コミケを風疹から守り隊

2010年11月18日木曜日

掛け算の順序論争について

1.これまでの展開と私の見解

「掛け算の順序論争」というものがある様だ。どうやら、かなり以前(1970年台頃)から繰り返し出ている話題らしい。
先週末くらいにTwitterでやり取りしている方々がいらしたと思ったら、早速幾つかとぅぎゃったになっていた(例えばこれとか)。色々拝見した結果、この件に対する現時点での私の考えは、以下の通り。

1)順序にこだわるのはナンセンス。
2)「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを理解させるべき、という意見には一理ある。
3)しかし「掛ける数と掛けられる数との違いに関する理解」にこだわるのであれば、むしろ単位を重視すべきであり、やはり順序にこだわるのはナンセンス。
4)しつこい様だが、式の順序を「正しく」書いているかどうかで理解度は測れない。「正しい」順序で立式している子の中にも理解が不十分な子は居るだろうし「間違った」順序で立式した子の中にも理解している子は居る筈だから。

一言でまとめるのなら「順序にこだわる事によるメリットが全く見つけられない」となる。



2.その後の経過

その後、ちょちょんまげさんの記事を拝見して私の殺伐としかかっていた気持ちが多少慰められたり、佐々さんの簡にして要を得た解説に感心したり、さつきさんの一連の記事()を拝見して私が漠然と考えていた内容を見事に言語化していると喜んだりしていた(その他にも幾つかのブログ記事やTwitterでの議論を参照したが、煩雑になるので詳細は省略する)。
但し、さつきさんの記事の中で述べられている「助数詞廃止論」に関しては少々異論がある。私の意見は「少なくとも半分は廃止すべし」つまり「助数詞は原則として廃止した方が良いが、解で求められている助数詞に限り、残しても良い」である。具体的に言うと「一皿あたり3個の林檎が載った皿が5枚あったとき、林檎は幾つか」の問題においては[個]は残しても良いが[枚]は不要だと考える。何故なら、この場合、皿は問いの本質ではなく、人でも袋でも箱でも同じだからである。一方、[個]を残しても良いと考えるのは、その方が単位付きの計算に移行する際、感覚的に理解しやすいと考えるからである。助数詞は単位そのものではないが、単位付きの計算への導入になり得ると考えている。

で、数学的な立場から書かれた記事がないだろうかと思っていたら、Twitter経由でこちらの記事を知った。個人的には、もうこれで論争に決着がついたと看做して良いと思う(それでもゴチャゴチャ言い続ける人は残るだろうけれども)。

3.順序にこだわる人達のスペクトラム

さて、少し情報を集めているうちに、順序にこだわる人達の中にも、色々な人が居るらしい事が解ってきた。概ね、以下の様に分けられると思う。

1)順序にこだわるのが「数学的にも正しい」と信じている人
2)学習指導要領に書いてあるから(いや、本当は書いてない事を読み取っているだけなのだが)その通りに教えるべきだと考える人
3)子供の発達段階に応じた理解をさせる為の便法(もっと言えば、必要悪)であると考えている人
4)子供に理不尽な事や「正しくてもバツを貰う」経験をさせる事も必要であると考える人、あるいは「子供は教師の言った事をそのまま覚えるのが正しい、疑問など持たずに鵜呑みにするのが正しい」と考えている人
などである。

このうち、私が話をする気になるのは3)の人だけである。便法であると理解しているのなら、最初から可換性のある操作だとして掛け算を教えれば良い(この点に関しては後述する)だけの事であるから。
一方、2)の人は、極めて官僚的な思考の持ち主である。もし指導要領と現実との狭間で悩まれているのなら、お気の毒だと感じるが、指導要領に従う事に全く疑問を感じていないのであれば、官僚としては優秀でも教育者として的確とは言い難い。
あるいは、2)の人の中には、指導要領に疑問を持ちながらもそれに従わざるを得ないジレンマを抱えている人がおられるかもしれない。更に想像を逞しくするなら、そのジレンマが認知的不協和を引き起こし、それを解消させる為に自ら「順序にこだわるのが正しい理屈」を考え出す様になってしまうかもしれない。つまり2)→1)への移行が生じうる。
とは言え、これらの人々はまだ可愛い方であり、個人的に最もお近付きになりたくないのは4)の人達である。端的に言って4)の立場は「教育」ではない。これは「躾け」である。しかも「内容的に間違った躾け」である。従って、もっと酷い言い方をすれば「調教」であるとも言える。
確かに、4)の立場の教師が居たとしても、同情の余地が無い訳でもない。そもそも学校に「躾け」まで求めるのは過大な要求であると私は考えているからである。言う事を聞かない子供(そして親!)に苦しめられている教師の方々がいらっしゃる事も(想像ではあるが)承知しているつもりである。あるいは、もしかしたら教師自らが指導要領の理不尽さに耐えているという思いが嵩じて、子供にまで理不尽さを押し付けてしまっているという(同情しても同調は出来ない)可能性も考えられる。その場合は2)の立場と重なる部分もあろう。
しかし、如何に同情の余地があるとしても、それでもなお、4)の立場は3重に間違っていると考える(詳細は次項で述べる)。

4.この問題が気になる理由

前項で述べた様に、上記4)の立場は3重に間違っていると考えるので、1つずつ述べていく。

1)たとえ躾けだと考えても、やはり間違っている。
もし「躾けだから問答無用」だと仰るのであれば、確かにその点には一理ある。しかし前述の様に、この場合は躾けの内容が間違っている。「問答無用の躾け」が正当化されるのは、躾けの内容が、本人が社会生活に適応していく上で有用であると判断されるからであろう。「掛け算の順序にこだわる事」にはそうした有用性が一切無い。その意味で、例えば「公共の場所ではむやみに走り回ったり大声を出したりしてはいけない」という類の躾けとは全く異なる。
敢えて例えるなら「教室で手を上げる時には人差し指を立てて上げなさい」というのと同じくらい無意味で無益なローカルルールであると言える。

2)その前にする事があるだろう。
そもそも世の中は理不尽さに満ちている。
従って、わざわざ理不尽さを作ってまで子供達に押し付ける必要は全く無い。
理不尽さを教えたいのなら、他に幾らでも方法がある筈。
そして、もし本当に理不尽さをきちんと教えたいのであれば、その前に「因果応報」という事を(言い方が悪いかもしれないが)きちんと叩き込んでおく必要がある。即ち、良い事をすれば褒め、悪い事をすれば叱る。正しい答にはマルを付け、間違った答にはバツを付ける。そうした経験を数多く積ませる事によって世の中(と教師)に対する信頼感を十分に醸成したうえでなければ、積極的に理不尽さに触れさせるべきではない。
もし早い段階で理不尽な状況に晒され続けていると、良くても教師不信(これは教育効果の著しい低下を意味する)に陥るだろうし、悪くすると善悪の判断が付けられない人間になってしまう可能性すらある。

3)学問を躾けの道具にすべきではない。
上記1)でも述べた様に「躾けだから問答無用」という立場それ自体には、一理ある。
しかし、そうであるならば、それこそ「理屈は不要」な筈なのだ。だのに何故理屈をこねるのか。それは学問と躾けの双方に対する侮辱である。
学問的に正しい理屈ですら、躾けの根拠にすべきではない。ましてや「学問的に間違っている屁理屈」などは論外である。これはもう、ニセ科学ならぬ「ニセ数学」と呼んでも良いかもしれない。

以上を一言でまとめるなら「水伝と類似の構造だと思えるから」となる(現実には役に立たない、という意味ではむしろ水伝よりも酷いかもしれない)。その意味では水伝と同様に、一見すると単純に見えるけれども、実は根の深い問題なのかもしれない。

5.現場の教師を非難したい訳では無い

上記3.でも少し書いたが、現場の教師には同情すべき点が多々ある。理想と現実とのギャップに苦しんだり、指導方法に疑問を持ちながらも現状を変える方策を見出せない方もおられるだろう。
なので、この問題を「現場教師に対する非難」に矮小化させるのは反対である。
しかし一方で、妙に理論武装している様な人に対しては積極的に批判していくべきだとも思う。この記事を書いた大きな理由の一つも、そこにある。

なお、これに関しては、あらきけいすけさんのエントリが大変参考になった。但し、あらきさんの仰る

>大学教師も何人も参戦していて、こんな目先の議論に終始しているというのが情けない。

という部分には、2つの意味で賛成できない。
まず、大学と小学校では、全く状況が異なる。一番違うのは「教える内容があらかじめ決められているか否か」である。その意味で小学校の教師には裁量の余地が全くと言って良いほど、無い。一方で、その点に関しては大学の教官は完全に自由だと言っても良いくらいである(自由すぎてトンデモな持論を講義してしまう教官が居るのは困るが、取り敢えずは「それも必要悪であろう」と言っておく)。
そうした不幸な状況の中では、どうしても小学校の教師は官僚的にならざるを得ない。それに比べると大学の教官は「学問の徒」という意味合いが濃い。

次に、私の個人的な意見では、Twitterは真剣で深い議論には不向きだと思う。ただでさえ文字によるやり取りでは誤解が生じ易いのに、そこに140文字という制限まで加わっている。従ってまとまった事をきちんと言おうとすると、下書きした上でそれを140文字以内に分割して連続tweetしなければならない。そんな事をしているうちに、前の方の発言はTLに埋もれてしまうかもしれない。
一方では比較的簡単に参入できるので気軽に呟く人も居る。
まぁ、自分も使っといて言うのも何だが、Twitter上の議論「だけ」を判断や評価の根拠にするのには慎重であるべきだと思うし、どうしても「目先の議論」になりがちな傾向があるとも思う。

6.最初から可換性にこだわった方が、むしろ理解が早まるのでは?

以下に述べる内容は、Twitterでも何人かの方が言及しておられたものと類似している。
例えば15個のおはじきを長方形に並べて、縦に並べても横に並べても数は変わらない事、あるいは一旦長方形に並べたおはじきを、3個ずつ丸で囲んで5つに分けても、5個ずつ丸で囲んで5つに分けても数が変わらない事を「最初に」教える。
子供はくっつけたり分解したりする事が好きだろうから、こうやって色々いじっていれば、
15=3×5=5×3
という事を、実感として覚えていくと思う。
ここで「それって掛け算と言うより割り算なんじゃないの?」と思われる方がいらっしゃるかもしれない。実際、上記の様に数をいじっていれば「15を3つに分ければ5である」とか「15の中に3は5つ含まれている」とかに気付くのは比較的容易であろう。
そして、実はそれこそが、この方法の更なる利点でもある。つまり「割り算は掛け算の逆演算である」事が自然に納得できる。そして、以下の4つの式
3×5=15
5×3=15
15÷3=5
15÷5=3
が本質的には同じものである、というところまで行って欲しいのである。
もし、あくまで「掛け算の順序」にこだわるのであれば、これら4つの式は全て「別々のもの」という事になる。そんなのは全く時間と労力の無駄である。

子供の為を願うのであれば、掛け算の順序にこだわるべきではない。それは無益なばかりではなく、むしろ有害なのだから。

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11 件のコメント:

  1. ものすごい誤解があるようなので、若干の解説と情報提供です。

    まず、×をつけたというのは、行き過ぎだと思います。ただ、それまでの学習で、乗数と被乗数の学習をしてきているので、その結果、このような答えを書くと、「この子の理解には何か問題があるのかな」と思われるということでしょうか。
    この教師の場合は実際にはわかりませんが、「形成的評価」が主流でしょうからそんなに問題にはならないと思います(形成的評価については検索してください)。

    日本だけのことだと思われているようですが、、他の国でも乗数と被乗数にこだわります。アメリカとイランの例です。
    http://www.n-ishida.ac.jp/main-office/tyuto/09/kiyou2009/P3.pdf

    この問題を、「交換法則を無視した」と捉えられたり、教師の解法の押しつけだと捉えられたりしていますが、実際は違います。
    そして、数学的な問題ではありません。数学教育の問題でしょうか。

    背景には、「乗法の理解」と「式表現」ということがあります。子どもが、文章題の数をきちんと理解したか、そしてその状況を的確に表現できているかが、第一です。順序は実はこだわりません。
    授業例ですが、ここでは牛乳の本数を多様な見方でとらえ、式に表しています。
    http://www.kagawa-edu.jp/kasana01/sidouan/2nen/h19-2-02-s.pdf

    ここでは、他の子どもが「式表現」した結果をもう一度図に表すということもしています。
    http://www.sawara-e.com/koukai/pdf/H17_2_M_2/JisenKiroku.pdf

    理系の方には、釈迦に説法ですが、式には「表現」と「計算(形式的処理)」の2つの意味があります。子どもの思考の過程では、まず表現して、それをもとに計算します。その表現の段階では、交換法則などを適応しません。そのごの形式的処理の段階で、交換法則を使ったり、分配法則などで計算しやすく式を変形して処理がされます。

    多くの人は、算数の授業は教師が内容を教えて、子どもがそれを覚えて処理を繰り返すだけと思われているようですが、実際には、子どもたちが話し合って問題を解決していきます。
    「式表現」は、そこでの話し合いの題材にもなりますから、ある程度の共通理解(文法)は必要です。先に紹介した授業では、そうしたことから、子どもの多様な考えを引き出しています。決して子どもに考え方を押しつけているということはありません。

    余談ですが、教育以外の人は、この学習で「乗法」を身につけることだけが学習内容だと思われますが、違います。
    http://www.center.spec.ed.jp/d/h18/h18_da08/sansuu_suugaku/pdf_suutosiki/suutosiki_1.pdf
    ここにあるように「2の段や5の段では、こうしたきまりがあったから、8の段でもそうだ」のように考えさせることがよくありますが、これは帰納的な考え方の素地です。大きくなって「これが帰納的な考え方だ」と言われても、すぐにはできないでしょう。こうして小学生のころから、小さな経験を積み重ねていくことで、学力として身についていくようになるのです。
    当然、「式表現」で数の意味を確実に理解することは、中学以降の文字式にもかかわってきます。

    返信削除
  2. こんばんは、算数マニアさん、コメント有難うございます。
    コメントがスパム扱いになっていたので、気付くのが遅れました。もしかしたらシステムが、コメント中のリンクが多過ぎると判断したのかもしれません。

    さて、本題です。
    「ものすごい誤解」と仰りますが、算数マニアさんのコメントを拝見した限りでは、何がどの様に誤解なのかを上手く読み取る事が出来ませんでした。
    もし宜しければ、もう少し具体的に誤解と思われる箇所を御指摘頂けると助かります。
    あと、個別に何点かコメントさせて頂きます。

    >それまでの学習で、乗数と被乗数の学習をしてきているので、その結果、このような答えを書くと、「この子の理解には何か問題があるのかな」と思われるということでしょうか。

    理解に問題があるという「可能性」はあると思います。しかし、逆順に書いていても、理解には問題ないかもしれません。また「正しい」順番で書いていても、それこそ教わった通り機械的に書いているだけで、本質を理解していないのかもしれません。そこまで踏まえたうえで本文では「順序を正しく書いているかどうかで理解度は測れない」と書いた訳です。

    >日本だけのことだと思われているようですが

    思っておりません。何故その様に読解されたのでしょうか。そもそも、本文中のリンクにあるちょちょんまげさんのエントリでは、アメリカでも順序にこだわる教師が居る事が、御本人の体験として述べられています。

    >数学的な問題ではありません。数学教育の問題でしょうか。
    こういう意見は他でも拝見した事がありますが、正直申し上げて、まったく納得できません。数学的に間違っている(と、敢えて申し上げますが)事柄を教える事が、数学教育のうえで必要だと仰るのでしょうか。
    無論、教える為の便法とする事まで否定している訳ではありません。その点は本文にも書いたつもりです。

    >順序は実はこだわりません。

    それは算数マニアさんのお考えですよね。でも、私が見た限りでは、どうも過剰に順序にこだわる人達がいるらしい。幾らなんでもそれはおかしいのではないか、というのが最も言いたかった事です。
    ですから、もしかしたら、私の言葉がうまく算数マニアさんに届いていないのかもしれません。

    あるいは、大変失礼ながら「算数マニアさんは御自身とは立場の異なる人達の事まで無理に代弁なさろうとしているのではないか」という風にも、少し感じました。

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  3. 算数マニア2010年12月7日 18:47

    PseuDoctorさん、こんにちは。
    ご返信ありがとうございます。

    反対派(こうした二元論は好きではありませんが、あえて)の方の論点はいくつもあるので、ついそれを総括したように書いてしまっておりました。
    すこし絞ります。あらたに整理し直すので最初のコメントと重複するところもあります。

    PseuDoctorさんの論点は、「順序にこだわるのは数学的にも誤りであるので、順序にこだわった学習をするのはナンセンスである」ということでよろしいでしょうか。そう考えて論を進めます。

    以下、次のような論点で進めます。
     1 この問題は数学の問題ではない。
     2 式には表現の意味がある。
     3 式の表現形式を共通することは必要である。
     4 よって、順序にこだわることは意味のあることであり、数学的な誤りではない。

    1について、この問題の捉え方ですが、次のように考えます。
     ①「3×5≠5×3」という問題ではなく、
     ②「5枚のお皿に3個ずつのリンゴ≠5×3」という問題である。
    あの×をつけた写真から①のようにも読み取れるとの主張もありますが、一般的に考えるならば、教師は交換法則が成り立たないから×をつけた考えるのは誤りです。このあとに交換法則の学習もします。教師も交換法則を理解しております。その状況で×をつけたということは、(一つあたり×いくつぶん)の順序と異なっているから×をつけたと解釈するのが通常でしょう。

    ①であれば、数学の問題ですが、②は数学の問題ではありません。
    英語では4×100mと表記するように順序は国によっても異なっています。この違いにより数学的に何か問題が起きるということはありません。円周率が国によって異なると当然問題が起きます。円周率は数学の内容だからです。
    数学の内容は普遍です。したがって普遍でないものは数学の内容ではありません。順序はあくまでも表現の形式です。

    この順序は、言語の影響だろうと思います。
    辞書で、被乗数をひくと、「乗法で、掛けられるほうの数。a×bのaをいう」とあり、辞書も順序で表現しております。英語版Wikitionaryでも同様で「In the expression 5 × 7, the "7" is a multiplicand. 」となっています。
    九九も基本的には被乗数×乗数です。「にさんがろく」は「2が3個で6」「2の3倍が6」の意味であって「2個の3で6」という意味ではありません。
    日常でも、一般的には「50円のリンゴを3個ください」のように表現するのではないでしょうか(これは日常であって、算数教育とは別です)。

    2について、最初のコメントに書きましたが、式は「表現」と「形式的処理」の2段階があります。「形式的処理」では、交換法則を適用しますが、「表現」の段階では、相手に伝わらないことなどからも交換法則などを適用すべきではないと思います。

    この学習では、次のことを身につけることを目標としております(単元全体を通して)。
    ・乗法について成り立つ性質やきまりを進んで見付けようとしている。
    ・乗法に関して成り立つ簡単な性質を調べ,それを乗法九九を構成したり計算の確かめをしたりすることに生かしている。
    ・1位数と1位数との乗法の計算が確実にできる。
    ・乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられるなど,乗法の意味について理解している。
    ・乗法は累加で答えを求めることができることを理解している。
    ・乗法の式に表したり,式を読み取ったりすることに関心をもち,いろいろな場面を式に表そうとしている。
    ・乗法が用いられる場面を,具体物や図などを用いて考え,式に表している。
    ・乗法の式を,具体的に場面に結び付けてとらえている。
    ・乗法が用いられる場面を式に表したり,式を読み取ったりすることができる。
    ・式に表したり,式を読み取ったりすることを通して,乗法が用いられる場面の数量の関係について理解している。
    (国立教育政策研究所「評価規準作成のための資料」より抜粋)
    以上のように「式に表す」「式を読み取る」ことも学習のねらい、評価規準となっております。

    3について、別の授業を基に補足します。
    ttp://kusunoki.hs.plala.or.jp/sidouann/2nensidouann.pdf
    (hを1個とってあります)
    本時の展開あたり(6ページ)をごらんください。
    算数の授業では、教師が問題を提示→子どもが自力で考える→それぞれの意見を交流→まとめる の流れが主流です。自力で考えられない子どもにはサポートもします。講義のように教師から子どもに知識を伝えるような授業ではありません。
    ここでは、24個の机の数の求め方で、「2×9+2+…」「8×3」「6×4」「2×6+2×6」と4通りの求め方が子どもから出ています。実際にはもっと多く出たでしょう。ここではそれぞれの考え方を認めています。
    この授業の最後にワークシートがありますが、自分の考えを式に表現するようになっており、次の評価問題では、式に表現されたものから求め方を読み取るような学習になっています。

    このように授業では、多様な求め方を認め、それぞれの考えを尊重しています。
    順序にこだわるというのは、共通理解として「かたまり」×「いくつ分」と表現しようということで、この共通理解が理不尽であると指摘されているのです。

    ここで、順序を無視して表現した式は、友達に適切に伝わるでしょうか。
    この授業のように式の表現様式を統一することで、友達の多様な考えを共有することができます。また、友達の考えから、さらに自分を発展させることもできます。式で表現することが使いこなせれば、式で思考することもできるようになります。
    ですから、3個をひとかたまりで5個分と考え3×5と表記することと、一つずつ皿に分配する考え方で5×3と表記するということは、ともに式として意味があります。両方の考えを5×3としてしまうと、こうした考えを表現することができません。個人の中でも思考の道具として「式」を使うことは難しくなります。

    以上のことから、表現の形式としての順序は、数学としての誤りではなく、意味(メリット)があることと考えます。


    以下、付記

    こうした式表現は、ここだけでなく1年生から6年生まで繰り返し出てきます。例えば1年生では、加法や減法でも式に表す学習があります。
    また、表現は、式だけでなく、図や表やグラフなど様々な表現について学習をしていきます。表現はそれだけをとりたてた学習ではなく、他の学習内容とセットになって学ぶようになっています。

    私は、ここでの順序はローカルルールでよいと思っております。クラスの大部分が英語圏の帰国子女だったら、英語に準拠してもよいと思います。もちろん他のクラスや学校全体との関係からの教育的配慮も必要です。そうしたこともあるので「実は順序にはこだわらない」と書きました。

    この問題を「乗数と被乗数の関係の理解の評価」と捉えている議論もあります。私はその面もあると思いますし、確かにこの問題だけでは評価しきれないところもあるでしょう。ただ、日本の小学校は学級担任制です。算数だけでなく他の教科でもそれぞれの子どもを見ています。テストの前に同じ内容の授業もしております。授業の発言やノートから、それぞれの子どもの理解を推定もしています。特に今の評価は形成的評価が主流ですし、テストだけで評価することはありません。そうした前提があるので、一般論でいうならば評価は可能かと考えます。

    この問題については、なぜか肯定、反対、共に過激な方が多いですね。そういうことがあるので、理性的なところを選んでおります。
    ここのリンクからたどって、あらきけいすけさんのところにも書き込みました。あらきさんのところでは、思想統制かどうかで、情報提供させて頂きました。内容はかぶっております。あらきさんからは、「誤謬推理の要素があります」とのご指摘もいただきましたので、その点についてのご意見を待っております。

    返信削除
  4. こんばんは、算数マニアさん。
    とても長文のコメントですね。
    さて、何からお返事したものでしょうか?

    >「順序にこだわるのは数学的にも誤りであるので、順序にこだわった学習をするのはナンセンスである」ということでよろしいでしょうか。そう考えて論を進めます。

    そう考えている部分もありますが、それだけではありません。論点が幾つもあるのは確かです。ですから、私の考えを本文の最初の方に緑色の字でまとめて書いたわけです。
    そこには「掛ける数と掛けられる数との違いを理解させるべきという意見には一理ある」と書いてある訳ですが、私がその様な認識でいる事は御理解頂けているのでしょうか?
    そして本文の最後の方にも書きました様に、私は「教育効果を最優先に考えるのであればこそ、順序にこだわる方がむしろ有害である」という考えを持っております。この点に関しては如何お考えでしょうか?

    何と申しますか、先のコメントでは冒頭に「ものすごい誤解」と書かれたので「どこがどの様に誤解なのか」とお伺いしました。ですので、今回のコメントには「ここがこの様にものすごい誤解である」と書いて頂けるものと期待していたのですが、今回のコメントにはそうした表現は見つけられませんでした。
    これは私自身が算数マニアさんのコメントを読み込んで「どこが誤解だったのか自分で見つけろ」という事でしょうか?もしそうであるならば、その様なスタンスで書かれるのは好みません。
    こだわる様で恐縮ですが、ブログのコメント欄とは基本的に文字だけの遣り取りです。ですから私は、なるべく誤解が生じない様に、なるべく論旨が明解になる様に心を砕いて文章を紡いでいるつもりでおります。正直申し上げて、初対面の方に、のっけから「ものすごい誤解」などと言われては、なかなか心穏やかではいられないのです。

    というわけですので、是非とも次回のコメントでは、私の意見のどこがどの様に誤解であったのかを御説明頂きたく存じます。宜しくお願い致します。
    あるいは、もしかしたら

    >反対派(こうした二元論は好きではありませんが、あえて)の方の論点はいくつもあるので、ついそれを総括したように書いてしまっておりました。

    この部分がそれに対応するという事なのかな、とも思いましたが、やはり確信が持てません。もしこの部分が私の質問に対する答であるという事ならば、その旨を明確にして頂きたいと存じます。

    まあそれでも、折角頂いたコメントですから、内容についても触れます。

    算数マニアさんは一貫して「数学の問題ではない」と書かれています。仮にそのお立場を尊重するとしましょう。しかしそれでもなお問題は消えません。何故なら、これは「外形上、あたかも数学の問題であるかの様に見える」からです。「数学の問題ではない」と言いながら、使っている文字・記号・式は全て数学と全く同じものです。それでも数学の問題ではないと仰る。
    それで子供たちが納得しますか?
    もう少し平たく言いましょう。子供たちから「どうして逆順ではダメなのか」と聞かれた時に、何と答えますか?
    まさか、ここでお書きになった様に「これは数学の問題ではない」などという事を子供たちに説明するわけでは無いですよね。

    もっと言えば、この場合、式は「表現」であるという事にして、数学上の「形式的処理」とは異なる扱いをする事を正当化しておられるわけですよね。同じ形をしたものにわざわざ違う意味を込めるのは混乱の元だとは考えられませんか?どうしても「表現」の意味を込めたいのなら、数学の式と紛らわしくない、異なる表現を新たに採用するとか、言葉で答えさせるとかの方法を取れば、それで済む事です。そういう工夫もせずに、ひたすら式の順序にこだわるのはおかしいと考えます。
    そもそも「式に2つの意味がある」なんて事は、大人だって理解している人は少ないでしょう。意地悪な見方をするならば「順序にこだわる事を正当化する為にひねり出された詭弁である」と考える事すら可能かもしれません。
    大人でさえ、なかなか理解できないものを、どうやって子供に教えるのでしょうか?

    次に、仮に「数学の問題ではない」という点に関しては合意が得られたとしましょう。
    では、何の問題なのでしょうか?
    算数マニアさんのコメントを拝見する限りでは「子供たちにきちんと理解させる為の、教育上の問題である」という風に読み取れますが、そうした理解で合っていますか?
    もし上記の理解で合っているのならば、先に書きました様に私は「むしろ順序にこだわらない方が理解が早まるのではないか」という考えを持っておりますので、その点に関しての御意見を頂きたいところです。

    長くなりましたので、私から算数マニアさんへの質問をまとめます。
    1.本文の最初の方に緑色の文字で書いてある「私の考え」の内容を把握していますか?
    2.「ものすごい誤解」とは、何がどの様に誤解なのでしょうか?
    3.子供から「どうして逆順ではダメなのか」と聞かれた時に、何と答えますか?
    4.全く同じ様に見える式に「表現」と「形式的処理」という、2つの異なる意味を持たせる事は、後になって混乱を引き起こす元になる、とはお考えになりませんか?
    5.「順序にこだわらない方が理解が早まる可能性がある」という私の考えについては、どう思いますか?

    恐縮ですが、次回のコメントでは、これらの質問に対するお答えを頂きたく存じます。また、どの質問に対するお答えかを明確にする為に、お答えにも質問と対応する番号を付して頂きたいと思います。
    なお「現場で如何に工夫しているか」という事例の御紹介は、もう充分です。現場で頑張っておられる方々がいらっしゃる点は否定しませんし、そうした方々の努力を批判したいわけでもありません(この事も本文中に明言してありますが)。
    また「指導要領の内容の紹介」も結構です。「指導要領に書いてあるから、その様に教える」という立場の方とは、特にお話しする事はありません(これも本文中に書いてあります)。

    返信削除
  5. PseuDoctorさん

    わかりにくかったようで失礼しました。

    >1.本文の最初の方に緑色の文字で書いてある「私の考え」の内容を把握していますか?
    そのつもりですが、「その後の経過」ともありましたので、加筆された部分も加味して考える必要があると思いました。そうしたところから、論点をお尋ねしたのです。

    >2.「ものすごい誤解」とは、何がどの様に誤解なのでしょうか?
    まず第一は、「順序にこだわる人達のスペクトラム」です。
    なぜ、こうした指導がなされるのかが、根本的に誤解されていると感じました。
    一言で言うならば「状況を数学的に記述できる能力を身につけさせたい」ということと、それができているかどうかの形成的評価です。
    第二に、数学の問題としてとらえられたことです。

    >3.子供から「どうして逆順ではダメなのか」と聞かれた時に、何と答えますか?
     聞かれたときにどう答えるかは、一言では言えませんが、体験を通して順序で書くことのよさを理解させるようにすることです。
     私は、どうしても授業を通して語りたいと思いますので、実践を紹介しました。そこであるように、それぞれの子どもが、それぞれの子どもなりに自分の考えを式に表現して、別の子どもの考えを読み取る、そうした経験を積ませて、結果として子どもの中に、「式に表すといいんだな、そのためには順序を共通したほうがいいんだな」ということを経験させることだと思います。
     子どもたちは、1年生では加法や減法でも式に表す経験をしております。そうした経験の積み重ねで身につけることが大事だと思います。
     かけ算の学習でも、いきなり「これがかけ算だ」という授業は今はありません。まず、数の多いものを数える経験をさせる。次に効率の良い数え方を考える。その結果としてかけ算が便利だと言うこと(かけ算のよさ)に気づく。そのように経験を通してかけ算のよさを実感するような学習が多くなっております。

    >4.全く同じ様に見える式に「表現」と「形式的処理」という、2つの異なる意味を持たせる事は、後になって混乱を引き起こす元になる、とはお考えになりませんか?
     いえ、それはありえません。実際に、大人でもそうした過程を通っております。ある程度身についた人は、表現を飛ばすことも可能になりますが、これは特別なことではありません。
     例えば、円の方程式をいきなり展開して書くということはないと思います。まず与えられた条件で、円の方程式を書き、それから展開して「形式的処理」がなされるということになると思います。
     また、表現は式だけでなく、図やグラフも表現です。アレイ図で考えるときも、まず、3個ずつ5皿という状況を子どもたちなりに並べて、それを並べ替え(形式的処理)て、例えば、「ぼくは、いつも2、4、6と数えるから2個ずつ並べた」ということが出てくるのだと思います。
     割合の学習でも、数直線に表して、それから考えるという学習もあります。こうした経験をいくつも重ねていきますので、混乱すると言うことはありません(発達障害の子どもは例外です。こうした子どもには応じた学習がなされます)。
     まず、表現して形式的処理をして新しい発見ができる。こうしたことを学力だと考えております。文章題から答えを求めることだけではありません。
     
    5.「順序にこだわらない方が理解が早まる可能性がある」という私の考えについては、どう思いますか?
     交換法則の理解については、紹介した授業のように、同じ時期にアレイ図での表現からも理解させますので、早い、遅いはそれほど影響はないと思います。
     中国では、乗数、被乗数の区別をなくしました。つまり順序をなくしたことになります。それによって、立式と計算の能力はあがったそうです。ただ、量の理解に不具合があったという課題も出ているようです。
     これはまったくの私論ですが、単純な読み書きそろばんに代表される能力を上げるには、こうしたほうがよいと思います。ただ、数学的に表現して思考するということを身につけるには、順序にこだわることにメリットもあるのだと思います。

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  6. こんばんは、算数マニアさん。
    コメントの公開とお返事が遅くなって申し訳ありません。
    では、お返事頂いた順番ごとにコメントを致します。

    1.について
    これは私の書き方も悪かったと思います。ただ言い訳をさせてもらえれば「現時点での私の考え」とは、この記事を書いた時点での考えという意味でした。そして、その基本的な考えは、現在でも変わっておりません。
    解り難い部分があるといけませんので、改めて、私の考えを述べておきます。
     1)掛け算の順序にこだわるのは、数学的にもナンセンスである。
     2)教育効果という観点から、導入時の便法として使う場合があるのは理解できる。
     3)但し、2)の場合でも逆順を間違いとしてはいけない(順序で理解度は測れないから)。
     4)個人的意見では、順序にこだわらない導入を行った方が、むしろ理解が早まると思う。

    2.について
    「順序にこだわる人達のスペクトラム」が誤解との事ですが、やはりここは納得できません。何故なら、その項で私が最も述べたかった事は「順序にこだわる人の中にも色々な人がいる」という点だからです。算数マニアさんは、色々な人がいるという点が誤解だと思われるのでしょうか。
    更に
    >なぜ、こうした指導がなされるのかが、根本的に誤解されていると感じました。
    > 一言で言うならば「状況を数学的に記述できる能力を身につけさせたい」ということと、それができているかどうかの形成的評価です。
    との事ですが、ここには二点、異論があります。
    一点め。上述の如く私は「色々な人がいる」と認識しています。全ての人が算数マニアさんと同じ様な考え方をしている訳では無いと思います。それこそ「色々な考え方の人がいる」と思います。それを「誤解」と言い切ってしまうのであれば、算数マニアさんは「全ての人が算数マニアさんと同じ考えで指導している」と確信していらっしゃるのでしょうか。
    二点め。私は「状況を数学的に記述できる能力」は順序にこだわり過ぎるとむしろ身に付けるのが遅くなると考えています。どうしてもここの部分は御理解頂けない様ですが。それと「数学の問題ではない」と仰いましたのに「数学的に記述できる能力」が問題になるのでしょうか。真に「数学的な記述」を目指すのであれば、なるべく早い時点で、順序にこだわるのを捨てるべきだと思います。
    更に言えば、私は「順序にこだわるかどうか」で形成的評価は出来ないと考えています。理解度を測る為であれば、他にもっと良い方法がある筈です。

    3.について
    やはり、子供に「逆順ではダメなのか」と聞かれた時の端的な答えというのはお持ちではないのですね。その点は私が推察していた通りです。
    >子どもの中に、「式に表すといいんだな、そのためには順序を共通したほうがいいんだな」ということを経験させることだと思います。
    ですから何故「順序を共通した方が良い」のでしょうか。それは教師がその様に指導しているからではないのですか。別に順序を共通しなくたって良いでしょうに。全然「なぜ逆順ではダメなのか」の答えにはなっていない、そう強く感じます。
    敢えて失礼な言い方をしますが「どうしてそういう無駄なステップを踏ませて子供の発達理解を妨げる様な指導をするのか」と憤りさえ感じます。

    4.について
    同じ式に2つの意味を持たせても混乱しないとお考えですね。私は、混乱すると考えます。
    >実際に、大人でもそうした過程を通っております。
    何故そう言い切れるのですか。少なくとも私は大人ですが、そうした過程は通っておりません。掛け算において、全く同じ式に「表現と形式的処理」という2つの意味があるなどという事は、考えた事もありませんし教わった事もありません。
    大体、同じものに複数の意味を持たせるというのは、1つの意味しか持たせないよりも、より高度な概念だと思います。それなのに、最初に2つの意味を持たせておいて、後になって「実はそれは1つである」と教え直す、というのは、私には何かの悪い冗談にしか思えません。
    本当に、その教え方が小学2年生にとって良い方法だと思っておられるのですか?

    >こうした経験をいくつも重ねていきますので、混乱すると言うことはありません
    そういった指導上のテクニックをお尋ねしているのではないのです。全く同じに見えるものに複数の異なる意味を持たせたまま教える事と、1つの意味だけとして教える事と、どちらがより混乱が少ないかという話なのです。
    一般論として考えてみれば、もう答えは明らかだと思うのですが。

    5.について
    順序にこだわらない方が理解が早まる可能性があると私は思っております。
    >交換法則の理解については、紹介した授業のように、同じ時期にアレイ図での表現からも理解させますので、早い、遅いはそれほど影響はないと思います。
    なんと「同じ時期に交換法則を理解させている」にも関わらず、まだ順序にこだわるのですか。
    もはや完全に私の理解を越えています。ただひとつだけ明らかに言える事は、もし私がその様な考え方に基づく算数の授業を受けていたとしたら、まず確実に数学嫌いになるか、あるいは教師を軽蔑する様になるかのいずれかだと思います。

    ところで、算数マニアさんは「自分の方が完全に間違っている可能性」について考えてみた事がおありですか。私はしょっちゅう考えます。

    最後に、この件に関しては私が記事を書いた後で、私が愛読しているブログでも取り上げられており、そこでも非常に活発な議論がなされています。もう大半の論点は出尽くしており議論がループしている感もありますが、そちらも御覧になってみては如何でしょうか。当該記事のURLは
    http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1291884284
    です。

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  7. 一点、忘れていました。

    >中国では、乗数、被乗数の区別をなくしました。つまり順序をなくしたことになります。

    「乗数と被乗数の区別を無くす ならば 順序を無くす」
    は、真であると言えますが、
    「順序を無くす ならば 乗数と被乗数の区別を無くす」
    は、真であるとは言えませんね。
    何故なら、乗数と被乗数の区別をつけたままでも「どちらを先に書くかというルール」のみを撤廃する事は可能だからです。
    その意味で、中国での例は、参考になる部分もならない部分もあります。

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  8. ブログ運営方針をよく読まずに匿名で投稿してしまったので再投稿。よろしく。

    Q太郎

    こちらでも紹介しておく。こういういんちきな(いろいろ書いて他人を煙に巻こうという)論理で「掛け算には順序がない」(饅頭3個×5は3×5でも5×3のどちらでもいい。)と主張しているらしい。

    以下(1)から(7)まで昨年末にあった数学のセンセイの続けてのさえずりより。

    (1)実際には数学的法則に合わせて誤解が減るように数学的記号法を利用しなければいけません。たとえば算数で習う掛算は可換なので(交換法則をみたす)ので、実際に4×3のような式を使う場合には交換法則の成立に配慮して誤解を招かないように注意を払う必要がある。続く


    (2)続き。たとえばある小銭が幾つか欲しいときに「5×10」と書いた紙を渡しただけでは、5円玉10枚なのか、5枚の10円玉なのか判別不可能になります。日本の算数教育ワールド的には5円玉が10枚以外の意味にはならないようですが、実際の生活では混乱が生じる。続く


    (3)続き。掛算は交換法則a×b=b×aを満たしている(しかも子どもにとって九九を暗記するよりも交換法則に気付くことの方が易しい!)ので、a×bのaとbについて非対称なルールを世間一般で普及させようとしても現実問題として不可能なのです。続く


    (4)続き。普遍的な法則とは「掛算のa×bという表記法についてaとbについて非対称なルールが使われているならば、"逆順"のルールも使われていること」です。掛算の交換法則という数学的法則の支配力は極めて強い。続く


    (5)続き。「最高裁判所は存在しない」のようなもってまわった言い方をせずに、「2×3を2が3つの意味で使う規範を強制しようとしても、2×3を2つの3という意味で使う人が大量発生するのを防げないんだよ」と言った方がわかりやすいでしょうか?続く


    (6)続き。数学的記号法の使い方について自由があるせいで掛算の順序へのこだわりを強制する教え方の問題が発生するのではなく、数学的記号法に関する自由と数学的法則の影響を軽視しているから問題が発生しているのです。


    (7)一つ前で紹介した大学の授業で出された問題の要約:「2本のようかんを3人で分けると、1人あたりは分数で何本になるか」という質問に「ようかんをそれぞれ3等分して6切れ作って、一人に2切れずつ分ければよいから2/6本です」と答えた子どもの考え方のどこに問題があるか?

    以下コメント。

    (1)について。「実際に4×3のような式を使う場合には交換法則の成立に配慮して誤解を招かないように注意を払う必要がある。」うん?ふつうは逆である。「α∧βのような式を使う場合には交換法則の不成立に注意を払う必要がある。」とする。つまりそれだけ「α∧βのような式を使う場合には交換法則が成り立つもの」という誤解が生じやすい状況にあるということだ。


    (2)について。「「5×10」と書いた紙を渡しただけでは、日本の算数教育ワールド的には5円玉が10枚以外の意味にはならないようですが、」言いがかりである。そうではなくて「5円玉10枚を書くときに5(円)×10と書くことになっているというだけ。5×10で5円玉10枚の意味にしかならないワケじゃあない。

    
(3)について。ポピュリズム?。悪貨が良貨を駆逐するのなら数学の記法もそれに倣えということか。


    (4)について。その通り。だけど(だから)「どちらかのルール」を選択せねばならんということ。どっちでもいいというワケじゃあない。


    (5)について。あ、そう。でもその大量発生した連中は「分かってない」。適当な得手勝手な解釈でものを扱うから大事故が起こる。


    (6)について。「数学的記号法に関する自由と数学的法則の影響を軽視しているから問題が発生しているのです。」そのとおりだね。だから「饅頭3個×5」が正しいとしたら(定義したら)「5×饅頭3個」はその定義ではまちがい。どっちでもいいというのは「数学的記号法に関する自由と数学的法則の影響を軽視している」のだ。


    (7)こういうことを持ち出して「6×4」論争も「どこに考え方に問題があるのか」といいたいのだとしたらインチキもいい所だ。これを胡麻化しという。

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    1. >呑み助さん
      いらっしゃいませ。コメント有難うございます…と言いたいところですが。

      まず、当記事にはこれまで、匿名で投稿頂いた方はいらっしゃいません。ですので「再投稿」というのは何かのお間違いではないかと思います。
      次に、Q太郎という方は存じ上げません。
      そして「昨年末にあった数学のセンセイの続けてのさえずり」というのも、何の事だか解りません。もしかしたら黒木玄さんのTweetの事かもしれませんが、私から確認の労を取るつもりはありません。
      いずれにしましても、呑み助さんのコメントは、論旨がはっきりしない(日本語として読み難い)部分が目立ちますし、何よりも、私の意見ではないものに対する反論を書かれましても困ります。もう少しはっきり申し上げれば、迷惑に感じております。悪しからず。

      削除
  9. こちらも再投稿。

    追記として、ブログ主に敬意を表してブログ主の意見にコメントする。

    1)順序にこだわるのはナンセンス。

    こだわるという日本語をどういう意味でお使いかな?本来問題としなくてもよい場面でも気にかける。という文字通りの意味ならもちろんことばの定義上「こだわるのはナンセンス」である。しかしながら「掛ける数」と「掛けられる数」の区別がある場面で「気にする」ことは「無論」ナンセンスどころかマストであろう。

    2)「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを理解させるべき、という意見には一理ある。

    当然のこと。一理あるとお認めであるように「掛ける数」と「掛けられる数」との違いは厳然として存在する場面がある。そこでは「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを認識せねばならぬ。それを何処まで児童に認識させるべきかは教育上の問題。そこを(半分故意に)混乱させて「同時に」「並列的に」論じる連中が多いようだ。

    3)しかし「掛ける数と掛けられる数との違いに関する理解」にこだわるのであれば、むしろ単位を重視すべきであり、やはり順序にこだわるのはナンセンス。

    論理的に言っている事がおかしい。「むしろ単位を重視すべきであり、」ということから「やはり順序にこだわるのはナンセンス。」は帰結されない。帰結されるのは「単位を無視して順序のみにこだわるのはナンセンス」ということだ。正確に述べていただきたい。なお「掛け算に順序は不要」と主張する連中の多くはこの手の論理飛躍を積み重ねているように見える。

    4)しつこい様だが、式の順序を「正しく」書いているかどうかで理解度は測れない。「正しい」順序で立式している子の中にも理解が不十分な子は居るだろうし「間違った」順序で立式した子の中にも理解している子は居る筈だから。

    これは教育上の問題でありまして「数学上の問題」を「正しく」認識してから論じるべきである。小生が現今の「掛け算に順序は不要」との主張で問題とするのは「(そもそも数学上)掛け算に順序は(どの場面でも)ない」との主張である。これは(ブログ主は正しく御認識のように)マチガイである。そして合わせて問題とするのは、これが数学上のマチガイであるのを分からないのか分かっていて敢えてそうするのか「分かっていない」トーシロの連中の意見を正そうとせずにむしろ彼等の指摘を無条件で持ち上げて大騒ぎする大学教員の連中の姿勢である。ときとして威勢がよすぎるがkikulogはまだ誠実な姿勢を見せているようである。

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