初回公開日:2010年11月02日
最終更新日:2010年11月02日
最終更新日:2010年11月02日
「立証責任について」の記事が割と好評の様なので、調子に乗って(?)今回は「悪魔の証明」について書きたいと思います。何故この2つの項目が目次で隣り合わせになっているかと言いますと、それはお互いに密接な関係があるからなのですね。それがどんな関係なのかは、以下の記事中で触れたいと思います。
さて、科学や論理の分野で良く使われている意味での「悪魔の証明」とは、一言で言えば「存在しない事を証明せよ」というものです。これを、より一般化すれば「否定の証明」という事になります。
通常の証明は、その多くが「Aである事を証明する」という形になっています。これに比べて「『Aではない事を証明する』のは著しく困難である」というのが「悪魔の証明」の意味するところです。
通常の証明は、その多くが「Aである事を証明する」という形になっています。これに比べて「『Aではない事を証明する』のは著しく困難である」というのが「悪魔の証明」の意味するところです。
例を挙げるなら、おそらく多くの人にとって馴染み深いのが「アリバイ」という概念だと思います。ミステリ好きなら勿論御存知だと思いますが、アリバイは日本語では「不在証明」と言います。つまり犯行時刻に犯行現場に「居なかった事」の証明なのですね。しかしこれは悪魔の証明に相当し、直接証明するのはほぼ不可能です。そこでその代わりに「他の場所に居た事の証明」を以て「不在証明」とする訳です。
この考え方は「同一人が同時に複数の場所に存在するのは不可能である」という前提に基づいています。ですから、もし、テレポーテーション能力や電送装置の存在を前提にしたとすれば、アリバイそのものが成り立たなくなってしまいます。
かくの如く「ない事の証明」は難しいのです。
もう一つ例を挙げましょう。
「白いカラスが存在する」のを証明するとします。もし本当に白いカラスが居るのならば、それを捕まえてみせれば証明になりますね。しかし「本当は白いカラスなど存在しない」のだとしても、それをきちんと証明しようとしたら、一体どうすれば良いのでしょうか。世界中に存在する全てのカラスを捕まえて調べる必要があります。更に、調べているうちに、どこかで白いカラスが生まれているかもしれませんので、それも調べ直さなければなりません。それを調べているうちに、もしかしたらまたどこかで・・・きりがありません。
この様に「世界中のカラスを全て漏れ無く調べ尽くす事の大変さ」に比べれば、比べればですよ、白いカラスを見つける為に、たとえ密林をかきわけ断崖絶壁を登り猛獣や吸血虫の襲来にも耐えてようやく白いカラスを見付け出したとしても、その程度の苦労は、全く取るに足りない、本当に微々たるものだと断言できます。
この様に「世界中のカラスを全て漏れ無く調べ尽くす事の大変さ」に比べれば、比べればですよ、白いカラスを見つける為に、たとえ密林をかきわけ断崖絶壁を登り猛獣や吸血虫の襲来にも耐えてようやく白いカラスを見付け出したとしても、その程度の苦労は、全く取るに足りない、本当に微々たるものだと断言できます。
つまり、一般的に言って「存在する事の証明」と存在しない事の証明」との間には、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの労力の差が存在するのです。ですから、通常は「存在しない事の証明」を求めるのは理不尽とされるのであって、アリバイの場合などはむしろ例外的です。
但し、アリバイの様に、代替的な証明方法によって事実上「存在しない事の証明」が可能になる場合もあります。その点には留意しておかなければなりません。
「悪魔の証明」問題はオカルトやニセ科学を批判する際に大きな問題となります。例えば、目の前に居る自称超能力者がインチキである事を完膚なきまでに繰り返し証明して見せても、その事は決して「超能力自体の否定の証明」にはならないのですから。
但し、アリバイの様に、代替的な証明方法によって事実上「存在しない事の証明」が可能になる場合もあります。その点には留意しておかなければなりません。
「悪魔の証明」問題はオカルトやニセ科学を批判する際に大きな問題となります。例えば、目の前に居る自称超能力者がインチキである事を完膚なきまでに繰り返し証明して見せても、その事は決して「超能力自体の否定の証明」にはならないのですから。
この事を悪用して、オカルトやニセ科学側が「無いとは言い切れないだろう」という風に、悪魔の証明に「逃げ込む」のは、ある意味常套手段となっている風潮があります。そういう逃げは許しませんよ、というのが、実は「立証責任」の考え方にも通じていくのですね。
「でも」と思う方もいらっしゃるかもしれません。「数学では『存在しない事の証明』なんてしょっちゅうだよ?」と思われるかもしれません。
ごもっともです。
ごもっともです。
ではここで、数学における「存在しない事の証明」と「悪魔の証明」とでは、一体何が違うのかを考えてみましょう。数学における証明とは、与えられた条件の中で考えられる「全ての可能性」について検討します。例えば無限に存在する自然数について証明する場合でも「数学的帰納法」という巧妙な方法を用いる事によって、全ての自然数について成り立つ事を証明できます。
数学には、この「考えられる全ての可能性について検証できる」という特徴があるからこそ「存在しない事の証明」が可能になるのです。現実問題として世界中のカラスを捕まえるのは不可能ですが、数学の世界では相手が無限に存在していても、その全てを「捕まえる」事が可能であるのです。
但し、数学の世界でも「捕まえるのが可能でない」場合も沢山あります。その場合には、たとえ数学といえども「証明できない」となるのですね。要するに「考えられる全ての場合において検証し得た時に初めて『否定の証明』が可能となる」という点に関しては、数学であろうと無かろうと、結局は同じ事なのです。
但し、数学の世界でも「捕まえるのが可能でない」場合も沢山あります。その場合には、たとえ数学といえども「証明できない」となるのですね。要するに「考えられる全ての場合において検証し得た時に初めて『否定の証明』が可能となる」という点に関しては、数学であろうと無かろうと、結局は同じ事なのです。
以上より「それは悪魔の証明である」という指摘(批判)に対して、数学の話を持ち出して反論するのは、的外れだと言えるのです。
もう一つ別の話をしましょう。
「ホメオパシーが効かない事は科学的に証明されている」「血液型と性格は関係ない事が科学的に証明されている」という言い方はおかしいのではないか、それは悪魔の証明をしている事になるのではないか、という意見に対してです。
確かにそうした意見にも一理あります。「ホメオパシーには全く効果は無い」「血液型と性格との間には全く何の関係も無い」という事を証明するのは、不可能と言って良いほど困難です。
だからと言って、何も言えないという訳ではありません。「全く無い」という事は言えなくても「非常に少ない」ですとか「実用上は無いと言って差し支えない」とかのレベルでの証明なら可能なのですから。血液型性格判断やホメオパシーの効果の如きは、そうしたレベルに於いて「無い」と証明されているのです。これは「程度問題」の話です。
某血液型の人などは、この程度問題を絶対に認めようとしません。それも当然で、彼の主張全体が「無いとは言い切れないだろう」という点に依存していますので、何が何でも認める訳にはいかないのでしょう。
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もう一つ別の話をしましょう。
「ホメオパシーが効かない事は科学的に証明されている」「血液型と性格は関係ない事が科学的に証明されている」という言い方はおかしいのではないか、それは悪魔の証明をしている事になるのではないか、という意見に対してです。
確かにそうした意見にも一理あります。「ホメオパシーには全く効果は無い」「血液型と性格との間には全く何の関係も無い」という事を証明するのは、不可能と言って良いほど困難です。
だからと言って、何も言えないという訳ではありません。「全く無い」という事は言えなくても「非常に少ない」ですとか「実用上は無いと言って差し支えない」とかのレベルでの証明なら可能なのですから。血液型性格判断やホメオパシーの効果の如きは、そうしたレベルに於いて「無い」と証明されているのです。これは「程度問題」の話です。
某血液型の人などは、この程度問題を絶対に認めようとしません。それも当然で、彼の主張全体が「無いとは言い切れないだろう」という点に依存していますので、何が何でも認める訳にはいかないのでしょう。
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ちっとも本質的な話ではありませんが、アルビノのカラスは、実在します。
返信削除http://www.google.co.jp/images?q=%83A%83%8B%83r%83m+%83J%83%89%83X&biw=1106&bih=642
ただ、やはり視力が弱いのでしょうか、自然界では長く生きられないようです。
こんばんは、mimonさん、いらっしゃいませ。
返信削除コメント有難うございます。
アルビノカラスの画像も結構あるのですね。興味深いです。
まぁ、確かに仰る通り、本質的な話ではありませんが(笑)
こんにちは。なんとなく納得しましたが、少し首を傾げるところもあります。
返信削除確かに、PseuDoctorさんの言いたいことは良く分かります。私も、「某血液型の人」の主張は無理があると考えます。
ちなみに「某血液型の人って誰ですの?という質問は避けておきます。
延々自論を述べる御本人さまが現れて、PseuDoctorさんを疲労困憊させる恐れがあるからです。
しかも、その投稿者は、「このブログの議論は、レベルが低い。もう、愛想が尽きた。」と言う感じの台詞を述べて自ら去っておきながら、その後も知らぬ顔で普通に登場するかも知れません。「こんにちは。また来ました。てへ!」
ところで、ABO FANさんの主張が科学的に駄目であったとしても、その他のニセ科学が好きな人たちはどうでしょうか?
科学的見地から駄目だと指摘されているのもかかわらず、「いや、論理的にはありえるのだ!」と言い張る人を、どう思いますか?
もちろん、ガンダム風に切り捨てますよね。「素人め、科学が遠いわ!」と言う感じですよね。
ニセ科学批判に釣られ続けた「社会学玄論」と言うブログを、どう思いますか?
「ジョジョの奇妙な冒険」のシュトロハイムさん風のリアクションを、取りますよね。「ニセ科学批判批判?ああ、メタな視点でニセ科学批判を語ってくれる、貴重な助言者たちのことですよね。私も、興味深く読んでいるところです・・・って、読んどる場合かー!」
もう、お分かりですよね。世の中には、科学とは別の視点もあるのです。まさに過去の科学者は、様々な視点で自然現象の解明に挑みました。数々の新発見で、当時の常識を塗り替えました。私が若い頃に耳にしたホメオパシーの話も、200年を経た今ではニセ科学と化しました。
というわけで、今はニセ科学でも将来はマトモな科学に成るのです。話がつながっていますね。
現実の社会を、見てください。
己の直感を重視する人々は、「科学的には間違っているかもしれないが、論理的にはありえる。」と言う態度で、ニセ科学を受容しています。
サイエンスライターの鹿野司氏や、サイエンスコミュニケーターの内田麻理香氏も、現状のニセ科学批判には疑問を持っています。
現状のニセ科学批判者は、「苛烈な水伝批判集団」とか、「科学教の狂信者」などと言われてグウの音も出ない人たちばかりです。
誤解を解くためにも、ニセ科学批判者は科学絶対主義を捨てましょう。
「波動の江本勝氏やEMの比嘉照夫氏の主張も、科学的には間違っているが論理的にはありえる。だから、とことん付き合ってあげようではないか、私の人生を費やして。」これが、正しい科学思考です。
PseuDoctorさん、「有機農法を試したが、手間がかかる割りに収穫が少なかった。慣行農法に戻る。」などと、言っている場合ではないのです。
そして、「某血液型の人」であるABO FANさんのことを、「都合が悪いと話をそらす人」「不毛な会話を長引かせ、対話相手を思考の彼岸に送る人」「まさにコメント欄における一人92式戦車橋」「もはや議論のできない人」「童話のオオカミ少年状態」「人工無脳」「kikulogで早すぎる反応を求めた人。なかなか笑ってくれない客に逆切れする若手芸人ですか、あなたは?」などと言ってしまうPseuDoctorさんは、この記事の本文内容を批判的に再検証してください。
なお、私は単なる傍観者なので、自分の意見の再検証は免責されます。それでは、次の台詞で失礼します。「我々の主張が、ソースと共にあらんことを。」
こんばんは、TAKAさん。コメントの公開が遅れて済みません。
返信削除さて、TAKAさんのコメントを拝見して幾つか思うところはあるのですが、取り敢えず
「科学者は果たして科学絶対主義者なのか?」と
「何の為にニセ科学批判をするのか?」
というあたりについては、当初の予定通り、いずれ記事にする予定でおります。少々お時間を頂きますが、また読んでくださいね。
悪魔の証明の特性を理解してて、悪用する人もいますよね。
返信削除記者「○○は、あるんですか?ないんですか?」
△△「(あっ、悪魔の証明できる、これなら断言できる!)○○は、ありまぁす!」
など。
>七紙774さん
削除いらっしゃいませ。
コメント公開とお返事が遅くなって済みません。
仰るのがSTAP細胞の件だとすると、私は小保方氏本人よりもむしろ擁護する人達の方に「悪魔の証明の悪用」を感じました。
「あります!」と言い切った以上「ある」事の証明が求められます。本人もその程度の事は承知していた筈だと思います。むしろ問題は、いつまで経っても「ある」事の証拠が出てこなかった時期に「だからと言って無いとは言えない、無いと言うならそれを証明しろ」という論法で彼女を擁護していた人達が居た事です。
そういう言い分が堂々と公言されてしまうのは怖い事だなぁ、と当時は感じていました。