コミケを風疹から守り隊

2013年6月19日水曜日

富山大学の林衛准教授に対する批判(縮退編)


初回公開日:2013年06月19日
最終更新日:2013年07月01日

(この記事は「発動編」の続きです。まだの方は、発動編から先にお読み頂けると幸いです)



4.林准教授の矛盾と問題点

彼がごく基本的な科学知識すら持ち合わせていない(もしくは知っていてもわざと無視している)幾つもの事例を「発動編」の2.で挙げました(それでもまだ一部に過ぎません)。
ここでは、更に踏み込んで、それらが単なる知識の欠如に留まらず、論理的矛盾やその他の問題を孕んでいる事について指摘していきます。

1)「カレーの匂いの例え」批判に含まれる論理的矛盾

発動編2の2)で述べた通り、林氏は放射線をカレーの匂いに例える事を批判しています。そしてその中で「物質」という(好意的に解釈しても)専門分野により定義に幅のある用語を使った為にツッコミを受けました。
では、そこまでして林氏が言いたかった内容とは、一体何なのでしょうか。
それは一言で言えば「先入観や誤解を生む様なたとえは良くない」という主張です。これだけ単独で聞くと、妥当性がある意見の様にも思えます。
しかし、自ら多義性のある(定義に幅のある)用語を使用した事で、彼の主張は矛盾を起こしてしまいました。何故なら、多義性のある用語(しつこいですが、あくまで「好意的に見ても」です)を用いた事で、何人もの人が、林氏の主張を本人の意図とは異なる受け止め方をしたからです。どれほど林氏に有利な解釈をしたとしても、これは「誤解」としか呼べません。
以上をまとめますと、林氏は「誤解を生むのは良くない」という主張をするのに、読み手(の少なくとも一部)の誤解が不可避である表現を用いたのです。これは、小さいけれども切れ味抜群なブーメランだと考えます(幾ら何でも「たとえさえ使わなければ、別に誤解を受けたって構わない」なんて言い出したりはしないでしょうから)。
後付けの屁理屈で突っ張らずに素直に間違いを認めていれば、こんな醜態を晒さなくても済みましたのに・・・

より突っ込んだ話をするならば、そもそも「たとえ」を用いる以上、誤解や先入観を完全に排除するのは不可能です。何故なら「たとえ」とは「たとえるなら・・・の様である」と使われるものであり、明示的ではなくても必ず「~の様」が含まれるからです。即ち「たとえ」とは伝えたい事そのものではなく、そこには必ず省略、類推、近似などが含まれます。これらの要素を全く含まない「たとえ」など存在し得ないのです。
つまり本当は「先入観や誤解を全く生じないたとえなど有り得ない」と言うべきなのです。その点の認識が甘いのが林氏の大きな過ちです。

ここで更に林氏に好意的になって、彼の主張を「たとえを使う際には先入観や誤解をなるべく少なくする様に努力すべきである」と解釈してみましょう。
仮にそうだとしても、本項の最初で述べた批判はそのまま成立します。そして、もし「なるべく少なくすべし」などと主張するのであれば「どうすればより少なくなるか」に関して、例示なり方向性なりを示すべきです。
そして勿論、林氏は、そんな事はしていない訳です。

2)「一発の放射線にもリスク」という主張に含まれる矛盾

この件に対する林氏の主張自体も、発動編2の3)で述べました。
ここでは、彼があたかも「『一発の放射線にもリスク』とは閾値無し仮説の事」であるかの如く主張している点について、間違いを指摘します。実際、林氏はこちらのTweet
http://twitter.com/SciCom_hayashi/status/230203352737259520

の中でも 「『一発の放射線に一発のリスク』は閾値なし説の根拠」と述べています。しかし、これは完全な間違いです。何故なら、一発の放射線にも一発分のリスクがあるという「仮定」をおいたものが閾値無し「仮説」だからです。仮定に過ぎないものを「根拠」と強弁している点で、林氏の理解は丸っきり逆です。
そもそも、一発の放射線に一発分のリスクがあるなどという事は証明されていません(そんなデータは無い)。それは高線量被曝のデータからの「推定」に過ぎず、だからこそ「仮説」なのです。
林氏がこんなメチャクチャを言うのは、閾値無し仮説に対する林氏の理解が浅いからなのでしょうか。推測ですが、私はそうは思いません。何故なら、上のTweetでも解る通り、林氏は閾値無し仮説の事を「閾値なし説」と書いているからです。はっきりと「仮説」と書かないところに、誤魔化しの臭いを感じます。

更に彼は「閾値無し仮説」の適用に関しても、自己流のデタラメ解釈をしています。再度、前記事2の3)で引用した呟きを御覧ください。彼は「一発の放射線でもリスクがあり,安全だとはいえないという考えです」と述べています。これは酷い我田引水です。
そもそも「安全」とは何なのでしょうか。

林氏の言に従えば、原子1個分のリスクがあるだけで「安全だとはいえない」という事になります。それが「閾値無し仮説」だと言うのです。では、一体全体、どんな状態なら安全だと言えるのでしょうか。原子1個分のリスクすら無い、完全完璧に「リスクゼロ」でなければ「安全」と言ってはいけないみたいですね、林氏の言い分だと。
馬鹿言っちゃいけません。アホらし過ぎて言葉を無くしてしまいそうです。しかし、ここで黙る訳にもいきませんので、頑張って批判を続けます。
およそ世の中に存在するありとあらゆるリスクに関して、完全に「リスクゼロ」にする事は不可能です。出来るものならやってみなさい。そんな例は幾らでも挙げられます。
例えば、酸素だって取り過ぎれば害になりますし、水だって一辺に何リットルも飲めばいわゆる「水中毒」を起こして死ぬ事だってあります。また大量ではなくても、美味しい水を一口だけ飲んだとしても、それが気管に入って誤嚥性肺炎を起こして死ぬ確率だってゼロではありませんよ。少なくともこれらのリスクは「一発の放射線のリスク」よりも遥かに遥かに、比べものにならないほど大きいのです。もう少し現実的な話をすれば、家の中にじっと座ってたとしても、いきなり暴走車が突っ込んでくる確率だって、ゼロではない(勿論、一発の放射線のリスクとは比較にならない程大きい)ですね。
この様に、厳密にリスクをゼロにするのは不可能だからこそ、可能な限りリスクを下げていく事を「安全」と呼ぶのですよ。そんな事も解らない(あるいは知っててとぼけている)林准教授は、一体、誰の為に何を守ろうとしているのでしょうか

ちなみに私は「林氏は知っててとぼけている、もしくは正しく理解した後でも軌道修正出来ず強弁を続けている(つまりいずれにせよ、単なる無知よりも更に悪質)」だと考えています。何故なら、先の呟きで彼は「事実上無視できるというのは,このモデルと矛盾します」と述べているからです。「事実上」という言葉が入っているのを認識していながら、ゼロリスクではないから危険だと述べています。実際には「リスクが極めて小さいから事実上無視できる」というのは「閾値無し仮説」と矛盾なく両立します。
という訳で、これは極めて悪質なプロパガンダだと考えます。この「林氏はリスク比較が出来ない(あるいは、わざとしない)」点は重要ですので、改めて後述します。

もうお腹一杯かもしれませんが、あくまで参考までにこちらのまとめを掲げておきます。

3)「後釣り宣言」の問題
これは発動編2の4)で述べた「核爆発」に関する部分です。「福島第一原発が核爆発した可能性」について呟いた林氏は、当然の如く寄せられたツッコミに対して「自らを撒き餌とした釣り」だと述べました。
こういうのを、後釣り宣言と言います。
ちなみに、後釣り宣言とは、自分がポカをやらかした時に、後から「やだなぁ、ネタだよネタ。わざとに決まってんじゃん。俺がそんな間違いをする筈ないだろ?」みたいに取り繕う事です。
これは、極めて恥ずかしい行為であるばかりでなく、論者としての誠実さを決定的に疑われるやり方です。つまり後釣り宣言とは、言い換えれば「俺がどんなメチャクチャを言っても、マジにツッコむなよ」という宣言でもある訳ですから、真面目に相手をする方がバカバカしくなろうというものです。

ここで、私の目から見た林氏の科学知識に対する姿勢を簡単にまとめます。

・林氏は、悲しくなるほど科学知識に乏しい。
・その大きな理由の一つは、たとえ知識を与えられても、自分に都合の良い部分しか使わないから。つまり、自分に都合の悪い知識は捨てるか蓋をしてしまうから。
・それ故、自分に都合の悪い科学的事実を突き付けられると、誤魔化しの為の屁理屈をひねり出すのに全力を尽くす。
・それが最も極端な形で現れたものが「後釣り宣言」である。

あくまで「私の目から見た解釈」である点をお断りしておきます。

4)「(一面の)危険を煽る事こそが正義である」という奇妙な思想
発動編2の5)で取り上げた「震度とマグニチュード」の話から、林氏は「危険を過剰に煽る事を肯定している」のが解ります。いやもっと積極的に「危険煽りを推奨している」と言っても良いでしょう。間違っていようが何だろうが、危険を煽るのは「正し」く、リスクを分析して冷静に判断しようとする人に対しては、稚拙な屁理屈を駆使して何とかケチを付けようと頑張ります。

ところが、彼も常に危険を煽っている訳ではありません。つまり、煽る危険と煽らない危険とがあるのです。
ある場面では、とにかく(特定の)危険について過剰に騒ぎ立てる。しかしその一方で、例えば他ならぬ林氏自身の妄言によって被害が生じる危険性などについては驚くほど鈍感です(この点は、次項で改めて述べます)。
こうした歪んだ視点は、いわゆる「過激で極端な反原発原理主義者」の態度とも共通するものがあります。即ち「自分が攻撃しようと決めた対象に関しては徹底的にアラ探しをし、自分が味方しようと思った対象に関してはマズい点を徹底的に無視し続ける」という態度です。

従って、彼の態度を単なる「危険煽り」と呼んで終わらせるのは不正確です。上述した「リスク評価が極端に非対称である」点こそを、最も強く批判すべきです。

5)リスク比較が出来ない(あるいは、わざとやらない)問題
林氏の議論姿勢には、マズい点が多々あります。
例えば既出の「持論に都合の良い部分だけつまみ食い」する態度です。これは発動編2の6)で述べた例などに端的に表れています。
また「批判と非難の区別がつかない」というのも大きな問題です。間違った内容の吹聴に対し「それは間違っている」という指摘を受けただけにも関わらず、非難されたかの如く論点をズラして反論する例も多々見受けられます(流石に煩雑なので具体例は割愛しますが)。

しかし、彼の姿勢の最大の問題点は、これらとは別にあると考えます。
それは、前項の最後に述べた「リスク比較が出来ない(もしくは、わざと比較しない)事」です。
既に上記4の2)で述べた様に、彼は「一発の放射線」のリスクを殊更に強調しています。しかしその一方で、何と、こんな事を言っています。
http://twitter.com/SciCom_hayashi/status/270180498242949122
避難の危険を過剰に煽るのはやめよう。それは差別につながりますよ?!(以下略)<

「一発の放射線のリスク」などという、全ての人類を詳細に調べても検出不可能なほど小さな、あるか無いか解らないレベルのリスクを「過剰に煽り続けている」一方で「避難の危険」という明確に存在するリスクに対しては「過剰に煽るのはやめよう」と言ってのける。
一体、何なんですかこれは。
(「避難する事のリスク」が現実に無視できないレベルで存在するという実例は幾つもありますが、例えばこちらの記事を御覧頂ければと思います)。
自分が重視したいリスクは原子1個分でも大袈裟に言い立てて憚らないのに、現実に目の前にあるリスクに対しては「過剰に煽るな」などという御高説を垂れる。しかも、言うに事欠いて「差別に繋がる」とまで言い放つとは。林氏の様に放射線の危険を過剰に言い立てる人こそ、福島の風評被害と福島差別に加担しているも同然なのです。
これこそ今回の「オマエが言うな大賞」に相当します(候補は山の様にありますけどね(爆))。
幾ら何でも、無自覚にも程があるでしょう。

しかしそれでも、なるべく公正に評価しようと考える私は、ここでも林氏に最大限好意的な解釈を行ってみました。つまり「もしかしたら彼は、物理的な危険には過剰に敏感だけど、精神的ストレスに関してはムチャクチャ鈍感なのかも?」と考えてみたのです。
しかし、そのなけなしの好意も、無残にもあっさりと踏みにじられたのです。何故なら彼は、こんな事まで言っているからです。
http://twitter.com/SciCom_hayashi/status/309910438454386688
>(前略)こんな心配させられること含めて,全部丸ごと健康被害なのに。(後略)<

「心配させられること」も「健康被害に含まれる」という御意見です。
いやいやいやいや、ホントにホントに、とぉっても不思議です。他ならぬ「林准教授御推奨の危険煽り」によって「余分な心配をさせられること」は何なのでしょう?そういうのは健康被害には含まれないのでしょうか?
それともまさか、政府や御用学者が発信する情報による心配や差別は「悪い健康被害・悪い差別」で、林氏が発信する情報によるものは「良い健康被害・良い差別」とでも言うつもりですかね?
これ、冗談めかして書いていますが、私は「林氏は本気でそう信じ込んでいるのではないか」と、かな~りマジで疑っていますよ。ホントに。

5.林准教授は何を目指しているのか?
(林氏の内心は解りませんので、この項で述べる事は全て推測です)

何だかもう頭がクラクラしっぱなしですが、ここまでの内容を簡単にまとめると、
林准教授は大学で科学コミュニケーションを教えていながら利発な中学生程度の科学知識も無く、
放射線の危険はどれほど小さくても過剰に煽り立て、
その一方で現実に存在するリスクは都合良く矮小化し、
客観的根拠と冷静な推論に基づいた発言をする人を「エア御用」などと呼んで中傷する事に執心し、
論理的矛盾・後付けの屁理屈・ダブスタなどを多用し、
何よりも「リスクを比較する」という事が出来ない。
となります。

一体どうして、ここまでムチャクチャになれるのでしょうか。既に述べた様に、これは単なる無知で説明が付くレベルではなく、そこには何らかの意図と言いますか、信念が作用している様に思います。
では、その信念とは何でしょうか。

私は、彼の行動パターンには一つの方向性があると解釈しています。それは一言で述べれば「反権力・反権威の傾向」です。その様に考えれば、彼の言動の殆ど全てが説明可能です。
ここで私は、発動編1の2)で引用した言葉「市民科学革命」を思い出します。この記事ではなるべく政治的な発言を控えてきましたが、反権力・反権威志向の人が「市民科学革命」を目指すとは、どういう事なのでしょうか(ついでに言えば、明らかに悪口を言っている文脈の中に「帝国主義」という言葉が出てくる点も、少々気になります)。
私見では、大分以前から「彼は自らの政治的思想信条の為に科学を利用(悪用)している」という印象を持っていましたが、今回こうして彼の言動をまとめた事で、それがより鮮明になってきたと考えています。

この際ですから、もっとはっきり辛辣に書きましょう。
彼の価値観は「自らの信条に利用する為であれば科学的事実や客観的証拠を幾ら捻じ曲げても無視しても構わないし、その為に無辜の人々を過剰な不安に陥れても全く平気だし、その結果パニックや風評被害やストレスによる健康被害が起こっても知ったこっちゃない」だと私は判断しています。
更に想像を逞しくすれば、その先に彼が目指しているのは「既存の権力や権威に代わって自分達の勢力が権力と権威を得る事」ではないのですか。その目的を達成する為の道具として、無辜の市民を利用しようとしているのではないのですか。それこそが、批判者を「物理帝国主義者」と呼び、自らは「”市民科学革命”を目指す」という言葉の意味ではないのですか。
これが杞憂であれば嬉しいです。しかし、ここまで述べてきた内容を見返せば見返すほど、そうした危惧を感じずにはいられないのです。

いつも書いている通り、右であれ左であれ、科学的事実は政治によって捻じ曲げられるべきものではありません。政治的信条は数十年~数百年経過しただけで、あるいは数千キロ~数万キロの距離を移動しただけで、あっさりと変わっても全然おかしくないものです。その事実は、過去の歴史と現在の国際情勢がはっきりと示しています(ついでに言えば、政治家(の一部)がお持ちの「政治的信条」なんかは、僅か数日でコロッと変わる場合もありますね)。
しかしながら、確立された科学的事実は、何億年の時が経とうが、何億光年の距離が離れようが変わらないものです(「いや、ビッグバンの直後は違った」とかのツッコミは勘弁してください)。
もしも政治によって科学的事実を左右できると考えるのであれば、それは宇宙と自然、そして我々の社会そのものに対する甚だしい思い上がりだと言えましょう(って、こういう言い方をするから反発されるのかもしれませんね)。
でも本当に、もっと「知」に対して謙虚になって欲しいのですよ。別にガリレオを気取るつもりもないけれど、幾ら権威や権力を用いて科学的事実(自然科学も、社会科学も、どちらもです)を捻じ曲げようとしたって、そんなのは歴史の中からみれば所詮「一時の誤魔化し」にしか過ぎないのです。後世の教科書で馬鹿にされ蔑まれるのをお望みですか。
また、これも既出ですが、私は「大義の前には少々の犠牲もやむを得ないという考え方には与しません。自らが進んで犠牲になるのならまだしも、無関係の他人を巻き込むのは許せません。
それは、テロリストの論理だからです。

この2点こそが、私が彼をここまで批判する最大の理由です。
あるいは、彼の動機は「正義」なのかもしれません(あくまで「彼にとっての正義」です)。
しかし、動機が正義だから許されるというものではありません、決して。
これは極めて重要なので何度でも言いますが、むしろ根拠と理性に基づかず思い込みで暴走する正義ほど恐ろしいモノは無いのです。

6.おまけのネタ
(この項はおまけです。心が荒み気味だったので、解毒の為のネタを幾つか用意しました。あくまでネタですので、決してマジにとらないでくださいね)

1)科学コミュニケーション()
「科学コミュニケーションの専門家なのに、科学にも全然詳しくないし、コミュニケーションもダメダメなんて、一体どういう事だ!」なんて思ってた時期が、私にもありました。
しかし、世の中にはそういう人が結構いらっしゃるみたいですね。例えば「医療」にも詳しくないし「ジャーナリスト」としてもダメダメなのに何故かマスコミには露出し続けている(一部の)「医療ジャーナリスト」とか(あれ、そう言えばあの人「医療アナリスト」にジョブチェンジしたのでしたっけ?)(爆)

2)「STSの林さん」
こうして悪目立ちしてしまったせいで、すっかり「STSの林さん」と言えば林衛准教授の事、というのが(少なくとも私の周囲では)定着してしまいました。しかし、出来ればこの呼び方は避けた方が良いでしょう。
何故なら、林岳彦氏と紛らわしいからです。林岳彦氏は、例えばこういう事を仰っている「リスク評価の専門家」です。この記事を拝見すると、色々思うところはありますね。例えば、そこに書かれている内容を思いっきり「悪用」すると林衛氏みたいになっちゃうのかな、とか。

という訳で、このお2人を混同するのは、いささか失礼だと思います。
(ここだけは真面目に書きますが)STSと一括りにするのは、判断を誤る元です。
(2013年7月1日追記:林岳彦さんから丁寧なブクマコメを頂きました。
http://b.hatena.ne.jp/takehiko-i-hayashi/20130620#bookmark-150981818
却って恐縮してしまいます(^^;
有難うございました。)

3)「真の御用学者」とは
最後に「林衛准教授こそ『真の御用学者』である」仮説を紹介します。
そもそも、林氏はわざわざ民間を辞めてまで国立大学法人に就職したお方。つまり国立大学から給料を貰い禄を食んでいる身であり、その意味では「バリッバリの御用学者」です。
えっ?そんな筈無いでしょ?だって言ってる内容は全然御用っぽくないよ」とか言ってるアナタ。それこそ、完全に、向こうの思う壺ですよ。
だって、考えてもごらんなさい。
林氏の言い分なんて、ここでずうぅっと述べてきた通り、ツッコミどころ満載のレンコン理論(どこを切っても穴だらけ)じゃないですか。そんなアカラサマにダメな態度で「御用学者」を攻撃するなんて、どう考えても、林氏は「反御用陣営を劣化させる為の高度なネガティブステマ」をやってるんですよ、わざと。そうとしか考えられません。
何より、ここまで大学の名誉を貶めてるにも関わらず、一切何のお咎めも無いという事実。そう、その事実こそ、他ならぬ林氏が「真の御用学者」であるという、動かぬ証拠なのです(ナ、ナンダッテー)(棒)
(くどいけど、本気にしちゃダメよ)

7.謝辞

これまで林氏と不毛にも思える遣り取りをなさってきた方々、ツッコミを入れてくださった方々に篤く御礼申し上げます。お陰様で多くのネタを仕込めました。
そして、ここまで読んでくださった貴方にも、御礼申し上げます。お疲れ様でした。

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7 件のコメント:

  1. おとりすがり2013年6月20日 21:29

    とても面白いし、殆どに同意できるのですが、一点だけ。
    確立された科学的事実というのは存在するのでしょうか?
    数学とかは絶対的な証明が可能だったりしますが、科学は絶対的な証明は不可能で、技術が進めば覆されることがあるのが普通だと思っているので。

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    1. >おとりすがりさん
      いらっしゃいませ。
      「科学は絶対的な証明は不可能」との御意見、厳密に言えばその通りです。確かに科学では完全な証明は不可能であり、常に覆る可能性が残ります。
      但し、覆されると言っても、そこにはやはり程度問題と言いますか、限度があります。

      ちょっと上手く説明出来るかどうか解りませんが、例を挙げてみましょう。
      時に「アインシュタインの相対性理論によってニュートン力学が否定された」という言い方をする人がいらっしゃいますが、これは不正確な表現です。何故なら、相対論の考え方に従った場合でも、物体の速度が光速度に比べて非常に小さい場合には、ニュートン力学の考え方で近似しても誤差が極めて小さいからです。
      ですから、相対論により光速度に近い場合にはニュートン力学が成り立たない事が示された訳ですが、それでもなお、光速度に近くない(我々の日常生活レベルの)場合に於いてはニュートン力学の考え方が殆ど「そのまま」成り立つと言えるのです。ですから、相対論は決してニュートン力学を否定したのではなくて、ニュートン力学を修正した、いや、むしろ「ニュートン力学を拡張した」という表現さえ成り立つでしょう。
      同じ事は、量子力学についても言えます。
      素粒子の世界では、量子論以前の科学的常識に反する様々な現象が起こります。その為、量子論は既存の科学理論の修正を迫ったとも言えます。しかしその場合でも、従来の理論が根こそぎひっくり返る様な事にはなりません。あくまで「修正」に留まるのです。
      再びニュートン力学の例に戻るならば、たとえこの先どの様な新理論が発見されたとしても、一旦地面に落ちたリンゴが再び浮き上がって枝に戻る様な事は無いと断言できます(但し、これも厳密に言えば100%ではありません。ありませんが、これまで人類が積み重ねてきた経験と叡智の総和に近い物が掛かっているので、それを覆すのは並大抵の反証では全く足りません)。
      私が「確立された科学的事実」と述べているのは、このレベルのものです。人類の観察と経験によるデータの蓄積の結果、細かい修正が加わる可能性は残っているものの、大筋での変更は考えられない程度にまでなったものの事を指しているのです。

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    2. おとりすがり2013年7月3日 0:11

      返信ありがとうございます。
      確かに否定ではなく、拡張や修正ですね。
      よくわかりました。

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  2. 私が理解する限り、林氏は放射能の被害認定、救済と避難援助を非常に大切にされているのだと思います。
    ですから放射能の危険性を強調し、避難についても良い印象を与えるよう努力しているのだと思います。

    それ自体は良いことですし、そのように被災者を救おうと努力する時、発言が、ある程度、政治的に偏るのは避けられないことであり、必ずしも責めることではないと思います。

    問題は、そのように自分に都合のいいことを強調する政治的な主張と、客観性を追求する科学的な議論の使い分けが出来ていないこと。

    科学的議論の場合は、むしろ自分に都合のいい言説についてこそ批判的である必要があるのに、そうした理解がない。
    また政治的な主張にしても、明らかに事実と異なったり、また自分の利益のために、他の人を傷つけてしまっている点。

    放射線被害の強調はいいとして、起きてない鼻血が起きてるように言ったり、過剰な強調によって困る人がいることを無視するのは、いただけません。

    本来なら、そこを気をつけてすりあわせるだけでいいと思うのですが、どうも、それが通じないようです。

    返信削除
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    1. >海法さん
      コメント有難うございます。海法 紀光さんでいらっしゃいますでしょうか。Twitterでの林氏との遣り取りは時折拝見しております。
      そうした際には何時も、海法さんの驚異的な粘りと忍耐に感心するばかりだったのですが、今回のコメントを拝見して、そうした粘りの源泉の一端を窺えた様な気がします。
      と言いますのは、海法さんの立場でも林氏の動機や目的にはむしろ同意や共感する部分が多いと思えたからです。だからこそ「方法論がおかしくなっている部分を修正すれば良い筈だ」とお考えの様に見受けられます。

      ただ、本当に残念ながら、そうした海法さんのお気持ちも林氏にはあまり伝わっていない様です。「それは何故なのか」と考えてみますと、やはり彼が「目的と方法論を弁別出来ていない」点に戻ってくると考えます。
      例えば、仮に「目的が正しい ならば 目的を達成する為の手段は全て正当化される」が真だとしましょう。その場合「手段のうち1つでも批判する ならば 目的の正しさを認めない」も真になります。これら2つの命題は、お互いに対偶の関係にあると言えるからです。
      従って、もしも林氏が1つめの命題を真だと考えているのであれば、論理的帰結として、彼の方法論を批判する者は目的を否定しているのも同然だと看做す事になります。
      もし、この推測が正しいのであれば、そういった状況を打開する為には「目的が手段を正当化する」という考え方そのものを打破する必要があるでしょう。しかし、それは思想や信念に関わる部分ですので、そこに難しさがある様に感じています。

      削除
  3. 林さんの昔のやりとりを見る機会がありました
    http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/a0013.html
    後釣り宣言の他はそっくりそのままの芸風で、ちょっと微笑ましく感じるほどブレてません

    返信削除
    返信
    1. >こんにちわさん
      お返事が遅くなりました。コメントの承認をした際に、お返事をしたつもりになっておりました。申し訳ありません。
      確かに、林氏は昔から同じ様な感じなのですね。傍から見ているだけならば、微笑ましくて良いとも言えるのですけれど。

      削除

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