コミケを風疹から守り隊

2010年12月12日日曜日

「表現規制」について(「表現の自由」はなぜ大切か?)

初回公開日:2010年12月12日
最終更新日:2016年07月21日

1.はじめに

多くの方が御存知の様に、2010年3月の時点で継続審議となっていた「東京都青少年健全育成条例」(いわゆる非実在青少年規制条例)の改正案が12月都議会に提出されています。
私はこの条例には明確に反対です。その最も大きな理由は、これが「表現規制」、即ち「表現の自由を犯すこと」に繋がるからです。「この条例は表現規制そのものではない」というタテマエ論を述べる方もいらっしゃる様ですが、条例の内容は規制側の恣意的な運用が大幅に可能になっているものであり、実質的な表現規制に結び付く危険性はかなり大きいと言うべきです(ぶっちゃけて言えば、そもそも体制側が「表現規制をやります」なんて馬鹿正直に言う筈が無いと思っております)。

では、なぜ「表現の自由」は大切なのでしょうか。
それは勿論「憲法で保障されている基本的人権だから」ですね。
でも、もう少し踏み込んで考えてみましょう。
なぜ「表現の自由」は「基本的人権」なのでしょう。
そしてなぜ「基本的人権」は憲法で保障されているのでしょう。

これを書いている時点では、まだ条例の改正案がどうなるのか解りませんが、どうやら民主党が賛成に回る様で、可決される公算が大きそうです。「表現の自由」に配慮して付帯決議がなされるという見通しの様ですが、はっきり言えば、そんなもの「配慮してない訳ではないですよ」というガス抜きの為の言い訳に過ぎません。
そもそも、わざわざ付帯決議を行う時点で、欠陥条例である事を認めたも同然ではないですか。
「表現の自由に配慮する」なんてのは、言うまでも無く当たり前なので、今更そんな事を改めて決議するなんて、何をかいわんや、です。
そして、たとえ付帯決議があったとしても、そんなものは、現実の運用で幾らでも骨抜きにできます。
非常に姑息なやり方ですが、常套手段でもあります。

しかし、たとえ可決されたとしても、それで終わりではない。
そして、たとえ否決されたとしても、それで終わりでもない。
「表現の自由」に関しては、ずっと継続して考え続けなくてはいけない問題だと思いますので、書いてみた次第です。

2010年12月4日土曜日

S01-04: 科学の特徴

初回公開日:2010年12月4日
最終更新日:2010年12月4日

前回までの記事(S01-01からS01-03までの記事)で「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」「その為には得た知識を共有するのが便利である」という話をしてきました。以上をまとめると、極めて大雑把なPseuDoctor流オレ様定義ではありますが「科学とは知的好奇心に応える為に知識を共有して増大させ、その結果として人類の発展に貢献していくシステムである」と定義しても、まぁ大抵の場合は良さそうです(もっと上手い言い方があったら、誰か教えて欲しいです)。
そこで今回は、そのシステムを最適化させる為に何が必要かを考えてみましょう。それがそのまま「科学の特徴」になると思います・・・なればいいなぁ。

まず「知識の共有」ですが、これって、一方通行であってはいけないのですね。何と言うか、上記の定義を見て、巨大デジタル図書館の様なデータベースシステムを想像された方もいらっしゃるとは思いますが、図書館と科学とでは、決定的に違う部分があります。
それは「情報の発信者と受け手を区別しない」という点です。図書館では書架に並んでいる本と読み手とは明確に区別されています。勿論、図書館の本を調べて新しい本を書き、それが図書館に並ぶという事もありますけれども、それは例外ですよね。
しかし科学の世界では情報の発信者と受け手は同一の土俵にあります。誰もが情報の受け手であり発信者になりうるのです(トンデモさんには受け入れ難い事実かもしれませんが)。その意味では、図書館よりもむしろネット世界におけるWikiなどの様な「集合知」に近いイメージかもしれません。

しかし「集合知」だとすると今度は、情報の正確さを誰が保証するのかという問題が生じます。「ネット情報は玉石混交」だというのは今更言うまでもない事実ですが、それは、正確さの保証が存在しない故だとも言えます。
では、科学の世界では何が正確さを保証するのでしょうか。誰か偉い先生が正しいかどうかを決めるのでしょうか。それとも学会が決めるのでしょうか。
違いますね。
別に、神の如き絶対的な審判が存在して、その人(たち)が正しさを決める、というわけではない。そんなのは科学ではない。(但し表面的には「偉い人が決めている」様に見える場合があるかもしれません。しかしそれは別に恣意的に決めているのではなく、偉い人は、以下に述べる要素によって決められた事を「知っている」というだけの事です。)
さて、では何が正確さを保証するのでしょうか。

それは「証拠(根拠)」と「他人の眼」です。
どれほど魅力的な内容であっても、根拠を提示できなければ、単なる「面白い話」で終わってしまいます。あるいは「こうすれば証拠は見つかる筈」というところまで話を持っていけば、もしかしたら、誰か奇特な人が証拠を見つけてくれるかもしれません。
勿論、誰も協力してくれないかもしれません。その場合は「面白い話を言った人」で終わってしまいます。それが嫌なら証拠を見つけるしかありません。自分自身で、あるいは他人の助力を仰いで。
「先に言ったモン勝ち」は許されないのです。

さて、何でもいいからとにかく証拠(根拠)を提示できさえすればそれでオッケーかと言うと、そんな事はありませんね。その証拠が、正しさの根拠として充分な強さを持っているかどうかが問題になります。その場合に「他人の眼」が重要になってきます。つまり、自分が幾ら「これが証拠だ」と力んでみても、他人がそれに同意してくれなければ、証拠として認められないという事です。
但し、これは証拠の採用を多数決に頼るという意味ではありません。多数派が常に正しいとは言えないのは、歴史が示しています。では、この場合の「他人の眼」とは何を意味するのでしょうか。

それは「誰でもいつでも見る事が出来る」という意味です。主張者以外には証拠を見られない、なんてのは論外ですが、限られた人しか証拠を見る事が出来ない場合でも、その信憑性には疑問符が付きますね。また、ほんの一瞬だけ情報を公開して「ほら見せたよ、もういいだろう」なんてやっても、二度と見られないのでは、やっぱり信用できません。
そして、この様に証拠の情報が共有化されるならば、その証拠を用いた検証が誰にでも可能になります。勿論、お金・時間・技術などの問題はありますが、重要かつ説得力のある情報であればあるほど、検証したがる人も増えるでしょう。こうして多くの人が繰り返し検証していくほどに、情報の正確性は増していくのです。勿論その過程で、情報が修正されたり捨てられたりする事も起こるでしょう。むしろ、そういう事が起こるからこそ、正確性が増していくのだとも言えますね。

これを一言で表現するなら「正確さの保証には客観性と再現性が必要」となります。

以上をざっくりまとめると「科学とは一種の集合知であり、その正確さは客観性と再現性を持った証拠の存在により(漸増的に)保証される」となります。

しかしそれでも「俺は科学が正しいなんて信じない。科学者なんて嘘ばっかり言ってる。みんな騙されてるんだ」と言い張る人もいるでしょう。バッサリ切り捨てる様な言い方をさせてもらえば「事実よりも信念を優先させている時点で、科学の正当性について語る資格は無い」と思うのですが、それだけで済ませてしまっては本人も納得出来ないでしょうね。
そこで、次の記事(S01-05)では「ある知識を得た時に、個々人がその知識を『正しい』と判断するとは、どういう事か」を考えてみたいと思います。

ああ、こうやって少しずつ予定がズレていく・・・(笑)

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2010年11月18日木曜日

掛け算の順序論争について

1.これまでの展開と私の見解

「掛け算の順序論争」というものがある様だ。どうやら、かなり以前(1970年台頃)から繰り返し出ている話題らしい。
先週末くらいにTwitterでやり取りしている方々がいらしたと思ったら、早速幾つかとぅぎゃったになっていた(例えばこれとか)。色々拝見した結果、この件に対する現時点での私の考えは、以下の通り。

1)順序にこだわるのはナンセンス。
2)「掛ける数」と「掛けられる数」との違いを理解させるべき、という意見には一理ある。
3)しかし「掛ける数と掛けられる数との違いに関する理解」にこだわるのであれば、むしろ単位を重視すべきであり、やはり順序にこだわるのはナンセンス。
4)しつこい様だが、式の順序を「正しく」書いているかどうかで理解度は測れない。「正しい」順序で立式している子の中にも理解が不十分な子は居るだろうし「間違った」順序で立式した子の中にも理解している子は居る筈だから。

一言でまとめるのなら「順序にこだわる事によるメリットが全く見つけられない」となる。

2010年11月2日火曜日

S02-03: 「悪魔の証明」について

初回公開日:2010年11月02日
最終更新日:2010年11月02日

「立証責任について」の記事が割と好評の様なので、調子に乗って(?)今回は「悪魔の証明」について書きたいと思います。何故この2つの項目が目次で隣り合わせになっているかと言いますと、それはお互いに密接な関係があるからなのですね。それがどんな関係なのかは、以下の記事中で触れたいと思います。

さて、科学や論理の分野で良く使われている意味での「悪魔の証明」とは、一言で言えば「存在しない事を証明せよ」というものです。これを、より一般化すれば「否定の証明」という事になります。
通常の証明は、その多くが「Aである事を証明する」という形になっています。これに比べて「『Aではない事を証明する』のは著しく困難である」というのが「悪魔の証明」の意味するところです。

例を挙げるなら、おそらく多くの人にとって馴染み深いのが「アリバイ」という概念だと思います。ミステリ好きなら勿論御存知だと思いますが、アリバイは日本語では「不在証明」と言います。つまり犯行時刻に犯行現場に「居なかった事」の証明なのですね。しかしこれは悪魔の証明に相当し、直接証明するのはほぼ不可能です。そこでその代わりに「他の場所に居た事の証明」を以て「不在証明」とする訳です。
この考え方は「同一人が同時に複数の場所に存在するのは不可能である」という前提に基づいています。ですから、もし、テレポーテーション能力や電送装置の存在を前提にしたとすれば、アリバイそのものが成り立たなくなってしまいます。
かくの如く「ない事の証明」は難しいのです。

もう一つ例を挙げましょう。
「白いカラスが存在する」のを証明するとします。もし本当に白いカラスが居るのならば、それを捕まえてみせれば証明になりますね。しかし「本当は白いカラスなど存在しない」のだとしても、それをきちんと証明しようとしたら、一体どうすれば良いのでしょうか。世界中に存在する全てのカラスを捕まえて調べる必要があります。更に、調べているうちに、どこかで白いカラスが生まれているかもしれませんので、それも調べ直さなければなりません。それを調べているうちに、もしかしたらまたどこかで・・・きりがありません。
この様に「世界中のカラスを全て漏れ無く調べ尽くす事の大変さ」に比べれば、比べればですよ、白いカラスを見つける為に、たとえ密林をかきわけ断崖絶壁を登り猛獣や吸血虫の襲来にも耐えてようやく白いカラスを見付け出したとしても、その程度の苦労は、全く取るに足りない、本当に微々たるものだと断言できます。

つまり、一般的に言って「存在する事の証明」と存在しない事の証明」との間には、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの労力の差が存在するのです。ですから、通常は「存在しない事の証明」を求めるのは理不尽とされるのであって、アリバイの場合などはむしろ例外的です。
但し、アリバイの様に、代替的な証明方法によって事実上「存在しない事の証明」が可能になる場合もあります。その点には留意しておかなければなりません。

「悪魔の証明」問題はオカルトやニセ科学を批判する際に大きな問題となります。例えば、目の前に居る自称超能力者がインチキである事を完膚なきまでに繰り返し証明して見せても、その事は決して「超能力自体の否定の証明」にはならないのですから。
この事を悪用して、オカルトやニセ科学側が「無いとは言い切れないだろう」という風に、悪魔の証明に「逃げ込む」のは、ある意味常套手段となっている風潮があります。そういう逃げは許しませんよ、というのが、実は「立証責任」の考え方にも通じていくのですね。

「でも」と思う方もいらっしゃるかもしれません。「数学では『存在しない事の証明』なんてしょっちゅうだよ?」と思われるかもしれません。
ごもっともです。
ではここで、数学における「存在しない事の証明」と「悪魔の証明」とでは、一体何が違うのかを考えてみましょう。数学における証明とは、与えられた条件の中で考えられる「全ての可能性」について検討します。例えば無限に存在する自然数について証明する場合でも「数学的帰納法」という巧妙な方法を用いる事によって、全ての自然数について成り立つ事を証明できます。
数学には、この「考えられる全ての可能性について検証できる」という特徴があるからこそ「存在しない事の証明」が可能になるのです。現実問題として世界中のカラスを捕まえるのは不可能ですが、数学の世界では相手が無限に存在していても、その全てを「捕まえる」事が可能であるのです。
但し、数学の世界でも「捕まえるのが可能でない」場合も沢山あります。その場合には、たとえ数学といえども「証明できない」となるのですね。要するに「考えられる全ての場合において検証し得た時に初めて『否定の証明』が可能となる」という点に関しては、数学であろうと無かろうと、結局は同じ事なのです。
以上より「それは悪魔の証明である」という指摘(批判)に対して、数学の話を持ち出して反論するのは、的外れだと言えるのです。

もう一つ別の話をしましょう。
「ホメオパシーが効かない事は科学的に証明されている」「血液型と性格は関係ない事が科学的に証明されている」という言い方はおかしいのではないか、それは悪魔の証明をしている事になるのではないか、という意見に対してです。
確かにそうした意見にも一理あります。「ホメオパシーには全く効果は無い」「血液型と性格との間には全く何の関係も無い」という事を証明するのは、不可能と言って良いほど困難です。
だからと言って、何も言えないという訳ではありません。「全く無い」という事は言えなくても「非常に少ない」ですとか「実用上は無いと言って差し支えない」とかのレベルでの証明なら可能なのですから。血液型性格判断やホメオパシーの効果の如きは、そうしたレベルに於いて「無い」と証明されているのです。これは「程度問題」の話です。
某血液型の人などは、この程度問題を絶対に認めようとしません。それも当然で、彼の主張全体が「無いとは言い切れないだろう」という点に依存していますので、何が何でも認める訳にはいかないのでしょう。

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2010年10月20日水曜日

S02-02: 「立証責任」について

初回公開日:2010年10月20日
最終更新日:2010年10月20日

ちょっと順番通りに書くのも飽きた(笑)ので、今回は科学の世界における「立証責任」について書きたいと思います。
とは言え、ここを読まれている大多数の方々は、立証責任の事を「新規な説を提唱した側に立証する責任がある」という風に正しく理解されていると思います。しかし、世の中は広いもので、例えば某マイナスイオンの人の様に、幾ら説明されても頑として理解するのを拒否する(認知的不協和の回避かも?)人もいます。
そこで今回は「立証」という言葉も「責任」という言葉も使わずに説明してみます。

と言っても、それほど難しい事ではありません。ポイントは2つだけです。
主張には根拠が必要である
主張が強いほど根拠も強固である必要がある
の2つです。
別にこれは科学の世界に限った事ではなく、きちんと物事を考える場合には常に言える事です。
ただここで「必要」という表現に引っ掛かった人もいるでしょう。一体、誰が根拠を必要としているのか。勿論、根拠を必要としているのは「主張」そのものです。これはトートロジーの様ですが、そうではありません。
要するに、主張に根拠を伴っていなくても、誰も困らないのです。ただ、主張がマトモに取り合って貰えなくなるだけの事です。キチンと相手をして欲しいのなら、根拠が必要。根拠が無い(もしくは薄弱)なら、それなりの対応をされるだけ、という事なのです。

少し具体例で見てみましょう。
例えば「私は神である」という主張はどうでしょうか。真面目に考えるならば、これは物凄く強い主張です。ですから、この主張を裏付けるには、極めて強力な根拠が必要です。何も根拠を示さなければ、ただの「変な人」で終わりです。
では、どのくらい強い根拠が必要なのでしょうか。
少なくとも「指差すだけで地を裂き山を割り海を干上がらせる」位の御ワザは見せて欲しいですよね。でもその程度なら東丈や超人ロックでも出来そうですので、根拠としては弱い。では「死人を蘇らせる」ならどうでしょう。これはかなり強い根拠と言えそうです。ただそれでも、神ならぬ悪魔かもしれないし、ネクロマンシーなのかもしれない。神の根拠を示すのは大変なのです。
さて、そろそろお気付きの方もいらっしゃるでしょうが「神とは何か」つまり神をどう定義するかで、必要とされる根拠も変わってきます。我が国における八百万の神、つまり超自然的な精霊と類似の存在であれば、上記に挙げた程度の根拠でも足りるかもしれません。しかし「全知全能の神である」という主張ならば、どれほど奇跡を起こして見せても充分とは言い難いですね。
その意味では「私は神である」という主張自体が大雑把で不正確なものだった訳ですが、少なくとも「主張の強さに応じた根拠が必要である」というのは御理解頂けるかと思います。

更に言うならば「何とかイオンドライヤーには効果がある」と主張しているのに根拠はユーザの評判や商品の売れ行きだけとか、「何とかミネラル水で癌も糖尿病も何万人も治した」と主張しているのに、根拠は自らの曖昧な言動しか無いとか、そういうのは主張に見合った根拠を示せていないと判断します。それが「立証責任を果たしていない」という事です。
勿論、主張するだけなら「言論の自由」の範囲内ですが、マトモに相手をされなくても仕方が無いという訳です。

それでは、ここで今日の一言。

その主張に、見合う強さの根拠はあるのかい?
福山雅治風にお読み下さい(江口洋介風でも可)。

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2010年10月18日月曜日

ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その1)

初めて携帯電話を持ったのは、もう15年以上前になる。当然アナログ(1Gって奴ね)で、通話機能以外何も無い、携帯電話というよりも無線機に近いゴツさだった。当時はNTT以外の選択肢は無かったので、それ以来ずっとNTT(ドコモ)を使っている。
機種変更は頻繁にする方ではない。アナログがデジタル(2GのPDC)になった時に(仕方なく)替えた。これが2台目。次に替えたのはmovaからFOMA(3G)にする時。つまり1世代で1台しか使っていない事になる。この調子でいけば次に買うのは4Gになる筈だったのだが、バッテリーの消耗が異常に早くなった(故障?)ので(またもや仕方なく)今年替えた。これでようやく4台目。

さて、物凄く久し振りに電車通勤をする事になった。高校生の時以来である。もっとも、高校生の時は「通学」だから、厳密に言えば人生で初めての電車通勤である。
そうなると通勤時間を何かに使おうと考えるのが性である。読書でも勿論良いのだが、これまで全く視野に入っていなかったスマートフォンに急に興味が出てきた。
もともとデジタル小物は異常に好きなのであり、これまでにもカシオペアとかザウルスとかのPDAを使った事もある。しかしいずれもしばらく経つと使わなくなってしまっていた。どうしても機能が中途半端に思えたからである。そんな訳で、ビューアの付いたケータイを持ち歩くぐらいならUMPCの方が良いという考え方に達していた。ところが最近のスマフォの性能を見ると、メール・Web・Twitterくらいなら充分にストレスなく使えそうなので、これなら使っても良いかと思う様になってきた。

勿論iPhoneも考えたのだが、やはり地方在住なのでドコモの電波状況が魅力的なのと、Appleの体制が性に合わないというのがあって、ドコモのスマフォを第一候補とした。そうするとWindows MobileとかBlack Berryとかもあるのだが、やはりここはAndroidだろう。
ところがドコモのAndoroidスマフォはOSのバージョンが古い。去年の機種ならいざ知らず、2010年4月発売のXperiaまで1.6とか、あり得ない。それだけ開発に時間が掛かったという事なのかもしれないが、開発に時間が掛かっても良いから独自機能をテンコ盛りにしてユーザを抱え込もうとする戦略だとすれば、少なくとも私にとっては逆効果でしかなかった。

そんな風に迷っているうちに、ようやく2.2搭載の機種(Galaxy S)がドコモから出てきた。しかし残念な事にテザリング機能が殺されている。これは私に取って致命的である。あわよくばスマフォをWifiアクセスポイントにしてUMPCとの2台持ちという贅沢も出来るかと思っていたが、その皮算用は水泡に帰してしまった。

なんて事を延々と考えてたらもう面倒臭くなったので、ここはいっそモバイルWiFi接続にしてしまおうかと考え始めた。そうすればスマフォとUMPCのどちらも使えるし、各社から定額のプランが出ている。勿論新たに契約するのでお金が掛かるが、単なるiモードでも外出先などでちょっと油断してTwitterとか見ているとすぐにパケット代だけで3千円~4千円になってしまうのが現状なので、それなら真剣にWiFi接続を考え始めた方が良いという気がしてきた。
今の携帯契約とダブる部分もあるが、そちらは電話とメール(iモード)に特化すれば良い。携帯のメールは、妻への帰るメールにしか使ってないし。元々が連絡用なので、万が一にも電池切れを起こしたくないというのもあるし。

という訳で、モバイルWiFiを真剣に検討し始めたのが先日の事である。
続きの顛末は、また後日(その2)で。

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2010年10月1日金曜日

S01-03: 「未知の事を知る」ってどういう意味?

初回公開日:2010年10月01日
最終更新日:2010年10月01日


さあ、ここまででようやく「科学の最大の目的(の1つ)は知的好奇心に応える事にある」というところまで来ました。しかしここで、タイトルにも挙げた通り「未知の事を知る(=知的好奇心を満たす)」とはどういう意味かを考えてみたいと思います。
あるいは「そんな事解ってるよ」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。しかし慌ててはいけません。当然解ってる筈の内容でも、改めて考えてみる。その事によって新たな発見があったとすれば、とっても面白いと思いませんか?

では、こんな状況を考えてみましょう。
アナタは、殆どの人が知らない「本当の真実」を手に入れました。アナタはそれが真実である事に絶対の確信を持っています。ですから、それが「真実である」と誰に対しても自信を持って述べる事が出来ます。しかし残念ながら、何故それが真実であるのかを上手く説明する事が出来ません。

この様な状況の時に、その「真実」はアナタの知的好奇心に応えていると言えるのでしょうか?
・・・・・・
こういう書き方をする時は、大体答えは決まっていますね(笑)。
そう、答えは「否」です。
では何故「否」なのか。それは一言で言えば「上手く説明出来ないから」なのです。勿論、確信を持って「○○は真実である」と述べる事は出来るでしょう。しかし「何故そう考えるのか」と問われた時に、アナタは何と答えるのでしょうか。
例えば「天から啓示があった」「古代の書物に書いてあった」「偉大なる賢人に教わった」などと答えるのかもしれません。しかしそれでもなお「では何故その理由が正しいと考えるのか」と更に掘り下げて繰り返し問う事が出来ます。そして、その「どんどん掘り下げて繰り返し理由を問う」事こそが知的好奇心の発露なのです。
つまり、いくら確信があっても、掘り下げる問いの反復に耐えられなければ、知的好奇心に応えているとは言えません。

とは言え、知力も体力も有限ですから、無限に問い続ける・答え続けるのは不可能です。何処かで止めなければなりません。しかし、ただ止めるのもしゃくですから、何か理由を考えてみましょう。
最も適当らしい理由は「私には(少なくとも現時点では)これ以上は解らない」というものです。この答えを出せば、問いの連鎖は止まるでしょう。
ここで「解らない事」に対して二つの態度が考えられます。一つは「解らない事は解らない」とする立場です。そしてもう一つは「解らないけれども真実だと思う」とする立場です。上の例では「確信がある」のだから、後者の立場ですね。
前者の立場は暫定的(いずれ解るかもしれないという含みを残している)であるのに対し、後者の立場はそこで断ち切れていると言うか、閉じています。そして、後者を「信念」と呼ぶ事も出来ます。

さて、ここまでずっと「真実」という言葉を使ってきましたが、これは「信念」との結び付きを意識して使っています。真実という言葉は「人の数だけ真実がある」とか「その人にとっての真実」という使い方をされる事があります。この場合には「その人がどの様に信じるか」という点が問題になっています。
これに対し、信念と切り離された存在を述べる場合には「事実」という言葉を使いましょう。これは、信じるかどうかに関わらず、そこに在るものです。つまり客観的存在です。
「真実」と「事実」はしばしば混同して用いられますが、上記の様に区別しておけば「知的好奇心とは真実を求めるのではなく、事実を求める心の働きである」と述べる事が出来ます。

但し、ここで大急ぎで追加しておかなければなりませんが、私は決して「信念には価値がない」と言っている訳ではありません。何を信じるかはともかくとして「信じる事」自体は極めて重要であり、それが無ければ、おそらく何人たりとも生きていけない(言い換えれば、一切の信念を全く何一つ持たなくなった存在は、もはや人間とは呼べない)でしょう。
しかし上述の様に、信念は事実の追求を停止させるので知的好奇心を麻痺させます。従って、何でもかんでも「信じる」というのは非常に残念な態度です(思考停止という言葉で表現されたりします)。私達は「信じる事」と「信じない事(疑う事)」との区別をしっかりとつける必要があります。

そして、この「信じる事と疑う事の区別を厳密につける態度」こそが「懐疑主義」と呼ばれるものなのです。どうしても語感に引きずられて「あらゆる事を疑うのが懐疑主義だ」と思われがちですが、そうではありません。繰り返しますが、信じる事(それ以上考えず追求しない事)と、疑う事(考え続け、追求し続ける事)とを厳密に区別するのが(現代の科学における)懐疑主義です。

従って「神を信じる懐疑主義者」というのは普通に存在しますし、別に矛盾でも何でもありません。また、根拠も無いのに頭から否定するのは懐疑主義ではありません。それは方向が逆向きなだけで、それもまた一種の「信念」なのですから。
もっとも、現実には「ちゃんとした根拠があるのだけれども、説明するのが面倒臭いので頭から否定する様な言い方をしてしまう」という態度を取る場合も(相手によっては)あり得ます。あまり良い態度ではありませんが、全ての人にとって、時間も知力も体力も根気も有限ですので、極端に効率の悪そうなやり方は(気が向かない限り)とてもやってられません。
増してや、根拠があって述べている内容に対して「それはオマエがそう信じているだけだろう」などと非難するのは、もはや懐疑主義でも何でも無く「懐疑主義のふりをした詭弁」に過ぎません。

なお、懐疑主義についてもっと知りたい方はググって頂いても良いのですが、ここでは3つほどリンクしておきましょう。
あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない
懐疑主義とは何か by Brian Dunning
懐疑論者の祈り
それぞれの記事を書かれているlets_skepticさん、kumicitさん、ワカシムさんはいずれも優れた論者であり、ブログや記事全体もとても参考になります(既に御存知の方も多いとは思いますが)。


さて、ちょっと懐疑主義の話に流れ過ぎましたので、少し話を戻しましょう。


「未知の事を知る」というのは、得た知識をアナタ一人の頭の中にしまっておく事ではありません。知的好奇心を自己満足の為の道具として使いたいと言うのならば別ですが、通常は、知識は他人と共有してこそ初めて価値を持ちます。
何故なら、もし知識を自分だけで占有しておくのならば、それが本当に偉大な知識なのか単なる妄想なのかが区別できないからです。いくら「私には確信がある」と力説したところで、妄想に取り付かれた人だって、確信の強さだけなら負けないでしょう。
知識を共有しないという事は「他人にどう思われようと構わない。自分はこれが真実だと信じる」という意味ですから、自己満足であり、かつ、知的好奇心の発現としても、極めておかしな態度です。
逆に言えば、他人と知識を共有すれば他人の知識をも得る事になりますから、それはそのまま「知的好奇心の更なる満足」に繋がる事でもあるのです。社会に貢献するかどうかはともかくとして、単に自分の知的好奇心に忠実なだけだとしても、知識は共有した方が良いというのを理解して頂けるでしょうか。


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