんの御懸念も(少なくとも一部は)解消されるでしょう。
繰り返しますが、古田さんは「研究者に話を聞く事」をあまりにも重視し過ぎていると感じます。その一方で、論文に関しては「わからなくても論文を眺め」と書かれています。これはとても印象的な言葉だったので「あぁ、この方にとって論文とは『読み込む』ものではなく『眺める』ものなんだなぁ」と、妙に腑に落ちてしまった位です。
しかし、そこで納得している場合ではありませんね。
論文を「眺めて」終わりにしてはいけないのですよ。
もし「難しくて解らない」のなら、その論文は一旦脇に置いても良いですから、イントロダクションの部分で引用されている論文などの参考文献を参照すべきです。何故なら、そこには背景になった、より基礎的な研究成果について書かれている筈だからです。それを参照しても解らなければ、参考文献のイントロで引用されている参考文献を更に参照し・・・と何段階でも辿っていく事が出来ます。と言うか、その様にして背景の研究を辿れる様にしてあるのが、良い論文の特徴です。
そして、そういった孫引きの手法まで含めた論文の読み解き方もまた、博士号持ちや研究経験者であれば身に付けていてしかるべき能力です。そういう意味も含めて、博士号持ちの記者は重要だと申し上げている訳です。
論文を読み込んで読み込んで、参考文献まで当たって、それでもどうしても解らない部分に関しては、専門家に訊ねるというのもアリでしょう。そうやって、予め解らない部分を絞り込んだうえで訊ねれば、相手の時間を何時間も拘束する事も減るでしょうし、遣り取り事態もより濃密なものになると期待出来ます。また、当該の研究者本人に聞く必要もなく、同分野の専門家に対する人脈があれば足ります。
研究者の方だって「良い記事の為であれば可能な限り協力する」という人も多い筈だと信じます(但し、ボランティアで出来る範囲には自ずから限界がありますが)。そして、たとえ同分野とはいえ、他所の研究者の話に限るのであれば、必ずしも広報を通す必要も無くなるでしょう。
先に「限定付きで同意」と書いたのは、そういう意味です。
もしも、もしもどうしてもそういう方向に行かないのなら、その場合には、冷たい様ですが、たとえ「科学報道が死ぬ」と言われたところで「そうですか。それは御愁傷様ですね」と思うだけかもしれません。
(追:やはりこの部分が最も議論になるところだと思います。古田さんは「論文を読んだだけでは解らない事を記事にするのが重要」と仰っていて、一見するとこれは私の主張と対立するかの様に思えます。しかし改めて考えてみると、古田さんの御主張は、論文の内容紹介は前提になっている様にも見えるのですね。何故なら、論文の内容に触れずして「何故その論文が重要なのか」を述べるのは殆ど不可能だと思うからです。即ち、古田さんの御主張は、論文紹介は当然の前提として、そこに如何に付加価値を付けていくかに腐心しておられるのだと思いたいです。おそらくそれは、記者としてのプライドとアイデンティティに関わる部分だとお考えなのかもしれません。単に論文の内容を紹介する「だけ」では物足りない。そういう心意気でやっておられるのであれば、私も大いに賛同し応援したいです)
5.頑張っている記者さん達へのエール
今回は何だか「科学記者」への批判みたいになってしまいましたが、冒頭にも書きましたとおり、私は古田さん個人に対して、何も含むところはありません。あくまで人格ではなく御意見に対して、申し上げたつもりです。
増してや、個別の記者さんを批判する意図はありません。私も、最近のマスコミ全体に対して言いたい事は山の様にありますが、それを記者さん個人にぶつけるのは筋違いだと思うからです。
むしろ大切なのは、組織体制やユーザーからのフィードバックだと思います。
偉そうに言っておいて何ですが、仮に、現状で、私が上で述べてきた様な「私が理想とする科学報道」を実践しようとすれば、おそらく社内ではあまり評価されないのではないかと危惧します。ですから、組織体制を改善する必要があります。そしてその為には、ユーザー(読者)からの意見(フィードバック)が大事だと考えます。
その意味では、現実に頑張ってる記者さんが何人もいらっしゃいますので、その方達を応援し続けていく事は、大切だと思います。
ちょっと科学報道そのものとは外れるかもしれませんが、個人的に注目している記者さんを挙げるとすれば、毎日新聞の斗ケ沢記者、石戸記者、朝日新聞の長野記者あたりでしょうか。どうか、これからも引き続き頑張って頂きたいと思います。
そして勿論、古田さんの今後の御活躍にも期待しております。これは、決して皮肉ではありません。
私は、頑張っている記者さん達を応援しています。
6.謝辞
今回はまず、古田さんに御礼を申し上げます。言い難い空気があったかもしれませんが、そうした中、勇気ある発言をしてくださったおかげで、この記事を書く事が出来ました。
そしてまた、いつもの様に、ブログやTwitterで示唆に富む記事や発言を提供してくださっている多くの方々に、心から感謝を申し上げます。
7.その後の展開(この項全体を10/28に追記しています)
この記事を書いた後で幾つかのブログ記事が書かれました。そうした記事に対して、少し書いてみます。なお、はてブコメに関しては、従来通りコメント欄で取り上げる事に致します。
1)aggren0xさんの「aggren0xの日記」「雑感2」で言及を頂きました。
>基本的には同意でして、もうちょっと短くまとめて言うと「NewYork Timesとかみたいにやって欲しい」ってことだと思いますがいかがでしょうか<
そうですね。ぶっちゃけて言ってしまえば、そういう事です。あまり「欧米(英語圏)を見習え」みたいな言い方をしたくなかったので、そこはちょっと濁してしまいましたが。
で、この事は、海外発の科学報道が日本に紹介された場合を見ても感じ取れるのですね。報道の発端と言うかメインテーマが「○○という論文が出た」であるケースがとても多いと感じます。日本の科学報道もその様に、論文の紹介から始まって、それがメインになれば嬉しいなぁ、と思います。
ただ、言葉の壁は非常に大きいですね。記者も、研究者も、英語圏の人は圧倒的に有利です。母国語で論文を書けばOK、読む方だって母国語でそのまま読める。「動物のお医者さん」では菱沼聖子さんが怒ってましたけど、このギャップを埋めるのは、かなりしんどいです。しかも一生ついて回りますし。
でも、そこも含めて記者さんには頑張って欲しい訳です。少なくとも日本の研究者はそのギャップを乗り越え(ようと頑張っ)ている訳ですし。
2)masudakoさんの「macroscope」「科学報道の質を高めるために」で言及を頂きました。
概ね同意できる内容です。最大の相違は、私の「もっと論文を読み込むべし」という主張に対する異論の部分でしょう。
masudakoさんは「全分野の論文を読み込むのは無理」だという御意見です。御自分の所属学会の論文ですら「ながめる」程度にしか理解出来ない場合があると。
確かに、仰る事は解ります。
それでも私が「論文を読むべき」と主張したのには、3つほど理由があります。
1つめは、既に述べました様に「論文紹介が科学報道の本流になるべき」と考えているからです。論文を読まずに内容を紹介するのは困難です。それではどうしても「受け売り」になってしまいます。古田さんが批判しておられる「プレスリリースを聞いただけで記事を書く態度」も、結局は「受け売りは良くない」と言いたいのではないでしょうか。
2つめは、「読み込み」のレベルをどの程度に考えるかという点です。3.の追記にも書きましたが、一般紙と科学誌では求められるレベルが異なると考えます。記者さんに研究者と同じレベルを求めているのではありませんし、全ての記者さんに同じレベルを要求している訳でもありません。
そして3つめは、古田さんの御主張が「研究者に話を聞く事」を強調し過ぎている様に思えたので、それに対するカウンターという意味を込めたかったのです。しかしながらこれは(4.に追記しました通り)改めて考えてみると、異なる解釈も可能である様に思えてきました。
即ち、古田さんの仰る「わからなくても論文を眺め」がどのレベルを指しているのか、によります。もしも、解らなくてもとにかく読み、何処が解らないのかを明らかにし、その「論文を読んでも解らなかった部分」について専門家に訊く、という意味であるのならば、それは私自身の主張とも極めて近いものであると言えます。もし古田さんがそこまでやっておられるという事であるならば、それはとても立派な態度だと思います。
あるいは(これは完全な邪推ですが)もしかすると古田さんは「みんな、科学記者だっていうなら、せめてアタシと同じ位には勉強しなさいよ!」と言いたいところを、立場上オブラートにくるんでおられるのかもしれません。
いずれにしましても、幾ら解らないからといって、一から十まで専門家に訊くのは、やはり宜しくないと思います。その意味では、masudakoさんの仰る
>専門家がその分野を理解するために読むべき入門文献のリストを作ることももっと奨励するべきだろう<
には大いに賛成します。ちょっと文の構造が解り難いですが「記者がその分野を理解する為に読むべき入門文献のリストを専門家が作るべき」という意味ですよね。これはとても貴重な御提案だと思います。
3)こちらの記事「記者がみる「科学報道」とiPS治療の虚報」について。
直接言及頂いた訳ではありませんが、少し思うところを書きます。
基本的には、私は良い分析だと思います。読売新聞自体の検証も、せめてこの位のレベルでお願いしたいところです。
ただ、やはり記者さんの立場から見ていらっしゃるので、失礼ながら「甘い」と感じる部分も幾つかありますので、それを記します。
>森口氏は事件の容疑者ではなく、貴重な研究業績を好意で教えてくれる研究者である<
何度か書きましたが「貴重」な研究業績を「好意で」教えてくれる研究者は、まず存在しません。いや、皆無とは言いませんが、少なくとも自分から売り込んでくる様な研究者が「好意で」やっている筈はありません。その意味では
>メディア側が、先方に対し「性善説」で臨むのは自然の成り行き<
というのは、ちょっと甘いと思います。
>ノーベル賞受賞前であっても、山中伸弥教授に「ではまずあなた本当に医者なんですか。免許証見せてください、博士ですね。では学位記はありますか」から取材を始める、そんな失礼な記者はいないはずだ<
山中教授は「論文にすらなっていない(自称)業績」を「自分から積極的に売り込んできた」のですか?違いますよね。
そうした点を踏まえますと、回避策として挙げられている中で、最初の2つ、即ち
>持ち込みネタは扱わないと決める(しかし実際に成果が上がっていたのならメディアとしての自殺でもある)<
>しかるべき査読がついた雑誌への論文発表まで報じないと決める(発表の垂れ流しは都度にマスコミ批判の俎上に登るところ)<
は極めて有効だと思います。これを徹底するだけで、状況は著しく変わる筈です。
私は別に「持ち込みネタを扱わないのはメディアとしての自殺」だとは、全く思いません。しつこく書きますが、こと科学研究に関する限り、論文にすらなっていない業績を自分から売り込みにくる様な研究者は、基本的にインチキです。もしも、もしもですよ「それでも万一の可能性に賭けたい」と仰るのだとすれば、それは「スクープさえ出来れば誤報があったって構わない」という価値観だという事になります。むしろそちらの方がメディアの自殺に近いと考えます。
仮に、そこを思い切り譲って「スクープの為には誤報も止む無し」と考えたとしましょう。その場合でも、せめて誤報の訂正を積極的に行うべきです。現状では全く足りません。
一般的に言って、誤った情報を広めるよりも、それを訂正して回る方が、遥かに大きな労力を要します。これはTwitterのRTなどにも言える事です。その事実を踏まえれば、誤報の訂正の方を誤報自体よりも大きく取り上げて、それでようやく何とかバランスが取れるという事になるでしょう。つまり、1面トップで報じた記事の訂正をするのであれば、1面全部を使った上に別面に関連記事も載せる位で丁度良いと考えます。
しかし、実際には訂正記事の方が大きく載る事など皆無です。それどころか、元の記事に匹敵する大きさの記事にすらなりません。私は、これは「訂正しましたというポーズだけ」だと思います。訂正記事の方が本記事よりも大きく載る様な状態が達成されて初めて「スクープの為には誤報も止む無し」という意見もそれなりの説得力を持つのだと考えます。
>しかし、より根源的な問題もある<
>紙数も限られ、読者層も広すぎる(ほとんどの読者・視聴者は科学研究にまったく関心がないか、関心があっても背景知識が極めて限られている)マスメディアで、専門的な研究をデータ付きでリアルタイムに扱うことがほんとうに可能なのか、ということ。おそらくそれは無理なのだ<
仰る内容自体には同意します。しかし、私は、これは根源的な問題だとは思いません。一般新聞やTVの話をされているという前提で申しますが、確かに「専門的な研究をデータ付きでリアルタイムに扱う」のは無理でしょう。
であれば、無理に行う必要など無いのです。「そもそも必要無い事を無理に行っている」という意味であれば、確かに「根源的な問題」だと言えるかもしれません。
これも何度も書いていますが「科学報道に極端なスクープなど不要」です。新聞やTVのレベルで言うのなら「そもそも、iPS細胞って、何?」という疑問に答える様な解説記事を提供すべきでしょう。通常、記事の添え物的に載っている解説程度では、記述量が少なくて解り難いと考えます。あれを読んだ「だけ」でそこそこ理解できる一般読者がどの位居るのでしょうか?
地味であっても、そういう部分こそ埋めていくべきだと思います。
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今回も、はてブコメのうち幾つかにお返事したいと思います。
返信削除http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fpseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com%2F2012%2F10%2Fblog-post_21.html
>id: type-100 さん
> 本当かなあ。大半の読者は速報性が第一じゃないのか/少なくとも「最新の論文をわかりやすく紹介する」は科学雑誌の仕事では。新聞ってもっと身の回りの記事が求められてるんじゃないのか?<
済みません、最初の記事では私も新聞と科学雑誌を明確に分離せずに書いてしまいました(古田さんは科学雑誌の記者さんですね)。
その上で、新聞報道の話としてお応えします。
まず速報性に関して。私は何よりも「事実でない事を報道しないで欲しい」と思います。幾ら早くても、嘘を報道してはダメです。何度でも書きますが、科学に関しては「論文にすらなっていない業績」は全く事実とは言い難いので、そもそも報道に値しないと考えます。
次に「新聞の読者は身の回りを記事を求めている」に関して。これは「どのレベルの記事を書くか」の問題だと思います。新聞だけで山中教授の業績そのものについて深く知ろうとする読者は、確かに殆ど居ないでしょう。しかし例えば「iPS細胞って何?」というレベルの記事であれば新聞読者のニーズにも合うと思います。必ずしも「身の回りの」事には限らないでしょう。
>id: mac_wac さん
> 科学記者に「学術論文を読み込む」要求には同意しかねる。超弦の論文読み込める人など物理専攻でも少ない。記者数が限られ一人で広く担当せざるを得ない以上、直接話を聞くという効率良い方法に頼るのは不可欠では<
これは本文にも追記しましたが「読み込む」をどのレベルの要求だと判断するかによります(ついでに言えば「眺める」はどのレベルなのかという問題でもあります)。私も「専門分野の研究者と同じレベルの理解に達するまで読め」とまで主張したい訳ではないのです。論文もロクに読まずに話だけ聞いて記事にする様な姿勢(古田さんがそうだと言っている訳ではありません)を問題にしているのです。
それを前提にした上で、専門家に話を聞く事はアリだと申し上げております。
>id: OSATO さん
>学術論文の紹介も大事ですが、科学記者は常に社会との関わりを意識する事が重要でしょう。例えば、東北で計画されているILCの科学的意義と地域復興との兼ね合いなどを同時に語れなければ<
社会との関わりは大事だと思います。それは科学記者に限らず、記者であれば基本姿勢として身に付けておくべきでしょう。何故なら、記者と言う職業自体が「社会に対して情報を発信していく立場」であるからです。
おそらくOSATOさんは、私の主張が「論文の紹介さえしていれば良い」の様に受け取られる事を危惧しておられるのだと思います。私は上記の如く、自分の主張は「科学記者が社会との関わりを重視する事」とも矛盾しないと考えていますが、その様に受け取られる危険性を指摘してくださった事に感謝致します。
>id: AnalystCool さん
>結局「研究者の方は変わりたくありません」って言ってるだけに読めるんだけど。なら今のまんまだよ。建設性ゼロ<
貴方にはその様に読めるのですね。
>id: kumicit さん
> コストを度外視すれば、"論文の読み込み"も可能だろう。大学の学科一個分を一人で担当するとしても、理工医薬農をカバーしようとすると50人なんてすぐに消費しつくされる<
これは私の舌足らずだった部分です。本文にも追記しましたが、どこまでの深さのものを「論文の読み込み」と称するのかについては、一般紙と科学誌とで異なりますし、また分野によっても異なると思います。コストを度外視して無制限に行えと主張している訳ではありません。
これは、研究者側のコストについても同様です。
今晩は。
返信削除うかがいたい事があるのですが、よろしいでしょうか。
古田さんがtwitterで、次のような発言をなさっています。
▼ 引 用 ▼
論文読めるのは武器にはなるが、取材の代替にはならないよ。
▲ 引用終了 ▲
http://twitter.com/ayafuruta/status/262359881317748737
今の文脈で、論文を読む事を重視するという指摘をなさったのはPseuDoctorさんなので、この古田さんの発言は、PseuDoctorさんのこちらのエントリーを念頭に置いてのものと思われます。
で、私としては、最も重要なのは論文を読む事だ、と主張するのは、それが取材の「代替」となる、という主張とは違うと思うのですが、いかがでしょうか。つまり、PseuDoctorさんは、論文を読みこむ事が取材の「代替」になるという事は「言っていない」、と私は認識しています。
私は、PseuDoctorさんのご主張は、よく論文を読み込んだ上で取材をする方が事がスムーズに運ぶ、というものだというように読んだので(乱暴な要約すみません。また、そのPseuDoctorさんのご主張に賛同するかはもちろん別の話として)、古田さんの発言に違和感を覚えたのでした(誰がそんな事言ったっけ、という風に)。
>TAKESANさん
削除結論から申し上げれば、確かに私は「論文読みが取材の代替になる」とは主張しておりません。そこは仰る通りです。
ただ「そういう風に受け取られても仕方の無い書き方だったかな」とは思います。何故なら私は最初「論文を読んでその内容を紹介する事が科学記事の本流になるべきだ」と主張し、更に「論文を読み込んで読み込んで、それでも解らない事に関しては専門家に訊くの「も」アリでしょう」とも書いていたからです。これらの文から「論文の読みこなしがキチンと出来るならば、専門家への取材は不要」という読解を行うのも、まぁそれほど不自然ではないと思います。
勿論それは私の言いたい事とは異なっている訳です。しかしTAKESANさん御指摘の通り、意図とは異なった読まれ方をされて「言っていない事に対する反論」を受ける場合も有り得る。これは常に、なかなか困った事態です、どちら側にとっても。
何故なら、まさにその様にして、この話題が(この話題も)拡散している様に思えるからです。
例えば古田さんは決して記者の勉強不足を肯定していない(むしろ「勉強すべき」と仰っている)けれど、元のTogetterを見ても「記者の不勉強を糾弾するコメント」が非常に多いと感じます。で、まるでそれに反応するかの様に(別の所から)「研究者の方こそ解り易いプレスリリースを書け」みたいな意見も出てきたりします。最早、誰の何に対する意見なのかが全然解らない状態です。こういうのを見ていると、私もちょっとTwitterが嫌になる時もあります(意識して使い方を限定する様にしていますけれど)。
話を戻しまして。
敢えて好意的に解釈するならば「勉強は取材の代替にならない」「取材でしか解らない事がある」というのは古田さんが当初から主張なさっていた事です。ですから、私の意見に対する反論と言うよりは、持論を繰り返し述べただけという解釈も可能です。その場合には、私は別に反対している訳ではないので「そうですね」と言うしかないのですが。
ただ、どうしても気になるのは「じゃあ、取材は勉強の代替になるの?」という点です(勿論、私は「必ずしもならない」と思っている訳ですが、この点については後述します)。私の知る限り、古田さんだけでなく、この点を明確に述べた人はいらっしゃらない。しかし例えば、次の3つのTweet
https://twitter.com/OkadaG/status/265279528136486912
https://twitter.com/OkadaG/status/265279847234945025
https://twitter.com/OkadaG/status/265280370428215297
を古田さんがRTして、更にこちら
https://twitter.com/ayafuruta/status/265541624489185281
で賛意を示されている。これらを見るとどうしても「取材を通して勉強させてもらう事」を肯定的に捉えている様に思えて仕方ないのですね。勿論勉強そのものを否定している訳ではないのは解ります。だからおそらく、その点を質問しても「勉強も大事」という返事が返ってくる確率が極めて高いと予想します(なので敢えて尋ねません)。
ただ「勉強も大事」と述べる事に対しては、3つの問題点があると考えます。
1つは「現状で記者の勉強が足りていると考えているかどうか」です。私は(Twitterの方にも書きますが)「たとえ一般紙の記者であっても、自分の担当分野に関しては、中学・高校レベルの知識は身に付けておくべき」だと思います。これは案外ハードルの高い要求です。私自身も、分野によっては中高レベルの知識も身に付いていない事を自覚したりします。
2つめは「取材先を主な情報源にしてしまうと、情報が偏らないのか」という懸念です。取材先というのは、基本的に利害関係者です。これは取材先が政治家でも警察でも官僚でも同じです。記者の不勉強を見抜いたら、自分達が有利になる様に「勉強」させようとするでしょう。それを防止する手段は充分なのか。
勿論、その為に「裏取り」があるのでしょうね。しかしその裏取りが疎かになってきている様に見える事、そもそも分野によっては裏取り(利害関係者以外からの情報入手)が極めて困難である事、等を不安に感じます。
3つめは「システムの問題は感じないのか」という点です。つまり現状の(特に新聞社の)記者養成のやり方ではそもそも専門性を高める為の勉強は著しく困難であるという事です。黒猫亭さんとかはTwitterでこの点について言及していますが、記者の側で報道システムの問題点・改善点を述べている人は寡聞にして知りません。そして古田さんにしても、大学・研究機関側には「広報一元化を止めて欲しい」という風に、組織としての対応を求めている一方で、記者に対しては「鍛えるしかない」と個人の努力に依存している様に見える御意見です。
記者の勉強そのものがキチンと評価される様にシステムが変わらない限り、本質的な解決には繋がらないと考えます。
さて、改めて「取材は必ずしも勉強の代替にはならない」という部分について、もう少し述べます(これは別に古田さんの御主張と対立するものではないと考えています)。私はこの言葉に2つの意味を込めています。
1つめは「取材で得られないものが勉強で得られる」という意味です。自ら努力して学ぶ事と、他者から話を聞く事とでは、たとえ与えられる情報量が同じであっても、その身に付き具合は異なると考えています。結構話題になっている産経新聞のこの記事
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/121030/wlf12103009110001-n1.htm
は賛否両論ある様ですが、これに対する批判の多くも、結局は「勉強不足を取材で補う事が出来なかった」という点が大きく関わってきている様に思います。ですから「中学・高校レベルの知識は必要」と申し上げたい訳です。
2つめは「たとえ取材が勉強の代替になる場合であっても、節度を持って行うべき」という意味です。確かに自分で学ぶよりも専門家から話を聞いた方が速い場合はあるでしょう。しかしそれを無節操に行うのは、言わば専門家に対するフリーライドです。それはちょっと勘弁して欲しい。
では、どこまで勉強すべきか。
これは、たかさんのブログ記事
http://flatfisher.blog68.fc2.com/blog-entry-470.html
や、本文の追記に挙げたmasdakoさんの記事などにヒントがあります。
つまり専門家からは「記者に求める知識レベル」を予め明確にした方が良いでしょう。これは特に記者会見等の場合に大切です。
逆に記者からアプローチして取材する場合には、まず「自分の知識レベル」を提示し、その後で取材した方が良い(具体的には自分の読んだ教科書や文献を持参し「ここにこう書いてありますが」という風に、教科書や文献の記載に基いて取材を開始するのが良い)でしょう。
今晩は。
返信削除丁寧なご返答を頂いて、ありがとうございます。
一般論として(今回がどうこうという事では無く)、言っていない事を言ったかのようにされて話が進められるのはとても困るものなので、ご本人に(名指しされていた訳ではありませんけれど)うかがった次第です。
産経の記事も色々な反応を呼んでいますが、一連の流れを見ての私自身の感想は、メディアや記者側に強く批判的なものです。反応の中には、研究者側の頑迷さや傲慢さを非難する向きも見られますが、研究者では無い立場で、マスメディアに対し批判的な意見を持っている私のような者もいる(他にも多くいるでしょう)、というのも一つのポイントかな、と思います。
産経記事(「筋力余裕度計」を紹介した記事)の場合には、取り扱う話題や発表元等の条件から、結果的に当たり障りの無い記事が出来たようだ、という事であって、もう一つの記事(話題になった、記者の感想文)を見れば、記事の水準を一定に保つという品質管理的な観点からは論外ではないかな、と考えるのですね。
私は常に、毎日新聞がゲーム脳をいち早く発信した事を念頭に置いていますし、たとえば「解りやすいプレスリリース」が云々という時には、川島氏の、朝食に関する研究 をキャッチーに紹介したリリース等を思い浮かべます。
組織の構造的な問題があって個人レベルではいかんともしがたい、という部分を考慮した上で理解を示す、というのは あるべきですが、まああまり責めないでも、とか、これから改善すれば……みたいな擁護は、場合によってはプロフェッショナルに対する侮辱や見くびりになる事もあると思うので、批判すべき所はきちんと見極めて厳しく行う必要があると考えています。
確かに「言っていない事を言ったかの様にして話を進められる」のは、とても困りますね。特にネットでは文字情報の遣り取りが殆どですし、拡散速度が速いという問題もありますから。私も、相手の言っていない事に反論しない様に気をつけなくてはと思います。論点の切り分けが大切ですね。
削除マスメディアに対しても、そうですね、確かに「研究者vsマスメディア」という図式だけで捉えていてはいけないのでしょう。マスメディアは、情報の受け手であるところの一般の方々からの批判を真摯に受け止めるべきです。私も、科学報道以外の部分で疑問を感じる事もしばしばですし。
少なくとも、改善すべき問題点があるのは確かだと考えます。まずはそこを認識して頂きたいものだと思います。