コミケを風疹から守り隊

2012年12月24日月曜日

プロフェッショナルとアマチュアとの違いとは?


初回公開日:2012年12月24日
最終更新日:2012年12月24日


1.はじめに

前回の記事で取り上げた「科学報道のあり方」に関する議論も、大分落ち着いてきた様です。とは言え、この話題が「コンテンツとして消費されてしまう」のは好ましくないでしょう。ですから、今後も議論は継続した方が良いとは思います。ただ、私自身の事を振り返っても、油断するとどうしても議論が拡散しがちです。
という訳で、批判や反論を行う際には「誰のどの意見に対するものなのか」を明確にするのが良いと考えます(必ずしも明示する必要は無いのですが、少なくとも、自分の中では意識しておく事が大切でしょう)。
勿論これは今回の件に限らず、議論一般に言える事です。

さて、ここからが今回の本題です。
上述の話題の中で、こちらの記事が結構取り上げられました。これは一般紙の話ですし、厳密には「科学報道」の話でもありません。しかしタイムリーだったのでしょう、結構あちこちで話題になった様でした。なので今回は、記事の内容そのものに詳しくは触れず、私が最も引っ掛かった部分についてだけ述べます。その部分とは、2ページ目の「(記者は)凡人のプロだから専門知識はいらない」(強調は引用者による)という言葉です。これは、マスコミに関する講義で、講師の新聞記者が、学生の質問に対する解答として発した台詞だそうです。

さて「凡人のプロ」とは何でしょうか。何となく語感で解る様な気もしますが「単なる凡人とは何処が違うのか」と考え出すと、良く解らなくなってきます。こういう場合には注意が必要です。解った様な気にさせる「納得力」の高い言葉は両刃の剣であり、逆に誤解の元になったりもするからです。

と言う訳で今回は、プロフェッショナルとアマチュア(非プロ)との違いについて考えてみたいと思います。


2.「プロフェッショナル」という言葉のイメージ

我々は一般に「プロフェッショナル」という言葉にどんなイメージを持っているでしょうか。
そしてそれは、上記の「凡人のプロ」という文脈に当てはめて意味が通るものなのでしょうか。

専門家:このイメージが最も多いのかもしれません。しかし「凡人のプロ」にこれを代入すると「凡人の専門家」となってしまい、何だか意味がよく解りませんし、微妙に違う意味になってしまう様にも思えます。
アマチュアよりもレベルが高い:全般的に見れば、その通りでしょう。しかし個別に見た場合、アマとプロのレベルが逆転している場合もありえます。ですから、必ずしもレベルの違いがプロとアマの本質的な違いとは限らないと考えます。更に「凡人のプロ」に入れるとやはり意味が解りません。「凡人」にレベルがあると考えるのはおかしいからです。
その事に徹している:これなら「凡人のプロ」にも当てはまりそうです。つまり「凡人に徹する、だから専門知識はいらない」という意味です。でも、凡人に徹している事が「凡人のプロ」なのであれば「俺だって凡人のプロだ」と言い出す人が(新聞記者に限らず)あちこちで出てきそうです。しかし一般的にはそれで良いのでしょうか。アマチュアであっても、徹底してやっている人は居ます。何故彼らはプロと呼ばれないのでしょうか。
それで生計を立てている:これが本来の意味だと思います。つまりそれを職業にしているという事です。しかしこれも、完全ではありません。プロスポーツの世界では、それ「だけ」では生計を立てられず、バイトなどで糊口をしのいでいる人も結構いらっしゃいます。逆に創作の分野では、アマチュアであっても、同人活動などを通じて、かなりの収入を得る場合もあるでしょう。そう考えると、この区別も曖昧です。「生計を立てている」事はプロとしての十分条件かもしれませんが、それを必要条件にしてしまうのは、プロに対して過酷過ぎる気がします。
更に「凡人のプロ」に代入すると、これまたおかしな事になります。「凡人である事で生計を立てる」となってしまうからです。仮に、単に凡人である事で新聞記者として生計が立てられるのであれば、新聞記者の存在意義を問わずにはいられません。ここはひとつ、記者さんの為にも、もっと違う意味を見出したいものです。

この様に考えてみると「プロフェッショナル」とは結構難しい概念だと言えます。

3.「ジェネラリスト」と「スペシャリスト」

ちょっと話がズレますが、ここで「ジェネラリスト」と「スペシャリスト」について述べます。
別に「ジェネラリスト」がアマチュアで「スペシャリスト」がプロだとか言いたい訳ではありません。どちらもプロです。その点を最初にお断りしておきます。

簡単に言えば、ジェネラリストとは、広く全般に通じている人であり、スペシャリストとは専門特化している人ですよね。一般的に、広い分野の知識を得ようとすればどうしても理解は浅くなりがちであり、逆に深い理解を得ようと思えばどうしても範囲は狭くなりがちです。ですから、ジェネラリストとスペシャリストという「分業」が必要になってくる訳です。

医師の世界でも、こうした分業はあります。「かかりつけ医(家庭医)」はジェネラリストであり、「専門医」はスペシャリストです。別に家庭医の方が程度が低い訳ではありません。何でも診なければならないので、幅広い知識が要求されます。
専門医であれば、専門外の患者は診ずに、最初から別の専門医に診てもらうという方法をとってもおかしくありません(勿論、状況がそれを許さない場合は多々ありますが、それはまた別の話です)。しかしかかりつけ医は、取り敢えず来た患者を診ます。
診たうえで、どうするか。
自分で対処出来る限りは自分で対処し、自分の手に負えないと思ったら、速やかに専門医に紹介します。これが最も重要なポイントです。
言い換えれば「何処までのレベルなら自分で対応できるか、どのレベルになったら自分では対応しきれないか、その場合には誰を頼れば良いか」を解っているという事です。
これが、医療に限らず、ジェネラリストに求められる最も重要な資質です。

ジェネラリストは、広い分野に通じています。その為「自分は何でも解る」と思ってしまう時があるかもしれません。しかしそれは違います。理解が浅いのだから、自分が何処まで解っているのかをキチンと把握しておく必要があり、解らない部分についてはスペシャリストに教わる(あるいは任せる)べきです。そこが把握出来ていないのでは、単なる半可通にしかなれません。
そしてそれは、実はスペシャリストでも同じなのです。
どの分野であっても、極めれば極めるほど、自らに足りない部分・未だ到達していない領域が見えてくる筈です。スペシャリストであっても、いやスペシャリストなら尚更、自らが専門としている範囲と、その範囲内で到達しているレベルを自覚し、自分よりも上のレベルに居る人を知っておく事が大切です。

という訳で、そろそろ私の言いたい事を御理解頂けた方もいらっしゃるのではないかと思います。

4.「己のレベルを知る」事こそが、プロとしての必要条件

という事です。繰り返しになりますが、言い換えれば「自分に出来る事と出来ない事との区別が付けられ、自分よりも上のレベルに居る人を知っておく」という意味でもあります。
但し、これは必要条件ですから、これを満たしたとしても、プロであるとは限りません。またアマチュアでも条件を満たしている人は居るでしょう。しかし少なくとも、この条件を満たさなければプロとは呼べない、その様に私は考えます。

自らのレベルを知りもしないのに、プロの様な顔をして行動する人、それは一言で言って「身の程知らずのド素人」です。何故「ド素人」まで言うのかといいますと、単なる素人に比べても、遥かに始末が悪いからです。
巷にも、時々そういう方々がいらっしゃいますよね。

例えば、末期がんの患者に効果の無い代替療法を勧めるのみならず、標準医療を忌避させ、患者が手遅れになったら「自己責任」で逃げる人とか。
妊婦に「自然状態なら安産が当たり前」の如き嘘を信じ込ませ、危なくなってもギリギリまで引っ張った挙句、本当に命が危ないレベルになったところで近隣の病院に丸投げし、不幸にして死産になったら本人や病院のせいにして平然としている人とか。

「自分のレベル(身の程)を知り、無理だと思ったら専門家に紹介する」という「プロとしての原則」さえキチンとわきまえていれば、こんな結果にはならない訳です。繰り返しますが、だから「身の程知らずのド素人」だと言うのです。

5.おわりに

最後に、ここまで述べてきた「プロとしての必要条件」を「凡人のプロ」という言葉に適用してみましょう。
つまり「凡人のプロ」の必要条件とは「凡人のレベルを知っており、かつ、そのレベルを越える場合は誰に訊けば良いかを知っている」という意味だと考えます。
その意味であれば、確かに「凡人のプロ」には、専門知識はいらないかもしれません。
たとえそうだとしても、上に述べた必要条件をしっかり満たしていない限り「凡人のプロ」とは名乗って欲しくありません。
という訳で、私が当該記事の中で最も問題だと思った点、それは『「何がわからないのか」分からない』という部分です。それでは「凡人のプロ」とは言えないと考えます。

そう、何事によらず「プロフェッショナル」と名乗るのは、並大抵の事ではないのです。
たとえそれが「凡人のプロ」であったとしても。

6.謝辞

今回も何だか槍玉に上げてしまった様で、産経新聞の若手記者(加藤園子)さんには少々申し訳ないと思います。勿論、御本人には何の恨みもありません。むしろ問題は、若手にこの様な教育を施してしまう企業風土と、こういう状態のまま取材に当たらせてしまうシステムにあると考えます。
その観点からすると「良くぞここまで内情を教えてくれた」とも思います。
そういった意味で、今回の謝辞は加藤園子記者にお送り致します。

7.おまけの余談

今回の件を考えているうちに、一般新聞やTVニュースでは、科学報道に限らず、事件報道や経済報道にも共通していると思われる問題点が幾つかあるという認識に至りました。前回の記事の補足の様な形にもなると思いますので、それらを少し書いてみます。

1)情報の偏り
事件報道では「警察」が情報源として大きなウェイトを占めます。政治報道では政治家や官僚が、経済の報道では財務省や日銀が、それぞれ情報源として大きいです。勿論これらは情報源として重要なのですが「それだけに頼っていると情報が偏る」という危惧を抱いています。
何故かと言いますと、これらの情報源は全て、言うなれば「利害関係者」だからです。
警察も官僚組織ですから、自らの業績を追及する一方で、不利になりそうな情報を出したがらないのは、組織防衛の観点から見ればむしろ自然です。政治家(の一部と言っておきます)は、自らの利益の為には黒を白と言いくるめる事も辞さないでしょうし、官僚・財務省・日銀(のそれぞれ一部)も同様でしょう。
この様に考えてみると「利害関係者からの情報は、むしろ偏っているのが当然である」とも言えます。
という訳で「情報源が限られている事」そして「その限られた情報源が、一方の利害関係者である為に、情報が偏る事」が大きな問題だと考えます。

2)経済的な軋轢
報道といえども「商売」でやっている点は否定出来ません。ですから広告主(スポンサー)の意向が大きな影響を与えます。新聞であれTVであれ、スポンサーの意向に反する記事や番組は作られ難いですし、スポンサーの意に沿う様な形になり易いと言えるでしょう。
この状態で中立性を保つのは難しいと考えます。
スポンサーに頼らない媒体としてはNHKが有名です。別の力学(政治的圧力とか)が作用する危険性はありますが、少なくとも上記の点に限っては民放よりもアドバンテージがあると言えます。また「暮らしの手帖」という雑誌があります。ここには広告がありません。ですからスポンサーの都合によらない製品比較などが可能になります。
勿論、NHKや「暮らしの手帖」が理想的とも言えません。経済的なコストは誰かが負担しなければならないからです。ただ「誰がお金を出しているのか」という点を意識するのは有用でしょう。

3)記者の勉強不足
しつこい様ですが、やはりどうしてもこの点を挙げずにはいられません。と言っても、科学報道の際に主張した様な、博士号所持者云々というレベルの話ではありません。もっと一般的に、例えば科学報道だったら「永久機関」の記事などをマトモに取り上げるな、という程度の話です。
事件報道に於いても、根拠となる法律を殆ど理解せずに書いていると思われる例があります。また経済報道に於いても、マクロ経済学の基本(教科書レベルの話)すら理解せずに書いている例などは、枚挙に暇がありません。
これらの分野では、科学報道とは異なり「私大文系」という様な言い訳が通る話でもありません。

以上述べた3つの要素が報道の質を押し下げている、そしてそれは科学報道に限った事ではない、と考えています。
ではどうすれば良いか、というのは難しい問題です。記者にもっと勉強しろと「言うだけ」なら簡単ですが、それだけでは解決にはなりません。報道のシステムや環境を変えていく必要があるとは思いますが、それも「言うは易く行うは難し」です。

当面我々が「情報の受け手」としてすぐに出来る事は、報道には上記の様なバイアスがある事を認識したうえで情報を取捨選択する事でしょう。微力ではありますが、受け手側のそうした行動が、報道側に対しての淘汰圧として働く事も期待できます。
結局、前回の記事の繰り返しになってしまいますが、やはり「良いものは良い、悪いものは悪い」と是々非々で言い続けていくしかないのでしょう。
そしてそれは、政治に対しても同じですね。


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