コミケを風疹から守り隊

2011年3月29日火曜日

P03-02: ホメオパシーについて

初回公開日:2011年3月29日
最終更新日:2011年3月29日



ホメオパシーは、2010年に最も話題になったニセ科学と言えます。そこで、ニセ科学批判の各論としてホメオパシーを取り上げてみましょう。


1.ホメオパシーとは何か


ホメオパシーとは、今から200年ほど前に、ドイツ人医師サムエル・ハーネマンにより提唱された治療法です。ハーネマンは、自らがマラリアの治療薬であるキニーネを服用したところ、マラリアに似た症状を起こしたという体験をきっかけとして、ホメオパシーの理論を考え出しました。即ち、


1)マラリアの治療薬であるキニーネを飲み過ぎると、マラリアの様な症状が起きる。
2)従って、キニーネはマラリアの原因と考えられる。
3)つまり、病気に対する薬を多量に飲む事は、その病気の原因になる。
4)これを逆に考えると、病気の原因を少しだけ飲む事は、その病気に対する薬となる。
5)薬が多すぎると病気になる。即ち、薬の量は、減らせば減らすほど効果が強くなるはず。


彼はこの様に考え、その考えに基づいて様々な病気に対して、その原因だと考えられていた物質を極端に薄めたものを作りました。それが各種の「レメディ」であり、このレメディによる治療の体系がホメオパシーなのです。
ちなみにホメオパシーは日本語で「同種療法」と訳されます。これは要するに「病気の原因と治療薬とは同種の物質である」という考え方が基本にある、という意味です。


2.ホメオパシー「理論」の誤り


でも、ちょっと待ってください。上記1)~5)の考え方は、確かに論理的な様でもありますが、途中に幾つもの飛躍があります。

2011年3月17日木曜日

P03-01: 震災に便乗するニセ科学



P03-01: 震災に便乗するニセ科学

初回公開日:2011年03月17日
最終更新日:2011年03月31日

2011年3月11日に発生した大震災は史上稀に見る規模であり、その後も余震や新たな地震が頻発しており、被害は極めて甚大です。
被災された方々に心より御見舞いを申し上げます。
また、救援・復旧・対応をされている方々に感謝致します。

さて、私はこちらの記事で「震災をネタにアコギな金儲けを図る人とか、自分の主義主張や思想を広めようとする人」について触れましたが、その具体的な例が「震災に乗じてニセ科学を広める人達」です。災害に便乗するというのは心情的にも許せませんし、実害が生じる可能性も通常より高くなります。「地震兵器」の如き明らかなデタラメは放置しておくとしても、ここでは幾つか個別の例を挙げておきます。

なお、今回は煩雑さを避ける為に、各ニセ科学について個別の解説はしません。本当は先にそちらを記事にしておくべきだったのでしょうが、お察しの通り、全く間に合っていませんorz
とりあえず、参考になる記事に幾つかリンクを張っておきます。

ニセ科学への批判行為全般に関しては、私も編集に参加しているこちらのWikiをご覧ください。
水からの伝言に関しては、Skeptic's Wikiの中にあるこちらのページ、及びそこからリンクされている田崎先生のページがよくまとまっています。
ホメオパシーに関しても、Skeptic's Wikiの中のこちらのページ、及びそこからの各リンクが参考になると思います。またKumicitさんの記事(字幕はお手製です)やkumikokataseさんの記事もお勧めです。また、拙ブログ内の解説記事Web論座問題に関する記事もご覧頂ければ幸いです。

1)マクロビオティック

味噌や醤油、昆布や海草が放射線の対策になる」というデマが飛び交っています。で、どうもこれはマクロビオティック系の人が広めているらしいです(「とらねこ日誌」の記事を御参照ください)。
無論、味噌や醤油は適切に摂取すれば、おいしくて栄養価に優れた食品ですが、放射線の対策にはなりません。勿論、納豆も放射線の対策にはなりません。デマです。惑わされないでください。

ちなみに私は納豆大好きなので、買い占められると真剣に腹が立ちます。あとバナナも。
余談ですが買い溜めはなるべく止めましょう。不安な気持ちも解りますが、買い溜めは、それ自体が物資の不足をもたらしますし、そればかりでなく物流も妨げますので、復興の障害になります(物流の現場にいらっしゃる方の御意見も参考になさってください)。

2011年3月15日火曜日

震災への御見舞い

初回公開日:2011年3月15日
最終更新日:2011年3月24日

2011年3月11日~12日にかけて、東北地方沖太平洋及び新潟県中越地方で大きな地震が幾つも発生し、東日本の極めて広い範囲で多くの方々が被災されました。
現在でも余震が続いています。まさに今、これを書いている最中にも、福島沖で余震が起き、更にその直後、静岡で新たに大きな地震が発生しました。

被災された方々に心より御見舞い申し上げます。
また、災害救助・復旧・対応にあたっておられる全ての方々に、深く御礼申し上げます。

被災された方々へ
震災直後も、今も、そしてこれからも、多くの人が皆さんの事を想い、行動し、あるいは将来の行動に備えて準備しています。
今回の事で、かけがえの無いものを失われた方も多いと思います。
けれど、取り戻せる日常も、必ずあります。
悲しければ泣いても良いのです。
決して無理はしないでください。
でも、希望を完全に失う事だけは、しないでくださいね。

対応にあたっておられる方々へ
皆さんは、我々の誇りです。
勿論、あなた方はスーパーマンでも何でもない、普通の人だという事は知っています。
でも、だからこそ、あなたは私達のヒーローなのです。
くれぐれも、お体には気をつけてください。

2011年2月9日水曜日

Web論座がホメオパシーについて事実誤認の記事を載せっ放しで対応が遅れまくった件(2011/3/31現在)

(タイトル変更・本文追記しました)
これは、もう「Web論座問題」と呼んでも良いレベルですね。

何の事か解らない方は、とりあえずこちらのまとめを関連リンクと共に読んで頂ければ、大体の流れは掴めると思います。ただ、それすら面倒臭いという方もいらっしゃるかもしれませんので、そういうワガママさんの為に、今北産業(本当は10行以上あるけれど)的に、以下にまとめました。

1.Web論座にスイスでのホメオパシー事情を伝える記事が載った(執筆者は外部の人)
2.その記事中に「ホメオパシーがADHDに効果的だという実験結果がある」という記載がある
3.その他にも「スイスでは牛にもホメオパシーが使われている」「筆者自身が効果を実感している」という記載もある
4.上記2.の記載は明らかに事実誤認である。詳しくはこちらの記事を読んで頂くとして、結論から言えば、ホメオパシーがADHDに効くとは言えない。
5.上記3.の点についても異論は多いが、少なくともADHDの件に関しては明らかに事実とは異なっているので、何人もの人がWeb論座に対応を求めた。
6.但し、対応といっても、必ずしも元記事の削除とか謝罪とかを求めているのではない(ここ重要。Togetterのコメント欄にも、ここの部分が解ってない為にトンチンカンな事を言っている人がいる)。こっそり削除して無かった事にされるのも嫌だし。あくまで「記事中に事実と異なる部分がある」という情報を提供して欲しいという事。具体的には、欄外に編集部の注釈を入れるとか、カウンター情報へのリンクを貼ったりする、といった対応を求めている。
7.その後、Web論座には、カウンター情報とも言える久保田裕氏の記事と、菊池誠氏の記事が載った。
8.これは推測だが、どうもWeb論座的には、7.の記事を載せた事で対応が済んだと思ってるっぽい。その後いくら突付いても応答が無く、先日ちょっと搦め手まで使ってようやく引き出した反応が、上記のToggetter(つまり、事実上のゼロ回答)であった(2011/2/9時点)。

2011年1月29日土曜日

S03-01: 科学者は権威主義者なの?

初回公開日:2011年01月29日
最終更新日:2011年02月01日


トンデモさんの多くは、科学者が自説を認めてくれない事について不満を持っています。そうした不満は、例えば以下の様な言葉で表現されます。
「科学者なんて頭の固い連中ばっかりで、新しい事を認める度量なんて無いんだ」
「あの世界では、誰か偉い学者がこうだと言えば、それが絶対なんだよ」
「あいつらは自分達の立場を守るのに精一杯で、それを脅かす様な新説は最初から認めないんだ」


勿論、こうした非難は悉く的外れです。しかし、たとえトンデモさんでなくても、こうした意見にも一理あると思ってしまう人も、おそらく居るでしょう。もしかするとそういう人は、科学者達に対して権威主義の臭いを嗅ぎ取っているのかもしれません。確かに、科学者ではない普通の人からすれば、科学者って「良く解らない難しい事を言い、素人からの反論を許さない」という雰囲気を醸し出している様に見えるのかもしれません。
でも、果たして本当に科学者は権威主義者なのでしょうか。


どんな集団でもそうですが、ベテランと新人、達人とアマチュアが混在している集団であれば、自然と発言の重みに差が出ます。科学者集団でも同じ事です。その意味で、権威主義の要素がゼロかと言えば、そんな事はありません。
しかし、敢えて比較するならば、科学者集団の中ではむしろ権威主義的な色彩は弱いと推測されます。そう判断する理由は、科学の性質そのものにあります。


以前の記事(S01-04)で書いた様に、科学における「正しさ」とは、証拠の客観性と再現性に強く依存しています。つまり、誰が見ても(偏見や予断が無ければ)、何度やり直したとしても(条件が同じならば)、同じ結果が得られるというのが大きな特徴です。別に、偉い人が実験したから結果がちゃんと出る、という様なものではありません。
もっとも、現実にはプロとアマチュアで実験結果に大きな差が出る事は珍しくありませんが、殆どの場合、それは技術と経験(そして実験態度)の差によるものだと看做して良いでしょう。


この様に考えてくると、科学の方法論と権威主義とは極めて相性が悪い、むしろお互いに相容れないものであるとすら言えます。勿論、科学者も人間ですから、偉くなれば威張りたい部分もあるでしょうし、生意気な相手に対しては不快にもなるでしょう。増してや、あからさまにトンデモな説を開陳する人は門前払いをしたくもなります。
しかし、若造だろうがアマチュアだろうが、きちんと客観性と再現性のある証拠を公に提示出来たなら、それを無視する事は出来ません。何故なら、それこそが科学の方法だからです。ただ、歴史的に見れば確かに「政治的な圧力により科学的事実が捻じ曲げられる」という事もありました。しかしそれは科学そのものの問題ではなく「政治により事実が曲げられる」という点こそが問題なのだと考えられます。ですから科学そのものとしては、有力な証拠を門前払いする様な事はありません。
その一方で、トンデモさんのトンデモたる所以は、薄弱な証拠から極めて強い主張を行なう点にあります。言い換えれば、主張の強さに見合う根拠を示せていない。その事に気付かず、自分の持つ証拠の強さを極端に過大評価してしまうのがトンデモさんの特徴の一つです。


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ちょっとテーマからズレますが、この「証拠の強さを過大評価する」という点について、もう少し詳しく述べましょう。これはトンデモさんに限らず、誰でもつい陥りがちな落とし穴なのですが「個人的体験の重視」と「確率的な考え方の軽視」が大きな要素であると考えます。


まず「個人的な体験の重視」とは例えば「この目で見た」とか「自ら体験した」という言葉で表されるもので、こうした言い回しには強い説得力があります。何故なら、我々の判断の大部分は経験に頼っているからです。しかし現実には「この目で見た」なんてのは、どれほど当てにならない事か。それは、例えば錯視(錯覚)とか手品のトリックとかを少し調べてみれば、すぐに解る事です。自らの「認知の歪み」(の一つである「過度の一般化」)を克服するのは、多くの人にとって難しい事でしょう。
そこで「知識と経験」という言葉がある様に、理想的には直接的な体験で得た経験と、言わばバーチャルな手段により入手した知識とのバランスが取れているのが望ましいでしょう。そうする事によって、体験だけに頼った場合に判断が歪みがちなのを矯正する事が可能になるからです。
逆に言えば、どうしても我々は個人的な経験を重視する傾向があり、かつ、経験だけでは判断に偏りが出る。だからこそ「知識と経験」という言い方でバランスを取る事が奨励されてきたとも考えられます。
もう少し言うと、知識と経験との間を埋めるのが想像力、つまりイマジネーションです。知識は頭の中にしかないとしても、それを現実に応用したらどうなるか。その事をリアルに想像できるのであれば、単なる知識も経験に準ずるものとして、自らの骨肉と化していくのです。


次に「確率的な考え方の軽視」とは、要するに、低い確率の事が起こった場合に「偶然ではあり得ない」と解釈する考え方の事です。こうした考え方の欠点としては「心理的なバイアス」と「確率計算の誤り」が挙げられます。
例えば車を運転していると「急いでいる時に限って信号に引っ掛かる」という感想を持つ人も多いと思います。しかしこれは「急いでいない時は赤信号で止められても殆ど意識しないで忘れてしまう」と考えれば説明が付きます。これが心理的なバイアスの一種です。また確率の大きさにしても「同じクラス30人の中に誕生日が同じ人が居る確率」とか「健康診断を行なった時に、1つ以上の項目で異常値が出る確率」とかは、おそらく多くの人が直感で判断するよりも大きな値を示します。


更に言えば、こうした考え方の背景にあってこれらを強化しているのが「因果論的な思考の重視」だと考えています。
因果とは本来仏教用語ですが、ここで言う「因果論的な思考」とは、むしろ主に自己啓発系で良く言われる様な「全ての事柄には原因がある」的な考え方の事です。これは偶然を否定する考えでもありますし、個人的経験を含むあらゆる事例にもっともらしい理由付けを行なう考えでもあります。ですから、上記の2つの考え方を強化する方向に働き易いのです。


「世の中に偶然などは無い。全ては必然である」とか「あらゆる物事には理由がある。無意味な出来事など無い」というのは、一見すると非常に耳当たりの良い言葉です。
しかしよく考えてみると、これは実に残酷な思想でもあります。
何故なら、事故や天災にも意味がある事になってしまうからです。「神様は乗り越えられない試練はお与えにならない」という言葉があります。これは、現に苦しんでいる人を励ますのには良い言い回しですが、もし試練を乗り越えられなかった場合には、徹底的に本人が悪い事になってしまいます。救いが無いのです。
おそらく宗教的な立場からすれば「現世で試練を乗り越えられなくても来世(あるいは煉獄など)で修行しなおす」という形での救済が用意されている事でしょう。しかし、そうした不可知なものを導入した時点で、因果関係はかなり曖昧(つまり検証不可能)になってしまいます。逆に言えば、因果論的な考え方は、不可知なものを導入しない限り破綻してしまう、とも言えます。


ですから、現実世界で生じている事柄を説明する際に因果論的な考えを適用するのには慎重であるべきです。それによって証拠の強さが増す訳では無いのですから。
勿論「人生の指針」としての使い方まで否定するものではありません。
また、おそらく誤解する人は少ないとは思いますが「因果論的な思考」と「因果関係の検証」とでは、同じ「因果」という言葉が使われていますが、中身は全く異なるものだという点にも注意が必要です。


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2011年1月11日火曜日

青いプリンの食し方(なるべく食当たりを起こさない為に)

2011年12月25日追記:こちらの記事に、早川由紀夫氏に関しての私見を述べております。そちらも是非御覧ください。

注)この記事はネタであり、フィクションです。しかし、これをお読みの方が現在抱えている問題に僅かでも役に立つ可能性があるかもしれないと思って書いている部分もあります。

ネットには様々な人がいます。そしてそれぞれの人が言わば好き勝手に情報を発信しています。それは玉石混交と言うもおこがましい程のカオス状態でもあります。ですから「まさかこんな馬鹿げた事を言う人が居るなんて!」と思う様な状況に出会う事もまた、稀ならず起こります。

ここで、以下の様な特徴を持つ人物の存在を仮定してみましょう(しつこい様ですが、これはフィクションです。現実に似た人が居ても、ただの偶然でしょう)。
1)社会的地位は比較的高い。
2)その場その場では一応整合性のある事を言うが、しばらく観察していると以前言った事と辻褄が合わなくなってくる。
3)ジャイアニズム的なダブルスタンダードを持つ。即ち、他人に対する要求は高く、自分に対する要求は低い。
4)自説を開陳するのに熱心だが、基本的に勉強不足である。例えば、分野外の専門用語の意味を知らず、字面から連想しただけの俺様解釈を振り回す。
5)上述したダブスタや勉強不足を指摘されると、屁理屈で糊塗しようとする。それに失敗すると、逆切れするか、拗ねる。
6)自分の発言が他人を傷付ける事に対しては鈍感であるが、自分が傷付く事には過敏である。
7)自分を表すアイコンが漫画チックであるが、いわゆる二次元キャラとは異なる。また機嫌によってアイコンの表情も変える。

さて、わざわざこんな人物を仮定してみたのは「どうしてこの人はこんななのか」を考えてみたいからです。
一言で結論を言うなら、こうです。
坊やだからさ!
もう少し詳しく言うなら「知能は成長したけれども、人格形成が未発達のままである、言わばワガママな幼児」だという事です。勿論これは推測であり、それを裏付ける決定的な証拠がある訳ではありません。しかし一方で、この様に推測すれば、上記の各項目を上手く説明できるのも確かです。

幼い子供というのは、基本的に「構ってちゃん」です。即ち、自分が世界の中心であり、いつも周囲からチヤホヤされていないと気が済まない。ただ現実には、常にチヤホヤされている訳では無い。そういう時に子供はどうするかというと、何とかして注目を引こうとする。例えば奇声を上げたり暴れたりして周囲の関心を集めようとします。それでも相手にして貰えないと行為はエスカレートし、わざと怒られる様な悪い事をしてでも構って貰おうとする。
こうしたメンタリティを持った人であれば、上記の様な特徴を有していたとしても、さほど不自然ではありません。
以下、個別に解説していきます。

1)社会的地位の高さについてですが、これはちょっとこじつけ気味になるのをご容赦ください(何しろネタですから)。勉強の出来る子であれば「良い成績を取る」というのはチヤホヤされる為に最も効果的な手段の一つです。家庭にもよるでしょうが、勉強をして良い成績を修めていれば、概ね幸せな子供時代を送れるでしょう。そのまま上手くいけば高学歴を身に付ける事が出来、社会的地位も高くなろうというものです。
2)論理的不整合についてです。自分がチヤホヤされる事が最優先ですから、その場その場では尤もらしい事を言わねばなりません。馬鹿にされるのは嫌なのです。でも長い眼で見ると辻褄が合わなくなります。所詮、注目を浴びる為の発言だからです。
3)ダブルスタンダードについては、比較的特徴的であると言えましょう。即ち「みんながダメでも、ボクだけは良いんだもん!」というのは、かなりあからさまな幼児性の発露です。
4)目的が周囲に構って貰う事ですから、勉強を教えて貰えるのは、却って嬉しい事なのかもしれません。最初に勉強不足を指摘された時はちょっと恥ずかしい思いをしたかもしれませんが、開き直ってしまえば、これは逆に構って貰えるチャンスでもあります。だから「自分で勉強しなさい」と言われるのは嫌いなのです。あくまで優しく教えて欲しいボクちゃんなのです。
5)という訳で、指摘を受けた時の態度も決まってきます。まずは屁理屈により自己の正当化を図る。そのうえで、構ってくれそうな人が相手ならば、甘えてみせるか、拗ねてみせる(子供ですから)。でも、構ってくれなさそうな人に対しては、ソッポを向くのです。
6)これはもう、あまり説明の必要は無いでしょう。子供というのはある意味残酷であり、自分の言動により他人が傷付く可能性にはなかなか思い至りません。想像力が不足しているとも言えます。その一方で自分が世界の中心ですから、自分が傷付く事には我慢出来ない。
7)漫画的に自らを表現するのも、幼児性の発露です。しかもそこに、その時点での自らの感情を反映させるという事は、言わば「自分の御機嫌を取って欲しい」という要求の現われと解釈する事も可能です。

ただ、単なる子供と違うのは、上記に書いた様な事を前面に押し出し過ぎると却って相手にされなくなる、というのを知っている点です。ですからそれを隠す為に尤もらしい事を色々と述べますが、それはしばしば上記の「自分にとってだけ都合の良い主張」を偽装したものに他なりません。だからこそ、発言に矛盾が出てくるのです。
具体例で見てみましょう。
「自分だけは傷付きたくない」というのをそのまま主張しても、相手にして貰えないという程度の事は流石に知っています。ですので、これを一般化する事により、反論を封じて自分の意見を通そうとします。つまり「人を傷付けるのは良くない」と主張する訳です。
しかしそのココロは上述の如く「自分だけは傷付きたくない」ですから、一方で他人を傷付ける様な言動を平気で垂れ流します。この様にしてダブルスタンダードが形成されるのです。

ところで、上記の人物像は架空のものですが、これらの特徴の幾つかを持った人に遭遇する事は(特にネット世界の中では)それほど稀な事ではありません。
では、もし、実際にこういう人が居た場合に、どの様に対処すべきでしょうか。
これは、対処の目的と方法とに分けて考えると解り易いでしょう。

まず目的ですが、大きく3つに分けられます。
1)本人が自らの考えと行動を改める事。
これは最も直接的な目的ですが、最も達成が困難な目的でもあります。他人の思考や行動様式を変えるのは、しばしば非常に困難です。
2)本人の意見を見た第三者に悪影響が及ばない様にする事。
上記1)に比べるとやや控え目な目的ですが、決して重要性が低い訳ではありません。(自分から見て)おかしな意見が世の中に広まるのを防ごうと思うのも、大切でしょうから。
3)自分自身の精神衛生を悪化させない様に保つ事。
上記1)や2)に比べると利己的に思える目的です。しかし考え様によっては、最も大切な目的でもあります。何故ならこの目的は、上記1)2)を目指す為には必要な条件であるとも言えるからです。自分自身がしんどくなってしまっては、何も出来なくなってしまいかねません。

次に、これらの目的を達成する為の方法もまた、幾つかに分けられます(但し、1対1の対応ではありません)。
a)論理的批判
本人の意見に含まれている、論理構造の誤り・事実誤認・一貫性の無さ、等を見つけ出し、それを指摘します。冷静で理性的な議論が期待できます。一方で、感情的になった相手や第三者には殆ど効果が無いという欠点があります。ですから、上記の如き特徴を有する本人自身に対する効果は、実はさほど期待できません。
b)倫理的批判
相手の倫理観に訴える批判方法です。根本を辿っていくと上記a)との境界が曖昧になってきますが、倫理的な部分を前面に押し出す場合は、これに含まれるでしょう。a)に比べると加減が難しくはありますが、それでもこうした批判が必要な場面もあるでしょう。

これらの批判はいずれもそれなりに有効な方法ではありますが、必ずしも目的を達成出来るとは限りません。特に1)の目的が達成出来ない場合、その事が徒労感を生み、その為に3)の目的も達成出来なくなってしまう場合があります。この状況を何とかしたい。
私がその場合に有効だと考えている対処法は、
c)相手を理解する事
です。
但し、理解する事は、同意する事でも迎合する事でもありません。そうではなくて、1)の目的が達成出来なかった原因を探る為に行なうのです。これが上手くいけば、自分のやり方に改善の余地があるのか、あるいは1)の目的が達成出来なかったのは仕方が無かったのか、判断できるでしょう。
そして、こうした考察をする事によって、少なくとも3)の目的は最低限達成されると期待出来ます。
もっと言えば、3)の目的のみを達成する為であれば、真に相手を理解する必要すら無く、単に自分自身が納得出来る様に「理解した」と思い込めれば、それで良い事になります。非常に後ろ向きな意見の様に思われるかもしれませんが、3)の目的を1)や2)と切り離して考えるのであれば、私はこうした対処法も場合によっては「アリ」だと考えます(勿論使い過ぎには注意すべきです)。

という訳で、本記事はネタではありますが、ネット上の発言により心穏やかではいられなくなった方々に対する一服の清涼剤にでもなれば、と思って書いたものでもあります。

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2010年12月31日金曜日

ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その2)

前回の記事ケータイ・スマートフォン・WiFiを巡る迷走(その1)でmobileWifiを検討していると書いた。その結果どうなったかと言うと、10月よりmobileWifiを導入して通勤時や出張時に使用していた。具体的には、NTTの「光ポータブル(SIMフリー版)に日本通信のb-mobileSIMを差して使っていた。自宅にBフレッツがあるので光ポータブルは月額315円でレンタル出来る。従って、これとb-mobileの組み合わせは、mobileWifi環境としては最安の部類に入るのではないかと思う。
但し、これはあくまでも暫定措置。何故なら、今後短いスパンで大きく状況が変化すると予想されるからである。即ち、10月の時点で、近い将来にテザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売されるかもしれないと予想していたので、とりあえずの措置として上記の構成にした。Wifi機器をレンタルにしたのも、SIMを2年縛りとかと無縁な日本通信にしたのも、暫定だからという面が大きい。

b-mobileと言えば最大のネックはやはり通信速度の遅さ(上り・下りともベストエフォートで300kbps)なのだが、通勤時に最も使っているのはtwitterなので、さほど苦にならない。またWebブラウジングをする際でも、プロクシを設定すると実効速度が2倍以上になるので、まぁ許容範囲内である。例えばkikulogなんかだと1000コメント以上あるエントリなんかはそれなりに待たされるが、それでもページの大部分がテキストなので、何とかなる。私の結論としては「それなりに使える」である。
ついでに昔話をすれば、インターネットの黎明期にはアナログモデム+従量制でやっていたのだから、それに比べれば多少の待ち時間はどうって事は無い(そう言えば音響カプラも買ったけど、結局一回も使わなかった)。ちなみにその時に使っていたモデムは9600bps、つまり9.6kbpsでしかない。ISDN回線の64kbpsが羨ましくて仕方なかったのだが、その後アナログモデムの性能も向上して、理論限界と言われる56.6kbpsのものが出てきた。しかし待ち切れ無かった私は、その少し前に28.8kbpsのモデムを買ってしまったので、暫くの間それを使っていた。
その頃と比較すれば、今の状況は格段にマシである。なので、個人的には、無闇に高速化を競うよりも、安定して繋がる方を優先させて欲しいと思う。

さて、そうしているうちに、やはり「テザリング可能なSIMフリーのスマートフォンが国内で販売される」事になった。例えばイー・モバイルのPocket WiFi S(S31HW)とか、Camangi社のFM600とかである。これで非常に選択肢が広がったと言える。


ポイントは「テザリング」と「SIMフリー」である。テザリングとは要するにスマートフォンをモバイルWifiルータにする機能であり、本来はiPhone4にもAndroid2.2にも搭載されている筈のものである。これがあれば、わざわざWifiルータを持ち歩く必要は無くなる。今も昔も、モバイラーの最大の悩みは「如何にして持ち歩くアイテムを減らすか」ではないだろうか。その意味で、Wifiルータを減らせるのは大きい。しかしながら、現在のところ、国内のキャリアから発売されているスマートフォンでテザリング機能が使える物は殆ど無い。個人的な推測だが、これには大きく2つの理由があると考える。
1つ目は、トラフィックの増大である。テザリングが使えれば当然の様に通信料が増え、今よりも混雑すると予想される。
2つ目の、より本質的と思われる問題は、料金プランと通信料、そしてマーケティング戦略である。例えばドコモでは、パソコンに繋いでデータ通信をする場合は、パケ・ホーダイの上限金額が2倍に跳ね上がる。この状況を維持するならば、スマフォのテザリング機能にも同様の課金をすべきな訳だが、スマフォを売り込みたい側としては、そんな事はしたくないし、スマフォが売れてもデータ通信カードやWifiルータが売れなくなるのは困る。
そして、この問題はSIMフリーとも関連してくる。おそらくどのキャリアも本音を言えばSIMフリーなど進めたくは無いのだろう。ドコモがSIMフリーを推進する態度を示したのも結局はiPhoneやiPadを使いたいからだったと意地悪に解釈すれば、Android携帯が好調な現状に於いては、無理にSIMフリーを推し進める理由は少ないと言える。とは言え、一旦は口にしたものを全く無視する訳にもいかないので、他機種との競合が少ないWifiルータだけSIMフリーにしてみせた、というところではないだろうか。イー・モバイルがPocket WiFi SをスマフォではなくあくまでPocket WiFiの後継機と位置付けているのも、おそらく同様の理由によるものであろう(但し上述の如く実質的にはSIMフリーかつテザリング搭載のスマフォなので、この機種自体は支持したい)。


そんな訳で、国内キャリアのスマフォにはなかなか食指が動かなかったのだが、結論から言うと、Camangi社のFM600を購入し、そこにb-mobileのSIMを差して使っている。まださほど使い込んでいないのだが、これがなかなか快適なので、(その3)では使用感をレポートしようかと思う。
とは言え、御覧の様に遅筆なので、おそらく今更感満載のレポートになる可能性が極めて高いと予想されるが、そこはひとつ、広い心でお許し頂きたい。


それでは皆様、良いお年を。


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