最終更新日:2010年10月01日
さあ、ここまででようやく「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」というところまで来ました。しかしここで、タイトルにも挙げた通り「未知の事を知る(=知的好奇心を満たす)」とはどういう意味かを考えてみたいと思います。
あるいは「そんな事解ってるよ」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし慌ててはいけません。当然解ってる筈の内容でも、改めて考えてみる。その事によって新たな発見があったとすれば、とっても面白いと思いませんか?
では、こんな状況を考えてみましょう。
アナタは、殆どの人が知らない「本当の真実」を手に入れました。アナタはそれが真実である事に絶対の確信を持っています。ですから、それが「真実である」と誰に対しても自信を持って述べる事が出来ます。しかし残念ながら、何故それが真実であるのかを上手く説明する事が出来ません。
この様な状況の時に、その「真実」はアナタの知的好奇心に応えていると言えるのでしょうか?
・・・・・・
こういう書き方をする時は、大体答えは決まっていますね(笑)。
そう、答えは「否」です。
では何故「否」なのか。それは一言で言えば「上手く説明出来ないから」なのです。勿論、確信を持って「○○は真実である」と述べる事は出来るでしょう。しかし「何故そう考えるのか」と問われた時に、アナタは何と答えるのでしょうか。
例えば「天から啓示があった」「古代の書物に書いてあった」「偉大なる賢人に教わった」などと答えるのかもしれません。しかしそれでもなお「では何故その理由が正しいと考えるのか」と更に掘り下げて繰り返し問う事が出来ます。そして、その「どんどん掘り下げて繰り返し理由を問う」事こそが知的好奇心の発露なのです。
つまり、いくら確信があっても、掘り下げる問いの反復に耐えられなければ、知的好奇心に応えているとは言えません。
とは言え、知力も体力も有限ですから、無限に問い続ける・答え続けるのは不可能です。何処かで止めなければなりません。しかし、ただ止めるのもしゃくですから、何か理由を考えてみましょう。
最も適当らしい理由は「私には(少なくとも現時点では)これ以上は解らない」というものです。この答えを出せば、問いの連鎖は止まるでしょう。
ここで「解らない事」に対して二つの態度が考えられます。一つは「解らない事は解らない」とする立場です。そしてもう一つは「解らないけれども真実だと思う」とする立場です。上の例では「確信がある」のだから、後者の立場ですね。
前者の立場は暫定的(いずれ解るかもしれないという含みを残している)であるのに対し、後者の立場はそこで断ち切れていると言うか、閉じています。そして、後者を「信念」と呼ぶ事も出来ます。
さて、ここまでずっと「真実」という言葉を使ってきましたが、これは「信念」との結び付きを意識して使っています。真実という言葉は「人の数だけ真実がある」とか「その人にとっての真実」という使い方をされる事があります。この場合には「その人がどの様に信じるか」という点が問題になっています。
これに対し、信念と切り離された存在を述べる場合には「事実」という言葉を使いましょう。これは、信じるかどうかに関わらず、そこに在るものです。つまり客観的存在です。
「真実」と「事実」はしばしば混同して用いられますが、上記の様に区別しておけば「知的好奇心とは真実を求めるのではなく、事実を求める心の働きである」と述べる事が出来ます。
但し、ここで大急ぎで追加しておかなければなりませんが、私は決して「信念には価値がない」と言っている訳ではありません。何を信じるかはともかくとして「信じる事」自体は極めて重要であり、それが無ければ、おそらく何人たりとも生きていけない(言い換えれば、一切の信念を全く何一つ持たなくなった存在は、もはや人間とは呼べない)でしょう。
しかし上述の様に、信念は事実の追求を停止させるので知的好奇心を麻痺させます。従って、何でもかんでも「信じる」というのは非常に残念な態度です(思考停止という言葉で表現されたりします)。私達は「信じる事」と「信じない事(疑う事)」との区別をしっかりとつける必要があります。
そして、この「信じる事と疑う事の区別を厳密につける態度」こそが「懐疑主義」と呼ばれるものなのです。どうしても語感に引きずられて「あらゆる事を疑うのが懐疑主義だ」と思われがちですが、そうではありません。繰り返しますが、信じる事(それ以上考えず追求しない事)と、疑う事(考え続け、追求し続ける事)とを厳密に区別するのが(現代の科学における)懐疑主義です。
従って「神を信じる懐疑主義者」というのは普通に存在しますし、別に矛盾でも何でもありません。また、根拠も無いのに頭から否定するのは懐疑主義ではありません。それは方向が逆向きなだけで、それもまた一種の「信念」なのですから。
もっとも、現実には「ちゃんとした根拠があるのだけれども、説明するのが面倒臭いので頭から否定する様な言い方をしてしまう」という態度を取る場合も(相手によっては)あり得ます。あまり良い態度ではありませんが、全ての人にとって、時間も知力も体力も根気も有限ですので、極端に効率の悪そうなやり方は(気が向かない限り)とてもやってられません。
増してや、根拠があって述べている内容に対して「それはオマエがそう信じているだけだろう」などと非難するのは、もはや懐疑主義でも何でも無く「懐疑主義のふりをした詭弁」に過ぎません。
なお、懐疑主義についてもっと知りたい方はググって頂いても良いのですが、ここでは3つほどリンクしておきましょう。
あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない
懐疑主義とは何か by Brian Dunning
懐疑論者の祈り
それぞれの記事を書かれているlets_skepticさん、kumicitさん、ワカシムさんはいずれも優れた論者であり、ブログや記事全体もとても参考になります(既に御存知の方も多いとは思いますが)。
さて、ちょっと懐疑主義の話に流れ過ぎましたので、少し話を戻しましょう。
「未知の事を知る」というのは、得た知識をアナタ一人の頭の中にしまっておく事ではありません。知的好奇心を自己満足の為の道具として使いたいと言うのならば別ですが、通常は、知識は他人と共有してこそ初めて価値を持ちます。
何故なら、もし知識を自分だけで占有しておくのならば、それが本当に偉大な知識なのか単なる妄想なのかが区別できないからです。いくら「私には確信がある」と力説したところで、妄想に取り付かれた人だって、確信の強さだけなら負けないでしょう。
知識を共有しないという事は「他人にどう思われようと構わない。自分はこれが真実だと信じる」という意味ですから、自己満足であり、かつ、知的好奇心の発現としても、極めておかしな態度です。
逆に言えば、他人と知識を共有すれば他人の知識をも得る事になりますから、それはそのまま「知的好奇心の更なる満足」に繋がる事でもあるのです。社会に貢献するかどうかはともかくとして、単に自分の知的好奇心に忠実なだけだとしても、知識は共有した方が良いというのを理解して頂けるでしょうか。
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あるいは「そんな事解ってるよ」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし慌ててはいけません。当然解ってる筈の内容でも、改めて考えてみる。その事によって新たな発見があったとすれば、とっても面白いと思いませんか?
では、こんな状況を考えてみましょう。
アナタは、殆どの人が知らない「本当の真実」を手に入れました。アナタはそれが真実である事に絶対の確信を持っています。ですから、それが「真実である」と誰に対しても自信を持って述べる事が出来ます。しかし残念ながら、何故それが真実であるのかを上手く説明する事が出来ません。
この様な状況の時に、その「真実」はアナタの知的好奇心に応えていると言えるのでしょうか?
・・・・・・
こういう書き方をする時は、大体答えは決まっていますね(笑)。
そう、答えは「否」です。
では何故「否」なのか。それは一言で言えば「上手く説明出来ないから」なのです。勿論、確信を持って「○○は真実である」と述べる事は出来るでしょう。しかし「何故そう考えるのか」と問われた時に、アナタは何と答えるのでしょうか。
例えば「天から啓示があった」「古代の書物に書いてあった」「偉大なる賢人に教わった」などと答えるのかもしれません。しかしそれでもなお「では何故その理由が正しいと考えるのか」と更に掘り下げて繰り返し問う事が出来ます。そして、その「どんどん掘り下げて繰り返し理由を問う」事こそが知的好奇心の発露なのです。
つまり、いくら確信があっても、掘り下げる問いの反復に耐えられなければ、知的好奇心に応えているとは言えません。
とは言え、知力も体力も有限ですから、無限に問い続ける・答え続けるのは不可能です。何処かで止めなければなりません。しかし、ただ止めるのもしゃくですから、何か理由を考えてみましょう。
最も適当らしい理由は「私には(少なくとも現時点では)これ以上は解らない」というものです。この答えを出せば、問いの連鎖は止まるでしょう。
ここで「解らない事」に対して二つの態度が考えられます。一つは「解らない事は解らない」とする立場です。そしてもう一つは「解らないけれども真実だと思う」とする立場です。上の例では「確信がある」のだから、後者の立場ですね。
前者の立場は暫定的(いずれ解るかもしれないという含みを残している)であるのに対し、後者の立場はそこで断ち切れていると言うか、閉じています。そして、後者を「信念」と呼ぶ事も出来ます。
さて、ここまでずっと「真実」という言葉を使ってきましたが、これは「信念」との結び付きを意識して使っています。真実という言葉は「人の数だけ真実がある」とか「その人にとっての真実」という使い方をされる事があります。この場合には「その人がどの様に信じるか」という点が問題になっています。
これに対し、信念と切り離された存在を述べる場合には「事実」という言葉を使いましょう。これは、信じるかどうかに関わらず、そこに在るものです。つまり客観的存在です。
「真実」と「事実」はしばしば混同して用いられますが、上記の様に区別しておけば「知的好奇心とは真実を求めるのではなく、事実を求める心の働きである」と述べる事が出来ます。
但し、ここで大急ぎで追加しておかなければなりませんが、私は決して「信念には価値がない」と言っている訳ではありません。何を信じるかはともかくとして「信じる事」自体は極めて重要であり、それが無ければ、おそらく何人たりとも生きていけない(言い換えれば、一切の信念を全く何一つ持たなくなった存在は、もはや人間とは呼べない)でしょう。
しかし上述の様に、信念は事実の追求を停止させるので知的好奇心を麻痺させます。従って、何でもかんでも「信じる」というのは非常に残念な態度です(思考停止という言葉で表現されたりします)。私達は「信じる事」と「信じない事(疑う事)」との区別をしっかりとつける必要があります。
そして、この「信じる事と疑う事の区別を厳密につける態度」こそが「懐疑主義」と呼ばれるものなのです。どうしても語感に引きずられて「あらゆる事を疑うのが懐疑主義だ」と思われがちですが、そうではありません。繰り返しますが、信じる事(それ以上考えず追求しない事)と、疑う事(考え続け、追求し続ける事)とを厳密に区別するのが(現代の科学における)懐疑主義です。
従って「神を信じる懐疑主義者」というのは普通に存在しますし、別に矛盾でも何でもありません。また、根拠も無いのに頭から否定するのは懐疑主義ではありません。それは方向が逆向きなだけで、それもまた一種の「信念」なのですから。
もっとも、現実には「ちゃんとした根拠があるのだけれども、説明するのが面倒臭いので頭から否定する様な言い方をしてしまう」という態度を取る場合も(相手によっては)あり得ます。あまり良い態度ではありませんが、全ての人にとって、時間も知力も体力も根気も有限ですので、極端に効率の悪そうなやり方は(気が向かない限り)とてもやってられません。
増してや、根拠があって述べている内容に対して「それはオマエがそう信じているだけだろう」などと非難するのは、もはや懐疑主義でも何でも無く「懐疑主義のふりをした詭弁」に過ぎません。
なお、懐疑主義についてもっと知りたい方はググって頂いても良いのですが、ここでは3つほどリンクしておきましょう。
あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない
懐疑主義とは何か by Brian Dunning
懐疑論者の祈り
それぞれの記事を書かれているlets_skepticさん、kumicitさん、ワカシムさんはいずれも優れた論者であり、ブログや記事全体もとても参考になります(既に御存知の方も多いとは思いますが)。
さて、ちょっと懐疑主義の話に流れ過ぎましたので、少し話を戻しましょう。
「未知の事を知る」というのは、得た知識をアナタ一人の頭の中にしまっておく事ではありません。知的好奇心を自己満足の為の道具として使いたいと言うのならば別ですが、通常は、知識は他人と共有してこそ初めて価値を持ちます。
何故なら、もし知識を自分だけで占有しておくのならば、それが本当に偉大な知識なのか単なる妄想なのかが区別できないからです。いくら「私には確信がある」と力説したところで、妄想に取り付かれた人だって、確信の強さだけなら負けないでしょう。
知識を共有しないという事は「他人にどう思われようと構わない。自分はこれが真実だと信じる」という意味ですから、自己満足であり、かつ、知的好奇心の発現としても、極めておかしな態度です。
逆に言えば、他人と知識を共有すれば他人の知識をも得る事になりますから、それはそのまま「知的好奇心の更なる満足」に繋がる事でもあるのです。社会に貢献するかどうかはともかくとして、単に自分の知的好奇心に忠実なだけだとしても、知識は共有した方が良いというのを理解して頂けるでしょうか。
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