コミケを風疹から守り隊

2012年10月8日月曜日

P02-07: ダメな「ニセ科学批判批判」と良い「ニセ科学批判批判」

初回公開日:2012年10月08日
最終更新日:2012年11月06日

(11月06日追記:コメント欄での摂津国人さんの御指摘を考慮した結果「当事者性」と記した部分の多くを「当事者意識」と改めます(但し全てではありません)。コメント欄も御参照ください)


1.「ニセ科学批判批判」という言葉


「ニセ科学批判批判」という言葉は、文字通りに取れば「ニセ科学批判に対する批判」です。ですからその中には「不毛な議論を呼ぶダメな批判」も「耳を傾けるべき提言」も含まれている筈です。しかしながら、私自身と私の知る何人かの方々は、この言葉を否定的なニュアンスで使う事が多い様です。おそらくその原因は、ダメな批判批判に悩まされてきた経験が多いからでしょう。その為、批判批判という言葉を色付きで見てしまいがちなのです。
もっとも、色付きで見られるといえば「ニセ科学批判」という言葉自体がそうだとも思えます。


改めて簡単に書きますと
ニセ科学批判:ニセ科学を批判する事。個別の批判行為の総体。「スポーツ」という名前のスポーツが存在しないのと同じ意味で「ニセ科学批判」という名前の行為は存在しない。
ニセ科学批判批判:ニセ科学批判を批判する事。ダメなものも良いものもある。
となります。


そこでここでは、ダメな批判批判と良い批判批判を選り分ける試みをしてみたいと思います(勿論「選り分ける」と言っても、グレーゾーンを挟んだグラデーションで繋がっている・・・と考えるのは、いつもの事ですが)。



2.ダメな「ニセ科学批判批判」の例と、ダメな理由


ダメな「ニセ科学批判批判」の例に関しては「ニセ科学批判まとめWiki」の中の、このページにまとめてあります。詳しくはそちらを見て頂くとして、ここでは「なぜダメなのか」についてもう少し考えてみたいと思います。
手始めに、ニセ科学批判批判に限らず、もっと日常的にみられる「ダメな批判の例」を幾つか示してみましょう(上のWikiに書かれた内容とも共通する部分はあります)
例えば、
わざわざそんな事に手を出さなくても、放っとけばいいんじゃないの?
そんなやり方じゃダメだよ
くだらない事やってるね
そんなの信じる人いないし
どうでもいいじゃん、俺は引っ掛からないよ
こういうのは、ダメな批判ですよね。もはや批判というより、単なる悪口と言った方が良いかもしれません。

では、何故「ダメ」なのでしょうか。
幾つか原因はあるとは思いますが、私が最も重視したいのは「実践しない立場からの意見だから」という点です。自分で実践している人、完全に同じ目的ではなくても、共通する部分のある内容を実行している人は、あんまりこういうダメな批判をしません。たとえ「そんなやり方じゃダメだよ」と言ったとしても、その後には「こうすればいいかも。自分はそうしているから」という具体的な話が続いたりします。

この様に述べてくると「じゃあ、自分でやらない人は何も意見しちゃいけないのか」という反論が出てくるかもしれません。しかし、そうではありません。「自ら実践していなくても意見を言って構わない、むしろ言うべき場合」もあります。
どういう時かと言いますと、それは「利害関係者である場合」です。つまり、ニセ科学により被害を蒙った人の言葉であれば、たとえ自分では何もしていなかったとしても、その言い分には拝聴する価値があります。また逆説的ではありますが、ニセ科学により利益を得る人の意見からも、何かしら得るもの(例えば反面教師であるとか、批判側が自らを改善するヒントとか)はある筈です


以上をまとめると「当事者当事者意識の欠如した批判はダメである」という事になります。その点を頭に置いたうえで、再度、先程示したダメなニセ科学批判批判の例を見て頂くと、何となく腑に落ちるかもしれません。


3.当事者とは誰か


前項の後半で述べた「当事者性当事者意識」について、もう少し詳しく述べます。
大雑把に言って、ニセ科学批判の当事者には3種類あると考えます。即ち、
1)ニセ科学を広める人(提唱者、信奉者)
2)ニセ科学の被害者(予備軍を含む)
3)ニセ科学の批判者
の3つです。

ひとつ注意すべきなのは、時に1)と2)の境界が不明瞭である事です。ニセ科学を信じ込んでしまった人は、第一義的には被害者ですが、他者を巻き込む事によって、同時に加害者になる可能性を秘めています。これはニセ科学問題の重要な側面であり、悪徳商法やカルト宗教、そして放射線関連デマの拡散などにも共通して見られる現象です。
ですから、ここは考え方次第なのですが、1)と2)の重なりを強く意識するのであれば、1)を更に「提唱者及びそれに近い人々」と「信奉者」に分けるべきかもしれません(但しその場合でも、やはりその2者の境界が不明瞭であるという問題は生じる訳です)。

さて、ここで当事者性当事者意識を最大限に見積もるには「誰でもニセ科学の被害者になり得る」と考えれば良いでしょう。そうすれば、殆どの人が2)(の予備軍)に含まれる事になります。
その場合、2)(の予備軍)としての意見、即ち自分もいつ被害者になるか解らない」という立場からの意見には当事者性当事者意識が有ると言えます。その一方で「自分が被害者になる筈が無い」という立場からの意見(例えば「騙される奴がバカなんだよ」という意見など)には、当事者性当事者意識が欠如していると言えるでしょう。

4.ニセ科学批判者の当事者性当事者意識について
(10月14日追記:当事者性については、コメント欄での議論も是非お読みください)

ところで、ここまで読まれた方の中には「そんな事を言うなら、一番当事者性当事者意識に欠けているのは、当のニセ科学批判者なんじゃない?だって、所詮、他人事でしょう?」という意見があるかもしれません。
確かに、一理あります。
しかし、この意見には3つの点から反論が可能です。

1つ目は「ニセ科学の批判者の多くは、かつてニセ科学の被害者であった(一部は、加害者でもあった)」という点です。
これには様々なレベルがありますし、個々人によって事情も違うでしょう。私自身の例を簡潔に述べれば(既に御存知の方もいらっしゃいますが)、私もかつては超能力やオカルトに傾倒していた時期がありました。

2点目は「批判行為それ自体が、当事者性を帯びる可能性を持つ」です。言い換えれば「批判する事によって、自ら当事者である事を選び取る」とも言えます。

そして3つ目は「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」という考え方です。ニセ科学が蔓延すると社会全体のコストが増加し、社会の構成員全体がそれを負担しなければならなくなります。実は、こうした例は枚挙に暇がありません。
例えば「EM菌で放射能除染」というのが広まると、無駄なお金を使うだけに留まらず、本来必要な除染が遅れるという事態にもなりかねません。また「悪性腫瘍などの重い病気をホメオパシーでしのぐ」という人が増えると、手遅れになってから病院に来る例が増えます。本人や周囲の人々が酷く苦しむだけでなく、最初から病院に行った場合に比べ、より多くの医療リソースを消費してしまうという問題に繋がります。
我々はどうしても自分の目の届かない所で起こっている事態は軽視しがちですので、こういう「目に留まりにくい部分」にも気を付けた方が良いと考えます。

勿論、世の中には、上記の様な立場を取らずに「所詮、他人事」としてニセ科学に対する批判を行う人も居る事でしょう。しかし、それはやはり「ダメな批判」なのです。ニセ科学批判であれ、ニセ科学批判批判であれ、当事者性当事者意識を欠如した批判行為は、ダメな批判である確率が非常に高くなると言えましょう。

これを一言で(格好良く)述べるならば「空疎な理念しか述べない評論は、実践の役には立たない」とでもなりましょうか。
但し、あくまで学問(あるいはディベート、もしくは頭の体操)として行うのであれば、その限りではありません。


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16 件のコメント:

  1. 当事者性、と云うか、当事者意識みたいな話はわりとややこしくて。

    ニセ科学に対する批判的な言説は、おおむね個別のニセ科学に対して、その社会との関わり合いにおける問題点に向けられます(その「社会」がある限定的なコミュニティであれ、よりグローバルなものであれ、また当事者性の濃淡はあれ)。なので、批判的な言説を発するものがその社会における当事者であり、したがってその社会において基盤とされている「科学」と云うものに対しても当事者である、と云うのが前提となります。もちろんそこから出発してよりメタな方向に議論が展開することはありますが、立脚点はそこです。

    ただし、いわゆる「批判批判」をおこなう側は、かならずしもそうではない。論者によっては、勝ち負けを競うための単なるディベートの材料としか捉えていないケースもある。そうすると、「批判批判」を受ける側は、結局なにが目的なんだこのひとは、みたいになってしまって、致命的な齟齬が生じたり。

    このへんの話は、うちではこのあたりで書きました(例によって、コメント欄の議論のほうが充実しています)。
    http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-29
    http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-01-31

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    1. >Poohさん
      有り難うございます(3つの意味で)

      1つめは勿論、お越し頂いてコメントまで頂いた事に対して。
      2つめはコメントの内容に対して(後述します)。
      3つめはPoohさんの過去記事を御紹介頂いた事に対して。そうなんです。Poohさんの所では色々な話を沢山致しました。何処で何を話したのか記憶は曖昧になっていましたが、それでも何となく頭の中に残っていたのが今回の記事にも繋がったのだと思っています。

      とは言え、はっきり申し上げれば、今回の私の記事は「説明不足」でした。
      本来であればニセ科学批判の「動機ないし理由」及び「意義ないし目的」についてキチンと述べた上で、その先にある議論として論ずるべきだったのだろうな、と思います。しかしながら、そういった話はこれまでにPoohさんの所やkikulogやTAKESANさんの所でそれなりにしてきた上で、ある程度まとまった文章を「ニセ科学批判まとめWiki%作成中」に書きましたので、自ブログでは後回しにしてしまった部分でもあります。
      その意味では、Poohさんが御紹介くださった過去記事(とコメント欄)をお読み頂ければ、私が今回の記事で示した様な考えに至った経路も多少は御理解頂けるかも、と期待しています。まぁ本当はそんな横着をせず、さっさと自分でニセ科学批判の「動機」「理由」「意義」「目的」について書けば良いんですけど、折角ですから、ここはちょっと集合知に甘えさせてください。
      それにしても、どちらの記事にも私が最初にコメントしていたのですね。懐かしいです。

      さて、では改めて、頂いたコメント自体について述べます。

      >ニセ科学に対する批判的な言説は、おおむね個別のニセ科学に対して、その社会との関わり合いにおける問題点に向けられます(その「社会」がある限定的なコミュニティであれ、よりグローバルなものであれ、また当事者性の濃淡はあれ)<

      これは重要な指摘です。その御指摘の対偶(に近いもの)を取るならば「社会との関わり合いが全く存在しない場合には、ニセ科学に対する批判は(ほぼ)成立し得ない」と述べる事も出来るでしょう。そしてそれは、単なる「科学的な間違いの指摘」にすら、当て嵌まります。
      この事は、例えば、全く社会と隔絶して生きている世捨て人ないし仙人の如き科学者を考えてみれば解るでしょう。完全に社会と隔絶しており「自分だけが真実に到達出来れば良いのだ」と考えている人は、たとえ他人がどれほど愚かな間違いを犯している(事をたまたま知った)としても、別に訂正する必要性を感じないでしょう。
      もしも敢えて事実関係を訂正するのであれば、それはおそらく「全く自分に関係の無い他者であっても、間違えたままであるよりは真実に近付いた方が良い」という価値観の発露でしょう。あるいは単に「尊敬されたい」という俗な気持ちかもしれません。
      いずれにしても、その様な考え方自体が、社会との関わりを生むのです。一旦その様に考え、かつ、行動してしまった以上、もはや社会との関わりが無いとは言わせません。

      >なので、批判的な言説を発するものがその社会における当事者であり、したがってその社会において基盤とされている「科学」と云うものに対しても当事者である、と云うのが前提となります。もちろんそこから出発してよりメタな方向に議論が展開することはありますが、立脚点はそこです<

      そうですね。特にその部分が、今回の私の記事が言い足りない点だと考えます。今回は、比較的個々人に近いレベルから出発して当事者性を論じた為に、それを社会全体に広げていく過程で論理の飛躍が生じてしまい、一部の読者に詭弁じみた印象を与えてしまったのではないかという反省はあります。仰る様に、最初から社会全体の話として(も)ニセ科学批判の当事者性を論じるべきでした。その様にして、個人レベルと社会全体の話の双方から当事者性の大切さを論じれば、より説得力が高まったかもしれない、と感じています。

      >ただし、いわゆる「批判批判」をおこなう側は、かならずしもそうではない。論者によっては、勝ち負けを競うための単なるディベートの材料としか捉えていないケースもある。そうすると、「批判批判」を受ける側は、結局なにが目的なんだこのひとは、みたいになってしまって、致命的な齟齬が生じたり<

      はい。これはおそらく、継続的に批判的な言説を成している論者であれば、多かれ少なかれ経験のあるところだと思います。
      ここで少し注意した方が良いと思うのは「ニセ科学批判の形式を取ってディベートを仕掛ける事も出来る」という点です(あるいはもしかしたら、私の事をその様に思っている方も、何処かにいらっしゃるかもしれません)。つまり、社会との関わり合いの要素を完全に無視して、単なる知的遊戯としてニセ科学批判を行うのも可能であるという事です。
      ただ、実際には、知的遊戯としてニセ科学批判を行っている人は少ないと考えます。何故なら、あまり面白くないからです。ニセ科学が科学的に間違っている事は自明であり決着していますから、ディベートにはなり難いのですね。その意味ではやはり「批判批判」の方がディベートのテーマとしては遥かに魅力的でしょう。

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  2. tonmanaanglerさんに言及頂きました。
    http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20121010/1349872737
    反応すべきかどうか少し迷いました。と言いますのは、全体的に主旨が掴み難かったからです。

    まず「ニセ科学」という用語について。定義の問題に深入りし過ぎるのは不毛なので「疑似科学」でも良いのですが、それでも私が「ニセ科学」という言葉を使うのは、菊池誠さんのお考えと同様に、それが「価値判断を含む言葉」だからです。つまり「ニセ科学」という言葉を使った時点で、既に「批判すべきもの」というニュアンスが込められているのです。少なくとも私はその様に使用しています。
    で、tonmanaanglerさんは、その点を御理解頂いている様子。何故なら

    >否定的な意味が含まれていることになります<

    とお書きになっているからです。
    ところが一方では

    >「ニセ科学」を批判するのは当然だという前提で語られることには違和感があります<

    ともお書きになっておられます。これでは御本人が「ニセ科学」をどの様な意味に捉えておられるのかが不明です。

    まさか私が菊池さんの定義とは違う意味で「ニセ科学」という言葉を使っていると思われているのではないでしょうね。いや、案外そうなのかもしれません。何故なら

    >「ニセ科学」という言葉は菊池誠教授が使う前から使用されていたものであり菊池教授の「定義」に従わない「ニセ科学」の使用法もあります。したがって定義が明言されていない場合、どういう意味で使っているのかわからないという、かなりグダグダな状況になっていますが<

    と書かれているからです。
    しかしながら私は寡聞にして、明示的に菊池さんの定義とは異なる定義を採用している論者を存じ上げません。一般的に用語というものは人口に膾炙していくにつれて意味合いが拡散していくものであり、御他聞に漏れず「ニセ科学」にもそういう傾向があります。しかしそういう話をなさっているのではないですよね?あるいは、こちら
    http://togetter.com/li/5517
    で述べられている様な、歴史的な話をしているのでしょうか。しかしそれでは「グダグダな状況」という表現に合致しません。
    結局ここでも、何が仰りたいのか不明なままです。

    引用が前後しますが

    >「ニセ科学を批判する」という行為そのものが科学の範疇を超えたもの<

    これは当然です。余りにも当たり前過ぎて、意識すらしていませんでした。
    ですから、

    >だからといって「ニセ科学」を批判してはいけないということにはなりません<

    これも当然です。何で今更わざわざこんな事を仰るのか、ちょっと理解に苦しみました。

    >それは現代日本においてはそうであるということです。もちろんアメリカその他の先進諸国においてもそうなのでしょうが、絶対的普遍的なものではありませんし、科学的に正しさが証明されるような性質のものでもないでしょう<

    はい、これも当然です。私がわざわざ不慣れな法律論まで持ち出して説明したのは「現代社会においてはそうなっている」という説明をする為です。もしも「ニセ科学を批判する事が科学的真理」なのであれば、こんな楽な話はありません(これは当ブログの1つ前の記事にも繋がる話ですが)。
    もしかしたら、tonmanaanglerさんは「どこかに『ニセ科学批判の正当性を科学的に証明する事が出来る』と主張している人が居るので、それに反論すべきだ」とお考えなのでしょうか。いやぁ、そんな人は居ないと思いますよ(もし居たら教えてください)。

    >俺が考える疑似科学が否定されなければならない理由は「現代社会では科学が有益なものとして大多数に支持されているから」というものであります。現代社会はそういう社会なのだから、それにたとえ同意できなくても従わざるをえません<

    えぇ、それで良いと思いますよ。それが理由の全てだとは私は思いませんが、それを主たる理由になさっている人も当然いらっしゃると思いますので。

    >ただ、この記事を読んでそれを読み取れる人がどれだけいるだろうかということに疑問を感じる<

    ニセ科学を批判する理由は「人それぞれ」です。その意味で、tonmanaanglerさんと同様の理解に達しない人の事を御心配なさる必要性は薄いと考えます。
    あるいは「今回の記事では説明不足だ」という御指摘でしょうか。もしそうであれば、上のPoohさんへのお返事にも書きましたとおり、それは至極ご尤もな御指摘ですので、謹んで精進致します。

    ところで「tonmanaanglerさん」って何処かで聞いたお名前だな、と思ったら、Poohさんが何度か言及なさってた方でした。
    http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=tonmanaangler
    また、ブログ名とかも含めて、別のところでも聞いた様な気がしていますが、ちょっと何処かは思い出せません。

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  3. 一時期、わりあい積極的に「ニセ科学批判批判」の議論に対してコミットしようとしていた時期がぼくにはありました(そう云うレイヤーの議論が、わりとぼくの任だろう、と思って)。そのとき感じたのは、相手の論者が「観客席からの議論」をしている場合がけっこう多い、と云うことだったりしたんですよね。
    「要は、あなたはどう思ってるの?」と投げかけても、返事が返ってこない。「おまえらの問題について議論してるんだから、おれ自身がどう考えているかなんて関係ない。でも客観的にはこうだ」みたいなスタンスですね。あらかじめ、議論の当事者から自分を外しておく。
    これって、議論において自分自身が負けないようにするために、あるいは自分の云いたいことを極力責任を負わずに云いっぱなしにするためには上手な方法なのかもしれませんが、話の進めようがなくて正直困惑するんですよ。あなた、いまこの場でぼくと議論をしてるんじゃないの? どこにいるの? みたいに。
    これは「魂のありかた」みたいな話じゃなくて、いまそこで自分が展開している議論に対する姿勢、って話なんですよね。

    たぶん「当事者性」と云うのはこう云う水準の話でもあって。この社会に暮らしていて、日常のなかで科学に生活を支えられているはずの「あなた」はどこにいるの? みたいな感じですかね。

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    1. >Poohさん
      おぉ、今度は「個」レベルの話ですね。何だか催促しちゃったみたいになって済みません、有り難うございます。
      お話を伺っていると、どうも「自らの当事者性を外す」事と「論の客観性を保つ」という事の区別が付いていない方がいらっしゃる様に思えてきます。

      最近は学会発表などでも「利益相反の有無」の開示を求められる事が増えてきました。これは企業からの援助を受けて研究する事が増えてきているからであり、まぁ国が研究費を削り続けているのが一因なのですが、それはそれとして。
      そこで求められているのは「利益相反を明示する」事です。言い換えれば、「利害関係がある」事が悪いのではなく「利害関係があるのに隠す」事が悪いのだと言う判断です。それと同じ事だと思うのですね。
      つまり、本来は社会の一員である以上当事者性を免れないし、増してやコミットした時点で当事者性は更に強くなっている訳です。にも関わらず、敢えて当事者性を無視する。それはおそらくPoohさんの仰る様に「負けない議論」もしくは「言いたい事を言いっ放しにする」為なのでしょうが、もしかしたら本人は「客観性の担保である」という言い訳を用意しているのかもしれません。
      しかし、その言い訳は通らないと思います。
      何故なら、私は「自らの当事者性にキチンと向き合った上で、その分を差っ引いた議論をした方が、むしろ客観性は高まる筈」と考えているからです。

      その様に考えてくると、改めて「観客席からの議論」という比喩は上手いと思います。本当は自分もプレイヤーの一員である筈なのに、スタジアムのフィールドに立っている筈なのに、何とか観客席に座ったままで居ようとしている。そんな感じを受けます。

      まぁそんな訳で、レッテル貼りになりそうな危険を冒しつつ敢えて言うならば「象牙の塔に篭ったまま世俗とは無関係に生きていけると信じている人」ですとか「そうした学問のみで生きていける立場に対する憧れを捨てきれないでいる人」とかが批判批判に手を染めた場合に、ダメな論を展開する確率が高まるのだろうな、と感じています。

      後、これは完全に余談なのですが「当事者性」の話になるとどうしても私が心穏やかでは居られなくなる理由の1つに「過激で極端な反原発原理主義者」を思い出してしまうから、というのがあります。彼らは二重の意味で「当事者性を拒否している」と考えます。
      1つめは「震災被害や被災者は所詮他人事」と思いたがっている点、そして2つめは「原発停止による電力不足を自分達の問題として考える事を拒否している」点です。つまり、元々他人事として考えていたのみならず、自分達の問題として考える事を積極的に拒否している、そう思えてならないのです。
      「自分達の問題と考えるからこその反原発運動だ」という考え方もあるでしょうが、私はその意見は採りません。何故なら「過激で極端な反原発原理主義者」がやっている事は「原発の拒絶、及び、極微量の放射線の拒絶」であって、とにかくひたすら自分達に累が及ぶのだけは避けようという態度にしか見えないからです。

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    2. 何度もしつこくてごめんなさい。

      この「観客席からの議論をしない」と云うのは、批判者側も肝に銘じておく必要があることではあるんですよね。まず言説をおこなう自分があり、社会があり、科学があって、そのうえで(それらの間にある相互の関係性を意識しながら)語らなければいけないし、議論しなければいけない。「科学の代弁者」に自分を擬してしまってはいけないんです(これは、ある論者とのそこそこ長いもめごとを通じて学んだことです。その論者は女性らしくて、さまざまな「女性がこうむる被害」を論じることが多いかたなんですが、そこでまず「みずからが女性であること」を立脚点にする。そのうえで、まず彼女に対する反論は女性差別的であり、セクシュアルハラスメントである、と云うことを前提にしばしば論戦を展開しようとするんですね。つきあわされる方はうんざりします)。
      そこに正義はあるかもしれないけど、それはどの陣営に属しているかで決まるわけではない、と云うのは意識しておかないと、通じるはずの話も通じなくなってしまいます。

      「過激で極端な反原発原理主義者」には、ふたつのケースがあるように思いながら見ています。ひとつは自分の善意に対してなんらかの理由でひっこみがつかなくなってしまったひと、ひとつは別の目的があるひと(一部のアカデミシャンに見られるように思います)。前者については当事者性がなかった、と云うより、どこかで失ってしまった、ってことのように見えます。

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    3. いえいえ、しつこいなんてとんでもないです。

      >「観客席からの議論をしない」と云うのは、批判者側も肝に銘じておく必要があること<

      そうですね。これは本当にそう思います。と言いますのも、科学者や科学に詳しい人の方がむしろ「観客席からの議論」をしがちな傾向にある様に思ったりもするからです。
      何故なら、完全に科学の土俵に乗ったうえでの議論であれば、その場合には価値観を差し挟まずに事実関係のみの議論をする事も可能だからです。その様な議論が行われている際には、観客席から意見を述べても良いでしょう(まぁ、科学の議論であっても、必ずしもそれが出来るとは限らないのですが、それはまた別の話です)。
      ですから、科学の議論に慣れていればいるほど、観客席からの議論に馴染み深くなる傾向があると考えます。
      しかし、ニセ科学批判の文脈は、科学の議論とは大きく状況が異なります。単なる事実関係の議論を行おうとしても、仰るように、常に自己と社会との関わりを意識していくべきでしょう。
      そうした違いを認識出来るかどうか、それがポイントだと思います。

      また、Poohさんの御経験の部分を伺って、改めて感じたのは(常日頃から感じている事ではありますが)「目的は手段を正当化しない」「敵の敵は味方とは限らない」という事です。確かにニセ科学批判の大きな目的の1つに「社会正義の実現」というものがあります(但し、それは全てではない。いや、全てではないどころか、もっと身近で小さな理由の為にニセ科学批判をしている方は沢山いらっしゃる筈です)。
      しかし、だからと言って「あらゆる社会的正義の実現の為にニセ科学批判を援用して良い」訳ではありません。それは言うなればニセ科学批判の「目的外使用」に当たります。

      話を戻しますと、今回のお話は紛れも無く批判者側が心しておくべき点の指摘です。即ち、良い「ニセ科学批判批判」の実例であると言う事が出来ます。その様な例をお示し頂いた事に、感謝申し上げます。

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  4. この記事に対するはてブコメ
    http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fpseudoctor-science-and-hobby.blogspot.com%2F2012%2F10%2Fp02-07.html
    のうち、幾つかにお返事致します。

    >id: ROYGB さん
    >“ダメなものも良いものもある。”と書いたあとにダメな例しか出さないのはバランスが悪いような。<

    うーん、そうですね。理由は2つありまして。1つは、やはりダメな例に悩まされている、というのが大きいです。そしてもう1つは、下手に良い例を出しても「仲間内の馴れ合い」と取られかねないと危惧したからです。
    ・・・などと言っているうちにコメント欄でも議論が進みまして。上の方にあるPoohさんの御意見などは「良い例」ではないかと思います。Poohさんはどちらかというとニセ科学批判者として認識される事の方が多いとは思いますが、にも関わらず(だからこそ)ニセ科学批判に対しても批判的な意見をくださっています。

    >id: houyhnhm さん
    >うーん、いつの間にか魂の在り方問題になってる。そりゃダメだよ。<

    「そりゃダメだよ」という言い方を故意にお選びになったかどうかはともかくとして、御意見が成り立つ為には、厳密には
    1)「魂の在り方問題とは何か」(定義)
    2)私の論が「魂の在り方問題」に該当するかどうか(前提)
    3)「魂の在り方問題」であれば「ダメである」が真かどうか(導出)
    の3点が必要です。
    まず1)に関しては、何となく解る様な気もします。「問題の倫理的側面」もしくは「心構え」という様な意味でしょうか。しかし、失礼ながら「魂の在り方問題」という用語は一般的なものとは思えませんので、あるいは思わぬ理解の齟齬があるかもしれません。その点が明らかになったうえで改めて、2)と3)を満たしているかどうかが問題になると考えます。
    ちなみに、10/12付けのコメントでPoohさんが「これは「魂のありかた」みたいな話じゃなくて」と仰っています。これがhouyhnhmさんの仰る「魂の在り方問題」と同一のものを指しておられるのかどうかは不明ですが、仮に同一のものだとすると、Poohさんの仰るのは2)の部分に対しての反論という事になります。

    >id: settu-jp さん
    >乱暴な論考に見える。事実関係への批判批判は当事者性は不要だし米国アフリカ等の創世科学系の批判には日本人は殆ど当事者性はない。論理と倫理の説得力の在り方の違いを混同しているのでは?<

    まず「乱暴な論考」に関しては、少なくとも「説明不足である」という点はは既に認めております。それ以外の点については、以下に記します。

    次に「事実関係への批判批判は当事者性は不要」についてです。「事実関係への批判批判」とは「批判者の事実認識が誤っている場合に、それを指摘する」という意味だと思われます。その様な「単なる事実の指摘」が批判批判に含まれるかどうかについても議論があるかとは思いますが、ここでは批判批判を広く捉えたいと思いますので、含まれるとしましょう。
    そうすると、果たしてその場合に「当事者性は不要」なのかどうかが問題となります。上のPoohさんとの議論でも出ておりますが、たとえ単なる事実の指摘であっても、それを敢えて行った時点で、もはや当事者性とは無縁では居られないと考えます。
    この事は「ニセ科学に対する批判行為を継続的に行っている論者」のうち、少なくとも一部の方は実感として感じておられると思います。客観的な事実の指摘を行っただけで、個人情報を晒されたり職場に電凸されたり、果ては訴訟恫喝までされる様な状態で「事実関係の指摘なら当事者性は不要」と言われましても、首を傾げざるを得ません。
    確かに、純粋な学術の世界であれば「事実の指摘には当事者性は不要」な場合もあるでしょう。しかしニセ科学を純粋な学術問題として捉えるのであれば、ニセ科学がニセである事は(ほぼ例外なく)学術的には決着が付いています。ですからニセ科学そのものを純粋に学術的な問題として論ずるのは極めて困難です。

    それから「米国アフリカ等の創世科学系の批判には日本人は殆ど当事者性はない」について。本当にそうでしょうか?例えば米国で創造科学を理論的後ろ盾にしたキリスト教原理主義者が政治力を持ち大統領を輩出する可能性については如何でしょうか。これは決して有り得ない話ではありません。それでも「日本人は殆ど当事者性はない」と言っていられますか?あるいは(創世科学とはズレますが)アフリカで子供達が「魔法使い」呼ばわりされて虐殺されている事例はどうでしょうか。遠い国の出来事だから日本人に当事者性は無いですか?例えば原発事故への反応(の一部)を見ていると、日本人の中にも「迷信等の非合理的なものに過度に振り回されてしまう心性」が存在すると思えてきます。間接的ではあれ、そういったものに対する批判であると捉える事も可能ではないかと思うのです。
    どうか、私が本文中で「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」と書いた事の意味をお汲み取り頂ければ、と思います。

    最後に「論理と倫理の説得力の在り方の違い」について。これははっきり申し上げて、仰る意味が良く解りませんでした。理想的なニセ科学批判においては、論理的な説得と倫理的な説得の両方が必要です。しかしその双方を実用レベルで実践するのはとても難しい事です。ですから「混同している」というよりは「何とか両方とも手に入れようとしてもがいている」と理解して頂ければ幸いです。

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  5.  こんにちは、お邪魔いたします。settu-jpです。
     「ニセ科学批判」が必要な「批判」である事と、それが面倒で、実践が「もがかざるをえない」難しい事だというのは理解しているつもりです。
     それと「有る意味で当事者性の欠けるといえるダメな批判批判がある」という点は同意します。
        
     こちらが疑問に感じるのは「当事者性」の定義のブレと謂わば「恣意性」の部分です。
     記事本文特に「2.3.」では具体的で幅を狭めた限定的な定義としておられるのですが「4.」やコメント欄の部分ではむしろ拡大解釈に近い「社会にある誰しもが全ての当事者」とされている点です。
     「間接的」に「社会全体」を認めた場合には意味があやふやになります。 
     拡大解釈の「当事者性」によれば一部の「批判批判」に見られる「(重要な問題は別にあり)ごく一部のトンデモをあげつらう事は無意味で、表現の抑制につながりむしろ有害」等とする問題意識をも「当事者性」と出来ます。
     「ニセ科学批判」や「科学的な確からしさ」を相対化したい。「"政治的"な修辞」と「事実関係の適切な理解」を区別すべきでないとする「負けない為」の議論も「当事者性」を認められます。
     「社会のあり方」については多様な考えがあり、「優先順位」も異なります。「当事者性」の濃淡強弱も解釈で異なります。
     
     本文においては「ニセ科学批判」の優先順位を高くする事が前提とされています。
                
     厳密な「当事者性」と広義の「当事者性」に「グレーゾーン」があるにしろ文脈や関係において変わる「当事者性」を何らかの判断に用い、一般的に否定の論理とするのは「乱暴」です。
     自分が批判を行う際に広くとる事が出来、批判されると狭く出来るのだとすれば「恣意的」にしか見えません。
       
     「我々は現実に善い事をしている」のだから批判する場合は「敵か味方かはっきりしろ、敵じゃないなら邪魔をするな」が「当事者性」ならばこれは「ニセ科学批判の党派性」の表明になります。
      
     「ニセ科学批判」で時々語られる「ボランティアのゴミ拾いに外野からやり方を批判するのは無責任」は内容によっては妥当ですが「当事者」ではなくても 「それだと寧ろ汚れる」だとか「そのやり方は迷惑になる」という批判は可能です。
     「当事者性の欠けるダメな批判批判がある」は妥当だと考えますが問題は「ダメ」である部分で「当事者性」はその「ダメ」の要素であってそれのみで「ダメ」とするのは拡大解釈ではないでしょうか。
     言説一つ一つの主張と論理に対し「当事者性」が問題とされるべきかそうでないかは異なると考えます。
       
     そしてこれは「失言」だと考えますが
            
    >この事は「ニセ科学に対する批判行為を継続的に行っている論者」のうち、少なくとも一部の方は実感として感じておられると思います。客観的な事実の指摘を行っただけで、個人情報を晒されたり職場に電凸されたり、果ては訴訟恫喝までされる様な状態で「事実関係の指摘なら当事者性は不要」と言われましても、首を傾げざるを得ません。
       
     は、問題のある発言では無いでしょうか。
        
     先ず第一にあらゆる「批判」や「言論」「表現」行為において利害当事者や支持者からの反発や批判はあり、場合によっては不当な「実力行使」に出る人は居ます。
     「ニセ科学批判」のみに起きる事でも「正しいから」起きる事でもありません。
     書かれている件でも「ニセ科学批判」を理由に「実力行使」されただけとはいえず、具体的な言説の内容についての「商業上の利益」や「政治的な利害」によって攻撃を行ったともいえ、それを理由に「当事者性」を示されるのは「党派性」を盾にした混ぜ返しにしか見えません。
         
     場合によっては具体的な特定の個人の特定の言説に対する「不当な実力行使」を「ニセ科学批判」の「自分達」に対する攻撃として理解されるのは
         
    >「ニセ科学批判:ニセ科学を批判する事。個別の批判行為の総体。「スポーツ」という名前のスポーツが存在しないのと同じ意味で「ニセ科学批判」という名前の行為は存在しない。
                
     とも矛盾し、「ニセ科学批判の党派性」の表明になります。
     「ニセ科学に対する批判行為を継続的に行っている論者」の倫理的優位や既得権益を認めろという事にも読めます。
           
     独立した個人の言説においては個々の「状態」は別々の事で、ある正しさやある被害は別の正しさや別の「状態」に対する何らかの意味を持ちません。「実感」は「主観」です。
     例えば「仲間が弾圧された」を自分に対する「批判」への反論として述べる事は言論としては不健康なものでしょう。「自分」が誰かから恫喝されている、としてもそれは別の批判への正当な反論にはなりません。
     有る点で正しい言説によって特定の誰かから不当な扱いを受けたからといって、別の点での批判を他の人がする場合にそれを考慮すべきだとするのは論理的な「言論」ではありません。
     おそらく「愚痴」として書かれたのだと思いますが「反論」として用いるのは不適切な表現です。
          
     「ニセ科学批判」の論理的な正しさについては肯定しますが、「ニセ科学批判者」の倫理的な「正しさ」を前提にしているように読めます。これについてはある面では別個の物であるという認識は必要です。
     何かを伝える際に相手側に何か「踏み絵」を踏ませるような「立場の表明」といった要求は一般的に行うべきでは有りません。
     「当事者性」が特定の言説についての論点としては存在し、「だめな批判批判」の一例としてあげるのは適切でしょうが、本文についてはその点の説明が充分に行われていないと読みました。
        
     「科学的正しさ」は論理的にはほぼ確からしいとされるものですが科学に携わる者自身が常に論理理的にも倫理的にも正しいとはいえません。科学的に正しい「ニセ科学批判」を行う際にも何らかの誤認や個人的な動機による批判に値する言説を述べる場合も有ります。
     これを批判する場合に「ニセ科学批判への当事者性」を問うのは"科学的に正しい「ニセ科学批判」"の倫理的優位の乱用に思えます。
     失礼ながら「ニセ科学に対する批判行為を継続的に行っている論者」の方の「ニセ科学批判言説」に中にもおかしな意見が混ざる場合もあります。時に乱暴な物言いをされる方も居ます。
     特に科学に携わる方々にはわかりにくいような「間違い」を述べられた場合には「批判者仲間」からあまり批判も出ない場合があります。
     その際にその事象について何らかの知識や利害を持つ「ニセ科学批判に当事者性を持たない」側からの批判は「ダメ」といわれる筋合いのものではありません。
     この批判に対し「当事者性」を問うのは寧ろ「優先順位問題」に踏み込む事になります。
     「ニセ科学は科学的に自明に間違い」ではありますが「ニセ科学批判者は倫理的に自明に正しい」訳では無いでしょう。
          
     厳しい状況で悪戦苦闘されていることについては敬意を持ちますし理解もしようと思いますが、こちらの文章については批判させていただきました。失礼ご容赦ください。

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    1. >摂津国人(settu-jp)さん
      いらっしゃいませ、こちらでは初めまして(確かapjさんのところでお見掛けしたと記憶しております)

      御意見にはクリティカルな要素が多々含まれていると感じます。ですのでキチンとお答えすべきと考えますが、ちょっと考えがまとまりません。
      もう少し御意見を咀嚼してからお返事申し上げたいと思いますので、大変申し訳ありませんが、今しばらくお時間を頂きたいと思います。

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    2. >摂津国人さん

      お待たせしました。コメントに対するお返事を申し上げます。

      結論から申し上げますと、私が「当事者性」という言葉を使ったのが良くなかったのだと思います。「当事者性」という言葉の意味と、私がその言葉で表現したかった事がズレている様です。そしてそれは、摂津国人さんの御指摘があったからこそ気付けた部分でもあります。

      迂遠かもしれませんが、順を追って述べる事にします。宜しければ本文と見比べてお読み頂けると幸いです。
      まず私は「ダメな批判批判の例」を幾つか挙げ、それらに共通する要素の抽出を試みました。その結果が「当事者性の無さ」だと考えた訳です。そこで「ダメな批判批判である ならば 当事者性が無い」という推論を行いました。これは帰納的推論ですから、正しいという保証はありません。そこで、その対偶である「当事者性がある ならば ダメな批判批判ではない」を考えてみました。これも確かに成り立つ様に思われます。おそらくここまでは摂津国人さんにも御同意頂けるものと思います。
      問題は、この後です。
      上記の推論では「当事者性が無い ならば ダメな批判批判である」かどうかに関しては何も言えません。そこを無理に論じようとしたのが私のミスだったのだと考えます。だからこそ「状況に応じて当事者性を恣意的に扱っている」という御批判を頂く事になったのでしょう。

      そこで、最初から改めて考え直してみました。
      そもそも私が「ダメな批判批判」として例に挙げたものは、その内容によって「ダメ」とされるべきものです。一方で、一般的に「当事者性」とは、たとえグレーゾーンがあるとしても、外形的・客観的に(グレーゾーンを含めて)振り分けが出来るものである筈です。
      これは矛盾です。ダメな意見はその内容がダメなのであって、意見を発した人の客観的立場によって内容が変化する訳ではないからです。従って「当事者性」という言葉を使ったのが間違いだったと考えます。これを言い直すとすれば「当事者意識」とでもなるでしょうか。
      実際の事例の直接当事者である人達は、当然ながら当事者である自覚はある筈です。一方で、ニセ科学批判者と批判批判者の客観的な「当事者性」が同程度である場合も多いと思います。その場合にダメな意見かどうかを分けるものは「自らもまた当事者である事を認識しているかどうか」だと考えます。
      ここで私が「認識」と表現し、そこに善悪の概念を入れていない事に御注意ください。善いか悪いかはともかくとして、ニセ科学の問題は広く社会に影響を与える。だからそれと全く無関係でいられる人など居ない。ただそれを認識出来るかどうかの違いだけだと考えます。ですのでこれは倫理の問題ではありません。また、ニセ科学批判を他の社会問題よりも上位に置こうとしている訳でもありません。
      言い換えれば、どちら側に立つにせよ「自らの意見表明が社会に対して影響を及ぼそうとするアクションである事」を自覚できるかどうかです。ですから逆に、ニセ科学批判がその点に関しての自覚不足である場合には、そこにツッコミを入れる事が「有効なニセ科学批判批判」になり得ます(しかし私自身はそういうツッコミは殆どやりません。私の中での優先順位が低いからです)。

      という訳で、本文中で「当事者性」と書いた部分の殆どを「当事者意識」と書き換える事に致します。変更の履歴が解る様に、取り消し線による修正を行う様にします。

      但し、以上の点を踏まえたうえで(当事者性と当事者意識とを区別したうえで)なお「事実の指摘には当事者性は不要」という御意見には賛成できません。より正確に言えば「賛成できない場合もある(賛成できる場合もある)」という意味です。
      賛成できる場合は、純粋に学問の問題として述べる場合です。学術的な議論の場(もしくはそれに準じた場)において、事実を指摘するのであれば、そこには当事者性は不要です。むしろ邪魔だと言っても良いくらいです。しかし「ニセ科学批判」が純粋な学問の問題である場合は非常に少ない。殆どのニセ科学批判は、むしろ「社会的な問題」として述べられます。その場合には、単なる事実の指摘であっても当事者性とは無関係ではいられないと考えます。

      上で述べた点の繰り返しになりますが、私はここで必ずしも「ニセ科学批判の倫理的な正しさ」に依存した論を展開しようとしているのではありません。私が主張したいのは、倫理的に正しいかどうかに関わらず「ニセ科学批判の殆どは学問の問題ではなく社会の問題である」という点です。
      これは別にニセ科学批判を特権的な地位に置こうとしているのでも何でもありません。人権・教育・政治・経済・歴史など様々な分野で、社会的な問題は沢山あります。そうした問題を論じる際に、純粋に学術的な議論として述べるのであれば、確かに当事者性は不要でしょう。しかし、社会的な問題に関して、社会に対して何事かを述べる場合に、全く当事者性を帯びずに行う事が可能なのでしょうか。たとえそれが純粋なる真実の追及であったとしても、それを快く思わない人からは、敵対する意見だとみなされる、それが「社会的な問題」全般に共通する特徴なのではないでしょうか。
      ですから、社会的な問題に関しては、たとえ「事実に関する指摘」であっても、それを社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に(当事者意識の有無に関わらず)否応なく当事者性を帯びる、その様に私は考えています。その点を意識する事が、本文に書いた「自ら当事者である事を選び取る」という言葉の意味であり、摂津国人さんが「失言」と仰った私の発言に込めたかった心情でもあります(但し、言葉足らずだった為に、あたかも「逆ギレ」の様にも見える発言であったとは思います。その点はお詫び致します)。

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  6. こんにちは。PseuDoctorさん。お返事戴きありがとうございます。
       
     本文については「当事者性」と「当事者意識」を混同されていたと理解させていただき、それを修正されたという事でしたら特に異論はありません。
         
     お書きいただいたコメントですが
    >「当事者性がある ならば ダメな批判批判ではない」を考えてみました。これも確かに成り立つ様に思われます。
        
     については同意しません。(たとえば「科学(やニセ科学批判)は科学思考を含む科学的に正しい宗教・思想体系を用意すべきだ」といった「当事者性があるダメな批判批判」が想定できる)
           
    >「事実の指摘には当事者性は不要」「賛成できない場合もある(賛成できる場合もある)」
       
     という点は「主張の内容によっては当事者性は有効有用である」という意味ならその点は特に異論はありません
     ですが論拠として
    >「ニセ科学批判の殆どは学問の問題ではなく社会の問題である」
        
     とされる点については理路が理解出来ません。
     それこそ言論においては「○○というアニメは面白い」という発言ですら社会に発した場合には「○○はつまらない作品だ、金でも貰ってるんだろう」「○○が面白いと感じるのは××思想に毒されている」といった「それを快く思わない人からは、敵対する意見だとみなされる」非難は行われます。
     むしろ「社会的な問題」ではない言論という物自体が基本的にはありません。学術的な議論ですら形の上では兎も角、結果的には個人的な確執になる事も無いとはいえないでしょう。
        
     逆に
    >「事実に関する指摘」であっても、それを社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に(当事者意識の有無に関わらず)否応なく当事者性を帯びる
        
     について、例えば文章の中で出て来た「自分の名前」が書き間違いである場合に「事実に関する指摘」をした場合に「否応なく当事者性を帯びる」のだとすれば意味がわかりません。
     「ニセ科学批判」の中でどなたかが「対策」「状況」として主張されている部分がその関係者にとっては「物理的にありえない」「事実と異なる」場合はその特定の「ニセ科学批判言説」が成立しないほどのインパクトになりますが、その「事実に関する指摘」が「否応なく当事者性を帯びる」ので「敵対する意見」かどうかと問われなければ為らないとするなら「ニセ科学批判」という倫理の乱用にみえます。
     「当事者性」が「(否応なく)常にあるもの」なのか限定された「必要・不要を選択可能」なものなのか一貫性が無いようにも読めます。
     発言の質や有効性の問題を意図や立場から読み解こうと無理な意味づけをされているのではないでしょうか。
     結果的にはあえて言えば「口を出すならニセ科学批判者の当事者性を考慮しろ」にしか読めません。「当事者性」について何か混同されているように見えます。この点は既に上のコメントでも述べています。
           
     社会的な言説が敵対的に解釈される事が多いとしてもそれに付き合う必然はありません。ここでいわれる「当事者性」は「党派性」と変わらないようにも考えます。それが「敵対者」からの発言かどうかで価値が異なるとするのは御自覚はお持ちで無くとも「党派性」とも理解される物です。
     個人的には「分断」を内包する論理だと考えます。これは「ダメな批判」又は「ダメな批判批判」と同じ土俵です。「相手の土俵に乗る」のは賛同しません。「ニセ科学」思考の一因であると認識している安易な二分思考と同じ物だと考えます。
        
     この点についてはPseuDoctorさんが「ニセ科学」を治療すべき「病」として捉え「ニセ科学批判」を「医療」と考えておられ「医師」として対応され、摂津国人が「ニセ科学(を筆頭とする間違い)」を逃れられない「業」として理解し「少しでもましな付き合いをすべき物」とする等、個人の思想信条の側面があるのかもしれません。
     でしたら思想信条や信念については議論しません。「賛成反対」について述べるつもりは基本的には有りません。

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    1. >摂津国人さん
      コメント公開&お返事が大変遅くなりました。申し訳ありません、御容赦ください。

      >本文については「当事者性」と「当事者意識」を混同されていたと理解させていただき、それを修正されたという事でしたら特に異論はありません。<

      はい、この点に御同意頂ければ、その他の部分に多少の意見の相違があっても良いと思っています。

      >>「当事者性がある ならば ダメな批判批判ではない」を考えてみました。これも確かに成り立つ様に思われます。
      >については同意しません。(たとえば「科学(やニセ科学批判)は科学思考を含む科学的に正しい宗教・思想体系を用意すべきだ」といった「当事者性があるダメな批判批判」が想定できる)<

      これには、3つの点で異論があります。
      まず「当事者」とは誰かという点です。上記の様な意見を言う人は、当事者なのでしょうか。もしも本当に当事者である人から上記の様な意見が出てきたのであれば、それは傾聴に値すると私は考えます(どこまでリソースを割けるかは別として)。何故なら、当事者でありながらその様な考えを持つに至った思考過程に興味があるからです。それを解きほぐす事によって参考になる部分がある筈だと期待します。
      次に、何を以て「ダメな批判批判」とすべきかです。前段で述べました様に、私は基本的に「役に立つかどうか」という視点で、ダメかどうかを判断しています。一方で、当事者の立場から発せられた意見には役に立つ部分があるだろうとも思っています。上手く説明できずにトートロジーっぽくなってしまって恐縮ですが、もしかしたらここは見解の相違かもしれません。
      そして3つめは「仮に以上の2点を無視して上記の反論を認めたとしても、それは必ずしも反証にはならない」という点です。いや、ここはお叱りを受けても仕方ないと思っています。「当事者性がある ならば ダメな批判批判ではない」は、あたかも全称命題の様に見えるからです。しかし現実には、当事者性とは「ある/なし」の2値で表せる様なものではない筈です。そして、ダメな批判批判に関しても「ダメである/ない」と二分できる様なものではないと考えます。つまり、いずれもグラデーションを伴って移行していると理解しています。
      従って、私が書いたのは全称命題ではなく、より正確に言い直せば「当事者性が強ければ強いほど、ダメな批判批判を口にしなくなる」という傾向ないし相関の話であると御理解頂ければ幸いです。要するに、全称命題ではないので、反例は必ずしも反証にならないという事です。

      >むしろ「社会的な問題」ではない言論という物自体が基本的にはありません。学術的な議論ですら形の上では兎も角、結果的には個人的な確執になる事も無いとはいえないでしょう。<

      いや、それを言ってしまっては、私がわざわざ「学問の問題」と「社会の問題」を対比させた意味がありません。確かに御指摘の様に、学術的な議論が結果として個人的な確執を引き起こす事も無いとは言えないでしょう。しかし、そういうのは「学問を歪めている」と看做すべきではないでしょうか。学術的な意見の相違を個人的な関係に持ち込む事は、人間感情として無理からぬものであるとしても、そういった部分を極力排除すべく努力し続けるのが、学問的議論の目指すべきあり方だと信じます。

      ですから、引用が前後しますが

      >それこそ言論においては「○○というアニメは面白い」という発言ですら社会に発した場合には「○○はつまらない作品だ、金でも貰ってるんだろう」「○○が面白いと感じるのは××思想に毒されている」といった「それを快く思わない人からは、敵対する意見だとみなされる」非難は行われます。<

      という御指摘は、まさしく当該のアニメに関する発言が「学問の議論ではない」事を示している訳です。その意味で、むしろ私の上記の意見を補強するものだと考えます。
      逆に言えば、たとえ題材がアニメだったとしても、それが学問の議論であるならば、御指摘の様な展開にはならないのが望ましいです。もしなってしまうとすれば、それは(繰り返しになりますが)学問を歪めるものだと考えます。

      >>「事実に関する指摘」であっても、それを社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に(当事者意識の有無に関わらず)否応なく当事者性を帯びる
      >について、例えば文章の中で出て来た「自分の名前」が書き間違いである場合に「事実に関する指摘」をした場合に「否応なく当事者性を帯びる」のだとすれば意味がわかりません。<

      説明が足りなかった様で失礼致しました。「事実に関する指摘」をするという事は、1)「自らが事実であると認識している内容と異なる」2)「その件に於いて、事実と異なる内容は修正されるべきである」という2点の意思表明であると考えます。例えば、某所で自分の名前が間違って表記されていた場合に、それを訂正するという事は、その話題に(たとえ枝葉の部分に限定していたとしても)関与するという意思表示であり、逆に(状況を知りつつ)放置するという事は、その話題には関与しないという意思表示だと看做せます。
      つまり、その話題に(たとえ限定的であっても)関与するという意思表示であるが故に「当事者性を帯びる」と判断している訳です。

      ところで、摂津国人さんの御意見を伺っていると、どうも「意見を発する事は全て社会的な問題である」と仰る一方で「事実の指摘には当事者性は無い」という事になるかと思いますが、これはいささか矛盾している様に思えます。もしかしたら「事実」という言葉の捉え方に差異があるのかもしれません。
      例えば「科学的事実」とは、その客観性と妥当性を常に検証し続け、その継続によって確からしさが高まっていくというものです。ですから、科学においてはしばしば「事実の指摘」こそが学術議論の中心を成す場合があります。その場合に、御指摘の様に「結果的に個人的な確執になる」のであれば、それはまさに「事実の指摘が当事者性を帯びる」事の好例になるのだと考えます。
      「では御前の言い分は矛盾していないのか」という反論がありそうですので、予め申し上げておきます。私は「社会的な問題」と「当事者性」とを区別して用いております。一方で、摂津国人さんが挙げられた「個人的な確執」の例は「社会的な問題であると同時に当事者性も帯びている」ものだと判断しております。

      という訳で、色々述べて参りましたが、もしかしたら「当事者」「ダメ」「学問」「社会」「事実」といった言葉の捉え方にそれぞれ微妙な差がある為に、少しずつ意見に齟齬が生じている様な気も致します。
      この様な一般的な用語に関してそうした差が生じるというのは驚くべき事の様にも思えますが、逆に、通常我々はそこまで厳密に言葉を定義せずに、文脈に応じた揺らぎを許容しているのだろうな、とも考えます。
      私は、言葉の定義にこだわり過ぎて不毛な議論になってしまった例も経験していますので、どこまで定義にこだわるのかは難しいところだとは思いますが、少なくとも摂津国人さんとの遣り取りは、私にとって興味深いものです(ペースが遅い点は、重ねてお詫びします)。

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  7. こんにちは。
      
     こちら疑問に感じているのはPseuDoctorさんが「当事者」「当事者性」というもともと多義的な言葉の「属性」の部分を一貫性の無い用法と恣意的な解釈をしておられ、結果的には「党派的」な主張になっているのではないかという点です。
       
    >これには、3つの点で異論があります。
        
    >まず「当事者」とは誰かという点です。
       
     何らかの意思の表明としての発言は「その話題に関与するという意思表示」で「社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に/否応なく当事者性を帯びる」のですからPseuDoctorさんの主張としては「上記の様な意見を言う人は、当事者なのでしょうか」と仰るのは矛盾がある様に見えます。
     「意見を言」った「瞬間に/否応なく当事者性を帯びる」とされているのではないのでしょうか。
    「もしも本当に当事者である人から上記の様な意見が出てきた」のでは無く「意見を出したから当事者である」とされているのではないのでしょうか。少なくともその「上記の様な意見」は「解決案」を提示し、実現の可能性とは別に「当事者意識」も含まれています。
        
     個別の事象に対する具体的な利害当事者のみが「当事者」であるとされるなら「ニセ科学批判:ニセ科学を批判する事。個別の批判行為の総体。「スポーツ」という名前のスポーツが存在しないのと同じ意味で「ニセ科学批判」という名前の行為は存在しない」とされているはずですから誰も「ニセ科学批判」の「当事者」はいない事になりませんか。
      
    >次に、何を以て「ダメな批判批判」とすべきかです。
     
     「当事者の立場から発せられた意見には役に立つ部分がある」だとPseuDoctorさんの主張としては意見を「社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に/否応なく当事者性を帯びる」のですから「発せられた全ての意見は当事者性を帯びているのだから役に立つ部分がある」と言う意味にはなりませんか。「当事者性を帯び」ても「当事者の立場」にはならないのでしょうか。
       
    >そして3つめは
    >「当事者性が強ければ強いほど、ダメな批判批判を口にしなくなる」という傾向ないし相関
      
     PseuDoctorさんの主張としては意見を「社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に/否応なく当事者性を帯びる」とされていますがこの「否応なく帯びる」「当事者性」とその「強ければ強いほど、ダメな批判批判を口にしなくなる」「当事者性」とは同じものなのでしょうか。「ダメな批判批判」でも「社会(から見える場所)に向けて発した瞬間に/否応なく当事者性を帯びる」ので「ダメな批判批判を口にしなくなる」になりませんか。
     これも
    「(現実の社会問題としてのニセ科学への)当事者”意識”が強ければ強いほど、ダメな批判批判を口にしなくなる」という傾向ないし相関。
     とされた方が良いと思います(幾らか一般化しすぎだとも思いますが…)。
       
    >「学問の問題」と「社会の問題」を対比させた意味
       
     これは書かれているように「その話題に(たとえ限定的であっても)関与するという意思表示であるが故に「当事者性を帯びる」と判断している」とされるなら「事実に関する指摘」でもある自然科学を含む学問は結果的には社会の問題に対し「当事者性を帯びる」とはならないのでしょうか。
     科学は信仰の対象になる「奇跡」を否定する側面がありますがだからと言って「その話題に(たとえ限定的であっても)関与するという意思表示であるが故に「当事者性を帯びる」」とされ信仰の代わりになる「救い」を示す責任はありません。
       
    >「意見を発する事は全て社会的な問題である」と仰る一方で「事実の指摘には当事者性は無い」という事になるかと思いますが、これはいささか矛盾している様に思えます。
      
     いえ、「事実の指摘には当事者性は無い」のではなく「事実の指摘はその事実についての当事者性はあるが、その事実関係を含む言説全体には直接的な当事者性が必ず有るとはいえない」これはその事実関係とそれを含む「言説・社会問題」との関わりの部分です。
     「「社会的な問題」ではない言論という物自体が基本的にはありません」というのは「発せられた意見は結果的には社会的な問題になりえる」つまり「事実の指摘は結果的に社会的な問題になりえる。しかし事実の指摘が問われる当事者性はその事実の指摘の射程の範囲であるべき」です。
     むしろ学問を含む「事実の指摘」本来の独立性を述べています。結果的に人間関係の対立や社会の問題になる事が有ったとしてもその本来の「事実の指摘」の範囲を超える「当事者性」は求められないとしています。個人間の問題は「事実の指摘」とは関係なく存在します。
     「科学・学問的事実の指摘」が結果的に何らかの「奇跡・神秘」を否定しても信奉者の社会的な問題「救済」には、社会の一員としてのものを超える特別な「当事者性」は問われません。
           
     「我々市民は私たちの社会全体について責任があります」が「私は私の言動にしか責任は問われません」です。階層の違う、言葉の限定の範囲の異なる概念を恣意的に用いて倫理的に優位に立とうとするのだとすれば「党派的」な主張です。
     「個人間」「集団内部」の事柄でも社会の側から責任を問うことは出来ますし、「個人の思想信条」を理由に近い思想信条を持つ他人の責任を問うのは慎重で有るべきです。それを行うのは「党派的」な言説です。
     「何について」「どのような」「どんな面から」「どれだけの範囲で」「どれぐらいの」といった「責任」が有るのかを問うことは可能ですがそれを省いたまま都合よく「責任」を問うたり逆に「社会的な問題」への関与の「資格」を認めない(ダメな批判とする)のは「党派的」な行動に見えます。
    (「有る意味で当事者性の欠けるといえるダメな批判批判がある」という点は同意しています)
     
    >「社会的な問題」と「当事者性」とを区別して用いております 
       
     よく理解できないのですがPseuDoctorさんは「ニセ科学」の問題を「社会的な問題」とされている筈です。その「社会的な問題」への対策を「ニセ科学批判」と総称されてます。それに批判的な言及・指摘を行う行為を「ニセ科学批判批判」とされている筈です。
     「批判批判」は「社会的な問題」への対策に関与するという意思表示であるが故に「当事者性を帯びる」と判断している。では無いのでしょうか。
        
    >「批判行為それ自体が、当事者性を帯びる可能性を持つ」です。言い換えれば「批判する事によって、自ら当事者である事を選び取る」とも言えます。
    >「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」
    >純粋に学問の問題として述べる場合です。学術的な議論の場(もしくはそれに準じた場)において、事実を指摘するのであれば、そこには当事者性は不要
    >社会的な問題に関して、社会に対して何事かを述べる場合に、全く当事者性を帯びずに行う事が可能なのでしょうか。たとえそれが純粋なる真実の追及であったとしても、それを快く思わない人からは、敵対する意見だとみなされる、それが「社会的な問題」全般に共通する特徴
    >その話題に(たとえ限定的であっても)関与するという意思表示であるが故に「当事者性を帯びる」と判断している訳です 
        
     PseuDoctorさんは「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体」で「学問の問題と社会の問題は対比させ」ることが出来、「純粋に学問の問題として述べる場合当事者性は不要」で「社会的な問題に関して何事かを述べる場合に、全く当事者性を帯びずに行う事が可能なのでしょうか」と問われ、それに言明する場合「関与するという意思表示であるが故に当事者性を帯びると判断している」とされているのですから「ニセ科学の被害者は社会全体で、つまり学問の問題ではなく社会的な問題で、それに何事かを述べる場合は当事者性を帯びると判断している」のですね。「当事者性」は「学問の問題には不要」で「社会の問題には当事者性を帯びないことは不可能」になります。
     「ニセ科学乃至はニセ科学批判」といった「社会的な問題を述べる場合は(必然的に)当事者性を帯びる」のですよね。
        
    >「社会的な問題」と「当事者性」とを区別して用いて
       
     とされる場合は「社会的な問題を述べた場合に当事者性を帯びない」事は無いはずですから何を「区別」されているのでしょうか。
           
     「言葉の定義にこだわり過ぎて不毛な議論」と仰っていますが「定義」ではなく「整合性」「一貫性」について理解が出来ません。
     「当事者性」というのは使い方によっては曖昧な「政治的」「党派的」な概念になります。
     「名前の行為は存在しない/個別の批判行為の総体」である「ニセ科学批判」の掴み所の無い「当事者性」とは何なのでしょう。
     一度「当事者」という言葉から離れてみられればいかがでしょうか、混乱されているように見えます。
     便利に見える言葉・概念に頼る(縛られる)のは落とし穴があると思います。
     「科学(学問)」の論理的な正しさを、「科学(学問)」の立場から発する「ニセ科学批判者」の倫理的な優越として用いているように見えます。「自明」の概念を述べる場合にこそ可能な限り「客観的」に論じるべきです。
     「社会的な問題」としての「ニセ科学批判」を行うのなら価値判断には慎重であるべきです。
        
     失礼な書きようで申し訳ございません。

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    1. >摂津国人さん
      >疑問に感じているのはPseuDoctorさんが「当事者」「当事者性」というもともと多義的な言葉の「属性」の部分を一貫性の無い用法と恣意的な解釈をしておられ、結果的には「党派的」な主張になっているのではないかという点です。<

      摂津国人さんは、私が語の定義を文脈により恣意的に変えているとお考えなのですね。そして、それをダメかどうかの判定に用いていると仰りたい。
      確かに、私の文章に於いて「当事者」「当事者性」という語の意味に揺らぎがある点は認めます。しかしそれは、ひとえに私の理解の浅さと筆の拙さによるものであって、恣意的に用いているつもりはありません(但し、自己申告で「恣意的でない」と言っても御同意頂けなければ仕方ありません。その意味で、今回これから御説明する内容をお読みになっても、まだ恣意的であるとお考えなのであれば、それは仕方の無い事だと思って諦めます。これ以上上手に説明する事は私には出来そうもありませんので)。

      では改めて、語の定義について整理します。
      私が本文で用いている「当事者」には2つの意味を込めています。その事がおそらく「恣意的」と言われる原因ではないかと推測します。
      その2つの意味とは
      1)客観的な事実関係に基づき当事者と認められる場合
      2)社会的もしくは精神的な関係に基づき当事者と考えられる場合
      です。
      言い換えれば、ある事象が発生した場合に1)その事象そのものから影響を受ける人、と2)その事象に「後から」関与する人、の2種類の「当事者」が居るという意味です。しつこいですがもう少し言えば、元々当事者である人と、後付けで当事者になる人とが居ると考えています。この場合「後付け」とは具体的には、例えば事後に当事者と看做されるのにふさわしい言動を取る事や、自らが当事者であるという認識に達する事などが挙げられます。
      この2種類の「当事者」を明確に区別しないまま本文を書いた為に「恣意的」との御指摘を受ける事になったと考えます。これは別に、ツッコミを受けてから考え出した屁理屈ではなく、最初に本文を書いた時からのものです。例えば、2)の立場を反映した言い回しの例として
      >「自ら当事者である事を選び取る」<
      があります。これは1)の立場からは出てきません。従って「当事者性」も二重の意味を持つ事になります。
      もし摂津国人さんが1)の意味しかお認めにならないのであれば、話はそこで終わりです。「私とは考え方が違いますね」と申し上げるしかありません。

      私は本文で
      >当事者意識を最大限広く見積もるには「誰でもニセ科学の被害者になり得る」と考えれば良い<
      と書きました。つまり、たとえ今現在被害者でなくても「誰でも(自分自身も含めて)被害者になり得る」事を認識しているかどうかです。
      そしてまた
      >「ニセ科学の(広義の)被害者は、社会全体である」<
      とも書きました。これも、たとえ目に見え難くても、その点を認識しているかどうかです。
      私は「自分もいつ被害者になるか解らない」もしくは「自分(達)も既に被害者である」という認識を持たずに発せられる意見には重きを置きません(ついでに言えば「自分がいつ『加害者』になるか解らない」という認識も重要ですが、それはまた別の論点です)。
      もしそれを「党派性」と仰りたいのであれば、それでも結構です。

      そもそも今回の記事は「ダメな意見が何故ダメなのか」を考察したものであり、ダメな意見に共通して見られる特徴を抽出しようと試みたものです。ですから「特定の属性を持った人から発せられる意見は、その属性の故にダメである」という様な話をするつもりはありませんでした。何故なら、前段で述べた様に、これは「認識」そして「行動」の問題だからです。属性は容易には変わりませんが、認識や行動は一瞬で変化し得ます。
      前々回、摂津国人さんの御指摘を受けて「当事者性」の多くを「当事者意識」に書き直しました。これによって「認識」の問題である事が少しは明確になったかと思っていましたが、まだまだ私の書き方が甘かった様ですね。
      ダメな意見は、意見そのものがダメなのであって、それを発した人の属性がダメなのではありません(属性のダメさは別途論じられるべきでしょう)。

      ちなみに「当事者の立場から発せられた意見には必ず役に立つ部分がある」と「ダメな意見であっても、それを社会に向けて発した瞬間に当事者性を帯びる」とは、別に矛盾しているとは思いません。その理由は2つあります。
      1つは、後者では意見の形成と当事者性の獲得との間に時間差があるからです。意見を発した事により当事者性を得るのですから、発せられる前に形成されている意見に、当事者としての立場が反映されていなくても、特に不思議はありません。
      そしてもう1つは、たとえ当事者であっても、当事者意識の欠如(ないし希薄)した状態での意見は「当事者の立場から発せられた意見」とは看做し難いからです。言い換えれば、上記1)の意味で当事者であっても、2)の意味で当事者である事を「捨てた」もしくは「無頓着である」人の意見は、もはや「当事者の意見」ではないだろうという事です。但しこれには更に再反論が可能であって「1)の意味での当事者性を持つ人が何故その立場を捨てるに至ったり無頓着で居られるのか」という点に注目すれば、役に立つ部分があると言えなくもありません。そこまで意義を拡張すれば「1)の意味で当事者性を持った人の意見には役に立つ部分がある」と言えるでしょう(一方で、後者の「当事者性を帯びる」というのは2)の意味になります)。

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    2. 摂津国人さんは、御自分のブログで
      http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20130206/1360110644
      の様にお書きになっておられるので、もうこちらにはいらっしゃらないのでしょうね。
      もとより、御自分のブログで何をお書きになられるのも、こちらにコメントを書かれないのも、本人の自由です。言うまでもありません。
      ただ「仕方なく」コメントを書かれていたというのは、全く意外でした。と言いますのも、摂津国人さんからは、毎回とても丁寧なコメントを頂いていたと思っていたからです。ですから、いつもコメントの公開もお返事も遅くなってしまっていた事を大変申し訳なく思い、また、どの様に書けば私の言いたい事が伝わるだろうかと苦心つつも、よもや「仕方なく」コメントされていたとは、夢想だにしておりませんでした。
      この点に関しては、とても心苦しく思っております。そこで次回からは、摂津国人さんに、なるべくその様なお手間を取らせないで済む様に、当方で配慮する事と致します。
      ちなみに、摂津国人さんは当記事に対する「感想」として
      http://d.hatena.ne.jp/settu-jp/20121017/1350482769
      をお書きになっていました。こちらを拝見すると、何となく「仕方なく」の意味も解る様な気も致します。
      どうも鈍感で申し訳ございません。

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